【おまけ掌編】その恋は、寝不足で迎えた、試験の朝だった。
里中は目をこする。目にひりひりとした痛みが走り、目に潤いが帯びてきた。眼球が「俺に触るんじゃねえよ」と訴えるようだった。俺はデリケートなんだよ、と。
すみません、と彼は謝る。すると、耳の裏から「すみません」と男性の声が聞こえた。振りかえってみると、「アンケートにご協力お願いします」とクリップボードを渡される。そこには、「あなたはどうして目をこすっているのですか」と書いてあった。
『あなたはどうして目をこすっているのですか』
眠たいからです。
「やっぱりそうですよね。今のところその回答がランキング一位です。おめでとうございます」
二位はなんですか。
「私を無視する、です」
悲しい世界ですね。
『目をこすった後には何をしますか』
あくびですね。
『人間はどうしてあくびをすると思いますか』
眠たいからです。
「ですよね、中には『神様の仕業』なんて変な回答もありましたよ」
きっとその人は眠たいんでしょうね。
ははは、と二人で笑うと、どこからか「里中くんが壊れてる」と、女性の声が聞こえた。俺は壊れてないですよ、と答えると、目の前の男性が粒子となって消え失せてしまった。壊れてしまった。
その男性の背後に現れたのはいつもの街頭と人混み、ではなく、大学の講義室とポニーテールの女の子だった。
「うん、重症だね、里中くん。テストを前にして頭おかしくなっちゃった?」
「あ、小南さん。おはよう。今日も可愛いね」
「な……、本格的に病院行った方がいいんじゃない? それとも、ウチが病院送りにしてやろうか」
ここで初めて、自分が眠りの中にいたことに気づいた。要するに、里中は寝不足だった。
そして、じわじわと恥ずかしさがこみ上げてくる。好きな女の子に「可愛いね」なんて言ったのは、夢以外では初めてだった。
「ご、ごめんなさい、寝ぼけてただけです……。許してください」
はあ、と小南は大粒のため息を落とし、里中の隣に座った。
「もう……。恥ずかしいこと言わないでよね」
その顔は少し、赤らんでいた。マスクでは隠しきれないほど顔色が変わることも、彼女の魅力のひとつだと、里中は思っていた。小南本人はすぐに顔が熱くなることを嫌っているのだが、本人の嫌いと、他人の好きは、重ならないとは限らない。
とはいうものの、里中自身も恥ずかしさで汗が出そうだった。ひょっとすると自分も顔が赤くなりやすいのかも、と彼は人生で初めて気づく。もしそうだとすると、そんな自分の「嫌い」を好きになってくれる人はいるのだろうか。
「ごめんごめん」
少しずつ里中の頭に昇った血が降りてきた。それとともに小南の紅潮も薄れていく。すると、その顔色がいつもよりも青白く見えた。
「ひょっとして、小南さんも寝不足?」
「うん。わかっちゃう?」
「うん。偉いね」
実は俺も徹夜でテスト勉強してて、と言いかけたところで、彼女は「偉いでしょ」と小さな胸を張った。
「眠たいのをこらえて、ずっとアニメ見てたんだから。もう、興奮しちゃって、寝れなくて! すっかり徹夜だよ。もちろん、里中くんも見たよね?」
「あ、いや、」
まだ三音しか発していないというのに、小南の表情が、遠目に害虫を見つけたときのものに変わった。
「裏切り者」
「ごめんって!」
「あとでジムビームの瓶で病院送りにしてやるから覚悟しとけよ」
「録画はしてあるから許して。今日、帰ってから観るから」
録画? と小南は舌打ちを目でするような顔をした。
しまった、と里中は思うも、遅い。アニメに関して『録画』というワードは、小南にはNGワードなのだ。
小南は立ち上がり、声を枯らして体を震わせる。
「録画なんて愛がない! 睡眠時間を削ってリアルタイムで見ることこそが、ブラックなアニメ制作現場へのリスペクトだろ! ラブだろ!」
何かが違う気がしてならないが、感情的になった女性に反論するのは、巨大な岩を押して地球の自転を止めようとすることほど生産性がないことを、里中は大学生活の中で十分に学んでいた。
「すみません、わかったから許してください……」
謝っておくのが、ベストだ。たぶん。
「今度アニメ制作現場を侮辱するようなこと言ったら鍛高譚で殴るからね」
「別に侮辱はしてない気が」
明日までに絶対観てよね、と小南は席に座る。さっき叫んだせいで周囲の目線が痛いことにようやく気づいたのか、また顔が赤くなっている。テストの朝でストレスの溜まった学生が多いのだから、尚更だろう。
「うん、絶対に観るよ」
ふわあ、と小南はあくびをした。マスクをしているため口の中は見えない。
「明日、ネタバレするからね。実は主人公がクローンだったこと話すからね」
「小南さん、それはわざとかな。それとも寝不足で頭回ってないのかな」
「あっ」
「明確かつ簡潔な回答ありがとう」
ごめんなさい! 寝不足だから許して!
ぺこぺこと頭を下げてくくった髪を揺らす小南を、里中に諭せるはずはなかった。
「今日のテストで平均以上取れたら許すよ」
「……平均マイナス30点でどうかな?」
「うん。勉強してないことが清々しいほど伝わってくるね」
だって眠たいんだもん、とぼやく小南。
「夜は疲れて眠たいし、朝は寝起きが悪くて眠たいし、昼は昼で授業だから眠たいし。ああ、いったい私はいつ眠たくないのだろうか。教えてくれワトソンくん」
「よほど眠たいようだね、シャーロック。奇遇にも、俺も眠たいよ。もちろん、ずっと試験勉強してたから」
「殴りてえ……。スミノフで殴りてえ」
小南の言葉は乱暴だが、それが、里中にとっては気持ちが良かった。それは彼女の純白な魅力がなせる技なのか、それとも里中の恋心のせいなのか。
今の関係が、心地いい。友達であることが、心地いい。告白して、それ以上の関係になりたいという想いは、ある。でも、それは今の関係をゼロ以下にまで落としてしまうリスクもある。それが怖かった。そんなリスクを負うくらいなら、今のままでいいんじゃないか。
もっと小南さんを詳しく知りたい、とか、触りたい、という想いは確かにある。でも、それよりも、ずっとお喋りしていたい、という想いが強い。まさに、今のように、くだらない会話をしているのが、楽しくてたまらない。
だから、今のままで、ある程度は満足だ。ある程度は。「ある程度」と「満足」は共存すべき言葉ではないかもしれないけど、それ以上に的確な表現も見当たらない。
これを単なる「満足」にする必要なんてあるのか。
いや、ない。と反語で言いたいのに、疑問形が先に浮かぶのは、どうしてだろう。
「そういえば、姫野っち遅いね」
時計に目を向けてみると、試験開始一分前だった。姫野はあまり早く登校するタイプではないが、遅刻も珍しかった。
「試験勉強に熱中しすぎたのかな。あいつはアニメ見ないし」
「姫野っちが勉強に熱中するわけないでしょ」
「ひどい言われようだな」
二人で苦笑する。小南の表情には疲れが見えた。早く試験終わらないかな、と願う。でも、このほのぼのとした生活は終わってほしくない。そうすれば、想いを告げる必要もないのに、と。
すると、泥に塗れた鞠が胸に落ちるような重みが、心臓にのしかかった。
もし、このまま想いを告げられなかったとしよう。そして、小南への恋心を捨てられたとしよう。そうすると、その先はどうなるだろう。
おそらく、また別の誰かに恋をすることはあるだろう。そこでもまた、同じようにフェードアウトを待つことになるのだろうか。本能と理性が水を掛け合うのを、ずっと眺め続けることになるのだろうか。そして、独り身のまま後悔に苛まれ、人知れず死んでいくのだろうかーー。
そんなのは嫌だ。そう思うことはできるのに、どうして告白に乗り出せないのだろう。
そんな自分が嫌になる瞬間が、ときどき、ふと、やってくる。
「どうしたの? 里中くん」
でも、その少女の声を聞くと、波が引くように、気持ちが楽になる。
「なんでもないよ。ちょっと睡魔と戦ってただけ」
「じゃあ、ウチが眠気覚まさせてあげようか。ジャックダニエルで殴って」
「さっきから思ってたけど、酒瓶いくつ持ってるのさ……」
だから、臆病な彼には彼女が必要だった。たとえ、それがその場しのぎの薬なのだとしても。
始業開始の鐘が鳴った。
姫野っち遅刻決定、と隣から聞こえる。
里中自身は姫野のことを気にはしていないが、姫野を気にしている小南のことは気になる。今頃、廊下を走っているのだろうか。そうだといいな。
すると、講義室のドアが開け放たれた。やけにテンションの高い先生だな、と思って見てみると、姫野だった。
「先生まだ来てない? 来てないね! セーフ!」
大勢の前でガッツポーズをあげる姫野に、小南や里中、ほかの学生たちが失笑している。正確には、姫野のすぐ後ろにいる先生に。
「残念、アウトだ」
崩れ落ちる姫野の姿は喜劇のようで、ここにいる疲れ切った観客の肩をリラックスさせた。
小南に目を向けてみる。目尻にシワを寄せるその顔からは、さっきまでの青白さが消えていた。
こんな時間がずっと続けばいいなあ、と里中は思う。眠たい試験の朝は嫌だけど、こんな暖かい時間がずっと続けば、と。