第七話 チタ菜とトラウマと。
「お館様、全然儲からねえだよ」
「うちの領地、ちょいと場所が悪いからなぁ……」
「南にバウマイスター辺境伯領はあるだが、魔導飛行船の港があるわけでもねえだし」
「港なんて作っても、こっちに船は来てくれねえべ。利用者が少ねえからさ。維持する経費ばかりかかって赤字になるべ。その前に作れないけど」
「船に載せるような特産品もねえしな」
「チタ菜はどうだべ? あれは一応、うちの特産品だべ?」
「一応チタ菜なんて名前はあるけどよ。ただの菜っ葉だしな。運賃払って船に積んだ時点で赤字確定だべ」
「もっと高値で売れる特産品があればいいんだが……」
「そんなもの、このウシャント騎士爵領にはねえべよ」
今日も、私の家臣たち……まあ、全員農民にしか見えないが一応従士である。従士長もいるが、外部の人間には見分けはつかないだろうな……が、解決策の出ない会議を続けていた。
議題はいつも同じで、いかにしてこのウシャント騎士爵領を発展させるかであった。
しかし、これがとても難しい。
我がウシャント騎士爵領は、農業が主な産業というか……農業しかないというか、隣接する領地に農作物を売るくらいで、あとはほぼ自給自足の貴族領であった。
土地は豊かなので、領民たちが飢える心配はない。
次男以下だって、その気になれば開墾できる土地は沢山残っている。
ところが、若い者がまったく定着しない。
ウシャント騎士爵領は小領主混合領域にあるので、みんな近くにあるブライヒレーダー辺境伯領の領都ブライヒブルクに行ってしまうからだ。
さらに、最近ではバウマイスター辺境伯領の発展がすさまじいので、そちらへも若い人間が流出してしまった。
今のバウマイスター辺境伯領では仕事が沢山あるので、みんなそれなりに暮らせていると連絡があるのは救いか……。
しかしその分、我がウシャント騎士爵領は停滞が深刻であった。
長男は広い畑を継げるのでさすがに残るが、次男以下でウシャント騎士爵領に残る者がほとんどいない。
田舎であるウシャント騎士爵領よりも、ブライヒブルクやバウルブルクの方が楽しく生活できるからであろう。
利便性では勝負にならないのだ。
うちの領地の場合、近年では跡を継げる長男の方が『俺も外に出たい』と不満を漏らすケースが増えていた。
若い女性など、ブライヒブルク、バウルブルクにある飲食店や服飾工房などで働き、現地で結婚相手を見つけてそのまま戻って来ない者も増えた。
このままだと、跡継ぎ長男なのに嫁がいないなんて事態になりかねない。
とはいえ、私もこの状況をただ座視しているわけではない。
少しでもこのウシャント騎士爵領を発展させ、一人でも多くの若い者が残る領地にしなればと思い、これまで努力してきた。
何か特産品を作り、領民の収入をあげ、税収が増えた分で若者が魅力を感じる町作りなどを行う。
という戦略を立てたのだが、いきなり躓いてしまった。
うちは農産品くらいしか輸出する物がないが、領地が不便な場所にあるので、隣接する他領くらいにしか販路がない。
それに、農作物なら他の領地でも作っているのだ。
それほど沢山売れず、しかも価格が安い。
魔導飛行船の港までも遠く、馬車に農作物を積んで港まで向かい、魔導飛行船に載せて町に運ぶと、完全な赤字でとても商売にならないのだ。
運賃に見合う他の特産品もなかった。
あと、チタ菜とは我がウシャント騎士爵領のみで採れる菜っ葉の名前であった。
確かにうちでしか採れないのだが、ただの菜っ葉だからなぁ……。
特別美味しいわけでもなく、菜っ葉に大きな期待を持っては駄目であろう。
これが薬草ならいいのにと、これまで何度思ったことか。
「バウマイスター辺境伯領……最初は伯爵領か……の、開発が始まった時には期待したんだがな」
「景気のいいところもあるっぺよ。ウシャント騎士爵領は駄目だけど」
みんな、我がウシャント騎士爵家に忠誠心や敬意がないわけではないのだが、そこはまだマナーが行き届かない田舎領地なので仕方がない。
うちの方言は、ちょっと他人が聞いたらビックリするレベルだからな。
みんな故郷のために本音で正論をぶつけ合っているのだが、今日もいいアイデアが出ない会議は続いた。
バウマイスター辺境伯領の開発が始まり、それに近い小領主混合領域のみんなは最初大喜びしたものだ。
実際、開発で必要な様々な物を調達し、販売できた貴族たちが大儲けをして、それを領地の開発に投資、領地を富ませることに成功している。
ところが、うちみたいにその流れに乗れない貴族もいた。
勝ち組と負け組が、明確に別れた感じだ。
そんな状況の中、さてウシャント騎士爵領の次の一手はという議題で会議は始まったが、誰も画期的な方策を打ち出せないでいた。
「お館様、もう夢見ないで適当にやればいいっぺ。別にうちも滅ぶわけじゃねえんだから」
「んだんだ。じきになんとかなるっぺよ」
果たして本当にそうなのか?
確かに今の我が領地は右肩上がりとは程遠いが、下がっているわけでもない。
元が田舎領地なので、なにも変わっていないともいうが。
だがこれから数十年先を見据えた場合、うちの領地は衰退する可能性が高かった。
みんな便利な土地で生活したいし、バウマイスター辺境伯領という開発のノリ代が大きな場所が近くにあるので引っ越しは非常に容易い。
領民の引っ越しを禁じれば……実際にやっている者も多いが、効果は薄いな。
田舎領主が動員できる人員くらいでは、夜逃げを目論む領民を捕えるのは困難だからだ。
「そうは言うがな。ヴェント、お前の跡取り、いつもバウルブルクで働きたいって言ってるよな?」
「お館様、子供の夢を本気にしては駄目だっぺ」
「次男以下ならわかるが、お前の跡を継ぐ息子が領地に残るのを魅力的だと思っていないのだ。このまま今は大丈夫だと思っていると、あとで大きな禍根を招くことになる」
「それはわかったけど、どうするっぺ?」
「私も色々と考えたのだが……」
残念ながら、今のウシャント騎士爵領の状況では打つ手がない。
領地を開発するにしても、なにしろウシャント騎士爵領は場所が悪い。
ここを大規模に開発しても、数十年後、ただ廃墟だけ残ったなんてことになりかねない。
まあ、そんな資金もないのだが。
残念ながら、我々の努力だけでは解決が難しい問題だ。
となると、外部からの力でこの領地を変えていくしかない。
「王様に陳情するだか?」
「そもそも会ってくれないだろう」
自慢じゃないが、私が陛下にお会いしたのはウシャント騎士爵位を父から継承した時だけだ。
あの時、生まれて初めて見た王都は凄かった。
とても同じヘルムート王国領土とは思えないほどだ。
そんな田舎領地の当主である私に、陛下が直接会ってくれるとは思えない。
陛下はお忙しいだろうし、面会も大貴族が優先で、有象無象の零細貴族である私なんてまず相手にもされないはず。
数千人もいる零細貴族といちいち会っていたら、陛下も時間が足りなくなってしまうから当然だ。
「なら、寄親のブライヒレーダー辺境伯様だか?」
「寄親とはいえ、普段ほとんど交流がないからな。第一、我がウシャント騎士爵家とブライヒレーダー辺境伯家は同じ王国貴族。こちらが一方的になにかしてもらうのもどうかと思う」
忙しいのはブライヒレーダー辺境伯も同じで、いくら寄子でもいきなり面会できるほど交流があるわけでもないのだから。
もし会えたとしてだ。
そう簡単に援助してもらえるとは思えない。
「同じ王国貴族って……建前だっぺ」
「そんなことは、私も重々承知している」
同じ王国貴族か……バウマイスター辺境伯と一緒に右肩上がりでブイブイ言わせているブライヒレーダー辺境伯と私。
とても同じ貴族とは思えないがな。
どうせ私の顔も覚えていないはず……よくよく考えてみたら、その程度なのに『貴族としての誇り』とか言って意味があるのか?
いや、ないな。
ならば、別にウシャント騎士爵家なんてなくなっても構わないわけだ。
「お館様、まさか領地を返上するだか?」
「いや、まさか」
第一、こんな僻地にある飛び地を直轄地として献上しても、まず王国は受け取らないであろう。
なぜなら、過去にそんなことを目論んだ貴族がいたからだ。
その貴族が返上した領地を受け取った王国が直轄地なので代官を送ろうにも、現地の事情をなにも知らない王都にいる食い詰め法衣貴族を送れば現地の混乱は必死。
ならば、その領地の代官に一番適任なのはその領地を返上した貴族だったりする。
結局、領地を返上した貴族は元自分の領地の代官になり、そこは王国直轄地なので他の直轄地に準じた待遇になる。
代官になった貴族も、代官職としての役職手当と法衣貴族としての年金が貰えて懐具合もよくなる。
例えばその領地が不作だったり、災害が発生して被害が出た場合、今は王国の民となった元領民たちに支援をしたり、税の軽減や免除をするのは王国政府の役割で、元領主の懐はまるで痛まないというわけだ。
過去にそんなことを考えついた貴族がいて数名が成功すると、それを知った零細貴族たちの中に経営に行き詰った領地を王国に返上しようと目論む者が増えてしまい、負担増で顔色が真っ青になった王国政府がそれを禁止したのだ。
もっとも王国政府もそこまで甘くはなく、人材が揃っている王国政府は独自に領地の経営改善案を立案し、王都で燻っていた法衣貴族たちにその領地を与えている。
領地を返上した貴族たちは王都に移動させられ、それ以降は職ナシ騎士として貴族としては最底辺に沈んだそうだ。
「王国政府は甘くない。田舎の零細騎士がぱっと思いついたような浅知恵程度、簡単に対策を取ってしまうのだ」
つまり、王国政府を相手にするのは分が悪いというわけだ。
「じゃあ、どこを相手にするだっぺ? もしかして帝国だべか?」
「それをしたら反乱だろうが」
勝手に所属を変えるなど、王国に容赦なく叩き潰されてしまうので、そんな悪手は用いない。
「大物貴族を相手にすればいいのだ」
そう、件の貴族が失敗したのは王国に対し策を用い、貴族という地位に未練を持つから王都で燻る羽目になる……ただ、その貴族も完全に失敗したとは思っていないはず。
職ナシだが、貴族としては生き残れた。
王都の名ばかり法衣騎士と、地方の零細騎士爵領家。
どっちの実入りがいいのか、難しいところもあるからな。
王都の職ナシ法衣騎士は領地持ち貴族を羨ましく思い、地方の零細騎士は年金が出る法衣騎士を羨ましく思う。
隣の芝生は青く見えるというわけだ。
領地経営なんて、極一部を除けばそんなに儲かるものでもないからな。
「大物貴族って、ブライヒレーダー辺境伯様にだか?」
「それは無謀だ」
あの家は、開祖以来千二百年以上の歴史がある。
困った貧乏貴族が策を用いた時の対処にも慣れているため、ブライヒレーダー辺境伯に策を仕掛けるのは無謀だ。
「バウマイスター辺境伯家は新興貴族なので、こちらを狙う。家宰のローデリヒ殿は優秀と聞くが、彼にはその手の経験が浅いという欠点があるのでな。私の策の成功率が上がるはず」
「オラぁ、お館様の家臣だからやれと言われればやるがよ。なにをやるだっぺ」
「それはだな……」
私は家臣たちに、自身が考えた策を説明した。
「その策だと、仮に成功してもウシャント騎士爵家がなくなってしまうだよ」
「初代以来、八百年続いたウシャント騎士爵家を潰すだか?」
「先祖に申し訳が立たないべ」
「貴族でなくなるのはどうかと思うべ」
みんな一斉に反対意見を述べるが、それは私も想定済みであった。
「貴族として八百年続いた。これは凄いとは思うが、よく考えてもみろ。王都に住む陛下や貴族たちが、ウシャント騎士爵家が八百年続いた事実を知っていると思うか? もし我が家が潰れたとして、それを惜しいと思う者がいると思うか?」
どうせうちが潰れても、王都でその話が広がるとも思えない。
極一部の貴族たちが『ウシャント騎士爵家が潰れたそうだ』、『それは大変だったな』で話が終わると思う。
そしてその話をした翌日の昼食前には、彼らの記憶からウシャント騎士爵家のことは消えているはずだ。
「貴族としてのプライド云々よりも、この土地の未来の方が大切だ」
「んだども、ウシャント家を潰すのはよくないっぺ」
「潰す? ヴェンテはなにか勘違いしていないか?」
「勘違い?」
「私は、ウシャント騎士爵家はなくなると言ったが、ウシャント家が潰れるとは言っていないぞ」
ヴェンテ、ちゃんと私の話を聞いてもらわないと困るな。
お前は少し早とちりなのが玉に傷だな。
「そうだべか?」
「ふふっ、これがこの策の肝なのだ。貴族としてのウシャント騎士爵家は潰れるが、ウシャント家は残る。むしろ、後者の方が実身入りも増え、この土地の開発も進む。知名度だって、きっと上がるはずだ。私は決めたぞ! この策を用いてこの領地を救い、我らの生活もよくするのだ」
「お館様がそれでいいっていうのなら、我々も従うっぺよ」
「それでいい。早速準備を開始するぞ」
私たちはこのウシャント騎士爵領の未来のため、善は急げとばかりに、早速準備を始めるのであった。
「お館様、これで全部です」
「相変わらず多いなぁ……」
「なにしろお館様は、この王国で一番有名な貴族なので」
「有名税ってか?」
「そんなところですな」
辺境伯になったのに、なぜかいまだに土木仕事の仕事が多い俺であったが、今日は土木工事もお休みで、代わりに毎月恒例の手紙のチェックを行っていた。
貴族とは手紙好きな種族というか、手紙を読み書きするのが仕事の一部である。
別に望んではないが、バウマイスター辺境伯家には沢山の手紙が届く。
勿論最重要な手紙はローデリヒがその都度俺に報告してくるが、そうではない手紙にあまり時間をかけておられず、こうして月に一回俺が内容を確認しているわけだ。
「『今度パーティーをやるので来てください。うちの娘は可愛いよ……』行かない……」
「では、お断りの返事を書いておきましょう」
これ以上、嫁はいらないってのに……。
というか、いまだにこの手の手紙の多さはなんなんだろう?
俺のみならず、フリードリヒも同じような状況だが、子供にこの手の手紙を見せても意味がないので、ローデリヒが適当に処理している。
とてもこれだけの数ある手紙の返事は書けないので、ローデリヒが見つけてきた『模字官』に返事を書かせるのだ。
その昔、勝手に俺の筆跡で手紙を書く魔道具がないかなと思ったことがあったが、魔道具よりも確実な、他人の筆跡で手紙を書くスキルを持つ人がいたのだから驚きだ。
勿論重要な相手への手紙は自分で書くが、その他で返事が必要な手紙は模字官が返事を書いていた。
大物貴族の中には下手をすると月に千通を超える手紙が届き、それに全部返事を書いていたらいくら時間があっても足りない。
そこで、模字官が活躍するわけだ。
彼らは文章のプロでもあるので、その状況に応じた手紙の文面も考えてくれる。
大物貴族なら、雇わないと大変なので大半が雇っていた。
ただ、模字官はその気になれば手紙の偽造も可能なので、そう簡単になれるものではない。
才能があって信用できる人間に教育を施すため数がとても少なく、優秀な模字官ほど給金が異常に高かった。
大物貴族からすれば時間を取るか金を取るかなんだが、いないと面倒なので大物貴族は模字官を奪い合う。
今働いているところよりも高額の給金を出して引き抜くなんて、常時とは言わないが定期的に発生する事案であった。
それが原因で仲が悪くなる貴族もいるほどなのだ。
貴族も人間なので、仕事が増えれば機嫌も悪くなるというわけだ。
ちなみにうちは、代替わりで条件が悪くなり辞めてしまった模字官を雇ったので問題ない……わけがなく、その貴族にはえらく嫌われてしまったらしい。
でも、それは経費削減を名目に模字官の給金を減らすその貴族が悪いと思うのだが、そいつは俺を嫌いだと公言するようになったそうだ。
どうせ会ったこともない貴族なので、どうでもよかったけど。
「『今度、花を見る会を開催します。うちには美しい妹が……』またかい!」
「花を見るのか、妹を見るのかって話だな。両手に花ってことかね?」
一緒に手紙をチェックしているエルが、同じく呆れたような口調で俺に声をかけてきた。
「重要な手紙じゃないから、こんなものだよな。あとは、変な陳情とかか」
おかしな手紙を排除……ローデリヒがあまりに酷いのを外すのでとんでもないのはないが、ちょっとは香ばしい内容の手紙も混じっている。
俺一人で見ていると頭が痛くなってくるので、エルにも手伝わせているのだ。
「『領内の橋が洪水で落ちたので、魔法で新しくかけてください。無料で』いや、お前がやれよ」
どこの世界に、自分の領地に橋をかける工事を他の貴族に頼む奴がいるというのだ。
報酬が出るのならともかく、無料って……。
「無料って……橋の材料費とか、他の経費もあるじゃん」
「つまり、それも俺の持ち出しってことだろう。後ろに『うちには可愛い娘が……』って書いてあるから」
「橋の代金が娘って……酷い話だな」
「冒険者ギルド経由で正当な報酬があれば、スケジュールさえ合えば引き受けることもあるさ」
敵ばかり作るのもどうかと思うので、たまにローデリヒが選んだ依頼は受けていた。
本当はもっと沢山依頼が入っているそうだが、スケジュールの関係でそう受けられるわけがない。
まずは、自分の領地が最優先だから当然だ。
「貴族らしく、ヴェルに直接手紙で頼めばなんとかなると思ったんだろうな。ちゃんと報酬を支払うにしても、ギルドを経由しない依頼もくるじゃないか」
「そういうのは引き受けないよ」
直接依頼を受けて、もしその貴族が報酬を支払わなかった場合、直接交渉だと報酬を回収するのに膨大な時間と手間がかかるからだ。
その時に、また代わりに『うちには、適齢期の娘が……』なんて話にもなりかねない。
間に冒険者ギルドという半ば公的な機関を入れるからこそ、踏み倒そうなんて貴族も出ないというわけだ。
勿論ゼロではないそうだが、もしそれをすれば、冒険者ギルドのブラックリストに載って色々と不都合が生じるようになる。
一番キツイのは、多くの人たちに知られて恥をかくことであろう。
貴族はプライドに拘る生き物だから、よほど金がなければそんなことはしないそうだが。
「『実は私には、嫁ぎ先で夫を亡くした未亡人の妹もいます』って書いてあるな。なるほど、相手の様々な女性の好みに対応しているわけか」
「そこ、感心する部分か?」
若くて綺麗な娘で駄目なら、熟女……は失礼か……年齢を重ねた魅力的な妹もいますってことかよ!
本当、手段を選ばないというか……。
「ヴェルの場合、アマーリエさんの件が噂になっているからだろうな、ヴェルは年増でも全然大丈夫……「お茶です! どうぞ!」」
エルのアホめ。
今、ちょうどアマーリエ義姉さんがお茶を持って入ってきたところなのに……。
彼女はエルの前に、お茶を淹れたカップを無造作に置いた。
半分くらいお茶が零れてしまったが、これは余計なことを口走ったエルが悪い。
「年増のお茶でよければどうぞ」
「すいません……」
「エルヴィンさん、どうして謝るのですか?」
「……」
アマーリエ義姉さんの迫力に怯えたエルは小さくなっている。
普段あまり怒らない人を怒らせると怖いのは、エリーゼで十分経験しているだろうに。
それにしても、こういう手紙って減らないんだよなぁ……。
「大物貴族なら誰でも抱えている悩みですな。バウマイスター辺境伯の場合、まだ寄子が少ないのでマシでしょう」
さすがというか、ここで上手くローデリヒが話題を反らした。
よく知らない貴族からの願いなら断るのもそんなに大変ではないが、寄子の無茶なお願いだと断るのも大変だ。
ただ断ると、最悪世間から冷たい、度量が狭い貴族扱いされるので、ちょっとは配慮しなければいけないからだ。
向こうもそれがわかっていて、最初は大きなお願いをしてくる。
そこから交渉に入って、徐々に条件を引き下げていくわけだ。
交渉で少しでもいい条件を引き出そうとするから、寄子の面倒を見る大物貴族も楽ではないということだ。
「この手紙は、可愛い娘や妹は出てきませんな。これは苦情申し立てでしょうか?」
「苦情?」
新たにローデリヒから渡された手紙を読むと、そこにはこう書かれていた。
「なになに……『チタ菜の花が咲き誇る季節、バウマイスター辺境伯殿はいかがお過ごしでしょうか……』……季節の挨拶なのか?」
この世界の手紙にも季節の挨拶は存在するが、チタ菜は季節の言葉に入るのであろうか?
というか、チタ菜ってどんな植物だ?
「チタ菜って、初めて聞くな。菜っ葉の仲間なのかね?」
「さあ? 俺も初めて聞くな」
エルも、チタ菜なんて植物の名前は初めて聞くそうだ。
チタ菜なので『菜っ葉』だから野菜なのかな?
菜の花みたいに、油でも搾れるのか?
それとも、マロイモみたいに地方限定の野菜なのであろうか?
「差出人は、ウシャント騎士爵家の当主……それって、どこにあるんだろう?」
「ええと……北にある小領主混合領域の中にありますな」
すかさず、ローデリヒが地図でウシャント騎士爵領の位置を指し示してくれた。
ブライヒレーダー辺境伯領からも大分遠い田舎……自然豊かなところだ。
昔の俺の実家といい勝負といった感じだ。
「どういうところか知っている人?」
残念ながら、ローデリヒも、エルも手をあげなかった。
当然俺も知らない。
「『さて、本日お手紙を差し上げたのは、我が領地に籍を置く領民たちの件です』」
手紙を読み進めていくと、要するにウシャント騎士爵領からバウマイスター辺境伯領への領民流出が多く、これをなんとかしてほしいというものであった。
「ローデリヒ、これは問題があるのかな?」
「それが微妙な問題なのですよ」
人が住む場所を変える。
それも生まれた貴族領から、他の貴族領だったりすると、厳密な意味でいえば違法なのだとローデリヒが説明してくれた。
「領民は生産活動や商売を行って領主に税を納める存在。厳密に言えば、相手の税を奪っているという解釈なので違法です。ところが……」
それは、あくまでもその貴族の領地運営が順調だった場合の話。
昔のバウマイスター騎士爵領もそうだったが、子供が余ってしまい、かといって彼らに新しい農地や仕事を与えられないケースが多くなってきた。
というか、地方にある零細貴族領がかなりの割合でそんな感じだ。
決して、昔のバウマイスター騎士爵領だけのお話じゃない。
「その領地に住む全員がちゃんと職に就いて食べられ、領主に税を納めるなんて理想論だよな。もしそうなら、俺も冒険者にはならないっての」
「拙者もそうですし、食えないからその土地を出るなんて話。別に珍しくもありませんな」
ローデリヒも、エルの言い分に賛同した。
「ウシャント騎士爵領もそのはずだよな?」
「ええまあ、ウシャント騎士爵家がとてつもなく裕福とかなら話は別ですが、そんな話も聞きませんな。そんな彼らを受け入れ、まともな職があるなんてところ。今はバウマイスター辺境伯領を始めとする一部大貴族の領地と王都、あとは帝国の直轄地くらいでしょうな」
うちはいまだ開発中なので、帝国はペーターが大々的に内需拡大に舵を切った。
彼は多額の予算を使い、帝国直轄地の再編と開発促進を始めたのだ。
よくある話で反対者も多い政策であったが、ペーターは強引に実行し、それで大きな成果を出していた。
内乱で大量に発生した難民と失業者は一掃され、もはや内乱など過去の話。
と帝国の人たちが言うほど、彼の政策は上手く行っている。
「ウシャント騎士爵領の人たちが、バウマイスター辺境伯領に来ているわけか」
「ウシャント騎士爵領の人たちだけではありませんが」
要するに、他の貴族領で畑や家業を継げない人が多くバウマイスター辺境伯領に来ているのだと、ローデリヒが教えてくれた。
「別に悪いことはしていないよな?」
「故郷に残っても職がない。そんな人たちを受け入れているので、あまり文句を言う貴族はいませんな」
これまでだと、増えすぎた人口を食わせる余裕がない貴族が彼らを無理やり追い払い、仕方なく冒険者になったり、王都にあるスラムに追いやられるケースも多かった。
それよりは遥かにマシなので、お礼を言われても苦情を言われるとは思わなかったとローデリヒが言った。
「原理原則に則ると、他の貴族領で生産に寄与できる人間を奪ったという見方もできるので、こういう抗議の手紙を書いても100パーセントおかしいとは言えません」
「でも、食べさせられないから追い出すんだろう?」
「ですので、他の領地からこちらに来ている人を返せなんて貴族、普通はいませんな」
だよな。
そのウシャント騎士爵家の当主がおかしいだけだ。
もしかして、タカリでもしようとしているのか?
「ふーーーん、手紙に詳しい事情が書いてあるけど、食わせられないわけじゃないのに、だってよ」
「それってつまり……」
「ウシャント騎士爵領が田舎すぎて、若い奴が住みたくないんじゃないか? そういう理由で故郷を出る奴も多いからな」
昔、そんな歌があったな。
自分の故郷の村があまりに田舎なので、東京に行くってやつ。
正確な歌詞は、色々と著作権上の問題があるので言わないけど。
うちのお祖父さんが好きな歌だった。
「俺も、半分はその口だからな。五男だったという現実的な事情もあったけど。ヴェルもそうだろう?」
確かに、あのまま未開地で自然や野生動物と戯れていてもなと思ったのは事実だ。
俺もそこまで自然児じゃないし。
「それでどうしようか? ローデリヒ」
「前代未聞といいますか……人間というのは、他人が想像もつかないことで文句を言ってきますな。事情を説明し、そんなことは物理的に不可能だと返事を書けばいいと思います」
「えーーーっ! こんな手紙にちゃんと返事を書くんですか?」
エルが驚きの声をあげたが、俺も同感だ。
どうして、こんなクレーマーに返事なんて……。
その時間が勿体ない。
「理不尽とは思いますが、ここでちゃんと返事をしておきませんと、あとで余計に事態が拗れるケースも多いのです」
「返事を出しても拗れそうだけどな」
確かにエルの言うとおりで、他にいくらでも難癖つけられそうだな。
「おほんっ! というわけで、文面は模字官に書かせますので、あとでサインだけしていただければ」
「それはラッキー」
しょうもない手紙を書く時間を取られず、俺は安堵のため息をついた。
もし全部自分で書けと言われたらどうしようかと思ったのだ。
「まあ、向こうはお館様の直筆なんて知らないでしょうから。稀に貴族本人と模字官の筆跡の差を見抜く貴族もいますけど、このウシャント騎士爵家は大丈夫だと思います」
そんな優秀な貴族なら、こんなわけのわからない手紙は出さないか。
「じゃあ、手紙はよろしく」
「畏まりました」
数時間後、俺は模字官が書いた手紙にサインをしてウシャント騎士爵家の当主へと送った。
これでこの貴族に関する面倒事は終わりだと思っていたのだが、後日、バウマイスター辺境伯家は思わぬトラブルに巻き込まれることになる。
「ふふふっ、まあ、この返事は予想どおりであったな」
バウマイスター辺境伯領に引っ越した領民を返せ。
こんな無茶な要求、両家の力関係を考慮しても受け入れてもらえるはずがない。
そのくらいは、私でも理解できた。
だが、手紙は出す必要があり、無事に断りの返事もきたので次の段階に移行しようと思う。
「お館様、意味あるんだか? 手紙で無茶な要求を出して、見事に断られたべ」
「あるのだよ。これは、要するに我がウシャント騎士爵家とバウマイスター辺境伯家との間に係争事案があることを公に知らしめるため。つまりアリバイだな」
「それで、次はどうするんだっぺ?」
「貴族同士が係争事案を解決する方法。それは決まっている」
「紛争だか? うちがどうやってバウマイスター辺境伯領に兵を出すんだっぺ。いくつもの貴族領とリーグ大山脈を超えないとバウマイスター辺境伯領に兵を出せないっぺよ」
「そんなことはわかっているさ。係争事案を作るのも、紛争を起こすのも。なにもバカ正直に諸侯軍を整える必要などない。私と数名で十分だ。第一、うちが諸侯軍の出兵に耐えられる財力なんてないさ」
「少数でバウマイスター辺境伯領に行だか? どうやって?」
「そんなこと、簡単ではないか。ここから一番近い港から魔導飛行船でバウルブルクに向かえばいい」
「お館様、観光じゃないっぺよ」
「いいか? ヴェンテよ。出兵もアリバイなのだ。私の最終目標を達成するためのな」
「お館様、なにを目論んでるだっぺ? いい加減教えてほしいっぺよ」
「策とは、それを知る人間が少ない方がいいのでな。すまないが、領主命令に従ってくれ。なあに、そう悪い結末にはならないはずだ」
「わかったぺよ。急ぎ諸侯軍の召集をするっぺ」
「必要ないぞ。そんなことをしたら金がかかるではないか。私とヴェンテだけで十分だ」
「本当に観光だっぺな」
「現地に着けば忙しくなる。おっと、その前にバウマイスター辺境伯に紛争を起こす旨を伝えなければな」
「バウマイスター辺境伯様、驚くっぺよ」
「ブライヒレーダー辺境伯殿もな。このまま座して衰退するよりも、ここで賭けに出ても問題あるまい」
私は、急ぎバウマイスター辺境伯に対し紛争を起こす旨を手紙に記し、それを送ってからヴェンテと二人、魔導飛行船でバウルブルクまで移動するのであった。
「ぶっーーー! はあ? 紛争? ウシャント騎士爵家と?」
しょうもない因縁をつけてきたウシャント騎士爵家に対し、仕方なく丁寧な手紙……これは貴族の儀礼に則ったというか、外交儀礼に従ったというか……日本政府も、いくら相手がクソな外国でも表面くらいは取り繕うから不思議ではないか……丁寧な手紙を出して終わりかと思ったら、再びウシャント騎士爵家から手紙がきて、それにはうちに紛争を仕掛けると書かれていた。
いきなり宣戦布告されてしまった俺は、思わず飲んでいたマテ茶を盛大に吐き出してしまった。
「汚いなぁ、ヴェルは」
とはいいつつ、俺が噴き出したお茶の先にいたルイーゼは難なくそれをかわしていたが。
「俺が不幸だ」
その代わり、ルイーゼの後ろにいたエルの顔面に吐き出したお茶が直撃した。
顔がびしょ濡れになったエルが、俺に文句を言う。
「水も滴るいい男だな」
「誤魔化すな!」
「エルさん、すぐに拭きますから」
誤魔化そうとしてちょっと冗談を言ったらエルが激怒したが、タイミングよくハルカが優しくエルの顔を拭き始めたのですぐに機嫌が直った。
ハルカは、本当に奥さんの鑑だな。
「あなた、お口にお茶が……」
そして、すかさず俺の口の周りをハンカチで拭いてくれたエリーゼも、正妻力が高いと思う。
「それで、どうしてお茶を吹き出したんだ?」
「それが紛争を仕掛けられちゃってさ」
「はあ? なにそれ?」
エルが驚くのも無理はない。
冗談にしては、ちょっと物騒なお話だったからだ。
「先日のウシャント騎士爵家だろう? 領民を取り返すため武力に訴えたわけだ」
「でも、そのウシャント騎士爵家ってバウマイスター辺境伯領と領地を接していないわよね?」
先日の話を聞いていたイーナが、ウシャント騎士爵家はどうやってうちに攻め込んでくるのだと聞いてきた。
確かに、領地が隣接していないと諸侯軍の進軍が厳しいよな。
「その前に、ウシャント騎士爵家が出せる諸侯軍で、バウマイスター辺境伯家に対し有利な条件で紛争を終えられるのでしょうか?」
「無理。騎士爵家と辺境伯家の紛争なんて、大人と赤ん坊の喧嘩」
「子供ですらないのですか」
「万が一にも勝ち目なんてない」
オヤツのクッキーを大量に頬張りながら、ヴィルマがカタリーナの質問に答えた。
「まず、バウマイスター辺境伯領に辿り着けないわよ」
イーナの言うとおりで、我がバウマイスター辺境伯領と接している貴族ってのは、実はいない。
ブライヒレーダー辺境伯領や小領主混合領域との間には、リーグ大山脈があったからだ。
いや、正確にはリーグ大山脈にも場所場所で貴族家の領有権が設定されているのだが、一般人には危険なので、ワイバーンと飛竜を狩る冒険者くらいしか足を踏み入れなくなった。
魔導飛行船とトンネルがあるから、わざわざ危険で時間がかかる山道を利用する人がいなくなってしまったのだ。
「トンネルを通るにしても、ブライヒレーダー辺境伯領を経由しなければいけませんので、武装した集団がブライヒレーダー辺境伯領を移動して、なにも咎められないなんてまずあり得ませんので」
エリーゼの言うとおりで、まず『お前らは何者なのだ?』とブライヒレーダー辺境伯家の家臣たちに咎められるだろう。
まず、うちには辿り着けないはずだ。
「魔導飛行船は?」
「大軍の移動に適さない。運賃が高いから」
ルイーゼの疑問にヴィルマが素っ気なく答え、彼女はまたクッキーを頬張る作業に没頭する。
便数の増大で多少運賃は下がったが、ウシャント騎士爵家の軍勢が全員魔導飛行船で移動した場合、経費で顔が真っ青になるであろう。
紛争なので、彼らはその間必要な食料なども負担しなければいけないのだから。
「じゃあ、どうやって紛争なんて仕掛けるんだ?」
「さあ? ハッタリ?」
「かもしれないな……「ヴェンデリン、町の中で面白い連中がおるぞ」」
どうやってウシャント騎士爵家が紛争を仕掛けてくるのか予想していたら、そこにバウルブルクの町に買い物に出ていたテレーゼが戻ってきた。
アマーリエ義姉さんとリサも一緒で、この三人は年上組という事でよく一緒に行動することが多かったのだ。
「面白い連中?」
「ウシャント騎士爵家の当主と従士長を名乗る連中が、中央広場の公園を占拠したと騒いでおってな」
「はあ? 公園を占拠?」
そんな、デモ隊やホームレスでもあるまいし……。
「バウマイスター辺境伯領の一部を占領したってことか?」
「そういう風にも受け取れるの」
「えーーーっ、あれ紛争なの?」
テレーゼの意見に、アマーリエ義姉さんが疑問を口にした。
「と言いますと?」
「確かにね。二人とも武装はしているのよ。鎧がボロいのは、バウマイスター騎士爵領を思い出してちょっと物悲しいけど……」
地方の騎士は、たまに訓練と代々受け継いでいる武具のチェックを兼ねて鎧を着用するんだが、王都の警備兵の方がよほど騎士に見えるなんてザラにあった。
紛争なんて、一生に一度あれば上等なんて貴族が多く、武具は高価なのでそうそう交換もできない。
当然武具にも年代ごとにデザインなどの流行があるので、地方の騎士は懸命に武装しても古臭い、格好悪いなんてよくあった。
口の悪い奴は『山賊に見えないだけマシ』なんて言ったりするのだ。
俺が十歳くらいの頃、父が代々の当主が着用する鎧のチェックも兼ねて着ていたことがあったが、初代から使用されている鎧なのでダサいし、古臭かった。
挙句に、暫く手入れをサボっていたようなので、布の部分が朽ち果て、皮の部分も虫に食われ、修繕しようにも金がないので母とアマーリエ義姉さんが応急処置をしていたのを思い出す。
「でも、ウシャント騎士爵家の人たちの方がちょっとだけマシだったわ」
「あのぅ……それを知ったところで、余計に物悲しいというか……」
昔のうちの実家って、本当に酷かったよな。
今は隔世の感といった感じだけど。
「格好はともかく。あの人たち、『バウマイスター辺境伯領の一部を占領した』とか、『我が領民に告ぐ! 一刻も早くウシャント騎士爵領に帰還しよう』とか騒いでいますけど……」
「完全にパフォーマンスだな……」
「本当に戦う気はないでしょうね」
多くの人間が集まる町の中心部にある、俺の恥かしい銅像が置かれた公園の一部敷地にテントを張り、そこで町行く人たちに自分たちの主張を繰り返しているのだと、リサが詳しい状況を教えてくれた。
「町の人たちは面白がっています」
「だよなぁ……」
別に害はないし、どうも平和な時代が続いたせいか、ヘルムート王国の人間は貴族がなにか騒ぎを起こすと、いい暇潰し、娯楽ができたと喜ぶ傾向にあるのだ。
アホ公爵やカチヤとの決闘騒ぎを経験して、それが骨身に沁みているところだ。
「というか、ウシャント騎士爵家諸侯軍って二人だけ?」
「二人だけだから、移動も楽じゃしの。公園にテントを張って寝泊まりすれば、あまりお金もかからぬ。紛争とはいえ、あいつらに戦うつもりなど皆無。己の主張をバウルブルクの住民に伝えることには成功した。ウシャント騎士爵家の当主、バカに見えて実はという感じじゃな。地方の騎士には珍しく、先が見える男のようじゃ」
「テレーゼ、意味がわからん」
あんなことをして、一体なにになるというのだ?
「教えてやってもいいが、それではヴェンデリンの勉強にならぬからの。それに、こういうことがあったのじゃ。すぐにあの男が駆け込んでくる」
「お館様!」
「旦那、大変だな」
テレーゼの予言どおり、ローデリヒが駆け込んできた。
なぜか一緒にカチヤがいたのは不思議だったけど。
「カチヤ様とは部屋の外で一緒になったのですよ」
「あたいもさぁ、今日は町に買い物に出ていたんだけど、変な連中はいるし、町の連中は面白がって見ているし」
俺、ここの領主なんだけどなぁ……。
別にその二人を排除してくれてもとかは思わないけど、見世物みたいに楽しむんじゃなくて、不届きな連中だ、くらいは思ってほしい。
「ああいう立場の弱い地方の貴族なので、とにかく民衆に訴えかけて己の要求を通そうとしているのでしょう。たまにある話です」
と、ローデリヒが言うのと同時に、全員の視線が一斉にカチヤに向いた。
一度ある事は二度あるわけだ。
「ここでまた蒸し返すか?」
「あまりに似たパターンなので」
「旦那ぁ、酷いよぉ。ようし、あたいがとっ捕まえてくる!」
カチヤは、双剣を抜いて部屋から駆け出そうとして、みんなに止められた。
「カチヤ様、それは悪手です」
そしてローデリヒが、カチヤによる二名の捕縛は駄目だと彼女に釘を刺した。
「どうしてだ? あいつら紛争相手なんだから、早くとっ捕まえようぜ」
さすがにカチヤも、相手を討ち取ろうとは言わなかったな。
紛争のシステムくらいなら、誰でも知っているので当然か。
「カチヤだと、誤って殺してしまうから?」
「そんなことはしねえし! あいつら、戦闘経験なんて皆無で武芸に通じているとも思えないぜ。もしかして、あたいにはわからないけど、あの二人はすげえ強いとか?」
「それはないだろう」
悲しいかな。
地方の田舎貴族なんてなぁ……。
その辺の駆け出し冒険者よりも弱い奴が結構いた。
「むしろ、家臣や兵の方が強かったりしますね」
リサも俺の考えに賛同した。
田舎領主の家臣は農業や猟師と兼業なので、体力があったり、弓が上手かったりするからだ。
戦場では、リーチがある武器の方が有利だからな。
自分が負傷しないで、相手だけに怪我を負わせることができるからだ。
「相手の強さが問題ではなく、相手は小なりとも貴族。そして、紛争を仕掛け、わずか二名とはいえ諸侯軍を編成しております」
たった二名の諸侯軍か……。
軍って言っていいのか激しく疑問だが、こういうのは名乗った者が勝ちなのかもしれない。
「ゆえに、これはうちも諸侯軍を率いて戦う必要があるのです」
「無茶言うなよ!」
公園で町行く人たちにアピールしている二人を捕えるため、バウマイスター辺境伯家がわざわざ諸侯軍を編成する?
そんな無駄、うちばかりが大損をするじゃないか。
「形式は整えませんと。貴族とはそういうものなのです」
「そんなバカな……」
「とはいえ、それほどの数を揃える必要もないでしょう。町の警備隊から十名ほども出せば。まあ、形だけですな」
バウマイスター辺境伯領の一部(公園)を占領したウシャント騎士爵家諸侯軍に対し、バウマイスター辺境伯家も対抗して諸侯軍を出すわけか。
敵はたった二人なので、それほどの手間でもないのか。
「指揮官はエルでいいか」
「俺?」
「当然」
うちの家臣で、諸侯軍を率いる指揮官に任じられる地位にある者はみんな忙しい。
ここにエルがいるので、他の連中をわざわざ呼び出すまでもないであろう。
「任せた。当主命令で」
「やるけど……こんなにやる気の出ない任務も珍しいな」
敵は二人しかいないので、エルが十名も引き連れて戦いを挑めば簡単に捕らえられるはず。
ハルカもいるので、ウシャント騎士爵家の二人が予想外の手練れでもない限り、一方的に捕らえられて終わるであろう。
そんなことはバカでもわかると思うのだが、一体ウシャント騎士爵家の当主はなにを考えているのか?
バウマイスター辺境伯家に紛争で負けて、それでなにかいいことでもあるのか?
「じゃあ、適当に人を見繕って行ってくるわ。ハルカさんもいるから、まず負けるとは思わないし」
「勝負以前の問題ですからね」
こうしてエルとハルカが、我がバウマイスター辺境伯領の一部を占領したウシャント騎士爵家諸侯軍の討伐を命じられたわけだが……。
「お館様、小なりとはいえ、向こうは当主が出陣しております。お館様も出るのが筋です」
「俺もかよ!」
「当然じゃな。必ずあとで難癖つける貴族がおるぞ。貴族とは、そんなしょうもないことに拘る生き物じゃからな」
「はい……行ってきます……」
ローデリヒとテレーゼに貴族の道理を説かれ、面倒なのに俺も出陣する羽目になってしまうのであった。
「降伏します」
「……はい?」
「ですから、武運拙く敗れたので降伏します。さすがにこの戦力差は如何ともしがたい」
紛争は、俺、エル、ハルカが率いる三十名ほどの軍勢で囲んだら呆気なく降伏してしまった。
バウルブルクの治安を守る警備隊は遊んでいたわけではなく、公園の一部を占拠して自分の主張を口にしていた二人を周囲から監視していた。
それに俺たちが加わって十倍以上の戦力差になったので、ウシャント騎士爵家の当主らしき人物が降伏してしまったのだ。
「呆気ない終焉だな」
「そうですね」
エルとハルカは働いた気がしないと言った感じであったが、実は俺が苦労するのはむしろこれからであった。
紛争で破れたりとはいえ、相手は貴族。
しかも潔く降伏しているので、こちらも適当な扱いはできない。
どうせ逃げたり、俺を不意打ちする可能性もほぼないので、彼らは屋敷の客間に滞在することになった。
一応見張りはつけているが、あまり意味はないと思う。
時間が惜しいので、早速紛争解決に向けての話し合いが始まる。
紛争は俺たちの一方的な勝利であったが……あったが、だからなんなのだということに気がついたのは、今この瞬間であった。
勝利したバウマイスター辺境伯家は、ウシャント騎士爵家に対し賠償金、和解金、罰金……呼び方はなんでもいいが、迷惑を被った分の金を要求するのが普通であった。
戦況が膠着状態とかなら過大な要求もできないが、ウシャント騎士爵家の当主が降伏してしまったので、うちが紛争の経費くらい要求して当然。
ところが、ウシャント騎士爵家にはあまり金はない。
それは当たり前のことで、もしウシャント騎士爵家に金があったら、こんな方法でうちに紛争なんて仕掛けないはず。
「ウシャント騎士爵家は、無能な当主のせいで絶対に勝てない相手に無謀な紛争を仕掛け、破れて今は捕らわれの身。しかも、我が領地は田舎で現金収入にも乏しく、わずか二名の諸侯軍を出すのが限界でした。相場の和解金を支払う余裕もないので、ここはバウマイスター辺境伯殿に我が領地を譲渡いたしましょう」
「はあ? 領地を譲渡?」
三十代半ばほどに見えるウシャント騎士爵家の当主は、うちに支払う金もないので領地を全部譲渡しますと宣言した。
普通ならまずあり得ない。
領地を失ってしまっては、貴族が貴族でなくなるからだ。
「それって、先日のブレンメ男爵領みたいなお話かしら?」
そんなに緊迫した状態でもないので、話し合いの最中にみんなのお茶を淹れ始めたアマーリエ義姉さんが、先日巻き込まれた、ブレンメ男爵領絡みの紛争のような結末になるのかと訪ねてきた。
あれも酷い紛争だったな。
なんというか、結末が色々と……。
「ああ、ブレンメ男爵家ですか。農家のような男爵家ですよね。我が領でも噂になっていましたよ」
このウシャント騎士爵家の当主、いきなりすべての領地をうちに割譲しますなんて言っているのに本人はえらくのん気で、まるで他人事のようにブレンメ男爵領の話をしていた。
「あんな田舎で、農家レベルの土地を残されても意味がありませんので、全部割譲します」
「いや……そんな、領地を割譲なんて……」
領地の一部割譲なら、できなくもないのはブレンメ男爵の例を見てもあきらかであったが、さすがに全部の領地を割譲なんて不可能だ。
それでは、ウシャント騎士爵領が消滅してしまうからだ。
それにもう一つ問題がある。
「領地、いらないです。いらない! いるか!」
「確かに、ウシャント騎士爵領では譲渡されても……」
俺は叫び、ローデリヒも頭を抱えていた。
金はないので、土地を譲渡する。
紛争に敗れた以上、ウシャント騎士爵家の当主として責任を取り潔く家を潰す。
言い分としては、貴族としての矜持に溢れた素晴らしい発言なんだが、今俺は思った。
この人、ブレンメ男爵と比べるのも失礼なほど、色々と先が見えてしまう人なのであろう。
ウシャント騎士爵家は、このままでは衰退してしまう。
それをなんとかするため、その結果ウシャント騎士爵家が潰れてもいいので、その領地をバウマイスター辺境伯家に割譲することにした。
うちとしては、割譲された以上は旧ウシャント騎士爵領をちゃんと統治しないといけないが、その場所は先日地図で確認したとおりだ。
飛び地で交通の便も悪く、こんな領地は統治するだけで多額の赤字が出るであろう。
それならウシャント騎士爵領なんて捨てて、領民たちをバウマイスター辺境伯領に移住させた方が手間もかからないはず。
勿論、そんなことできるはずがないのだが。
「そもそも、貴族同士の領地の売買は禁止されております」
「売買はですよね? 紛争における賠償金代わりの譲渡ですから」
「とは言いますが、ブレンメ男爵家だって……」
紛争の和解案としての領地の譲渡は可能だが、貴族家を潰すことはできない。
領地を失った貴族を、王国が法衣貴族として面倒を見るなんてあり得ないからだ。
だからこそ、ブレンメ男爵領はわずかに残っているのだから。
例え、周囲の人から見たら生き恥を晒しているように見えてもだ。
「(なあ、ヴェル)」
「(なんだ? エル)」
「(面倒だから、解放してしまえばいいだろう。屋敷に置くと金がかかるし)」
確かに、ウシャント騎士爵家の当主は貴族なので、それに準じた待遇をしないといけないので扱いが面倒な捕虜なんだよな。
このまま、なにも取らずに領地に戻してしまった方が、実は長い目で見て経費がかからないでいいのかもしれない。
ところが、そうは問屋が卸さなかった。
「もしこのまま解放された場合、次の収穫後にまた紛争を仕掛けますけど」
「あがっ!」
ウシャント騎士爵領は、裕福ではないが借金を抱えていないようだ。
収穫のあとで金が入ったら、再び紛争を仕掛けると断言した。
そして、またこのやり取りの繰り返しか……。
この人、本気で領地と爵位を捨てようとしているのか。
貴族の地位を捨てたいなんて、そんな人初めて見た。
「(王に任じられた貴族という花を捨て、どうせバウマイスター辺境伯領がウシャント騎士爵領を得たとしても、現地の情報に疎いので統治は難しかろうと思います。代官は……)」
ウシャント騎士爵家の当主に任せるのが、一番混乱が少なくていいはず。
そこまで計算して、この人はうちに紛争を仕掛けたのか。
「(あれ? 凄く厄介な事案?)」
「(たまにこういう対応が難しい話を持ち込む貴族もいる。どう対応しようか、これもヴェンデリンの大貴族としての勉強じゃな)」
テレーゼは、この可能性を予見していたのか。
とにかく最初の話し合いではなにも解決せず、ウシャント騎士爵家の当主とその他一人は暫く屋敷に留まることになるのであった。
「ヴェンテ、随分と発展している町ではないか」
「大貴族様のお膝元って凄いんだべなぁ。ウシャント騎士爵領もこんな風になるだか?」
「バウルブルクは、バウマイスター辺境伯家のお膝元。さすがにここまでは難しいと思うが、今よりはマシになるさ」
「みんな、喜ぶだっぺ」
「いや、そんなことを言われても困るんだが……」
ウシャント騎士爵家と紛争と呼ぶのもおこがましい争いが発生したが、それは無事バウマイスター辺境伯家の勝利で終わった。
だが、和解の条件で揉めてしまい、ウシャント騎士爵家の当主ともう一人は外出許可を貰ってバウルブルクの町を探索していた。
もし二人が逃げたらどうするのかいう意見も出たが、俺としては逃げ出してくれた方がありがたかった。
彼らは、バウマイスター辺境伯家にウシャント騎士爵領を押しつける作戦を達成しなければ、ここから逃げ出すわけがないのだから。
「あなた、王城の方はなんと?」
「そんな条件、受け入れるな! 和解金代わりである領地の一部ならともかく、全面割譲なんてあり得ないだってさ」
「やはり無理でしたか」
「それは無理じゃな」
エリーゼとテレーゼが、『やっぱり』という表情を浮かべた。
また手詰まりとなったので、俺は携帯魔導通信機で王城にいる陛下や閣僚と相談してみたのだが、やはり領地の全面割譲は無理だそうだ。
そんな前例は存在しないし、『真似する貴族がいたらどうするんだ!』と怒られてしまった。
確かに、その地方の大物貴族領への併合と、旧領地の代官職世襲を狙って紛争をしかける事例が増えたら、大貴族家も王国も頭を抱えるよな。
その切っ掛けとなった、バウマイスター辺境伯家への風当たりも強いはずだ。
つまり、王国がその要求を呑まなかったのは、俺への善意もあるんだよな。
「どうなされますか? あなた」
「どうもこうも、よくよく考えてみたら、ウシャント騎士爵家はブライヒレーダー辺境伯家の寄子。俺が悩む必要ないよな」
寄子の不始末は、寄親の責任でもあるからな。
「それもそうですね」
「というわけで、ブライヒレーダー辺境伯に任せてしまおう」
「それが一番いいと思います」
「だろう? エリーゼ」
俺は、ブライヒレーダー辺境伯に連絡を取って、ウシャント卿の身柄を彼に押し付けることにした。
ついでに、もう二度とこういうことをしないように釘を刺してもらえば完璧だな。
ウシャント卿からすれば、俺が対応するのもブライヒレーダー辺境伯が対応するのも同じだろうし。
「じゃあ、これでこの件は無事解決」
「じゃといいがな……」
「予言か? 怖いことを言うなよ。テレーゼ」
「その程度で解決するのなら、ウシャント卿もこんな面倒な紛争を仕掛けないと思うのじゃが……」
嫌な予感ほど当たるというのは本当のようだ。
ブライヒレーダー辺境伯に連絡を入れた翌日、彼はブランタークさんのみ引き連れて屋敷に顔を出した。
俺が『瞬間移動』で運んだからなんだが、それはどうでもいいのだ。
「アーサー殿! このような行為をするとは!」
「ブライヒレーダー辺境伯殿、アーサーは私の父です。もう亡くなりましたがね」
「……」
ウシャント卿に会うや否や、ブライヒレーダー辺境伯は彼の行動を批判し始めた。
ところが、自分は寄子へのフォローを怠らない寄親だと思わせようとしたにも関わらず、ウシャント卿の名前を父親の名前と間違えて自爆した。
今も黙ったままなのは、どうにかウシャント卿の名前を思い出そうと懸命なのであろう。
「(事前に調べてこないのかな? ブライヒレーダー辺境伯らしくもない)」
「(お館様なら、ちゃんと調べてたぞ。その資料が間違っていたんだ)」
俺の愚痴に、ブランタークさんが小声で反論した。
「(……最悪だなぁ……)」
ブライヒレーダー辺境伯家の寄子は、例のブロワ辺境伯との紛争で激増し二百家を超えていた。
そのすべてを完璧にフォローするなんて不可能か。
家臣のミスとはいえ、当主の名前を間違えるくらいだからな。
ウシャント騎士爵家が目立たなすぎて忘れていた?
その前に、覚えていなかったから忘れようもないという説も存在する。
「なんか、うちの実家の昔を見るようだな」
カチヤの実家である、オイレンベルク家も同じようなものだったからな。
身につまされる思いなのかもしれない。
「ご覧になられましたか? バウマイスター辺境伯殿。小なりとも家名と領地を保つことこそが貴族として重要。とは言いますが、実際にはウシャント騎士爵家のことなど、大半の王国貴族が知らないのです。当主が誰か、知っている人はもっと少ないでしょう。どうせウシャント騎士爵家がなくなっても困る人は極少数。土地を割譲して領民たちの幸せを望むのが最後の矜持というわけです」
やはりこの人、テレーゼの言うとおり色々と見えすぎるんだろうな。
というか、ブライヒレーダー辺境伯もこのタイミングで当主の名前を間違うかな。
「ですが、爵位と領地は手放しても代官職は狙っているのでしょう?」
「それは当然です。我ら家族とて、いきなり路頭に迷うのは嫌ですからね。元ウシャント領に詳しい代官は必要でしょう?」
「……」
「そんなことは王宮が認めませんよ」
ブライヒレーダー辺境伯が反論するが、きっとそんなことはウシャント卿もわかっているはず。
背水の陣であることを強調しつつ、うちかブライヒレーダー辺境伯から援助を引き出そうしているのであろう。
「多少の援助は構いませんが、地図で見る限り、ウシャント領に道や港を作っても、将来維持費で困ることになりますね」
道と港くらいなら、俺が一日もあれば魔法で作れるであろう。
だが、問題はそのあとだ。
作られた道と港を維持しなければいけないのだ。
ここで採算性という問題に直面するわけだが、地方の零細貴族はそれで詰むケースが多かった。
「とにかく場所が悪すぎますね」
ウシャント領は、マインバッハ領からも大分離れており……これは、小領主混合領域が広大な未開地も含めて広すぎるからというのもある……以前俺が作った港を利用できなかったのも辛かった。
とにかく、ウシャント領は田舎すぎるのだ。
「飛び地を併合……元々無理ですけど、統治効率ってのがありましてね」
王国も、ブライヒレーダー辺境伯領や、バウマイスター辺境伯領だって、飛び地なんて統治に手間と費用ばかりかかって赤字なので、無料でもいらなかった。
所有した時点で赤字物件になってしまうのだから当然だ。
「では、来年以降も頑張って紛争をしていこうと思います」
「「……」」
俺とブライヒレーダー辺境伯は思った。
世の中、覚悟を決めた奴ほど強く厄介な存在はいないのだと。
ただの我儘な貴族なら切り捨てるんだが、この人の場合、領民たちのためにやっている部分がかなりあるからな。
勿論、自分のためにもやっているんだが。
「どうします?」
「まずはウシャント領の問題を洗い出してみましょう」
洗い出すもなにも、あまりに田舎で若い人が出て行きたいと思うほど不便である。
この一点に尽きる。
幸いというか、その気になればいくらでも耕せる土地があるので、領民たちが飢える心配がないくらいであろう。
水源などにも困っていないらしい。
「温泉とかないんですかね?」
「ないですね。当然調査はしています。あったとして、ウシャント領までお客さんが来るかという問題がありますけど」
秘湯なんてもんじゃない田舎だからな。
もし温泉があっても、あまり意味がないというわけか。
「近くに町があるとか、そういう利便性があればいいのですね」
「それは勿論そうですけど、自分の領地の開発もできていない零細貴族が町を作れると思いますか? ないない尽くしなのですから」
人、金、資材と。
資材は金で買えるし、町ができる目途があれば人は集まる。
やはり金か。
金がないのは辛いな。
「小領主混合領域に大きな町を作る。構想としては悪くありません」
王都~ブライヒブルク~バウルブルク~新しい大きな町。
この四角形を起点に、中小の港を整備していけば、王国南部領域の開発が進むであろうからだ。
小領主混合領域内に大きな中心となる町ができれば、マインバッハ領の港もネットワークに入れてさらに発展できるか。
「問題は、うちとブライヒレーダー辺境伯家が勝手に大きな町を作っていいのかという話になりますね」
「その辺は、大きな町なら直轄地でいいんですよ」
都市と大型魔導飛行船の航路なら、飛び地でも収支は黒字になりやすいので王国も文句は言わないはず。
代官職などのポストも増えて、王都で無駄飯を食らってる貴族たちに職を与えられるという利点もあるのか。
「ただ、問題が一つあります」
「土地をどう確保するかですね」
「ブライヒレーダー辺境伯、ウシャント卿、小領主混合領域には土地なんて腐るほど余っているでしょう」
余っているからこそ、ブロワ辺境伯との紛争で大軍同士が対峙しても、誰も迷惑を被らなかったのだから。
特にエチャゴ平原なんて、土地が余りに余っているはずだ。
「バウマイスター辺境伯、実は小領主混合領域なんですけど、バウマイスター騎士爵領と同じなのです」
一見無人の未開地でも、一応誰の土地か割り振られているのだと、ブライヒレーダー辺境伯が教えてくれた。
「紛争で使った時は、別に彼らもなにも言わなかったですけどね」
大きな町を作るとなると話は別だと、ブライヒレーダー辺境伯は言葉を続ける。
「多分、一番収まりがいいのは、王都の直轄地にすることです。ですが、どこに町を作るのかで何年……いや、何十年決まるのにかかるでしょうかね?」
当然、町ができる土地の持ち主である貴族は、莫大な土地の売却料金か、賃貸料を得られるようになる。
どこに町を作るか、小領主混合領域の貴族の大半はブライヒレーダー辺境伯家の寄子であるが、縁戚関係ともなれば遠縁でも王都の法衣貴族とかがいないわけではない。
彼らがしゃしゃり出てくることは確実であり、さらにブライヒレーダー辺境伯家の家臣や親族とも関係がある貴族もいて、当然彼らはブライヒレーダー辺境伯に色々と陳情してくるはずだ。
「場所は、ほぼ小領主混合領域の中心部でしょうけど、港を作るのであればあまり極端に端っこになければいいわけでして」
候補地が沢山出て、それぞれにそこに決まると都合がいい貴族たちが王国政府やブライヒレーダー辺境伯に陳情を仕掛けてくるわけだ。
前世でも、同じような話はよく聞くな。
新幹線や高速道路のルートとか。
「全部話を聞いていたら、一向に決まらないでしょうね」
利益がとんでもない額になるので、下手に強引に決めようとすると刺客を送られるかもしれないと、ブライヒレーダー辺境伯は真面目な顔で言った。
「刺客ですか?」
「動く金額が金額なので。お金は人を変えますからね」
「否定できない……」
候補地を持つ貴族たちの血走った目が用意に想像できるな。
「誰も所有していない土地ならどうです?」
あれだけ広い小領主混合領域だ。
どこかに、誰も所有していない土地くらいあるはず。
ヘッサニア渓谷とかもあったのだから。
「なくはないです」
ブライヒレーダー辺境伯ではなく、ウシャント卿がそういう土地はあると教えてくれた。
「あるんですか。それは都合いいな」
そこに大きな町と港を作れば解決するじゃないか。
ようし、王国政府にいいお話がありますとぶん投げて終わりだ。
「ただ、そこは魔物の領域でして……」
魔物の領域なのか……でも、解放してしまえば。
大変だけど、ここを乗り切れば、もう二度とウシャント卿からストーカーされずに済む。
「通称『ゴミクソ岩場』と言われています」
「岩場ですか……」
魔物の領域で岩場は珍しいけど、まったくないわけではない。
それに岩場ってのは都合がいい。
地面がしっかりしているから、町を作るのにちょうどいいじゃないか。
でも、通称とはいえ変な名前だな。
「えっ! 『ゴミクソ岩場』ですか?」
「知っていたんですね。ああ、当然ですか」
小領主混合領域に領地を持つ貴族の大半は、ブライヒレーダー辺境伯の寄子なのだ。
現地の様子を知っていて当然か。
「確かに、あんなところ誰もいらないですよね。ですが、あそこを解放ですか? ちょっとお勧めできないかも……」
「ブライヒレーダー辺境伯、その『ゴミクソ岩場』には強いボスがいるとか、解放に難儀するとか、そんな事情があるのですか?」
「ええとですね。私も人づてに聞いただけなのですが、冒険者は誰も依頼を引き受けてくれないと思います」
その『ゴミクソ岩場』には、どんな強力な魔物がいるのであろうか?
「強力というか、見ただけで倒す気が失せると言いますか……私も実際に見たわけじゃないんですけど、話に聞く限りでは、普通の冒険者は領域の解放どころか、そこに行くのも嫌って話です」
「魔物が強いじゃなくて、倒す気が失せる? 見たくもないですか?」
「百聞は一見に如かずとよく言うではありませんか。解放できるかどうか試してみたらいかがですか? ブランタークも貸しますし」
「えっ? 俺もですか?」
今、助っ人指名されたブランタークさんがもの凄く嫌そうな顔をしたのを見てしまったのだが、とにかく『ゴミクソ岩場』を解放してそこに王国直轄の町を作れば、ウシャント領も少しは便利になって、ウシャント卿からストーカーされずに済むはずだ。
とにかくやってみようと、俺たちは現地へと向かうのであった。
「うわっ! 臭せっ! 気持ち悪いなぁ」
「ヴェル、剣がヌルヌルになったぞ」
「エルヴィン少年、某など拳がヌルヌルである! しかも臭いのである!」
「ヴィジュアル的にも最悪だな」
『ゴミクソ岩場』とは、小領主混合領域の中心から少し南寄りにある魔物の領域で、ここは、生息する魔物の種類が他とはまったく違っていた。
岩場だが、あまり高い岩山などもなく、地盤は安定しているので町を作るには条件はいいと思う。
なにより、ここには殊更利権を要求する業突く張りな貴族たちや、それに連なる連中もいないで、ここに町を作れば非常に安く済むというわけだ。
この提案をしたら陛下は非常に乗り気となり、他の閣僚たちにも反対する者などおらず、『ゴミクソ岩場』解放作戦は実施されることになったが、その前に俺たちは偵察でここを訪れていた。
そして、その決定を今非常に後悔していた。
実は昨日の内にみんなで魔導飛行船に乗って来たのだが、女性陣はほぼ全員お帰りになった。
その理由は、『ゴミクソ岩場』の魔物が厄介なほど強いからではない。
それなら、ルイーゼやカタリーナまで帰る理由がないからだ。
「今、ひっくり返ったアブラムシを見てしまった。足がワシャワシャ動くのを見ると気分が悪くなってくるな。焼き殺したら油でよく燃えるんだが、臭くて死にたくなるぜ」
元ベテラン冒険者ゆえに『ゴミクソ岩場』を知っていたブランタークさんだが、これも宮仕えの悲しさであろう。
ブライヒレーダー辺境伯から強制的に俺たちへの同行を命じられた彼が、心の底から嫌そうな顔をしていた理由がよくわかった。
この『ゴミクソ岩場』には、基本的に動物型の魔物は一切存在しない。
人間ほどの全長がある、黒くて、脂ぎっていて、足が六本あって、カサカサいっている、飲食店経営者が嫌う昆虫第一位であろう奴が、見えるだけで数十匹もいた。
それをブランタークさんが順番に魔法で倒して焼いているのだが、焼くともの凄く嫌な臭いが周囲に立ち込めるので、ブランタークさんだが、俺たちも同じように気分が悪くなった。
あんなに小さい奴でも見かけると色々と不幸な気分になるのに、全長が人間並みのゴキブリなんて、誰だって見たくもないであろう。
そして、どうしていちいち焼いているのかと言えば、この巨大ゴキブリに使える素材などまったくないからだ。
魔石は取れるから、ブランタークさんが体を焼いている。
なぜ焼くのかといえば、誰もゴキブリの死骸にナイフを入れて体内の魔石を取り出したくなどないからだ。
ただ、焼いたからといってゴキブリはゴキブリである。
誰が焼けた巨大ゴキブリの死骸から魔石を取り出すのか、それで争いになりそうな雰囲気であった。
少なくとも、俺は嫌だ。
巨大ゴキブリだけではない。
他にも、触るとダンゴになる虫の巨大版。
全長三メートルを超える、足が沢山ある長い虫。
地面を這うとヌルヌルが残るカタツムリの中身しかない虫もいた。
これを直接殴ってしまった導師は拳にヌルヌルが、剣で斬り殺したエルはお気に入りの剣の刃に大量のヌルヌルがついてしまい、どうやって落とそうかと真剣に悩んでいた。
そして、このヌルヌルも異常に臭いのだ。
ゴキブリもダンゴ虫もムカデもナメクジも、そんなに強くないが殺すと出る体液が異常に臭い。
魔石の回収のためと、臭いのは燃やしている間だけなので仕方なく燃やしているのだが、正直風下に立っていたくなかった。
「これは、誰も討伐を引き受けないわけだ」
魔石しか素材が取れず、強くはないが気持ち悪い、臭い、繁殖力も尋常ではない魔物とのいつ終わるかわからない戦いを思えば、他の魔物の領域に行った方がマシだな。
「ヴェル、いつものように魔物の素材の使い道とか考えてくれよ」
「嫌だ」
それを知るために、俺にゴキブリやナメクジに触れと?
死んでもゴメン被る。
「そんな、自分が嫌なことを人に任せるのはよくないと思います」
そう言うと、俺は『岩棘』を一度に数十カ所同時に発動させ、大量の虫を串刺しにして殺した。
「臭せっ! 辺境伯様! 焼く時の都合も考えてくれよ!」
「そんな余裕ないですって!」
と、逆ギレしながらブランタークさんに反論しつつも、流れた体液の臭いが風に乗ってくると、臭くて気持ち悪くなってくる。
強くはないけど、とにかく困った連中だ。
「せめて、素材が金になればな」
もしそうだったら、臭くても冒険者は集まるはずだ。
一体一体が弱いってのも、戦闘力はなくても稼ぎたい冒険者には向いているだろう。
臭さに耐性があれば、かなり稼げるはず。
現実は、低品質の魔石が取れるだけだけど。
「そりゃあ、ハルカさんもエリーゼたちも帰るわ」
女性で巨大昆虫に抵抗があったからというのもあるが、エリーゼとかは俺のために我慢してしまうだろうから、無理やり俺が帰してしまったのだ。
『すいません。小さいのは大丈夫ですが、あんなに大きいと……』
よく台所仕事をするエリーゼは、『小さなゴキブリなら大丈夫だけど、大きいのは……』といった感じのようだ。
『ボク、あれを素手で殴るのは無理』
ルイーゼは、虫への嫌悪感はエリーゼよりも少なかったが、あれを素手で殴るのは我慢できないらしい。
気持ちはよくわかる。
『……無理』
『臭いから厳しい』
イーナは普通に虫が苦手で、ヴィルマは鼻が敏感なので、体液などの臭いが駄目だそうだ。
『……』
『ヴェル、カタリーナは立ったまま気絶しているわよ』
カタリーナに至っては、巨大ゴキブリの群れを見たらその場で立ったまま気絶してしまった。
よほど苦手なのであろう。
『臭い……うげぇーーー!』
『うわっ! ヴェル、カチヤが吐いたよ!』
相手に接近して切り裂く戦法を使うカチヤは、巨大な虫たちの体液を大量に浴びてしまい、あまりの臭さに吐いてしまった。
女性にゲロを吐き続けさせながら戦わせるのはどうかと思うので、カチヤも戦線離脱している。
『さすがに難しいの』
政治的な魑魅魍魎の類には慣れているテレーゼも、生まれのよさが祟って虫は苦手であった。
元々北方に住んでいたので、あまりゴキブリに縁がなかったというのも大きいと思う。
残念ながら、彼女もリタイアしてしまった。
そんなわけで、女性陣は全員がリタイア……全員ではなかった。
一人だけ大丈夫な人がいたのだ。
「あははっ! この臭せぇ腐れ虫どもが死ねよぉーーー!」
一人だけ、リサが虫たちにブチ切れながら、魔法を連発して虫たちを虐殺、死骸に火をかけ続けていた。
あのメイクと衣装をつけた状態なら大丈夫だそうで、なんというか、相変わらず難儀な性格をしていると思う。
俺のためにやってくれているので、感謝しなければいけないのはわかっているんだが……。
なお、普段のメイクを落とした状態だと虫は全然駄目だそうだ。
「三本目の剣が、もうヌルヌルだぁ……。これ、ちゃんと落ちるのかな?」
「今すぐ帰って酒飲みてぇ……」
「倒しても食えぬ魔物なので、やる気が起きないのである! 臭っ! なのである!」
エルは男だし、というか俺が絶対に帰さない。
ブランタークさんは、ブライヒレーダー辺境伯の命令なので帰れない。
導師も陛下に頼まれているから帰らないし、俺は帰れるわけがない。
とにかくここに町を作らなければ、毎年ウシャント卿にストーカーされるもの嫌だからな。
「ヴェル、結構倒したけど減った気がしないな。ボスを殺してしまおうぜ」
「駄目に決まっているだろうが!」
そんなことをしたら、あの巨大ゴキブリが小領主混合領域中に広がってしまうではないか。
とにかく虫は、一匹も残さずに殺すしかないのだ。
「そんな無茶を言うなよ!」
「そのくらいの覚悟でやればいいんだ」
まあ、さすがに『ゴミクソ岩場』にいるすべての虫を殺せるとは思わないが、粗方始末しておかないと、解放後に色々と大変だからな。
あんなデカイ虫に迫られたら、普通の人は一生物のトラウマを背負ってしまうだろうから。
「役割を分担するのである!」
「それがいいな」
導師の提案にブランタークさんも賛成し、俺達は分業制で虫を始末することにした。
俺、ブランタークさん、導師がとにかく虫を殺しまくり、リサが死骸に火をかける。
そして、燃え殻から魔石を回収するのがエルの役目という事になった。
「臭い……」
「火をかけている私の方が臭いんだ! 男なら我慢しな!」
「はいっ! 同じ人なんだよなぁ……」
派手な衣装とメイクのリサに叱られ、エルは普段と違う彼女の言動に困惑していた。
最初に出会った時はこちらだったので、単純にエルが忘れているだけだと思うけど。
「じゃあ、エルが虫を殺すか?」
どうせ近接戦闘主体のエルには殺した虫の体液が飛び散って臭いし、エルの剣はさらに粘液等でヌルヌルになるけど。
「魔石を取り出す係でいいです……」
こうして分業での虫駆逐作戦が始まったが、とにかく虫の数が多くて辟易する。
それでも、通常の魔物の領域なら魔物は素材になるので金になったが、『ゴミクソ岩場』の虫は魔石しか取り出せない。
挙句に、体液も粘液も臭く、燃やすとやはり臭い。
だが、放置すれば死骸が腐ってもっと臭くなる。
さらに……。
「リサ! 急いで火をかけろ!」
「もう嗅ぎつけたのかい!」
虫の死骸を放置すると、すぐに巨大ゴキブリがそれを漁りにやってきてしまうのだ。
死骸が食べられてしまうと、それは新しいゴキブリの栄養になるわけで、数を減らすには殺して燃やし続けるしかない。
「『ゴミクソ岩場』の噂に恥じない酷さだな」
「臭いのである!」
「しかし、ここを解放しないとなにも始まらないですから」
「辺境伯様、人を雇おうぜ」
「それがですね……」
実は、冒険者バウブルク支部に依頼を出したのだが、『ゴミクソ岩場』だけには行くなと、冒険者たちの間では不文律になっているそうで、誰も応募してこなかったのだ。
かといって、巨大な虫たちは一応魔物であり、冒険者でもない人たちを『ゴミクソ岩場』に入れるわけにいかない。
「エリーゼたちと入れ替わりで、うちの警備隊員たちが来ると思うから……」
エリーゼとローデリヒなら、きっとそうしてくれるはずだ。
「お館様も、援軍くらいは送ってくるはずだし……」
もし『ゴミクソ岩場』の解放に失敗すると、毎年収穫が終わる度に条件闘争のための紛争を仕掛けられて迷惑を被るからだ。
紛争を仕掛けられるのはバウマイスター辺境伯家だけど、ウシャント騎士爵家はブライヒレーダー辺境伯の寄子だから責任ゼロというわけにいかないからだ。
「そんな理由で、町を作るために魔物の領域を解放するなんて前代未聞だけどな」
「理由はなんにせよ。王国のためにもなるのである!」
だから導師も作戦に参加しているのだけど、本人は食えもしない臭い虫たちに辟易しているのがわかった。
陛下のお願いなので、途中で帰るような真似はしないだろうけど。
「これ、何日で終わるんだ?」
「さあ?」
「さあって……」
「俺が教えてほしいくらいだ。数ばかり多くて、見た目もキモイし、臭くて堪らんのだから」
臭いのを我慢しつつ、『ゴミクソ岩場』で虫の掃討作戦を開始してから四日後、遂に待ちに待った助っ人がやってきた。
エリーゼたちを戻した魔導飛行船に、バウマイスター辺境伯家警備隊の兵士百名が乗っていたのだ。
「お館様、お待たせしました……臭っ! 申し訳ありません!」
警備隊を率いていたゾルフという若い指揮官は、出迎えた俺たちを臭いと言ってしまい、失礼に当たると慌てて謝った。
しかし、そんなことを気にする必要はない。
なぜなら……。
「どうせ一日でみんな臭くなるから」
「本当ですか?」
「やればわかるさ!」
「わかるのですか?」
「事前に言っておく。すごい貧乏クジな任務だから」
人数が増えたので、うちの警備隊員たちも虫の駆除に加わった。
虫はよほど油断しなければ、ちゃんと訓練している警備隊員たちなら普通に倒せたからだ。
「げぇーーー!」
「吐くな! その吐いたものに虫が寄ってくるだろうが!」
「重たいし、臭い……」
「我慢するのだ! お館様はもう四日もこの作業を率先して行っているのだぞ!」
人数が増えて倒せる虫が増えたので、倒した虫を一カ所に集めることにした。
リサが効率的に虫を焼くためである。
「あはは……よく燃えるねぇ……」
あまりの臭さに、リサは現実逃避しながら虫を焼く方法の獲得に成功した。
ただし、傍から見ているとただの危ない派手な女性にしか見えない。
「いつ終わるんだろう?」
燃え殻から魔石を回収しているエルは、このいつ終わるかもわからない作業に心が折れかけていた。
それでも順調に作業が進み、翌日にはブライヒレーダー辺境伯も援軍を送ってくれたので、さらに作業効率は早まった。
彼らも、虫と臭いの洗礼を受けて精神にダメージを受けていたが。
「粗方やったのである?」
「みたいだな」
元々『ゴミクソ岩場』は、それほど広い魔物の領域ではない。
その割には随分と虫の密度が高かったが、それはこの碌に食べ物がない『ゴミクソ岩場』では虫たちが共食いで生きているという、事情を知るとさらに気分が悪くなる事実があったからだ。
そのため、不注意な警備隊員たちがちょっとゴミや食べ残しを放置していると、そこにワラワラと押しかけてくる。
汚い話だが、排せつ物も燃やすか、領域の外に出すしかなかった。
なぜなら、便所を作るとそこに殺到してくるからだ。
そういう事情も、余計に警備隊員たちの心を折ってくるのだ。
だが、そんな悲惨な日々も遂に終わる。
あとは、この領域のボスだけ……上空から魔法で念入りに『探知』したから大丈夫であろう。
特にゴキブリは、一匹見たら三十匹はいると思った方がいいので、念入りに『探知』して駆除していた。
「じゃあ、行ってくる」
「頼むぞ、ヴェル」
「お館様、もう終わらせましょう!」
エルや警備隊員たちの声が、随分と必死な感じがした。
もうこれ以上、虫の処理は嫌なのであろう。
ブランタークさんによると、『ゴミクソ岩場』のボスは中心部に逼塞しているそうだ。
そこで、リサは……。
「あはは、まだ燃やすものがあるね」
「ありませんから! リサ様!」
ちょっと休養が必要だと思うので、俺、ブランタークさん、導師の三人だけで現場に飛んで行く事にした。
ブランタークさんによると、『ゴミクソ岩場』のボスはまったく強くないそうだ。
「ボスらしくないのである!」
「こんな、特殊な魔物の領域だからな。ボスも特殊なんじゃないのか?」
「どんなボスなんです?」
「見ればわかる」
現場に到着すると、そこには小さな岩山にビッシリとしがみ付く、数千匹はいると思われる全長五メートルほどのゴキブリの群れがいた。
その体は黒光りしており、目撃した多くの人たちを恐怖に陥れることは確実であろう。
現に俺も、背筋が凍る思いだ。
強いとか弱いとか以前に、それ以前に生理的な嫌悪感しか抱かない。
「あれですか?」
「ううっ……俺も現物は初めてみた。『グレート・オブ・コックローチ』は、このように数千匹の群れで一匹のボスみたいな扱いとなるわけだ。全滅させないと、倒したことにならないが、大きいだけでそんなに強くはないそうだ」
気持ち悪いだけで、他の虫と同じく弱いのが救いか。
これで強かったら最悪だよな。
でも、繁殖力に能力を全振りしていると考えれば、強いゴキブリってのは前世で見た漫画くらいなのか?
「では、某が一気に片づけるのである! 我が渾身の炎柱を見るのである!」
「導師、そんないきなり! 『グレート・オブ・コックローチ』を殺すのに炎は……」
これまで、どの虫も最後に焼き払っていたせいであろう。
やはり精神的に追い込まれていた導師が、ブランタークさんの話をすべて聞かないで『グレート・オブ・コックローチ』の群れ全体を火の柱で包み込む『ファイナル・バースト・ギガ・バーニング』なる、初めて聞く魔法で『グレート・オブ・コックローチ』を岩山ごと焼き払った。
「言うほど威力はないのかな?」
対象が広範囲にいる『グレート・オブ・コックローチ』なので、それをすべて火柱で包み込んだようだ。
威力はさほどでもないが、『グレート・オブ・コックローチ』はみんな炎に包まれているから、ブランタークさんが心配する必要はないように思えた。
一度火がつけば、巨大ゴキブリは自身の油で燃え尽きてしまうのだから。
「ブランタークさん、別に炎で焼いても問題ないみたいですよ」
「心配しすぎなのである!」
「全部燃えていますし、これで終わりですよね」
「戻ったら、王都で豪華な飯と酒である!」
「俺も、エリーゼの料理を食べたいかな」
その前に、風呂に入って臭いのをどうにかしなければ。
そんな風に思いながら導師と話をしていると、ブランタークさんの顔色が一気に真っ青になったのを見てしまった。
「ブランタークさん、どうかしましたか?」
「聞いたとおりだ……『グレート・オブ・コックローチ』は、炎で倒してはいけない。死骸を焼くのみにすべし。なぜなら、『グレート・オブ・コックローチ』は、そのしぶとい生命力が特徴の魔物で、焼かれてもなかなか死に至らず、自分に火をかけた者に全力で向かってくるからだ」
「えっ?」
そんな話、今初めて聞いたけど。
炎に包まれた数千匹の巨大ゴキブリが、一斉にこちらに向かってくる。
燃えた時に出る臭いと共に。
なにより、あのガサガサが数千匹も、しかもそれは全長五メートルを超える巨大ゴキブリなのだ。
「導師、ちょっと俺から離れてください」
「そうだな。これは、導師が俺の話をちゃんと聞かないからこういうことになったんだ。責任取らないとな」
「なにを言うのである! バウマイスター辺境伯、ブランターク殿。某たちは、これまでいくつもの困難を乗り越えた仲間にして、年は離れているが真の親友なのである。一蓮托生なのである」
いつの間にか導師は、俺とブランタークさんのローブを掴んで決して離さなかった。
意地でも、三人で一蓮托生ということにしたいようだ。
「さあ、一緒に『魔法障壁』を張るのである」
「導師、恨むからな!」
「恨みますよ!」
「あとで飯でも奢るのである!」
「「割に合わねえ!」」
それ以降のことは、あまり詳しく語る必要はないと思う。
容易に想像がつくし、正直あまり語りたくないというか……。
火達磨の巨大ゴキブリ数千匹が、導師目掛けて一斉に襲いかかり、『魔法障壁』にぶつかる度に手足がもげ、体が焼けて強度が落ちている個体は胴体が裂け、その体液が飛び散って『魔法障壁』に飛び散り、あの気持ち悪い足やお腹側の見たくもない動きが『魔法障壁』越しによく見えた。
「導師ぃーーー!」
「すまんなのである!」
「早く死んでくれぇーーー!」
それから十分ほどで火がついた『グレート・オブ・コックローチ』は全滅した。
別に命の危険は一切なかったが、その十分間で俺たちは一生忘れられないトラウマを、その心に深く刻まれてしまうのであった。
「ううっ……『ぶーーーん』って火がついたゴキブリが一斉に向かってきて……」
「あの節ばった黒い光る足がガサガサと……」
「火達磨でも、体が半分にモゲても生きているのである!」
「大丈夫、三人とも」
「ヴェル君、おかゆだけど食べられるかな?」
「伯父様が寝込むなんて、初めてのことだと思います」
「導師に寝込むってイメージがないよね」
「お師匠様もですわ。歴戦の元冒険者なのに……」
無事、『ゴミクソ岩場』の解放に成功した俺たちであったが、導師の先走りのせいで『グレート・オブ・コックローチ』たちによる死の洗礼を受けた俺たち三人は熱を出して寝込んでしまった。
怪我をしたからとか、ゴキブリが不潔で持っていた病原菌に感染したからとはではない。
『魔法障壁』越しながらも、次々とこちらに襲いかかり、炎で焼かれて、千切れ、体液を吹き出しながら、節くれだった黒い足をバタバタ動かすゴキブリたちのせいで精神的に参ってしまったのだ。
導師ですら寝込み、エリーゼが熱を出して寝込む彼を見たのは初めてだというのだから、よほど酷い惨状だったというわけだ。
臭いも、二日くらい取れなかったし、とにかく酷い目に遭った。
二度と巨大昆虫の相手なんてゴメンだ。
「バウマイスター辺境伯、導師、ブランターク、大丈夫ですか?」
そこに、俺たちの代わりに『ゴミクソ岩場』の後始末をしてくれたブライヒレーダー辺境伯が見舞いに訪れた。
「お館様、どうなりました?」
「やはり少し残っていたようですね。王国軍の連中が泣きながら始末していましたよ」
ボスの討伐で無事に解放された『ゴミクソ岩場』であったが、やはり隠れていたゴキブリがいたそうだ。
その始末は、新しい都市を作るため先に到着した王国軍の仕事となり、彼らもゴキブリの洗礼を受けて心にダメージを受けたらしい。
「クソッ! あれだけ念入りに潰したのに、まだ残っていたのか」
「台所でも、思わぬところにいるものね」
とはいえ、それは普通のゴキブリだ。
あの巨大なゴキブリがどこに隠れていたのか、正直疑問なところもあった。
「岩の間に隠れていたそうです。到着した王国軍が不用意に食料などを野積みにしたそうで……」
夜に寝静まった頃、野積みされた食料を目当てに一斉に顔を出したわけか。
「夜中に叩き起こされて、みんなでゴキブリを倒して焼いたそうです。焼かないと死骸が食われて新しいゴキブリが生まれますからね」
そんな散々な目に遭いつつも、王国軍は『ゴミクソ岩場』の整地とまだ少数残っているゴキブリの駆除に当たっているらしい。
それが終われば町の建設を始めるそうだ。
俺たちはもう任務をまっとうしたので、あとは王国に任せて問題ないであろう。
というか、もうあそこには行きたくない。
「あっそうだ。バウマイスター辺境伯と導師に報酬を貰ってきましたよ」
「報酬ですか」
それは出て当たり前というか、トラウマのせいですっかり忘れていた。
「新しい町を建設するので、王国政府は建設債券を発行しました。バウマイスター辺境伯にはその二割、うちと導師には一割ですね」
王国直轄地なので権利の譲渡は難しいが、王国が起債して集める予定の債権をくれるというわけか。
「償還に三十年かかって、年利5パーセントなので悪くないですね」
三十年間、額面の5パーセントの金額を貰えるからだ。
王国は金持ちなので債権など発行する必要はないのだが、俺たちへ褒美を渡すためにルックナー財務卿あたりが考えたのであろう。
金を出してもいない債権でそれだけ貰えるのであれば、まあ悪くはないのか。
「ケチなルックナー財務卿にしては珍しいのである!」
「虫の駆除と、岩場の解放の経緯を聞いた者の中で、文句を言った人はいませんでしたね。そもそも『ゴミクソ岩場』に行こうと考える人なんていませんでしたから」
誰もが嫌がる虫天国を無事解放した俺たちへの褒美をケチるのは、さすがに人間としてどうなのだと思われたのかもしれない。
どれだけ強くても、さすがにあそこに行くのだけは嫌だという冒険者や貴族ばかりだからこそ、『ゴミクソ岩場』は解放されずに残っていたのだから。
「とにかく、あそこに新しい町ができれば南部はさらに発展しますしね」
「多少利便性もよくなるから、ウシャント卿も大人しくなると思います」
「彼に関しては、もう大人しいというか、バウマイスター辺境伯が二度と会うことはないと思いますよ」
「えっ? どうしてですか?」
「それは拙者が説明しましょう」
ちょうどここでタイミングよく、ローデリヒも俺たちの見舞いに顔を出した。
そういえば、いまだ終わっていないウシャント家との交渉は彼が継続して行っていたのであった。
「ウシャント卿は、残念ながら王都送りになりました。先を見据えた結果、奇策を打ったのはいいのですが、奇策は常道ではありません。よほど非常の時でない限り、それは己に跳ね返るもろ刃の剣なのです」
「つまり、領地を取り上げられたと?」
俺はローデリヒに、彼の末路を問い質した。
「左様です。ウシャント領のみなら王国も取得を躊躇うでしょうが、近くに町ができるのであれば、直轄地にしても赤字は少ない。彼は思い切った策を打ちましたが、それで偉い方々の怒りを買うこともあるのです」
大げさかもしれないが、ウシャント卿は貴族制度に公然と反旗を翻したようなものだからな。
もし『ゴミクソ岩場』が解放されなければ放置されていたかもしれないが、元『ゴミクソ岩場』が新しい町になる以上、零細騎士に容赦はしないというわけか。
「当然役職ナシで、最低でもあと数代は職を得られないでしょうね。年金生活の零細騎士に降格というわけです」
「そうなのか」
ウシャント卿は領地を取り上げられ、王都に送られて法衣貴族に格下げとなったわけか。
ただ、俺は一つ腑に落ちない点がある。
王国の大半の貴族や王族は、ウシャント卿は罰を受けたと思っている。
だが、それはウシャント卿以外の貴族たちの価値観であり、彼自身はそう思っていないかもしれないのだ。
「お館様、貴族が領地を失うなど恥もいいところ。考えすぎではないでしょうか?」
「そうかなぁ?」
その後、発熱と体調不良は精神的なものが原因だったので翌日には回復し、普通に食事がとれるようになった。
朝、朝食の目玉焼きの横に、ほうれん草ではなく、見たこともない菜っ葉の炒め物が添えられていた。
「あなた、これがウシャント領特産のチタ菜だそうです」
「これがねぇ……」
早速試食してみるが……。
「普通の菜っ葉だよね、エリーゼ」
「そうですね。普通の菜っ葉ですね」
それ以外の感想は一切出なかった。
それでも、王国直轄地になった旧ウシャント領では次第にチタ菜の栽培量が増えていき、主に『ゴミクソ岩場』の跡地に作られた町『ロックブルク』で主に消費されるようになるのであった。
「はぁーーー、領主としての義務から解放され、毎年なにもしなくても年金が貰える。面倒なつき合いも、凶状持ちのうちなんて暫く相手にされないし、贅沢しなければ一生ノンビリすごせる。最高だな!」
そして、とある在地貴族から職ナシ法衣貴族になった男は、働かずに暮らせるようになって一人喜んでいた。
これら一連の騒動の中で、彼が一番の勝ち組かもしれない。




