第三十二話 ガトル大陸総督
「一旦戻ります。エリーゼたちにアーシャを紹介しないといけないので」
「そうだな。それがいい。俺たちはこの辺が安全になってくれたので、あの山の調査をしつつ、前線をさらに南に押し出さないと」
「あの山の周辺を含めて、ガトル大陸をどのくらい解放したんでしょうね?」
「わからん。そのうち、クリムトたち魔導師部隊に強行偵察をさせる予定でな。じゃあ、俺たちはさらなる前線へ赴く。おーーーい! 昨日ザンス子爵から貰った猿酒の樽は大切に運べよ! あまり揺らすな! 古酒は褒美にも使うんだから、特に慎重に運べ!」
「あの……アームストロング伯爵?」
「気にするな。ちょっとザンス子爵とミスマ夫人からお礼に貰っただけだ。まあなんだ。アーシャ殿はめでたいな」
「……前から思っていたのですが、アームストロング伯爵って、真に導師のお兄さんですね」
「俺たち兄弟は仲良しなのでな」
どうやら、俺とアーシャが戦勝のノリでそのまま婚約してしまったことの裏には、ザンス子爵とミスマさんの暗躍があったようだ。
アームストロング伯爵もそれに協力し、そのお礼の品をアームストロング伯爵は荷駄部隊に慎重に運ぶように命令していた。
酒は揺らすと味が落ちてしまうからな。
特に古酒の扱いは慎重にと、強く念を押していた。
褒美として出すことで、家臣や兵士たちを鼓舞しているようだ。
道理で、みんな喋るボスの自爆でテントをすべて吹き飛ばされても、一時崩れた荷物の下敷きになって負傷しても、すぐに戦線復帰しているわけだ。
そして、アームストロング伯爵はまさしく導師のお兄さんであった。
いい性格をしていると思う。
「はははっ、なんでもいいんだよ。兵士たちが頑張ってくれるよう、こういうものを用意するのも俺たちの仕事なんだ」
「正論ですね」
アームストロング伯爵は、軍の指揮官としては非常に優秀であった。
ただ導師と同じく、少しお酒に興味を持ち過ぎてしまうだけなのだ。
「そういえば、クリムトも同行するんだろう?」
「はい」
導師には、屋敷までついて来てもらわないと。
事情が事情なので仕方がないのだが、夫が出張から戻って来たら新しい婚約者を連れてきた、という日本ならば修羅場案件なのだから。
エリーゼは優しいし、自分の身分や立場をよく理解している賢い妻である。
だが、エリーゼ個人としては色々と思うところがあるはずだ。
そこで、責任がある導師に説明してもらった方がいいということに決まったわけだ。
なお、この件に関してはアームストロング伯爵も賛成していた。
やはり、昨日の上と下からリバースし続け寝込んでいたのは、導師が完全に悪かったと思っているようだ。
その責任を取らされたわけだ。
「クリムト、エリーゼによろしくな。俺の可愛い姪でもあるのだから」
「……了解なのである」
「導師、大丈夫ですよ」
だって、昨日のうちに魔導携帯通信機で状況を伝えておいたから。
「もうエリーゼに説明したのであるか?」
「それは当然」
「クリムト、頑張れよ」
「頑張るのである……」
アームストロング伯爵主従の見送りを受け、俺、導師、アーシャはバウマイスター辺境伯邸へと『瞬間移動』で戻った。
随分と久しぶりな気がする。
「あなた、お帰りなさいませ。そちらの方がアーシャさんですね」
「エリーゼ様、よろしくお願いします」
「アーシャさん、事情は聞きました。ヴェンデリン様の危機を救ってくださったそうで。それと、伯父様の大失態の穴埋めまで」
笑顔でアーシャにお礼を言いながら、しっかり導師もディスってくるエリーゼ。
その落差に、導師は冷や汗をかいていた。
「みんなでお茶にしましょう」
俺たちは、屋敷のリビングでお茶とお菓子を楽しむことにした。
なぜか導師のカップは茶渋で汚く、ところどころ縁が欠けており、お茶もお湯なのではないかと思うほど薄かったが。
茶菓子も、薄焼き煎餅みたいなクッキーが一枚だけ皿に載せてあった。
「導師、しょうがないですよ」
「とほほなのである……」
エリーゼはお母さん的なところがあるので、猿酒をひと樽飲んで翌日寝込めば叱られて当然なのだから。
「アーシャさん、これからよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「いいなぁ……肌が白くてスベスベで。なにかコツとかあるのかな?」
「いえ、特には……」
ルイーゼが、アーシャの肌の白さと肌理の細かさを羨ましがっていた。
エルフ族はみんな肌が白くて綺麗だが、特にアーシャの肌は特別だったからだ。
「魔法薬とかじゃないの?」
「特になにもしていませんよ」
「世界樹に住むと、肌が綺麗になるのかな?」
あそこに住むと日焼けはしなくなるはずだけど、それだけでは説明できないなにかがあるような気がする。
「そうか! 猿酒か! ボクも毎日猿酒を飲めばいいんだ!」
「私はそれほど猿酒を飲んだことはないのです。去年成人したばかりなので」
アーシャは現在十六歳であり、エルフ族の成人年齢は外の世界と同じく十五歳だと聞いた。
いくら猿酒造りが盛んなエルフ族でも、子供がお酒を飲むことはないので、アーシャの肌が白くて綺麗な理由は猿酒ではないだろう。
一万年以上、世界樹という閉鎖された空間で生活してきたので、肌が白くて綺麗な遺伝子を持つ血統が残ったというのが真相であろう。
世界樹も、その葉っぱで死人が生き返るなんてことはなかった。
茶葉や衣服の繊維の原料にはなるのだけど。
赤い実もよく生ってエルフ族の生活を支えていたが、実は赤い実の種子を地面に蒔いても世界樹の芽は出ないそうだ。
人間に効率よく繊維、木材、食材を提供する規模の大きなF1農作物というのが正しい評価か。
一つだけ不思議なのは、この世界樹は古代魔法文明より遥か昔に作られたという事実であろう。
さほど文明が進んでいなかった時代に、どうしてこんな遺伝子操作技術の英知を集めたような樹木が、と思ってしまうのだ。
アーシャたちの先祖は、それを調べようとして世界樹に滞在していた学者たちだった。
世界樹に興味を持ったがゆえに、彼らはこの恐竜モドキばかりのガトル大陸で生き残れた。
これも世界樹の恵というわけだ。
「バウマイスター辺境伯! 我が輩、世界樹の調査をしたいのであるな」
「もう少し待て」
世界樹に関しては、王国のアカデミーも調査隊を送ることが決まっている。
種子が育てば、ヘルムート王国の食料事情を大いに助けることになるのだから。
アーネストは、その調査隊に加わればいい。
彼が魔族であるという事実は、すでに公にされて問題がなくなっていた。
徐々にではあるが魔族との交流が進んでおり、さらにアーネストの横紙破りが、他の魔族たちをリンガイア大陸へと旅立たせていた。
ゾヌターク共和国では職がなくて、無職だったりアルバイトをするしかなかったりした魔族の学者、ゾヌターク共和国では枯れたとされる技術の継承者、とにかく職が欲しい若者などが王国や貴族の雇われとなるケースが出たからだ。
ゾヌターク共和国では無職かワープアだが、リンガイア大陸に行けばお抱え学者、技術者として好待遇を得られるのだ。
密出国に罰則がなく、むしろリンガイア大陸に骨を埋める覚悟なので問題ないと、出国してしまう魔族たちが増えていた。
最近、王城でも数名の魔族を見かける。
学者や魔道具関連の技術者が多く、すでに人間と結婚して子供までいる人もいるそうだ。
いくらゾヌターク共和国が技術流出を怖れて無許可の出国を禁止しても、人間だろうが魔族だろうが、自分の思惑を最優先にして動くものというわけだ。
実際バウマイスター辺境伯領でも、エリーとライラさんの紹介で何名か魔族の技術者を受け入れていた。
一応期間限定となっているが、滞在期間の更新は領主である俺が許可すれば簡単なのだから。
「未知なる謎の大木。考古学視点での研究ができるのであるな」
あの大木を考古学視点ねぇ……。
本人は楽しそうだからいいけど。
「アーシャにとっては突然のことだったから、暫くは旅行気分で屋敷に滞在するくらいの気持ちでいいと思うんだ」
「それもそうですね。アーシャさんにも心の準備が必要ですから」
エリーゼも俺の意見に賛同し、導師の空いたカップにわざわざ白湯に近いマテ茶を注いだ。
薄焼き煎餅みたいなクッキーのお替りはない。
導師も、自分の不始末と、兄の策謀のせいでこういう状態なのを理解しており、なにも言わずに白湯みたいなマテ茶を飲んでいた。
「夕食は、ガトル大陸で採れた魔物のお肉を使ったステーキがメインになるそうです」
「おおっ! ご馳走であるな! 大きく切り分けてほしいのである!」
「……伯父様、まだお腹の状態が落ち着いていないので、消化に悪いものはよくありませんよ。おかゆをお出ししますね」
「エリーゼ、某のお腹はもう大丈夫……「おかゆをお出ししますね」」
「……楽しみである……」
「導師もエリーゼには勝てぬか。色々思うところもあろうが、バウマイスター辺境伯家とはこんなものなのでな。アーシャも気楽に構えるがいい」
「そうみたいですね」
「それが一番楽で楽しいのでな。妾はここでの生活を堪能しておるよ」
その日の夜は、アーシャを迎えての豪華な夕食となったが、エリーゼの意思は固かった。
やらかした導師の食事だけは、おかゆと梅干しだけだったからだ。
ミズホの高級米と名水で炊いてあり、梅干しもアキラのお店で漬けた高級品だったので、貴族としての礼儀に則っていたが、導師にはなにもありがたくなかったという。
「お腹が埋まらないのである!」
「食べてるのに、お腹が鳴ってる」
「ヴィルマ嬢、陸小竜の丸焼きは美味しいのであるか?」
「テリヤキ風で美味しい。ミソダレのもいける」
「うぬぉーーー!」
「明日食えばいいじゃないか……」
夕食の席に呼ばれたブランタークさんが導師に苦言を呈していた。
俺たちから導師のやらかしの内容を聞いていたので、当たり前だと思っていたからだ。
「タレの味が深い」
「さすがはヴィルマ、実はタレに猿酒を使ってあるんだ」
高価な料理酒代わりというやつだな。
お酒が飲めなくても、猿酒は料理にも役に立つというわけだ。
「ザンス子爵領の人たちも、料理に猿酒を使いますよ」
「なら、アーシャさんの肌の秘密はやはり猿酒だ! お酒だとそんなに飲めないけど、沢山食べるぞぉーーー!」
アーシャのような白く綺麗な肌になりたいと願うルイーゼは、猿酒を使った料理をもの凄い勢いで食べ始めた。
が……すぐにお腹が一杯になってしまった。
「そういうのって、毎日少しずつ摂取して長い目で見るものだぞ」
猿酒に、本当に美肌効果があるのかは別として。
「そうだったのかぁ……」
こうしてアーシャは、無事にバウマイスター辺境伯家に迎え入れられた。
そしてのちに、彼女が産んだ男子が次のザンス子爵となり、ザンス子爵家もバウマイスター辺境伯家の一門という扱いになっていったのであった。
「猿酒に漬けた赤い実をふんだんに用いたタルトです」
「おおっ! 美味そう! アーシャは料理も上手だな」
「エリーゼ様とレーアさん、ドミニクさんに教わったのですけど。切り分けますね」
「先生、美味しそうですね」
「魔法を使ったあとは、糖分の補給が必要だってアグネスが言っていました。真理だと思います」
「鮮やかで見た目も美味しそう」
さすがに開発が追い付かないという理由で、ガトル大陸の魔物の領域の解放は、一時停止となった。
現在は、解放した地域での開拓を最優先にしているようだ。
インフラなどの建設は、人手の輸送に手間がかかるので、現在アームストロング伯爵指揮下の王国軍が魔族の元建設会社の現場監督指導の下、工事で使う魔道具の試作品が完成したそうで、その試験も兼ねて行われていた。
試験でよい成績が出たら、量産して魔道具ギルドで販売するそうだ。
そんなわけで、俺たちはいつもの日常に戻ったわけだ。
アーシャが料理を習っており、彼女が作ったデザートをアグネスたちと食べようとしたところ、突然魔導携帯通信機が鳴った。
出ると、相手はなんと王太子殿下であった。
『バウマイスター辺境伯は聞いていないのか?』
「えっ? なにがですか?」
俺、なにか忘れていたかな?
『実は、ガトル大陸の開拓地が大分広がったので、父がこの地にガトル大陸総督の地位を置くことにしたのだ』
「それは聞いています」
ガトル大陸は、世界樹とその周辺領域を所有するザンス子爵領と、ノースランドの一部商業地区以外はすべて王国の直轄地となっており、この広大な土地を治める総督が必要となり、これを置くことが決まった。
アームストロング伯爵から……今は陞爵してアームストロング侯爵だった……に聞いたのだけど、その人事に関してはまだ不明であるという話だったのだけど……。
公爵の誰かか、今回功績著しい、陞爵したアームストロング侯爵か。
噂は色々と流れていたが、すべては陛下のお考え次第というわけだ。
『実は、私に決まった』
「それはおめでとうございます」
王太子殿下を総督に据えることで、内外に全力でガトル大陸統治への覚悟を示す。
いいんじゃないかな。
「それで、着任や就任の儀はいつでしょうか?」
俺もバウマイスター辺境伯だ。
『瞬間移動』で簡単に行けるのだから、ちゃんと就任の儀には参加しなければ。
『もう終わった……』
「えっ?」
もう終わった?
いやいやいや!
こんな大切な儀式を、どうしてやりますって貴族たちに伝えていないんだ?
『父が、儀式に手間をかけるのは本末転倒。すぐに着任して、その地位に相応しい仕事をするようにと言われてな……だが……』
そのあとは、王太子殿下の愚痴だけを聞かされた。
別に豪華な就任の式典などしなくてもいいが、着任しても誰も出迎えず、それは人としてどうなのかと。
いくらなんでも、誰かしらが出迎えて簡素なパーティーくらいはあると思ったら、アームストロング侯爵の『開拓が最優先だ! 無駄なことはするな!』という訓令が行き届きすぎてしまったそうだ。
それにしても、さすがは王太子殿下。
未開の大陸だとさらに目立たないのか……。
「……今夜、ささやかなパーティーを開かせていただきます」
『そうか、催促したようですまないな。楽しみにしているぞ』
とても嬉しそうに言うと、王太子殿下は魔導携帯通信機を切った。
「バウマイスター辺境伯様?」
「急ぎノースランドでパーティーを主催しないと」
「なぜそうなるのですか? 今から準備ですか?」
アーシャが驚くのは無理もない。
だが、やらなければ王太子殿下の心が折れてしまい、ガトル大陸開発事業に重大な支障をきたしてしまうのだ。
『すまん、忘れてた』
「忘れてたじゃないですよぉーーー!」
『陛下が無駄な経費を使うなって言うからよ』
慌てて道路建設で世界樹周辺にいるアームストロング侯爵に連絡を入れたが、彼は王太子殿下のことをすっかり忘れていた。
同時に部下たちに対し、陛下の命令で経費削減が最優先だと言い残していたため、王太子殿下が着任してもなにもしなかったようだ。
王太子殿下のご機嫌よりも、陛下の命令の方が重要なのは理解できるが、もう少しやりようがあったはずなのに……。
「(なんで俺がこんなことを考えないといけないんだ?)」
とはいえ、乗りかかった船なので仕方がない。
俺とエリーゼたちは、急ぎノースランドでパーティーの用意をし、どうにか王太子殿下の機嫌を損ねずに済ませることに成功した。
「バウマイスター辺境伯、これからも私を支えてくれよ」
「はっ(えっ?)」
もしかして俺って、王太子殿下からもの凄く頼りにされている?
ただ総督着任パーティーを主催しただけなのに?
それもエリーゼたちの手柄で、俺は急ぎパーティーの参加者たちを会場まで運んだだけなのだが……。
「なにしろ、私とヴェンデリンは親友同士なのだから」
「そうですね」
まさか『違います!』とも言えず、ここでそうだと言ってしまえば俺の仕事は増えたも同然。
以後も、ガトル大陸開拓で度々俺は動員されることが、この場で決まってしまうのであった。
どうして断らないのかって?
貴族もサラリーマンも、上司には逆らえないのは同じだからさ。