第1章 第3話 事件発生
女の子がちょうどひらがなとの格闘に夢中になっていた頃杏花達は昼休み中だった。
今日は3人で机をくっつけてお昼のお弁当を広げていた。
「それで、わたし達であの子に名前をつけてあげるってことになったんだ!!」
杏花は両手を振って嬉しそうにまくしたてる。その横ではナツキもおおーっと歓声をあげた。
「名前かぁ!そうだよね、迷子センターとかに届けて、お母さん探してもらうにしても、その間誰もあの子を呼べないなんて辛すぎるもん。・・よーし!はりきって考えちゃうぞ!!」
香澄もうんうん、と首肯しながら
「でも「かわいい」と「かっこいい」じゃ矛盾してるわね・・・それに思い出すまでとはいえ、名前だもの、ちゃんとしたものを考えなくちゃ」
といつものマジメさを発揮しつつすでに考えモードに入っていた。
杏花はそんな2人の様子を見て、こう切り出した。
「実はね・・わたし、昨日の夜ちょっと考えたんだ!
あくまで案なんだけど・・2人ともきいて!」
2人は杏花の言うことに耳を傾け始めた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
クロワル流地獄の書き取り特訓を始めて30分、おれの右手は既に限界に近づいていた。
「ってお前!まだ30分しかたってねぇぞ?もうへばったかよ!?お前自慢の握力はどうした!?」
シショーがまた叫んでいる。
おれの地獄の書き取り特訓は始めからつまずくことになった。
なんてったってまず鉛筆の握り方から覚えていなかった。シショーに手取り足取り教えてもらってやっと鉛筆を握ったと思ったら、手にガチガチに力が入りすぎていたせいか、その細い棒をへし折ってしまう始末であった。
シショーの言った「自慢の握力」とはそういうことである。
「いや、ね、どうもエンピツってのが手に馴染まなくてさ・・」
エンピツの先を軽く指でつつきながら、軽く情けなさを感じる。他の人は「エンピツ」で「ひらがな」や「カナカナ」を書くのは当たり前らしい。
・・当たり前のことなのに自分にとってはこうも難しいのだ。
「ねぇ、シショー」
「ん?何だチビ?さっさと鉛筆を握れ。道はまだまだ長いぞ」
「『文字』ってさ『ひらがな』とか『カタカナ』だけじゃなくてさ、もっと種類の多い『漢字』ってのもあるんでしょ?
それにさ、キョーカの机の上の本棚を見てわかったんだけど、他に沢山勉強しないといけないことがあるんだね。
・・おれ、大丈夫なのかな?」
不安がそのまま言葉になった。自分の記憶がないということを「名前」以外で重く受け止めた瞬間であった。
「・・・なーに言ってんだお前は。
さては、机の中のキョーカのテストでも覗いたな?残念ながら、お前は記憶喪失でキョーカはただのバカだ。それにキョーカと同じレベルの勉強はチビの歳から考えて相当に早えーよ。チビが深刻に考えるもんじゃねぇ。」
シショーがくちばしで黒い羽根を整えながら平気な顔で答える。
「いや、そういうことじゃないんだよ。何ていうかさ、おれには根性がないなぁって思って・・こんな始めから不安になって、弱音吐いてさ、この先やっていけるのかなぁって」
するとシショーはおれの顔を見てすっとんきょうな声をあげた。
「おいおい!ませてんなぁチビ!!『こんな始めから』だと?
いいかチビ、よく聞けよ。天才妖精の俺から言わせるとな、勉強ってのは『基本』が大切なんだ!『こんな始めから』のことが重要なんだよ。
一歩ずつでいい。まだ間に合う。積み重ねて積み重ねて、それがデッカくなってやっと誇れるんだ!
そうだな、まずは『ひらがな名人』とか『カタカナ名人』、『足し算引き算名人』にくらいなってみやがれ。
子供が根性論語るのはそれからにしろよ」
シショーは多分良いことを言ったつもりなのだろう。そうまくしたててから得意顔をしてみせた。
おれはシショーの新しい面を見たような気がしてその黒い姿を凝視してしまった。
ふいに自分の顔がいつもと違う表情をしていることに気付いた。思いっきり笑っちゃうようなちょっとしんみりしちゃうような感覚。それが表情にでているのかもしれない。
それがシショーに知られるのが照れ臭くておれは顔を逸らした。
何か理由を作って一度シショーから離れたいと思った。
「うん・・ありがとう、シショー。
そういえばおれ、起きてから顔、洗ってなかったや。
ちょっと洗ってくるね。
サボりじゃないよ、すぐに戻るからさ」
シショーが返事をする前に急いで部屋を出た。ちょっと強引すぎたかもしれない。
逃げるようにキョーカの部屋を離れたおれは洗面所をさがして階段を降り、1階を歩き回った。
あまり広い家ではなかったこともあり、すぐにその部屋は見つかった。
顔を洗おうとして洗面台に近づく。すると洗面台の上の鏡が目に入った。
(そういえば、自分の顔も覚えてないんだよなぁ。・・顔を見ればちょっとは何か思い出せるかも)
おれは少しドキドキしながら、鏡を覗き込んだ。
・・・普通だ。
それが第一印象。黒いパーカーと黄色のショートパンツを着たまったくもって特徴のない、仏頂面の無愛想な黒いショートヘアの女の子が見えた。
無理矢理にでも特徴をあげるとすれば、目つきが悪いってとこくらいか。その黒い瞳は三白眼ってほどでもないが、油断するとそう見えてしまいそうだ。
ちょっと目に力を入れてみる。ちゃんと目を開けばマシに見えると思ったからだ。しかし無情にも鏡には、目といっしょに鼻の穴も大きく開いた「女の子がしてはいけない」表情になっているおれがいた。
なんとか目だけちゃんと開こうと思って鏡の前で試行錯誤をしてみる。鼻の方はどうにかなったものの、今度は眉間に皺が寄るようになってしまった。
これでは元々悪かった目つきが更にレベルアップしてしまったようなものだ。
当然、おれの記憶がカムバックする気配は音沙汰もなかった。むしろ一種の失望感が嬉々としておれを一気に襲う。
一旦は頭を抱えたものの、おれは半ば開き直ってその失望感を歓迎することにした。
自分の顔がわかったのだ。それだけでも記憶の手がかりが増えたようなもんだし、良い悪いはともかく目つきが悪いことも特徴なのだ。普通一辺倒のパッとしない顔でも何らかの個性がついてるっていうのは喜ぶべきことである。たぶん。
(でもこの目つきじゃあ、シショーのことは言えないなぁ。)
心の中でシショーに謝りながら、顔を洗う。さっぱりしたのか、目つきはほんの少し良くなっていた。
ーーーはじめからこうすればよかったのだ。
つい夢中になって自分の顔で遊んで、無駄な時間を過ごしてしまったことに後悔を覚えながらも、キョーカの部屋に戻った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
チビが顔を洗うだかなんだか言って部屋を出ていった後、俺は静かにキョーカの机の上の端にある丸い台座の上に飛び乗った。
この台座は世界総合連盟平和安全局軍事課専用通信デバイスーー通称「PMD」である。
「平和安全」とかほざきながら、その直後にバリバリ「軍事」という単語が来ることに昔から矛盾を感じてきたが、あえてツッコんだことはなかった。
『平安軍事』の課長は怖いのだ。黒い噂だってある。正直言うとあまりあの課のトップの連中とは付き合いたくない。
「おい、さっきの続きだが・・・今からまた話できるか??」
そう呼びかけると、程なくしてPMDからホログラムが飛び出した。おれの親友のガメラーー俺が科学研究局に入局した時からのーーの筋肉質でガタイの良い姿が目の前に映しだされた。
「いきなりどうしたよ?急に通信切れたから、とうとうオリジンに喰われたかと思ったぜぇ?」
「悪いな、昨日話したチビが目を覚ましそうだったもんで。
・・それに言っとくが、キョーカは今学校だ。あとオリジンは妖精など好んで喰わん」
「オリジン」とは、この「オリジン界」に生きる「人類」の一種だ。
そもそもこの世界は「人間界」と「異世界」に大きく分かれている。
そして人間界の中でも様々な「世界」が存在する。
その一つがここ、「オリジン界」だ。
オリジン界に住んでいるのは主に「オリジン」と呼ばれる「人間」だ。
本人達は自分達こそが人間であり、それ以外はありえないという驚くべき世間知らずな認識を持っているが、オリジン界にはオリジン以外にも「人間」が存在する。
感情が高ぶると生まれつき決まった獣に変身する「人間」、魔法が使える「人間」、更なる進化に成功し超能力を操るようになった「人間」など多種多様だ。
そう、オリジン、人獣やエルフ、その他諸々の亜人族をひっくるめて「人間」という生き物なのである。
亜人族は、少数のオリジンの先祖が太古の昔人知れず他世界にわたり独特な進化を遂げた種族だ。
だから、「人間界」といったら人獣界もエルフ界もその他の二手二足直立歩行を行う「人間」が住む世界全てが該当する。
ーーもっとも、当の起源達がそのことを早くに忘れて、なおかつ身の回りの他人間界出身者に気づけないというのは皮肉な話であるが。
大抵のオリジンはほかの種族に対して攻撃的かつ時折残酷なまでの扱いをする(と教えられている)ので、みんな正体を隠しているが、なんだかんだいってオリジン界は「人類」の故郷なのだ。
オリジン族のふりをしていれば、精神的に満たされ落ち着いた生活が期待できるだろう。それも亜人族にオリジン界が人気な理由の一つであった。
ちなみに俺は妖精族だから、それこそ「異世界」の出身ということになる。
「異世界」にも「人間界」と同様、たくさんの世界、国が存在する。
「へっへっへ、でもよぉ、オリジン界には狼の人獣を赤いずきんを被った幼体が喰っちまうって話があるだろうがよ」
オリジン界の童話は他人間界でも有名だ。時折こうやって間違って伝わっていることもあるようだが。
「その話なら、人獣は最後大人に皮を剥がされるだけだよ。子供に喰われたんじゃないーーー」
ガメラはうげぇという顔をしてやっぱオリジンは恐ろしいやと呟いた。
ガメラは人獣界出身の人獣族である。それも狼。妖精族のおれには他人事だが、同族が酷い目にあう話ってのはきいてるだけで中々にこたえるらしい。
(そういや、ナツキも人獣族だったっけな。)
普段の人獣族は外見オリジンと全く変わらない。ナツキのように普通のオリジンと同じく暮らし、学校に行き、友達を作ることだってできる。
ただ、感情次第で獣の姿に変化してしまう。
オリジン界に伝わる狼男のように。
「・・それであのチビの話だが」
話がそれてしまったので無理やり元に戻した。「報告」のために再度通信したのにその話をする前にチビが戻ってくればまた通信を切らなければならない。
それはとても面倒だった。
「ああ、はいはい、どうだったよ?お前の『目』で、『能力』で見たんだろう?
・・・『クロ』かよ?」
「いや、まだわからん。名前は不明、歳は8歳、性別は女、身長124センチ体重23キロ、平均よりやや小柄、身体の原子構造からして種族はオリジンってとこだろう。」
「うわぁ、オリジンも大概だけど、お前のその『能力』もある意味えげつねぇよ。見ただけで対象の身体的要素が原子レベルで丸わかりって個人情報もクソもねぇな。それにさ、それにさ!その気になりゃあ、対象の身体能力も大幅にアップできんだろ!?今度エルフ界のプランター殺しに行くときにさ、オレに『それ』やってくれよぉ!』
ガメラが駄々をこねる。俺はそれを半分無視して、
「俺はこっちで忙しいんだ。・・・また何かわかったら連絡する。急にすまなかった。それじゃあな。」
『報告』を終え通信を切ろうとした。
「ちょっと待ってくれ」
ガメラが急に真面目な声で制止した。
「今連絡が入った。アッシュアルドで動きがあったらしい。『狩り』だ・・・『あいつ』が殺された・・それに・・・『ゲート』が・・今お前達がヘン・クープと戦ってるオリジン界で・・」
突然通信が不安定になり、切れた。いや、外部から切られたのだ。
クロワルは風を感じてベランダの窓の方を振り返った。
いつの間にか窓は開いていてーーープランターが一匹ベランダの縁に止まって部屋を覗き込み、俺を凝視していた。
それだけじゃない。
窓に手をかけ、反対の手でステッキをくるくるとまわしながらこちらを見て笑っている男がいた。おそらくプランターに乗ってきたのだろう。
俺は自分が柄にもなく恐怖で体が動かないのを生で感じ取っていた。
「よぉ久しぶりだねぇ、『クロワル君』?
やぁっと一人の君に会えたのが嬉しいよ」
サーカスの調教師が被るような帽子をとって静かに挨拶をした。
かつてのクロワルの『飼い主』、〈ヘン・クープ〉オリジン界支部幹部ジャッキー・オルマンがそこにいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
おれはキョーカの部屋のドアの前に立っていた。
(時間かかりすぎた・・クロワルにサボったって怒られるかも・・・)
ちょこっとげんなりしながらドアを開ける。
しかし、部屋の光景を見ておれは目を疑った。
「・・・は?」
さっきまで、おれが顔を洗いにでていくまで綺麗に整頓されていた部屋が、めちゃくちゃに荒らされている。
キチンと積まれていた白い紙の山は崩されて床に散らばり、象のキャラクターを模した座布団は切り裂かれ中から綿がのぞいていた。
「何だよ・・?これ・・・っ!!」
おれは床に散らかっている物の中の黒い羽に気づいた。
1枚、2枚・・・よく見ると無数に落ちている。
最悪の想像が脳裏をかすめる。明らかにこの羽はクロワルの羽ではない。だってクロワルの羽はもっと小さいし、こんな刺々しい形をしていない。
生暖かい風が吹き抜けた。ベランダの窓が大きく開け放たれている。おれがこの部屋にいた時は閉まっていたはずだ。
そして。
「・・クロワル??」
沈黙。窓の外では心地のよい風の音と蝉の声が混じって場違いな安らぎのメロディを奏でている。
ークロワルはすでにこの部屋にいなかった。