三題噺~ 血晶ハルモニカ~
お題 血 知 ハルモニカ
水の音が聞こえる。風の音が聞こえる。
透きた空は限りなく透明で、空の蒼がどこまでも広がっていく。
それは地平線の彼方まで続いて、それに追いつこうと泉も果てなく続いていく。
視線を遮るものは何もなくて。あまりの美しさに心が震えた。
その美しい世界を少しでも長く心に留めておきたくてアンジュは、跪いて泉の水を掬い取る、けれど。 小さな小さな隙間から染み出していって、すぐに消えてなくなってしまう。
切なげに微笑むアンジュ。
アンジュはすっと立ち上がり、泉の底に沈む古都を眺めた。憂いと哀愁を称える古都、どんな思いで沈んで。どんな思いで長い時を佇んでいるのだろうか。
アンジュはここに来るといつもそう思う。そのたびに悲しくなる。
悲しくなりながらもアンジュは一歩踏み出した。その足はどこか迷うように泉の上をすべる。その足は沈むことなく波紋を作り。
アンジュへの拒絶感を残して静まっていく。
「私は、この水面に写ることすら許されないのか」
その時。アンジュは何かに気付き、ふと顔を上げた。
ここは泉の真ん中で町は遠い。それこそ目に写らないほどはるか遠く。
それは決して近くないはるか遠く。
だけどいつの間にか少女がいた。人が来れる場所でもないはずなのに。少女が水の上でくるくると踊っている。楽しそうにくるくると。
軽やかにステップを踏んで、輝く銀の髪をなびかせ、水しぶきを纏って、優しい顔で笑っていた。時々くすくすと声も聞える。
アンジュはそれを見てまたかと思った。
昨日も一昨日も気付いたらいて、気付いたらいないのだ。
時々悲しそうな顔をして水面に寝転んだかと思うと、今度は嬉しそうに、またくるくると踊りだしたりして。
そして踊りつかれた頃、笑って跪いて古都を眺める。綺麗な瞳を潤ませて。
アンジュは彼女の名前を知っていた。忘れることはないだろうその名前。
名をハルモニカ、彼女の名前はハルモニカだ。
「楽しそうだね、ハルモニカ」
アンジュは声をかけてみた。今まで一度もそうしなかったくせに今日はした。
見守ってることしかしなかったはずなのに。
「楽しくなんかないですよ、天使様」
「やっぱり、僕の名を覚えているんだね」
アンジュはそれを後悔した。
美しく可憐な少女、それが天使にとって幻影であることなどすでに知ってたはずなのに。知ってて引かれた線引きをこえた。
「覚えてる?」
そう、首をかしげた少女の瞳に光はなかった。乾いた瞳。乾いた表情。笑顔なんて微塵もない。
当たり前だ、笑みなど奪われた。それは誰でもないアンジュによって。
「ああ、そうだね。混乱するかもね。一応説明すると。君が僕を『知っている』なんてありえない、それは『覚えてる』ってことなんだ」
氷、そう表現するにふさわしい。それくらいに無表情、あの天真爛漫さはもう微塵もなかった。
それは始まった崩壊。
なにかがひび割れる音がした、氷細工より繊細な仕掛け。それをアンジュは自ら壊しにかかったのだ。
そして響くように聞こえてくる歌があった。わずかに水面が揺れるくらい大きな音量で。
崩れ落ちた物語。
それは残骸。
名も必要としない欠片。
終わってしまった後。
知らないことを知らないと。
その呪に触れた。
罪の清算。
それは慰めを破棄。するということ。
響き渡る歌が終わったときに、アンジュはゆっくり口を開いた。
「だから、君のことも覚えてる」
アンジュは微笑む、彼女に負けないように、微笑んで続ける。
罪人ハルモニカだ、と。そう続ける
「ずっと見てたよ。楽しそうなその姿を」
その時ハルモニカが笑った、自嘲気味に。それで水面を蹴り上げた、つまらなさそうに不安そうに。
そうして口を開く。
「楽しそう? それは間違えです、だって私に心はないのですから」
「あんなに楽しそうだったのに?」
ハルモニカはアンジュに背を向け語りだす。
「ねえ、天使様は知っていますか? 人形と死人の違い、朝と夜の違い。眠っているときと起きているときの違い」
少女は淡々と語る。透き通った空を見上げ。はるか向こう、見えないはずの遠い町をながめる。
「どれもこれも確かにそこにあったのに消え去って、今は何もない。この世界と。下の世界の関係性」
そういい切って、振り返り微笑む。
「なぞなぞです、分かりますか?」
「…………それは確かにそこにあるものと。必要とされたからあるものという違いかい?」
アンジュは即座に答えを導き出す。というより知っていた。
ハルモニカという罪人はそれを知ってるからここにいるはずだから。
「死人と朝、起きているときは。そこに確かにあるもの。誰かが望んだからあるのではない、誰もが要らないといっても消えないもの」
アンジュは一拍おく。ハルモニカの反応を見るために。目と目をじっと合わせて。
「人形、夜、眠るときは、必要だから作られた。だから必要ないとすれば消え去る」
アンジュがそういい終わるとハルモニカが頷き、次いで話し出す。
「そうよ。だから、天使様。
私は楽しいから笑うのではないのです。
悲しいから泣くのではないのです。
楽しそうに踊るから笑い。
悲しそうに眺めるから瞳に憂いを浮かべるのです。
心がないと言うのはそういうことです」
人形、必用とされたから作られたもの。その本質は手をかざせば消えるもの。
人形、必用とされるものだから。必用とされなければなにもできない。
笑わなければならないから笑うもの。
そう、少女は思っている。
「私は人形ですから」
「では、あの瞳も作り物かい? ハルモニカ」
その時、少女の目に動揺が走った。ビクン、と瞳が一瞬拡張され、また元に戻る。目から感情でなく意識までなくなってしまうのが見て取れた。
だからその隙にアンジュは少女の脇に降り立つ。すぐ近く。
「なあ、ハルモニカ。君が望むなら心を戻せるよ」
そう、ハルモニカの両ほほを柔らかく包み込み視線を無理やり合わせ、そして囁いた。
つめたい感触、柔らかい感触。
アンジュは頬包む手に力を込める、何か感じられないかと期待し引き寄せる目と目、頬と頬、唇と唇。
近づける。遠かったことを慰めるように。離れていた時の痛みをぬぐうように。だがその瞬間、バチッと鋭い音がしてアンジュの腕から血が伝い落ちる。
「っ…………」
「天使様……手を離していいですよ」
その血はゆっくりと落下し水の中へと落ちていく、水に溶けることなく丸く球体をかたどり。どこまでも沈んでいく。
「痛いでしょう?」
そう、か細く鳴いたハルモニカ。
「痛くはない、痛くはないんだ……」
腕がドクドクと脈打つ、熱く血管が裂けていく。比喩ではない。
実際に、体の内側から裂かれていく。
「けれど、君のほうが痛そうだ」
「痛そう? 私が?」
ハルモニカ、その身に罪を負ったもの。罪を負った自覚を奪われ、罪を知らずに生きるもの。この世界に降り立ち、古都に戻ることを禁ぜられた。
そのことに疑問を抱かないように感情を殺され、いつも痛みに震えることを余儀なくされたもの。
いつしかハルモニカはここを不自然だと思わなくなった、自分を人形と疑わなくなった。
人形とすれば痛まないから、あきらめられるから。
だが、それは鈍くなったというだけで、まだ痛むはずだ。疼くはずだ。
だからもう終わらせようとアンジュは決めた。呪いに触れること、慰めを破棄すること。
「君はまだ痛んでるはずだ。心が震えるはずだ。泣くのは悲しいからだし。笑うのは楽しいからだ」
「違う」
「人形と自分を否定するのは、そうであってほしいと思うから、痛くないと囁くのは触れて痛みが増すのが怖いから」
「ちがう」
少女の潤んだ瞳、血が流れ滴って。少女はその血を掬ってとった。空気に触れて冷めた液体、それをそっと握り。傷口に戻すように腕を掴む。
「君は忘れてしまった、その身に背負う罪を。何故負ったかを。背負う理由を」
そういってハルモニカの腕を払う。頬包む手を離して。
「ちがう……私は」
「終わらせようハルモニカ」
アンジュはハルモニカへ手を伸ばした、胸の上に手を置いて差し込む。ずぶりと沈んで、アンジュの手が見えなくなる。ハルモニカの手がアンジュのその行為をやめさせようと血にぬれた腕をまた掴む。
「やめて……」
「やめない、だって君の心、今震えただろ?」
ハルモニカは腕を締め上げるように力を込める。
「私に震える心なんかないわ!」
「あったんだ、そこに確かに。だから君の悲鳴が聞える。嘆きの音が」
「違う!」
「辛かったね、苦しかったね。だけどもういいよ」
「やめて」
そのときアンジュの手が引き抜かれた。
ハルモニカの中から抜き出されたのは赤い十字架。まるで赤い宝石から削りだされたかのように無骨な刺々しい十字架。
「ああっ!」
血が噴出した、アンジュの腕からではなくハルモニカの胸から、弧を描くように長く強く。それが泉に流れ泉に溶けて消えた。
ささやかに風が流れ、水面が揺れる。
雲が流れたことで時が流れたことがうかがい知れた。
いつまでこうしていたんだろう、ここでは時を感じられない。流れたことしか感じられない。
ハルモニカはずっと身を震わせているだけ、何も言わない。
だから、なおさら時が分からなくなる。
アンジュはふと腕に視線をずらす、血ならもう止まっていた。
「今、とっても楽です」
寝転んだ体制のままハルモニカはそう言った。
「今なら、泣ける。今なら笑える」
けれど、ハルモニカの表情は暗かった。
「けれど、一体それに何の意味があるんですか?」
「忘れたことを思い出して、手に入らない幸せのことを思い出して。苦しみを思い出して」
何の意味が……そう口にしてハルモニカは黙り込んだ。
「でも、もう終りなんですよね、天使様」
そうだ、罪は許された。だからここにはいられない。
「でも、だとしたら私は何のためにここにいたんでしょうか……」
そう、言ってハルモニカが立ち上がる、次の瞬間にはハルモニカの背丈が減っていた。いや正確には泉に沈み始めたのだ、静かにゆっくりと。
「たぶん、何も変わらないんです。必用とされる世界にもそこにある世界にも。痛みは存在するんです」
アンジュはそれを黙って見ている。
「でも、いくら忘れても。いくら心から笑えなくても。いくらあなたのことが分からなくても。あなたのいる世界にいたかった」
アンジュは黙ってそれを見ている。
「心を失って、あなたを失って、痛みを失った今の世界が…………。今まで私がいたこの世界のほうがどれだけ良いか、あなたの存在の片鱗すらない世界よりどれだけの価値があるか」
アンジュは、何も言わずそれを見ている。
涙を流し、ただ沈むハルモニカを。
「あなたを愛していました。アンジュ……」
水の音が聞こえる。風の音が聞こえる。
透きた空は限りなく透明で、蒼がどこまでも広がっていく。
それは地平線の彼方まで続いていて、それに追いつこうと泉も果てなく続いていく。視線を遮るものは何もなくて。あまりの美しさに心が震える。
その美しい世界を少しでも長く心に留めておきたくて天使は、跪いて泉の水を掬い取るけれど、小さな小さな隙間から染み出してすぐに消えてなくなってしまう。
切なげに微笑む天使は立ち上がり、泉の底に沈む古都を眺める。憂いと哀愁を称える古都、どんな思いで沈んで……どんな思いで一億年も佇んでいるのだろうか。
ささやかに風が流れ、水面が揺れる。
雲が流れたことで時が流れたことがうかがい知れた。
いつまでこうしていたんだろう、ここでは時を感じられない。流れたことしか感じられない。
悲しくなりながらもアンジュは一歩踏み出した。その足はどこか迷うように泉をすべる。その足は沈むことなく波紋を作り。
アンジュへの拒絶感を残して静まっていく。
アンジュはふと腕に視線をずらす、血ならもう止まっていた。
アンジュは意識を自分の胸に向ける、疼きならもう収まっていた。
アンジュはまた一歩、歩き出す。赤い十字架を捨て去り、遠くの町を目指して。
END