退職旅行の予定表には、妻と話す時間がなかった
退職旅行の予定表には、妻と話す時間がなかった
三浦隆一が退職旅行の予定表を作り始めたのは、最後の出勤日より三か月も前だった。市営バスの運行管理を三十五年務め、遅延が出れば代わりの車両や運転手を手配してきた。今回も七日分の電車とバスを調べ、見学先の休館日を確かめ、食事の店には予約を入れた。五枚になった予定表を食卓に並べると、妻の千枝を呼んだ。
「これなら無理なく回れる。海も見られるし、昔お前が行きたがっていた港町にも泊まるぞ」
「覚えていてくれたのね」
千枝は港町の名前に指を置いた。新婚のころ、二人で写真集を見ながら行きたいと話した町だ。隆一が誘ってくれたのが嬉しくて、旅行に合わせて薄い青の紐がついた靴を買った。予定表を最後まで読むと、一時間ごとに行き先が記され、昼食にも「四十分」とあった。
「港では、何を見ようかしら」
「古い灯台と資料館だな。あと岬へ行くバスが一日三本しかないから、昼を延ばさないようにしないと」
隆一は赤いペンで乗車時刻に丸をつけた。千枝は港を歩きながら気になる店に入ってみたいと思ったが、まずは初日の宿について聞いた。隆一はすぐに予約した部屋の写真を見せてくれた。千枝は写真を覗き込み、旅行用の鞄に新しい靴をしまった。
旅の一日目は、よく晴れた。隆一は乗り換えのたびに千枝の鞄を持ち、段差のあるホームでは先に降りて手を差し出した。予約した店の昼食もおいしかった。千枝は旅に出てよかったと思いながら、食後のお茶に口をつけた。
「この辺り、昔は路面電車が走っていたんですって。宿の人に聞いてみたいわ」
「それなら次の博物館に写真があるはずだ。そろそろ出よう」
隆一は会計を済ませ、改札までの道を確かめた。千枝はまだ熱いお茶を半分ほど残して席を立った。博物館には確かに路面電車の写真があった。千枝が展示ケースの前で駅員の制服の違いを話しかけたとき、隆一は閉館までに見る順番をパンフレットに書き込んでいた。
二日目の旅館では、夕食に川魚の塩焼きが出た。千枝は骨を外しながら、以前、娘と来た温泉で魚を丸ごと焦がしてしまった話をした。隆一は「うん」と答え、卓上の時刻表を裏返して翌朝の便を探した。千枝が笑いながら娘の名前を呼んでも、隆一は「聞いてるよ」と言ったきり顔を上げなかった。
三日目、二人は港町に着いた。旧灯台へ向かう途中、千枝は手作りの絵はがきを並べた小さな店を見つけた。店先には漁から戻る船や、坂道に建つ家の写真が飾られている。奥の机では、年配の女性が色鉛筆で港の風景を描いていた。
「ちょっと見てもいい?」
隆一は時計を見た。岬へ行くバスが来るまで、あと十二分だった。千枝を店に残し、自分は外で停留所までの道を確認した。五分ほどして「そろそろ行こう」と呼ぶと、千枝は絵はがきを一枚手にしたまま店の奥を見た。
「この絵を描いている方に、少し聞いてみたいことがあって」
「帰りに寄ればいい。今の便を逃すと夕日に間に合わない」
千枝は絵はがきを棚へ戻した。店の女性が「五時まで開けていますよ」と声をかける。隆一は「どうも」と答えたが、顔はバスが来る方角へ向いていた。千枝は女性に頭を下げ、隆一のあとを追った。
岬へ着くころ、千枝の新しい靴が踵に当たり始めた。朝から歩き通しで、バスを降りたあとも展望台まで坂が続く。道の脇には海を見渡せる茶屋があり、日よけの下で何人かが休んでいた。
「あそこで、少しお茶を飲まない?」
「展望台を見てからにしよう。先に上がれば夕日がきれいに見える」
千枝は「そうね」と答えた。右足を踏み出すたびに踵がこすれたが、隆一は少し先を歩き、夕日の沈む位置を案内板で確かめている。展望台へ着いたときには、靴下に小さな赤い染みがついていた。
「足、痛いのか」
「少しだけ」
「どうして早く言わなかった」
千枝は手すりに触れたまま、眼下の海を見た。隆一が指さした夕日は、船の向こうへゆっくり沈んでいく。千枝も見たかった景色だった。それでも、茶屋で休みたいと言った自分の声を、隆一が覚えているかどうか分からなかった。
展望台から下りるころには、茶屋の戸が閉まっていた。港へ戻るバスの窓から絵はがきの店が見えたが、こちらも店先の札が裏返されている。隆一は店の前を通るとき、「今日は間に合わなかったな」と言った。千枝は靴の踵を座席から浮かせたまま、「そうね」と答えた。
宿へ戻ると、千枝は靴下を洗い、窓際に干した。隆一は売店で絆創膏を買ってきて渡した。夕食まで時間があるので、明日の行程を確認しておきたかった。畳に地図を広げ、資料室へ向かう朝のバスに印をつけた。
「ねえ、隆一さん。港に漁船の灯りが見えるわ」
「うん、聞いてる。明日は八時に出れば資料室の開館に間に合う」
「昼間のお店に、その船の絵があったの。描いていた方がね――」
「五時までだったな。資料室から戻って寄れるか、調べてみるよ」
隆一はスマートフォンで時刻表を開いた。千枝が「そう」と答えたあと、部屋には紙をめくる音が続いた。窓の外では船の灯りが一つずつ港を離れていく。千枝は椅子に座り、漁船が防波堤の向こうへ消えるまで眺めていた。
隆一が顔を上げたのは、明日の便を決めてからだった。千枝はまだ窓際にいる。絆創膏は机の上に置かれたままだった。
「貼らないのか。明日も歩くぞ」
「明日は、一人であのお店に行ってもいい?」
「資料室はどうする。あそこの展示、お前も見たいと思って入れたんだが」
「あなたは見てきて。私は店で絵を見て、疲れたらここへ戻るわ」
隆一は地図を畳もうとして、手を止めた。二人の旅行なのに別々に過ごすつもりなのか、と聞きかける。千枝は新しい靴を壁際に揃えていた。踵の内側に、血の乾いた小さな跡がある。
「俺と歩くのが、嫌になったか」
「一緒に旅ができるのは嬉しいよ。だから、店でも岬へ行く途中でも、話しかけたの」
千枝は机の絆創膏を一枚取った。端を剥がしながら、昼に買えなかった絵はがきのこと、茶屋で少し座りたかったことを話した。隆一はどちらも覚えていた。店には帰りに寄れると答え、茶屋にはあとで入ろうと言った。だが帰りに店は閉まっており、茶屋へ下りるころにはバスの時刻が迫っていた。
「言ってくれれば、予定を変えたのに」
「言ったのよ」
千枝は踵に絆創膏を貼った。端がうまくつかず、二度ほど押さえ直した。隆一は予定表を見た。妻が行きたがっていた港町まで来て、妻が何を見たいのか、一度も座って聞いていなかった。
「旅館でも、お前は何度も話しかけてくれたな」
「返事はしてくれたよ」
「顔を見ていなかった」
隆一は地図を閉じた。千枝が窓を指さしたときにも、あの船を見なかった。仕事では時刻を守れば乗客を目的地へ届けられた。けれど千枝は、目的地へ着くまでのあいだも、彼と一緒に過ごしに来ていた。
「今日、足が痛いと言われたときも、先に『どうして言わなかった』って聞いた。休みたいと言ってくれたのに、俺があとに回したんだな。悪かった」
千枝は絆創膏の端を押さえていた指を止めた。隆一は予定表を重ね、地図と一緒に鞄へしまった。明日の資料室へ行くなら何時に出るべきか、もう頭には入っている。だが千枝の足で歩けるかどうかは、予定表からは分からなかった。
「明日の朝、まず靴を探そう。それから、お前の行きたい店へ行きたい」
「資料室は?」
「俺が行きたくて入れた場所だ。お前の足が落ち着いて、まだ行けそうだったら相談しよう」
千枝はすぐには答えなかった。窓の外を見て、最後の船の灯りが小さくなるのを待った。隆一も隣の椅子に座った。何の船なのか尋ねると、千枝は昼間、絵はがきの店で見せてもらった写真の話をした。古い写真には、今はない魚市場まで写っていたという。
翌朝、二人は宿の近くの靴店へ行った。千枝は踵に当たらず、底が滑りにくいサンダルを何足か試した。白と黒のものが残り、隆一は黒のほうが汚れにくいと思ったが、口には出さなかった。千枝は白をもう一度履き、店内を往復した。
「こっちがいい。港で履きたいの」
「歩いた感じはどうだ?」
「踵は平気。でも、このベルトが少し当たる」
店の人がベルトを調整し、肌に触れる内側へ固形石鹸をほんの少し塗ってくれた。千枝はもう一度歩き、椅子に座ってから立ち上がる動きも確かめた。それから「これにします」と答えた。隆一は古い靴を箱に入れて持ち、店を出たところで歩きやすさを尋ねた。
絵はがきの店は、昨日と同じ場所に開いていた。千枝が選んだのは、漁から戻る船を描いた一枚だった。奥にいた女性に絵の場所を尋ねると、坂の上から朝の港を見下ろして描いたのだという。女性は色鉛筆のついた指で絵の船を示し、それぞれが何を獲るのかも教えてくれた。
隆一は椅子を勧められ、千枝の隣に座った。話を聞いているうちに、資料室へ向かう予定だったバスが窓の外を通り過ぎた。千枝がちらりと隆一を見る。隆一は通り過ぎる車体を目で追ったあと、絵の中の船について女性に質問した。
店を出たころには昼になっていた。港の食堂から魚を焼く匂いが流れてくる。千枝はその前で立ち止まり、店先に並ぶ料理の写真を見た。
「ここで食べてみない?」
「うん。あの席なら港も見える」
二人は窓際に座り、絵はがきの宛先を相談した。一枚は娘へ送ることになったが、千枝はもう一枚、同じ絵を買っていた。自分たちの家へ送るのだという。隆一が理由を聞くと、千枝は封筒の上でペンを止め、向かいの席を見た。
「帰ってから、これを見ながら話せるでしょう。今日、あの方から聞いたことを」
隆一は頷いた。焼き魚が運ばれ、千枝は箸を取りながら窓の外の船を指さした。隆一は船のほうを向き、千枝が話し始めるのを待った。魚の名前を聞いたあと、娘へ送る絵はがきにも書こうかと尋ねる。千枝は「それがいいわね」と答え、皿の魚を一口食べてから、さっき聞いたばかりの港の話を続けた。
時刻表畳みしままの食卓に 冷めゆく茶へと伸ばす千枝の手
バスを見送る影ふたつ並び立ち 買わずに過ぎた絵葉書の青
「言ったのよ」小さき声の落とし穴 踵の傷に貼る白い布




