超知能熊
かつてOSO18と呼ばれた熊がいた。
農作物や家畜を豪快に荒らす大胆さにもかかわらず、監視や追跡から逃れ続け、その知能の高さと発見の難しさから、OSO18は「ニンジャクマ」の異名を得るほどだった。
そしてまた、OSO18をはるかに上回る知能を持つ熊が現れた。
ダヴィンチ。
のちにそう呼ばれたこの熊は、人間でいうIQ300を凌駕する圧倒的知性を持っていた。
はじめのうちは遠くから人間を眺めていた。
複数の人間がいると、何やら音を出して意思疎通を図ってる。
あれがあの生き物の言語か、もっと近くで聞こう。
そうしているうちに次第に言葉を理解するようになった。
あの生物は思ったほど野蛮ではなく、なんとかコミュニケーションを
取ってみたい。
興味を持ったダヴィンチは勇気を出して人前に出ることにした。
最初に人間と接触したとき、ダヴィンチは両前脚をゆっくり上げた。
「驚かせてごめんなさい。危害を加えるつもりはありませんので、どうかご安心ください」
熊が人間の言葉を話した。
それだけでも信じがたい出来事だったが、さらに人々を戸惑わせたのは、その表情だった。
熊の笑顔などというものを見た人間はほとんどいない。
それでも、ひと目見れば分かった。
ダヴィンチは、優しく笑っていた。
すぐにダヴィンチのことは話題になりほぼ全国民に知れ渡った。
時にはインフルエンサーの呼びかけでSNS動画にも出演した。
再生回数は信じられないほどのうなぎのぼりとなり、ダヴィンチは「億りびと生産機」などと呼ばれた。
動画は海外にも拡散した。
「AI作成の動画だろ」
「いや、普通にテレビでもニュースになってる。事実らしいぞ」
驚嘆の連鎖は世界中へ広がった。
その後、ダヴィンチは試験的に大学入試共通テストを受験した。
鉛筆を握ることはできないため、大型タブレットを用いた特別受験である。
結果は全科目満点。
しかも通常設定されている回答時間の半分も使わなかった。
「原則として大学受験の問題には正解があります。どの専門家が見ても必ず同じ答えになるレベルのものですから、まず問題の作為と基本的な流れを把握します。そのうえで正解に至る際に仕掛けられている罠を回避し、計算も正確に行います」
教員や予備校講師が使う、ありふれた説明だった。
それを熊がしている。
それだけで十分すぎるほどの衝撃だった。
「ぼくは熊ですから、ご想像通り鮭が大好きです。石狩鍋という食べ物があると聞いたことがありますので、一度食べてみたいと思っています」
茶目っ気交じりに言った翌日、ダヴィンチのもとには大量の石狩鍋が届けられた。
「うまい。こんな料理は野生生活では絶対に口にできない」
感動して食べながらも、ダヴィンチは鍋の成分を分析していた。
「……塩分が高いな。他に野菜などカリウムを多く含む食品も取っておいたほうがいい。図に乗って大量に食べれば、体には必ず反動が来ます。筋力維持の運動も欠かさないほうがいいでしょう」
熊が健康管理について語るたび、人間たちは笑った。
だが、ダヴィンチはいつも本気だった。
そしてある日、彼は人間社会に一つのお願いをした。
「大変厚かましいお願いで恐縮ですが、もしよかったら衣食住とネット環境、そして図書館利用や大学の授業、学会への参加の許可をいただけないでしょうか」
一度言葉を切る。
「今すぐは無理ですが、将来的には必ず日本に有益な仕事をして、皆さんにお返ししますので」
反対の声は、ほとんど上がらなかった。
ダヴィンチはどんどん社会に溶け込んでいった。
そして、その知性もまた一気に認知されていった。
政治討論番組に呼ばれたときのことだった。
「さきほど桐岡先生が言われたことは非常に有益で、加えて補足しますと、ベーシックインカム制度を試験的に実施した実例に着目する必要があります。フィンランドやドイツでは国民生産性を落とすことなく成功例が見て取れますが、一方でイランなどではインフレが進行して失敗に終わったケースもあります。実施するにしても、経済状況や財源について慎重な見極めが必要だと思います」
ダヴィンチは身振り手振りを交え、雄弁に語った。
褒められた人間は、知的生命体から賞賛されたことに強烈な幸福感を覚えた。
ダヴィンチは自身の意見を明確に述べながらも、決して他人を批判しなかった。
目立つことは避けられない。
だからこそ炎上したり、政敵を作ったりすることだけはしない。
それは彼なりの、人間社会で生きていくための知恵だった。
ただし、熊としての警戒心まで失ったわけではない。
イベント会場に招待されたある日、ダヴィンチはごくわずかな火薬の臭いを感じ取った。
「あちらの男性を見ていただきたいのですが」
警備員に小声で伝える。
「火薬の臭いがします。危険物を所持していないか、手荷物を調べていただけないでしょうか」
男の荷物から銃が見つかった。
ダヴィンチを殺害する目的だったことが、のちの調べで判明した。
それ以降、ダヴィンチは可能な限り風下に立つようになった。
人間は、彼を愛した。
同時に、人間の中には彼を憎む者もいた。
そのことをダヴィンチは理解していた。
理解していたからこそ、憎しみを返さなかった。
やがてダヴィンチは、環境問題についても発言するようになった。
「森林を失えば、熊だけでなく人間も困りますが、なぜ森林を伐採するのですか?」
記者が答える。
「生活のためです」
「では、なぜ植林をしないのですか?」
「費用がかかります」
「なぜ費用をかけないのですか?」
「今すぐ利益にならないからです」
「なるほど」
ダヴィンチは頷いた。
「人間は非常に面白いですね」
その言葉に悪意はなかった。
しかし、人間について学べば学ぶほど、ダヴィンチには理解できないことが増えていった。
戦争。
差別。
環境破壊。
貧困。
自分たちが地球を壊していると知りながら、目先の利益を優先する。
争いを嫌いながら、争うための武器を作る。
平等を唱えながら、自分たちと違う者を排除する。
ダヴィンチは人間の知性を疑わなかった。
疑ったのは、人間が知性を持っていることではなく、知性を持ちながらそれを使い切れないことだった。
ある日、研究者が尋ねた。
「君は人間が嫌いか?」
ダヴィンチはしばらく考えた。
「いいえ」
「本当に?」
「はい。人間は好きですよ」
「なら、なぜそんな顔をする?」
ダヴィンチは自分の顔を前脚で触った。
「どんな顔ですか?」
「悲しそうな顔だよ」
少し考えてから、ダヴィンチは答えた。
「では、私は人間を好きになりすぎたのかもしれません」
その意味を、研究者は理解できなかった。
それからしばらくして、ダヴィンチは人間社会から姿を消した。
大学にも来ない。
テレビにも出ない。
SNSにも登場しない。
研究者たちは必死に捜した。
そして数週間後、北海道の山中でダヴィンチを発見した。
「ダヴィンチ!」
呼びかけると、熊は振り返った。
あの優しい笑顔だった。
「戻ってきてくれたのか?」
「いいえ」
「じゃあ、なぜここに?」
「ここが私の家だからです」
研究者は言葉に詰まった。
「人間社会は嫌になったのか?」
「いいえ。今でも好きですよ」
「だったら……」
「だからです」
ダヴィンチは山を見た。
「人間は熊を好きでいてくれました」
「……ああ」
「私が鮭を食べれば喜び、大学に行けば喜び、テレビに出れば喜び、私の意見を聞いてくれた」
「でも、少し違うのです」
ダヴィンチは振り返った。
「皆さんが好きだったのは、私だったのでしょうか」
研究者は答えられなかった。
「それとも、人間より賢い熊だったのでしょうか」
風が吹いた。
木々が揺れ、葉の擦れる音が山に広がった。
「私は人間になりたいわけではありません」
ダヴィンチは言った。
「私は熊です」
研究者は黙って聞いていた。
「人間が私を大切にしてくれたことには感謝しています。
私も人間を大切に思っています」
そこでダヴィンチは、少しだけ笑った。
「だからこそ、これ以上、人間の都合のいい熊になりたくないのです」
ダヴィンチは山の奥へ歩き始めた。
「これから何をするつもりなんだ?」
研究者が言うとダヴィンチは立ち止まって振り返る。
「何もしません」
「環境問題は? 人間社会は? 君なら変えられるだろう」
ダヴィンチは少し考えた。
「人間を変えることはできると思います」
「でも、それでは人間と熊の共存ではありません」
「……」
「熊が人間の望むように変わるのと同じように、人間も熊の望むように変えられるなら、それは共存ではなく支配です」
研究者は何も言えなかった。
「私は人間より賢いかもしれません」
ダヴィンチは静かに続けた。
「でも、だからといって人間の上に立ちたいとは思いません」
そして山へ向き直る。
「人間が人間として生きるように、熊は熊として生きます」
その日を境に、ダヴィンチは人間の前から消えた。
そして数年後。
北海道では熊による人身被害が激減した。
農作物の被害も減った。
人間の生活圏に熊が現れること自体が、以前とは比べものにならないほど少なくなった。
その一方で、山中に設置されたカメラには、奇妙な映像が残るようになった。
熊たちが人間の居住地域を避けている。
道路を渡る時間を変え、ゴミの捨て場を避け、危険な場所には近づかない。
まるで、熊たち全体が人間を避ける方法を学習しているようだった。
専門家たちは首を傾げた。
誰も、それがダヴィンチの影響だとは証明できなかった。
ただ一人、かつてダヴィンチと親しくしていた研究者だけは、山中で撮影された一枚の写真を見て、微笑んだ。
木々の間に、こちらを見ている一頭の大きな熊が写っていた。
そして、人間なら誰でも一目で分かるほど優しい笑顔を浮かべていた。




