第1話 無音の目覚め
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
まだ暗い。
カーテンの隙間から、わずかに光が滲んでいる。
時間を見る。5時12分。
あと少し寝られるはずなのに、もう眠れない。
天井を見つめる。
白いはずのそれが、少し灰色に見えた。
昨日も、同じことを思った気がする。
(行きたくないな)
声には出さない。
出したら、本当になってしまう気がした。
隣では、子どもが静かに寝息を立てている。
小さな体が、布団の中でわずかに動いた。
その向こうで、妻が背を向けて眠っている。
この時間だけは、世界が静かだった。
(このまま動かんかったら、どうなるんやろ)
一瞬だけ考える。
会社に行かない。
電話も出ない。
そうしたら——
そこから先は、考えなかった。
「……行くか」
小さく呟く。
それだけで、逃げ道がひとつ消える。
現場に着く頃には、もう頭が重かった。
やることは分かっている。
でも、考える力がついてこない。
「しょうへい!」
声が飛んできた。
まさあきだ。
「昨日の件、どうなっとる!」
「……今まとめてます」
本当は、手をつけられていない。
でも、それ以外の答えが浮かばない。
「遅いんじゃ!何回言わせるんや!」
言葉が刺さる。
痛みというより、削られる感じ。
少しずつ、内側を削られていく。
横から、たろうが口を挟む。
「それ、確認取ってる?」
「……まだです」
「いやいや、それ先やろ。順番おかしいで」
さらに、きへいが笑う。
「まぁ、しょうへいやしな。段取り苦手なんやろ」
何か言い返せばいい。
分かっている。
でも、言葉が出てこない。
(どれが正解なんや)
考えようとすると、思考が鈍る。
全部やらなあかん気がして、何もできなくなる。
気づけば、手が止まっていた。
「おい、聞いとるんか」
まさあきの声が、少し遠くなる。
(あかん……)
視界の端が、少し揺れた。
音が遠のく。
体はそこにあるのに、感覚だけが薄くなる。
そのまま、昼までほとんど動けなかった。
休憩時間。
コンビニの前で立ち止まる。
弁当を選ぶ気力がない。
何を食べたいのかも分からない。
スマホを開く。
指が勝手に動く。
「仕事 しんどい 動けない」
検索結果が並ぶ。
いくつかの記事の中で、一つの言葉に目が止まった。
—— うつ病
「……ちゃうやろ」
思わず口に出る。
画面を閉じる。
でも、数秒後にまた開く。
説明文を読む。
当てはまる気がした。
でも、認めたくはなかった。
(こんなん、誰でもあるやろ)
そう思って、考えるのをやめる。
スマホをポケットにしまう。
代わりに、何もない時間だけが残る。
夜。
家に帰っても、何をしたかよく覚えていない。
食事をして、風呂に入って、気づけば机の前に座っていた。
ノートを開く。
昨日、少しだけ書いたページ。
そこには、別の誰かがいた。
「優先順位を決めろ。全部やるな。壊れるぞ」
自分で書いたはずの言葉なのに、少しだけ引っかかる。
(誰に言うてんねやろな)
ペンを持つ。
しばらく考えて、一行だけ書き足す。
「それでも、朝は来る」
書いたあと、その意味を考える。
でも、よく分からない。
ただ——
(明日も来るんやろな)
そう思った。
電気を消す。
暗闇の中で、目を閉じる。
眠れるかどうかは、分からない。
それでも。
朝は来る。




