糖尿病
ある日、アイツは学校に――保健室に来なかった。
そりゃあうつだから、体調が悪くて来ない日もあるだろうと腑に落ちていた。
しかし、アイツは月火水木金、一日とて来なかった。
さすがに俺といえど心配の念が込み上げてくる。
授業の後に先生に聞いてみた。
「お家の事情があって、しばらく休むそうだ。本人の病気や怪我でないから、心配いらない」
それ以上は教えてくれなかった。
『本人の――ではない』というのが引っかかる。家族に問題が起こったのか。アイツは兄弟はいないらしいし、父親は出ていったから、母親だけ。母親に何かあったと考えるが正。
アイツはまた家族でつらい思いをしているのか。
俺は父親も母親もいる――うつの息子をどう扱えばいいか分からないで距離を取っている――俺はそんな親に期待していない――から、アイツの気持ちを本当に理解してやることはできない。
一人だけの肉親に何かあったら、俺はどう思うか。
次にアイツに会った時、何て声をかければいいか。
そもそも戻ってくるのか。
どうする。
……やめだ。
考えるのをやめる。そりゃそうだ。俺は何をここまで気にかけてやってるのか。バカらしい。元々保健室は俺だけの空間だったんだ。
アイツがいなくなってせいせいした。保健室は静かになる。俺だけの楽園が戻ってきた。集中して読書ができる。うつバトルも不戦勝。最高だ。
そのはずだ。
俺はベッドに胡座をかいて、本のページをめくる。やけに目が滑って、内容を理解するのに同じ文を何度も読み返す。
こめかみを押さえ、唸った。
コイツは突然戻ってきた。休んでから土日を挟んで二週間弱。相変わらず鼻につく笑顔を浮かべる。
「やぁやぁ、久しぶり。ウチがおらんくて寂しくなかった?」
「そんな訳あるか。全く」
「ちょ〜っとめんどいことあってね。忙しくておれんかったんよ」
「そうか」
それ以上聞かない。聞けない。よその家庭事情に首を突っ込むべきではないと分かっていたから。
それからというもの、コイツはやはり適当に授業を受け、俺とうつバトルする。
ただ、俺は気づいた。日を重ねるごとに、コイツの活力らしきものがすり減へっている。
目の隈が濃くなり、欠伸が頻発する。意気揚々と将来の夢や薬の話をしている途中、プツッと言葉が止まり、目を伏せることも。
俺は悩んだ。声をかけてやるべきか。しかし深入りするのもよろしくない。弱っていくコイツに気を遣いながら応答を続ける。
「……でね、そういうわけでね……はぁ……」
ため息まで増えてきたから、とうとうしびれを切らして問いかける。『最近どうした?』と。
コイツは床と俺の顔を交互に見やりながら、目を丸くする。『アンタが心配してくれんの?』とでも言わんばかりに。
「心配してない。気になっただけだ。嫌なら言わなくていい」
俺の頬がほんのり熱くなるのには気づかなかった。
コイツは力無く笑う。
「ありがとう。最近ね、ホンットに大変やったから。自慢するわけやないけど、人生一番大変かも」
コイツは言葉を切って唇を舐めてから、続ける。
「お母さんがね、糖尿病になったん。Ⅱ型? らしいよ。それで入院してた」
糖尿病――聞いたことはある。確か腎臓の機能が低下して、血糖値を調節するインスリンって成分を作れなくなる。それで頭がボ~ッとして、喉がいつまでも渇いたりして、気を失う。
まともなものが食べられなくなるらしい。血糖値が上がりやすい炭水化物はNG。米パン麺餅……俺が大好きなラーメンなんてご法度。二度と口にできない。
完治することもない。一生薬でインスリンを手動補充するしかない、不治の病。
同じだ、俺たちと――うつと。
「Ⅱ型はストレスが原因なんやって。遺伝じゃないっぽいから、お母さんからウチに伝染るんはなさそう。よかった〜」
よくない。全然良くない。
コイツのやけに口角を上げる笑顔は虚勢に見える。
「……お母さんはどうしたんだ。お前はなんで先週ずっと休んでた?」
「あんね、お母さん、入院、したんよ。お仕事中にバッタリ倒れたんやって。職場の人が救急車呼んで、向こうの病院に連れて行かれたって」
「そんなんウチは知らんからさ。家で夜まで待ってたけど、お母さんなんも帰ってこんし。もう寝ようかなって思ってたら、ウチの携帯に電話かかってきて、『お母さん倒れたよ』ってゆわれた」
「驚いたか?」
「うん。『え!? じゃあ晩ご飯に冷凍チャーハン二個食べたん、怒られんで済むやん!』って思った」
「お前……さぁ」
「まぁそんなんで、次の日の朝、ウチがお母さんの服とかカバンに詰めたら、職場の人が病院まで送ってくれたん。四人おる部屋の端っこに、お母さんおったよ。一日しか会っとらんのに、なんか瘦せとった。ウチが声かけても、目もどこ見とるんか分からん感じやった」
無理もない。いきなり人生を大きく制限された、闘病生活の始まりなのだ。暮らし方も働き方も変わってしまう。ショックは大きいはず。
「入院したんやったらお菓子とか差し入れしたいけど、糖尿病やったら無理やんね。食事制限されとるから、水しか飲めんし。代わりにコンビニなんかで売っとる雑誌でかいと買っていったちゃ。暇やろうから、潰しになればいいやんって思って」
「いいじゃん」
「……でもお母さん、何枚かパラパラめくって、それきり見んようになった。ずっと寝てばっか。ウチも暇になったから、服置いて帰ったんね。職場の人に帰らしてもらって、家に着いたら――」
「……誰もおらんね。ウチ一人になっとった。当たり前なんやけどさ、お母さんは仕事で遅くまで帰ってこんから、学校から帰ってもウチだけ。食事も洗濯も掃除も、だいたいウチが一人でやる。で、お母さんが帰ってきたころに寝る。いっつもそうなんやけど……なんでかね、その時はね、こう、頭の中がサーッとして、消えていく感じがしたんよね。うまく言えんけど――何も考えられんくなった。それで――動けんくなった。自分の部屋で、ベッドの上で丸まるのが一番気持ち良かった。ていうか、それ以外できんくなった。おかしいやん。最近はそんなんなることなかったんに、急に、ね」
もう分かった。
コイツは母親が糖尿病になったショックで、うつがドォッと呼び起こされた。
父親もいないし、今度こそ独りぼっちになるんじゃないかって不安が波のように押し寄せ、溺れた。しばらく這い出ることができなかった。
実際、俺も両親がいなくなったとしたら――生きていける自信がない。
「何べんか先生が電話くれて、『落ち着いたら学校来ればいい』っていうから――まぁズル休みしたよね。嬉しかったぁ。お母さんもおらんし、やりたい放題。スーパーで肉ばっか買ってきて一人で焼肉したり、お菓子でかいと買ってきて、一日中ボリボリ食べたり、丸々二日お風呂入らんだり、服とか洗濯せんとその辺に脱ぎ散らかしたり、ボケーっとその辺を一日中散歩したり……自由やったぁ。色々考える時間もできたんよ」
コイツは口だけで笑う。目に光が無い。
俺は他に切り出す話題も見つからず、押し黙って耳を傾けるだけ。
「それで、ねぇ……学校行こっかなって。暇やし。一人でおるの飽きたし。お母さん退院して帰ってくるの来週やし。いい加減ちゃんとやらんなんって気になったんよ。というわけで、ウチは今日から復帰したのでした~。めでたしめでたし~」
「……なんにせよ、戻って来られてよかったな」
「お? 何、ウチのこと心配してくれとったん? そっちこそ一人で保健室おる間、『あいつ大丈夫かな?』『もう会えんくなったらどうしよ?』な~んてばっか考えとったんけ? うわ~、キショい~。ウチのこと好きなんけ?」
「んなわけあるかぁ!」
俺はそばにあった本を投げつけた。コイツはおどけたふりをして本を拾って返してくる。
「うつバトルもまだまだやんね。ウチの方がつらいって教えてあげっちゃ」
「負けるか。俺だってつらいんだ。お前がいない間に学校でこんなことがあってな……」
ようやく俺のターンが回ってくる。コイツが知り得なかった学校のことを話してやる。俺の舌は滑らかに、途切れることなく語ってやった。
その間、コイツは首をぐらぐら回し、時々口に手をやって何かを拭うふりをしながら、半目で微笑んでくれた。




