第39話:宿屋の看板娘
第39話:宿屋の看板娘
「……Now Loading…」
視界が、不自然なノイズと共に切り替わる。
礼拝堂の扉を潜り抜けた瞬間、背後でデリーターたちの「……異常……検知……」という無機質な声が遠ざかっていった。
たどり着いた場所は、大聖堂の地下とは思えないほど、埃っぽくて生活感に満ちた場所だった。
崩れかけた石壁、積み上げられた壊れた椅子、そして——部屋の中央で、赤々と燃える小さな焚き火。
そこで大きな鉄鍋の蓋を抱えて震えている少女を、僕はぼんやりと見つめた。
「……助かった、のか?」
アルベールを床に下ろし、僕は折れそうな膝を叱咤して立ち尽くす。
エレナは、まだ恐怖の名残で青ざめた顔をしていたが、目の前の少女を見て、小さく息を呑んだ。
「あ、あの……大丈夫、ですか? 怪我、されてるみたいですけど……」
少女——マリーは、僕たちを警戒するように鍋の蓋を盾にして縮こまっていた。
泥だらけの頬。使い古されたエプロン。
この「聖域」という高負荷なエリアに、これほど「一般的」なNPCが存在していること自体、本来ならあり得ない。
「……君は、誰だ? ここは立ち入り禁止の……いや、それ以前に、どうしてこんな場所にいる」
僕が問いかけると、彼女は戸惑ったように視線を泳がせた。
「私は、マリー。……その、自分でもよくわからないんです。気がついたら、ここでパンを焼いていて。……昨日も、その前も。ずっと前から、ここで誰かを待っていたような気がして」
彼女の指差す先には、焚き火の熱で少し焦げたパンが並んでいた。
その香りは、システムの作り出した「満足度数値」ではなく、もっと、鼻の奥がツンとするような、泥臭い現実の匂いがした。
「……パン、ですか? こんな、世界の終わりのような場所で?」
エレナが困惑したように呟く。
無理もない。外ではデリーターが世界のデータを消去し、空にはヒビが入っているのだ。
「だって、お腹が空いたら、戦えないでしょう? ……私、なんだか急に怖くなって。空の色が変だし、みんなの顔が急に『同じ』に見えて……。逃げなきゃって思って、ここに来たら、この地下道を見つけたんです」
僕は彼女の言葉を、静かに反芻した。
昨日も、その前も。
彼女は「リセット」の波に呑まれながらも、その深層意識——キャッシュの中に、生活の断片を留めていたのだ。
僕は壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。
ステータスウィンドウを開く。
KAI : Lv. 9
HP: 12/450
MP: 1/820
【 状態 】: 存在定義の剥離(進行中)
ひどい有り様だ。
[距離計算]も、[座標定義]も、さっきの無理な奥義の代償でロックされている。
今の僕は、測量杭を持っただけの、ただのレベル9の男だ。
「……カイ様、手が……」
エレナが僕の手に触れようとして、指を止めた。
僕の指先が、時折デジタルなノイズのように、透けて消えかかっている。
デリーターに削られたのは、レベルだけじゃない。僕という存在そのものだ。
「……大丈夫だ、エレナ。ただのバグだよ。……すぐに治るさ」
そんな気の利かない嘘をついて、僕はマリーを見た。
彼女は、おずおずと焦げたパンの一つを僕に差し出してきた。
「あの……よかったら。これ、食べると少しだけ、気持ちが落ち着くんです」
「……ありがとう。……いただきます」
受け取ったパンは、驚くほど硬く、そして温かかった。
一口噛みしめると、口の中に苦味と、素朴な小麦の味が広がる。
ふと、アルベールが意識を取り戻したように呻き声を上げた。
「……ここは……。カイ、無事か?」
「ああ。マリーさんに、命を拾われたところだ」
アルベールは、マリーの姿を見ると、騎士としての本能か、痛みを堪えて居住まいを正した。
「……感謝いたします、乙女よ。私は聖騎士アルベール。貴殿の勇気ある行動に、心からの敬意を」
「え、あ、はい……そんな、大げさな……」
マリーは顔を赤くして、また鍋の蓋の裏に隠れた。
その光景は、あまりにも「普通」で、僕は自分が今、世界を消し去ろうとしている神の掌の上にいることを忘れそうになった。
「……マリーさん。さっき、ここで『誰か』を待っていたと言ったね」
僕の問いに、彼女は少しだけ真剣な表情になって頷いた。
「はい。……具体的に誰、というのは思い出せないんですけど。でも、すごく大きな剣を持った、いつもお腹を空かせているような……太陽みたいに笑う人が、ここに来るような気がして」
その言葉に、僕の心臓が不自然な鼓動を刻んだ。
大きな剣。太陽のような笑顔。
この物語の「正解」であるはずの、彼。
「……レオン、か」
名前を口にした瞬間、礼拝堂の奥へと続く暗い通路から、微かに、だが確かな響きが聞こえてきた。
——カツン。
——カツン。
重い鉄のブーツが、石畳を踏みしめる音。
それはデリーターの浮遊音でも、モンスターの足音でもない。
物語が用意した「勇者」の行進曲ではなく、ただ一人の友を探して、迷いながら、走り続けてきた者の足音。
「……先に向かったのか、バカ正直な勇者様が」
僕はパンの最後の一片を飲み込み、無理やり口角を上げた。
彼は今頃、別のエリアで「役割」を全うしているはずだった。
でも、この世界には、測量杭では測れないものが、まだ残っているらしい。
暗闇の向こう側に、一筋の光が差し込む。
その光の中に、見覚えのある大きな影が浮かび上がった。
「……よし。……ここからが本番だ」
僕は、震える手で、まだ「ログ」が残っている測量杭を強く握りしめた。
「……Now Saving…」




