第25話:勇者の凱旋
第25話:勇者の凱旋
「……Now Loading…」
暗黒のキャッシュ領域が、パチパチと音を立てて崩壊していく。
空を覆っていた幾何学的な模様は剥がれ落ち、そこには偽物ではない、透き通るような紺碧の夜空が広がっていた。
「……Now Saving…」
視界の端で小さく明滅していたシステムメッセージが消える。
カイは、泥と血に汚れた手を膝につき、震える呼吸を整えた。地面に突き刺さったままの「黒剣の破片と銀矢を括り付けた測量杭」が、月光を反射して鈍く光っている。
「帰ろう、みんな。……僕たちの町に」
カイの言葉に、レオンが力強く頷いた。
勇者の剣は、幾度もの再演を経てボロボロに欠けていたが、その瞳にはこれまでにない確かな光が宿っていた。
商業都市ログスの城門が見えたのは、昼過ぎのことだった。
城門は熱狂によって塗りつぶされていた。
「戻ったぞ! 勇者様だ! 魔王を倒して戻られたぞ!」
門番の叫び声が合図となり、街中の窓に明かりが灯る。
一歩、街に踏み入れるごとに、拍手と歓声の波が押し寄せてきた。
「レオン様! エレナ様!」
「アルベール様! ギルドの誇りだ!」
人々が家から飛び出し、一行を取り囲む。
カイは、その熱狂の渦から一歩引いた場所で、人々の顔を観察していた。
(……ズレがない。みんな、ちゃんと僕たちを見ている)
以前の「初期化されたような挨拶」ではない。
涙を流して喜ぶ老人、興奮して飛び跳ねる子供、祈りを捧げる女性。
そのすべてが、バラバラで、不規則で、そして――温かかった。
「カイ! 何してるんだ、お前もこっちへ来いよ!」
レオンが、群衆に揉まれながらカイの肩を抱き寄せた。
「勇者様、こちらの測量士の方は……?」
街の住人が不思議そうに尋ねる。レオンは、これまでで一番大きな声で笑って答えた。
「こいつか? こいつがいなきゃ、俺たちは今頃、暗闇の中で迷子になってた。この世界で一番、地面を……真実をしっかり踏みしめてる男さ!」
レオンの言葉に、周囲からどよめきと、それから惜しみない称賛の拍手がカイに贈られた。
「どうせ僕なんて」という皮肉が、喉の奥で消える。
カイは、照れ隠しに鼻の頭を掻きながら、小さく会釈した。
その日の夜。
冒険者ギルドの大ホールでは、国を挙げた祝宴が開かれていた。
「さあさあ! 今日は王宮の地下蔵から最高級の樽を出させたんだ! みんな、遠慮せずに飲んでくれ!」
ギルド長バルガスの豪快な声が響く。
かつて魔王の話題になるとフリーズしていた彼も、今は真っ赤な顔をして、レオンとアルベールを交互に叩いて笑っている。
テーブルの上には、山のような御馳走が並んでいた。
焼き立てのパンの香り、香ばしく焼かれた肉の脂、瑞々しい果物。
「カイ様、どうぞ。お疲れ様でした」
不意に声をかけられ、カイの心臓が跳ねた。
振り返ると、そこにはあの制服を着た「受付嬢」が立っていた。
「……あ、ああ。ありがとう」
彼女の手には、金色のエールが注がれたジョッキがあった。
カイは、彼女の目を覗き込む。
あの戦いで「魔王」という役割を被らされていた女性。
今の彼女の瞳には、幾何学的なノイズも、無機質な空虚さもない。
「……今日の味は、いかがですか?」
彼女が、少しだけ首を傾げて微笑んだ。
カイはエールを一口、喉に流し込む。
「……苦いな。でも、すごく……美味しいよ」
脳に直接届く「満足度数値」ではない。
舌を刺激する苦味と、喉を通る冷たさ、そして鼻に抜ける麦の香り。
すべてが、カイという個人の感覚として、確かに処理されていた。
「それは良かったです。ふふ、カイ様はいつも、少しだけ難しいお顔をなさるから」
彼女はそう言って、忙しそうに次のテーブルへと向かっていった。
その背中を見送りながら、カイは深く息を吐く。
(終わったんだ。本当に)
ホールの中心では、エレナが聖女としての振る舞いも忘れ、街の子供たちに囲まれて楽しそうに笑っている。
アルベールは、若手の騎士たちに囲まれ、武勇伝をせがまれて困り顔をしていた。
レオンは、大勢の冒険者たちと腕を組み、即興の歌を歌っている。
賑やかで、騒がしくて、無駄な時間が過ぎていく。
「……Now Saving…」
時折、視界に現れるログも、今は平和を守るための静かな記録のように見えた。
カイは、窓の外を眺める。
ログスの街の夜景が、どこまでも美しく広がっている。
以前感じた「セットのような不自然さ」は、もうどこにもない。
「おい、カイ。何一人で浸ってるんだよ」
エールの樽を抱えたレオンが、千鳥足でやってきた。
「見てくれよ、この平和を。全部、お前が測ってくれたおかげだ」
「よせよ。僕はただ、杭を打っただけだ」
「それが一番難しいんだって。なあ、明日からはどうする? 魔王もいない、やり直しもない。……ただの『明日』が来るんだぜ?」
レオンの言葉に、カイは少しだけ考えた。
「そうだね。……まずは、ボロボロになった測量道具を新調しようかな。それから、まだ測っていない場所がたくさんある。この世界の、本当の距離を、一つずつ確かめていきたいんだ」
「はは! やっぱりお前は、最後まで測量士だな!」
レオンがジョッキを突き出し、カイのジョッキと硬い音を立てて重なった。
宴は深夜まで続いた。
笑い声が絶えることなく、誰もがこの幸福に酔いしれていた。
カイもまた、心地よい酔いの中で、心地よい疲労感に身を任せていた。
宿屋への帰り道。
夜風が、火照った頬を撫でる。
レオンとエレナ、アルベールと肩を並べて歩く。
「明日の朝は、ゆっくり寝させてくれよ」
レオンが大きなあくびをしながら言う。
「ふふ、そうですね。私も、たまには寝坊をしてみたいです」
エレナがクスクスと笑う。
「……ああ。明日は、誰も僕たちを起こさない。最高の朝になるはずだ」
カイは、空を見上げた。
星が瞬いている。
この世界には、もう「ズレ」も「綻び」もない。
ただ、確定された平和と、愛おしい仲間たちがいる。
カイは、初めて心の底から安らかな眠りについた。
一分一秒が、二度と書き換えられない、僕たちの人生。
その「輝かしい一歩」を、信じて。
「……Now Saving…」




