第23話:疲れ果てた社畜OLは異世界でゆったりスローライフを送るようです・3
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「お願いします!」
「早よかかってこいやあ」
青空の下、小百合は龍魅に向かって一歩前に出た。
両手を軽く上げて前に突き出し、駆け足で距離を詰める。キョンシーのようで間の抜けたポーズだとは思うが、格好を付けてはいられないので仕方がない。
対する龍魅は直立しているだけだ。体幹から手足までどこも力まずに全身が脱力している。距離が縮んでも龍魅は全く動かない。
だらりと下げた両腕に向けて小百合は思い切り手を伸ばした。あとは指を畳んで腕を掴めばこちらの勝ちだと思った瞬間、龍魅の姿が視界から消えた。
「あれ?」
不安定な姿勢で力んだ手前、急には止まれない。前につんのめって転びそうになる。足先に力を込めて何とか踏みとどまろうとするが、その爪先を上から軽く踏まれた。
そこが力の中枢だった。全体重を支えるクリティカルな一点に刺激が走り、小百合の身体は反射的に硬直する。そして前にずれていた重心が完全に崩れた。
倒れ込む身体を龍魅が俵のように下からひょいと担ぎ上げ、地面に軽く放って下ろした。お尻から着地するが『身体強化』のおかげで全く痛くはない。
「バランス崩せば終わりだあ。体幹がよええ」
「頭ではわかっているつもりなんですが」
「身体がわかってなけりゃあしょうがねえ。頭でわかんなくても別にええ」
「そうですね……」
小百合は座ったまま四角く囲われた空を見上げ、雲に向けて手を伸ばす。
ここはスナックやラブホテルが並ぶスラムめいた地区。その中でも四方を雑居ビルに囲まれ、道路に隣接せず表からは見えない狭い空間だ。ゴミ捨て場の奥から身体を縦にして潜り込まなければたどり着けない。
ここで昼から格闘訓練を試みているものの結果は散々だ。身体のどこでもいいから掴めば勝ちというルールだが、とても勝てる気がしない。
小百合は『身体強化』によって腕力では絶対に負けないし傷付けられることもない。しかしバランス感覚と姿勢制御が絶望的だ。ちょっとでも揺さぶられると自滅してしまう。すぐにつんのめったり急には止まれなかったり、そのたびに身体を支える経験の乏しさを実感する。
不随の下半身が動くようになっているのは、女神の一律バフではなく『身体強化』による効果だ。女神が転移者全員にかけたバフはあくまでも心肺機能や筋力を人類の枠組み内で限界まで向上させるものに過ぎず、チート能力と違ってこの世の理を超越するものではない。
だからチート能力を解除すれば小百合の足は元に戻ってしまうが、『身体強化』は一切のコストなく睡眠中ですら常時発動しておけるタイプの能力だ。今後も解除する必要はないだろう。
龍魅は『龍変化』を使わずに生身で相手をしており、見たこともない動きが次々に繰り出されて意表を突かれる。自分から倒れて攻撃を避けたり、猫のように低い姿勢で地面を這ったり。たぶん路上での喧嘩殺法とかそういう類のものなのだと思う。身体を使わずに頭だけで考えてしまう小百合とは全く逆に、実戦の中で身体を使って考えてきた動きだ。
「龍魅さんは武闘派だったんですか? 抗争とかで前に出るというか」
「誰かがやらにゃあならんときはどうしてもあらあ。そういうときにやるのがわしの仕事だあ」
「今は私が強くならないといけないのに……すみません」
「気にすんな。どうせ殺しはわしがやらあ」
龍魅と小百合は他の転移候補を殺すことに決めていた。もちろん穏便に済めばそれに越したことはないが、一旦闘争になれば殺害を躊躇わない。
これは小百合から言い出したことだった。一度自殺までした者たちは生きている限り転移を諦めるとは思えないし、人智を超えたチート能力は警戒してもしすぎることはない。理性的に考えれば殺すべきなのだ。そう伝えると、龍魅は「まあなあ、皆ガキじゃねんだからなあ。死んでもしょうがねえよなあ」と呟いた。
だから格闘の訓練も小百合から申し出た。少しは戦えるようになって、いざというときは誰かを殺せるように。『身体強化』には明らかに『龍変化』すら越える戦闘ポテンシャルがある。相手が『創造』の切華であろうと小百合が切られることはない。誰が相手でも殺せるし、そのための覚悟もしているつもりだ。
しかし、その覚悟に対しては龍魅は頷かない。
「その辺のチンピラあ殺せてもよお、あんたん知り合いは殺せねえよ。わしでも楽じゃあねえからなあ」
「それは……」
反論しかけて言葉に詰まる。
きっと昨日より前の小百合なら毅然として反論していただろう。自分はやるべきことを成せるのだと。
しかし、頭が思うようには身体は動かないということを小百合はもう知ってしまっている。場数を踏んでいる龍魅が言うならそうなのかもしれないと思う。
黙ってしまった小百合の前で龍魅が踵を返した。
「もうだいぶ戦っとるし、しばらく休んだ方がええなあ。なんかん飲んで食っとけやあ」
「いえ、私は全く疲れていませんよ。『身体強化』は疲労も一切蓄積しません」
「身体あが覚えるのは動いてるときだけじゃあねえ。休んどる間にも覚えることはあらあ。色々な」
「睡眠学習みたいなものでしょうか?」
「知らんけんど、たぶんそうだろうなあ」
龍魅は錆びた扉に手をかけた。
この狭い空間から入れる部屋が一室だけある。表通りには扉が開いておらず、この雑居ビルの裏側からしか入れない部屋。
ここが龍魅の住処だ。無骨な打ちっぱなしのコンクリートがオリエンタルに装飾され、中途半端に異国情緒が漂っている。壁は灰色が剥き出しになっているのに、床にはビロード織りで赤と黄色が鮮やかな原色の絨毯が敷かれている。壁には何かの動物の皮がいくつもかかってジャングルのような野性味を主張する。
家具は曲面の多い木でつくられたものが多い。特に色の濃い木が削り出されたベッドが中央に一脚鎮座し、側面に付いた高い棒には木製のハンガーを介して使い古したジャンパーやジーパンがかかっている。
小百合は昨日からここに泊まっている。昨晩はとりあえずベッドに横になったところ、当たり前のように龍魅も隣に入ってきて共に寝ることになった。小百合よりもかなり背の高い龍魅の身体は骨ばっていて堅く、背中に彫られた巨大な昇り龍の刺青を見ながら一晩過ごしていた。
誰も電話を取らない早朝を見計らって家に電話をかけ、三日間は外泊する旨の留守電を入れておいた。
小百合は今まで一度も門限を破ったことがない。綾小路家の一人娘が家出同然に帰らないとなれば今は大騒ぎになっているだろう。車椅子を路上に捨ててきたことについての苦しい言い訳も通るかどうか怪しいものだ。警察が出てくるのは時間の問題だが、転移するまでの三日間さえどうにかなれば問題ない。




