言葉スケッチ
「全治3カ月ほどですね。」
その後の医師の言葉を、愛香里はあまり覚えていない。正確にはしっかりと聞こえてはいたのだが、現実として受け止める事が出来なかった。
◇◇◇
アクシデントがあったのは体育の持久走。どちらかというと運動は得意では無い愛香里は、それでもゴールを目指して懸命に走っていた。
「あっ」
気付いた時には足がもつれ、スローモーションの様に地面が迫る。とっさに手をつこうとして、それが利き腕だと気付いた時には遅かった。
最初に襲ってきたのは、衝撃よりも痺れ。その後に遅れて鈍い痛みが手首に走る。
「大丈夫?」
転倒に気付いた同級生に付き添われ、保健室で手当てを受ける頃には、少し腫れている手首から伝わる熱の為か、それとも絵が描けないかもという不安からなのか、愛香里の動悸は早鐘の様に高鳴っていた。
「これで様子をみましょう。明日になっても腫れがひかなかったり、痛みがある様だったら、ちゃんと病院で診てもらってね」
そう声をかけられ、保健室を後にした時には手当された湿布と包帯のおかげか、かすかな違和感の他は普段と変わらず、少し時間が経てば普段の日常に戻れる気がしていた。
「すいません、少し手首をひねってしまったみたいなのでしばらくはお休みします」
「お大事に」
「コンクールの出品までに間に合うといいね」
昼休みにとりあえず報告をと、顔を出した美術部でそこにいた部員達に告げて、見送られた後は半ばうわの空で午後からの授業を受け帰途につく。
「まだこんな時間か⋯⋯」
いつもより早めの時間の帰り道、そんな言葉が口をついて出る。
昔から絵を描く事が好きだった愛香里は、進学先の高校も家からは少し距離があったが、美術部の有名な所を選び、入学早々に籍を置いて、遅くまで他の部員達と創作に励んでいる毎日だった。
いつもならばBGM代わりに聞こえてくる吹奏楽部の演奏、運動部の掛け声、そして友達同士で寄り道の計画を話しながら下校するざわめき、全てが今の自分には恨めしく思える。
沈んだ気持ちのままで迎えた次の朝、起床して髪を整えようとした時、鈍い痛みが再び右手首に走った。
「痛い」
思わず落としたヘアブラシを拾い上げようとしたその腕の先から伝わる熱にもようやく気付く。
その後、朝食時も登校の支度をする際にも少し力を入れるだけで訴え掛けてくる手首の痛み。
家族にも、何気ない風をよそおって少し捻ったみたいとだけ説明しながら、愛香里の心は、徐々に沈んでいった。
「おはよう。手首の調子どう」
「まだ少し痛むけれど、大丈夫だと思う」
教室に入り席に着くと、周りの同級生から声をかけられても、あまり気にしていないふりをして、やり過ごす。
そう自分にも言い聞かせる事で、不安を拭い去ろうとしても、午後になる頃には、ペンを握るだけでその痛みは存在を主張する。
「骨に異常はありません、ただ、手首の靭帯を損傷しています。当分は安静にして無理はしないように」
翌日になっても腫れはひかず、母に付き添われて行った病院の帰り道、あらためて、全治3ヶ月という言葉が愛香里の中で反復される。
「間に合わない⋯⋯」
愛香里が参加しようとしていたコンクールの締め切りは9月。今は幾つかのラフスケッチを終えて、幾つかの下描きをしながら構図のバランスを整えている最中だった。
予定ではテスト期間を乗り越えたら、出来る時に下塗り、後は夏休み中に一気に仕上げるつもりだったはずの予定が全て崩れ去っていく。
「いい機会だから、そろそろ将来の事を考えて、進学の準備をしてはどうだ」
仕事を終えて帰宅した父から出た言葉は愛香里の胸をえぐる、ひとことだった。
元々、絵を描く為に進学先を相談した時にもあまりいい顔をしていなかった事が、あらためて脳裏をよぎる。
自分でも、この先美術系に進んだところで、その先までは⋯⋯、という気持ちは確かに頭の片隅にある。
と同時に、それでもどこかで活かせないかとの思いがせめぎあう事もあった。
だからこそ、今の自分がどこまで出来るかを試したい。そんな思いを、この夏休み中に総てぶつける覚悟で新作に打ち込もうとしていた矢先の出来事だった。
◇◇◇
「⋯⋯つっ」
気が付けば2週間が経っていた。日常の動きは、少し力が入ると痛む事もあるが、気をつけていればさほど不便は感じない。
ーー少しくらいなら。
そんな思いで部室に顔を出して見ると、既に下絵を塗り始めている仲間や、本格的に色を重ね始めている作品も見える。
焦る思いで自分の作品に線を足していこうとすると、引っ張られる様な違和感と、鋭い痛み。
「どうして⋯⋯」
思わずうずくまった姿に気付いた仲間が声をかける。しかし、その気遣いすらも今の愛香里には、哀れみと煩わしさにしか感じられなかった。
「大丈夫だから、ごめんね。」
そう力なく申し訳程度の返事を返し、愛香里は部室を飛び出した。
そのまま弾かれるように校門を出て、その先は覚えていない。
気が付くと、夕暮れの迫る川のほとりで、ひとり立ち尽くしていた。
何処から聞こえる、子供達の笑い声。愛犬を散歩させている同年代の少女達。ロードワーク中らしい運動部の一団。
今の愛香里には、その全てが疎ましく見えた。
あらためて自分の両の腕を見つめる。最初はきつく結ばれていた包帯も、サポーターに変わってはいるが、見比べると、まだ腫れがひいてはいないのがよくわかる。
焦りは禁物、無理をすると余計に悪化する恐れが有ります、と言い含められては居たが、あまりにも思い通りに動かす事の出来ない今の時間は、愛香里にとって、あまりにも長過ぎた。
どのぐらいの時間が経ったのだろう。気が付くと太陽はその姿を消しかけ、茜色の空は徐々に深みを帯びた青さに染まり始めていた。
先程まで賑わいを見せていた遊歩道も、人影はまばらになり、静寂が訪れようとしている。
「今の私には、この静けさを切り取る事も出来ない⋯⋯」
愛香里が絵を描き始めたきっかけは、小学生の頃。
写生大会で何気なく描いた1枚の風景画が、入選した事だった。
どちらかと言えば、控えめで、目立つこともなかった自分に向けられる称賛。
それは愛香里にとって未知の喜びであり、大きな自信となって、進む道を照らしてくれる様な出来事だった。
やがて中学生になり、美術の時間が始まると、愛香里の情熱は更に加速していった。
交友範囲も拡がり、時折気の合う同級生と美術館にも訪れ、その後は各々の感想を言い合った。
そんな日々の中、愛香里が特に惹かれていったのは、風景画。
時が経ってもその時代を映し、時にはその暮らしぶりや、失われた光景、空気感すらも甦る筆致。
南国の濃密な空気感を切り取る放浪の画家や、友人でありながら、対極的な夜を情熱的に描いた悲運の画家。
静かな佇まいを、無数の点で表現した画家。
新しい絵画に触れる度に拡がる世界観は、愛香里の琴線を揺らし、自分もまたそんな世界を映し取りたいという思いと共に、創作と向き合ってきた日々。
その拠り所が失われた今、川面に映る黄昏の中へと、全てが沈んで行く。
「帰らなきゃ⋯⋯」
様々な思いを断ち切るように、帰途へつこうとして視線をあげると、遊歩道のベンチに1人腰掛け、何かを書いているような人影が目に入った。
背格好からすると、おそらく同年代に見える少年。スケッチブックにしては小ぶりな手元の冊子。
時折考え込むように手元を止め、再び何かを書き込んでいるその仕草は、今の愛香里にとっては手の届かない風景。
その人影に目を背けながら、愛香里は追われるようにその場を後にした。
◇◇◇
鬱々としていた空模様は、いつしか、時折汗のにじむ程の抜けるような青さの季節へと変わっていた。
不自由だった右腕も、長時間の作業は出来ないものの、思い描いた線を引けるくらいには戻っている。
リハビリには、ある程度積極的に動かしていくのも良いでしょうとの診断結果をもらった午後、愛香里は画材を持って家を出た。
コンクールには間に合わない。父に言われた「考える時期」という言葉も、今ならば少しは受け入れられる。
だったら、私は今の自分を写し出そう。
そう思いながら足を向けたのは、いつかの川沿いの道。
今なら描ける。
あの時出来なかった事を、そして今の私を。
水面からの風を受け止めながら静かに腰を下ろし、愛香里は自分の世界へと入り込んでいった。
「素敵ですね」
気付けば空の色は赤みを帯びる頃、どこか遠慮しがちな声をかけられ、愛香里は顔をあげた。
「えっ」
戸惑う愛香里の視線の先には、ノートを抱えた少年が立っていた。
「すいません。僕は絵の事はよくわからないけれど、なんだか惹きつけられちゃって⋯⋯」
「あなたは?」
そう問いかけながら、愛香里はどこかでその姿を見かけたような気がしていた。
「僕は時々この辺りで言葉のスケッチをしているんです」
「言葉のスケッチ?」
聞き慣れない言葉だったが、愛香里の脳裏にはいつかの黄昏の光景が蘇る。
「ほら、感じた事って、放っておくと、すぐ消えてしまったりするじゃないですか。だから僕はその時の思いをいつでも書き留めておけるように、こうしてノートに」
ーーあの時の少年だ。
描くと書く。手法は違っても、同じような思いなのかもしれない。
「言葉でもスケッチって言うの?」
「なんだかゴロが良くて気にいっているけれど、変ですかね」
確かに聞き慣れないけれど、不思議と腑に落ちる。
「そうやって言葉をスケッチして、どうするの?」
「特には決めていないけれど。ただ何となく今の自分を残しておこうかな、みたいな感じで」
「ねえ、どんなの書いているか少し見せて」
「えっ?」
「私の描いている風景を見たのならおあいこでしょ」
「そんな大した物じゃ無いですよ。ただ思った事や、目の前の風景を書き留めてみたり⋯⋯」
「それってやっぱりスケッチかも。いいから早く見せて」
寄り添う2つの影はいつしか、長く伸びていった。




