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第1話 天使が舞い降りた

極寒の地、ウィンターヴェイル。


一年の大半を分厚い氷雪に閉ざされたこの街だが、今宵は珍しく風が止んでいた。音もなく雪が舞い降りる静かな夜。空には満月と星空が輝いていた。


しかしこの街の支配者たる、グレイヴァン家の屋敷の中は別世界だ。


階下の大広間からは、華やかな音楽と、貴族たちの笑い声が微かに響いてくる。今日は月に一度の夜会の日。美しく着飾った母、そして優秀な兄や姉たちは、今頃グラスを片手に談笑していることだろう。


「……はぁ」


ヴァルグリスは薄暗い自室の窓辺で頬杖をつき、重いため息を吐いた。


窓ガラスに映るのは、大きく美しいネコ科の獣人。

月光を吸い込んでプラチナのように艶めく、銀色の毛並み。極寒の地に相応しいその体毛は、見るからに柔らかく触り心地がよさそうだ。

仕立ての良いチャコールグレーのスーツに身を包んでいるが、その襟元や袖口からは、極上の毛がふわりと覗いている。


そして整った顔立ちに、憂いを帯びた金色の瞳。育ちの良さと品格が滲み出るその姿は、誰もが振り返るほどの美丈夫──のはずだが、頭上の大きくふさふさとした耳は、今は力なく垂れ下がっていた。


ヴァルグリス・グレイヴァン。

由緒あるグレイヴァン家の末弟にして、一族の恥晒し。その大きな背中は、しょんぼりと哀愁に満ちている。


「いいなぁ」


彼はいつものように、夜会の……家族の輪に入ることを、許されなかった。 『お前のような出来損ないはグレイヴァン家の品位を下げる』 母のその冷えたひと言で、彼の夜会は始まる前に終わったのだ。


「……いいんだ……一人でいれば、誰にも意地悪を言われないし」


ぽつりと呟く。強がりのように口にすると、さらに惨めな気持ちになって、ヴァルグリスは大きな尻尾をたしんと絨毯に垂らした。


本当は、ヴァルグリスも皆と一緒に夜会に出たかった。華やかな場所にいたいとか、美味しいごちそうを食べたいとかではない。ただ、兄たちと同じように……母親と、肩を並べて立っていたかった。家族の一員として。


けれど物心ついてから、彼が兄たちと同様に扱われたことは一度もなかった。

母曰く、とにかくできそこないのヴァルグリス。彼はいつでもグレイヴァン家でのけもの扱いだった。

理由もわからず母に冷たくされ、それをみた兄たちは言葉と暴力で気の弱いヴァルグリスを更に委縮させるのだ。


ヴァルグリスはふるりと首を振り、この陰鬱な気分を変えようと、重厚な窓の鍵を外し、その装飾扉を押し開けた。


途端、凍てつくような夜風と粉雪が吹き込んでくる。普通の者なら凍えてしまう寒さだが、極北の獣人である彼には、火照った頬を冷やすのにちょうどいいと思うような心地よさだった。


「月はこんなにきれいだしね……」


自分に言い聞かせるように呟いて身を乗り出し、冷え切った夜空を見上げた。満月の美しさが心を少し慰めてくれる。そう思った……その時だった。


ヒュッ。


「え?」


屋根の上から、なにか黒い影が落ちてくるのが見えた。


「ふわぁっ!?」


開け放たれた窓から、そのなにかが勢いよく飛び込んできた。

彼は避けきれず、その塊を正面から胸で受け止める形になり、バランスを崩し、ふかふかの絨毯の上に背中から落ちた。


「……うぅっ!なに……?」


屋根から雪の塊でも落ちてきたのかと、目を回しながら、ヴァルグリスは自分の胸の上に落ちてきた物体を見た。


雪ではない、とすぐに気が付いた。


それはヴァルグリスの胸の上で崩れずに形を保ち、しかし柔らかかった。 ボロ布を纏った、小さな塊。


衝撃でフードがずれ落ち、そこからふわりと、美しい黒髪が零れ落ちた。


「……へ?」


現れたのは、華奢な少女だった。


薄汚れてはいるけれど、雪のように白い肌に、宝石のように大きな琥珀の瞳。

この極寒の地で、こんな薄着で、しかも空から降ってくるなんて。


少女は白い息を吐いて、華奢な身体をふるわせ、ヴァルグリスを見つめていた。


二人は暫し、無言で見つめ合い──そして。ヴァルグリスは、思わず口走っていた。


「……て……天使?」


呆然と呟く彼に、少女はよろりと身を起こしながら、目を丸くした。


「……いえ。人間で……」


思わずと言った表情で言いかけた少女はハッとして、慌てて自分の口を両手で塞いだ。


──人間。たしかに、そうだ。え? なんで……。


ヴァルグリスは、息を呑む。その時だった。


コンコン。ノックの音。


「坊ちゃま? 大きな物音がしましたが、何を騒いでおられるのです?」


部屋の外から、使用人の低い声がした。


まずい。 見つかったら大事になる。勝手に人間を連れ込んだなんて咎められて、母親に更に嫌われるかもしれない。

そう思ったヴァルグリスは、あわあわと両手を空で彷徨わせた。そして自分の上で固まる少女をみた。


「……こ、声を出さないで……!ちょっと、ごめんね……!」


ヴァルグリスは慌てて囁き、少女を両手でひょいと抱き上げると、自分のベッドの布団の中に強引に突っ込んだ。そして慌てて扉を振り返り、裏返った大声を出した。


「な、なんでもないよ!つ、月が綺麗だったからさぁ!」


『……は?』


「あー……その、月とお話してただけさ!今日はとってもきれいだね!って!で、感極まって窓を開けちゃったんだよ、あはは!そう、だから気にしないで!僕のことは放っておいてくれ!」


ドアの向こうで、沈黙が流れた。やがて、深いため息と共に、呆れ果てた声が聞こえてきた。


『……左様でございますか。窓を開けておられるのですか? 風邪を召されぬよう……ああ、また坊ちゃまの奇行だわ……』


コツ、コツ、と足音が遠ざかっていく。


ヴァルグリスはへなへなとベッドに手をつき、がっくりと大きな耳を下げた。たらんと尻尾が下がって絨毯の上でとぐろをまく。


──あーあ……絶対また変なやつだと思われたよ。ていうか月とお話ってなんだよ、僕のバカ……。


ヴァルグリスを煙たがり、冷たく当たっているのは家族だけではない。使用人たちもまた、立場も気も弱いヴァルグリスのことを見下し冷たい態度をとっていた。


あまりの情けなさと執着で涙目になっていると、手をついている横の毛布がもぞもぞと動き、ひょこりと小さな顔が出てきた。


「あの……」


「!!」


ヴァルグリスはびくっとしてベッドから飛び退いて距離をとった。少女は毛布から這い出し、ベッドから降りた。そして、ペこりと頭を下げた。


「ありがとう……ございます。助かりました」


眉を下げて、しかしまっすぐな瞳で彼を見上げてくる。その純粋な眼差しを受けて、ヴァルグリスはまたドギマギしてしまった。やはり天使なのではないだろうか。


「……え。えーっと、うん、どういたしまして? 僕は、ヴァルグリス・グレイヴァン。えっと、一応この家の者だよ……落ちこぼれだけど……」


ヴァルグリスは落ち着かなさそうに自己紹介をした。イツキはニコ、と微笑んだ。


「私は、イツキです」


「イツキ……。きみ、人間……だよね? 僕、人間と話すの、初めてだよ」


彼はまじまじと彼女を見下ろした。


この世界には人間も魔族もいるが、住処は完全に分かれている。魔族領にいる人間なんて、奴隷か、あるいは……。


──どこかから逃げてきたんだろうなぁ。もしかして、うちの“コレクション”予定だったとか? だとしたら、見つかったら大変だよ……。早く出ていってもらわないと……。


「っ、くしゅっ!」


イツキが小さくくしゃみをして、華奢な肩を震わせた。顔色が悪い。よくみたら唇も紫色だ。


「あ、ごめん。寒かったよね!窓、開けっ放しにしてたから……!」


ここで死なれたら寝覚めが悪い。ヴァルグリスは慌てて窓を閉めようと彼女に背を向けた。


その時だ。


ギュッ。


「ひっ!? な、なにっ!?」


イツキが突然、彼の背中に抱きついてきたのだ。ヴァルグリスの着ているスーツの上から、さらにその下の毛並みに顔を埋めるようにして、ぐりぐりと頬を擦り寄せてくる。


「……すごくあったかいし、とってもモフモフ……ちょっとこうさせて……」


「え。えぇぇ……!?」


ヴァルグリスは窓に手を伸ばしかけた体勢のまま、絶句した。

初対面の、種族は違うとはいえ異性に抱きつかれるなんて。

こんなのだめだよと叫びたかったけれど、彼女の体があまりに冷たくて、そして彼にしがみつく手が震えていて……。


──あ。暖が欲しかっただけか……。


少女を哀れに思ったヴァルグリスはされるがまま、静かに窓を閉めると諦めて尻尾を垂らした。



しばらくして、イツキの震えが止まった頃。

ヴァルグリスは暖かい紅茶(本当は彼の夕食用だったものだ)を彼女に渡しながら、おずおずと切り出した。


「あの〜……ここから、早く逃げたほうがいいと思うよ?」


カップを両手で包み込んでいる少女に、彼は視線を彷徨わせながら忠告した。


「グレイヴァン家は人間を、その……あんまり、いいように扱わないことで有名なんだよ。だから、早く外に出て……」


「こんなに寒いのに、外に出たら死んじゃう」


イツキは顔を上げ、即答した。その目は真剣だった。


「私、たぶん人間の領地に住んでたんだけど。魔族領こっちに攫われてきたの」


「たぶん……?」


ヴァルグリスが耳をぱたと揺らして不思議そうに尋ねると、彼女はそれをちらっと見つめながら頷く。


「人間領の記憶はこっちに来た時には消されちゃうんだって。理由は分からないけど」


ヴァルグリスはふと、人間の記憶を消す理由を思い出した。では、この子は”飼育用”だったのだろう。人間領の記憶と未練を奪い、こちらで愛玩するための。悪趣味な理由が思い当たり、うんざりしてため息を吐いた。


グレイヴァン家は貿易商だが、それは表の顔。裏の顔はこのウィンターヴェイルの支配者だ。末弟であるヴァルグリスにも、その程度の知識はあった。


色々と察して複雑そうに目を背ける彼を、イツキはまっすぐ見上げる。


「一度檻から出されて、やばそうなやつに売られそうになっているところを逃げだして、屋根を伝って逃げてきたの。外に出たら、そいつに捕まっちゃうかもしれないし」


ヴァルグリスは「そうは言われても」と困り果てて耳を下げる。


「うちだって安全じゃないし……」


「でも、外よりは絶対いい。お願い、匿って。ずっとなんて言わないから」


イツキはカップを置き、手を伸ばすとヴァルグリスのスーツをぎゅっと掴んだ。切実な目で見上げてくる。


「ちょっと隠れたら、すぐでていくから!人間領に戻りたいの」


「もちろん……できれば、それが一番だと思うけど」


ヴァルグリスは肩を竦める。


「ウィンターヴェイルは短い春以外は極寒だよ?街はまだ魔術が効いていてこの程度だけど、外に出たら人間はひとたまりもない」


イツキはキョトンとした後、笑顔で言った。


「教えてくれてありがとう!じゃあ春までお願い!」


「ええッ!?」


そんなつもりで言ったわけじゃないのに! と青ざめるヴァルグリス。


「そんな、この前春が終わったばっかりなんだから、また季節が巡るまで!?無理だよ、見つかっちゃうよ!僕だってそんな……立場があるわけじゃないし、困るよ!本当に、うちはやめたほうが、」


「……」


彼は勘弁してくれとばかりに耳をさらにぺたんと下げ、必死に首を横に振った。尻尾も一緒に揺れる。けれど、イツキは引かなかった。彼女は俯き、それからゆっくりと顔を上げ……潤んだ瞳で、彼を上目遣いに見つめた。


「……だめ?」


「……!!」


その瞬間。ヴァルグリスは脳が揺らされるような衝撃を受けた。誰かにこのように頼られたことなんてなかった。物心ついた時から家族にのけものにされ、友人の一人もいなかったのだから。

そして子猫のような、あるいは捨てられた仔犬のような、彼女の瞳。先ほど「天使じゃないか?」と思ったくらいには愛らしいその顔で、そんなふうに頼られてしまっては──。


「…………うぅ」


ヴァルグリスは天を仰ぎ、深いため息をついた。耳がぺたりと垂れ下がる。


「……わかったよ……」


「本当!?」


「でも……春までね。春が来たら、絶対に出ていくんだよ? あのね、本当にこの家は……」


「ありがとう! ヴァルグリス!」


「わぷっ!?」


イツキは満面の笑みで、彼に飛びついてきた。


「ちょ、ちょっとぉ……」


やめてよ、と言おうとしたが、イツキは笑顔で「お礼のハグだよ」と言った。どさくさに紛れて、また胸元の毛をモフモフと堪能されているだけのような気がした。


ヴァルグリスは諦めたように長い尻尾をぺたりと絨毯に落とした。


──あーあ。うまくいくのかなぁ。うちは、ウィンターヴェイルで一番恐ろしい場所だと思うんだけどな……人間にとっては。


ヴァルグリスは不安そうに、自分に抱き着く少女を見下ろした。

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