墓地の下には、あの夏祭りの夜が眠っている
武頼庵さん主催『夏の遊び企画』参加作品です。
その感情は、色褪せたグラフィティーアートのようだった。
* * *
社会人三年目にして、ようやくお盆に長い休みが取れた俺は、久しぶりに実家へと帰省した。
思えば社会人になってから、実家に電話する事さえ少なくなった。この土地に俺の生活基盤はないし、あるのは古いオモチャみたいな思い出だけ。社会人としての基礎を築くため駆け回っていた俺にとって、あえて顧みるような場所ではなかった。
ただ、それでもここは俺の故郷であり、いわば人生のスタート地点である事に変わりはない。
人生の岐路に立った今、俺は来た道を振り返り、過去へと手を振りたくなった。
俺は、結婚を考えてる女性がいる。
その旨を両親に伝え、可能であれば顔合わせの日取なんかも打ち合わせ出来れば……ってのが今回の帰省の目的だった。
居間の隅っこに置かれたじいちゃんばあちゃんに線香をあげ、出された麦茶を飲みながら、実家の放つ懐かしい空気を吸い込む。
小さな庭は、お袋の趣味で色んな花が植えられ、やけに賑やかに変わっていた。見るからに暑苦しいその景色は、窓の向こうの茹だるような暑さを思い出させた。
「あんた、する事ないなら、ちょっと夏祭りのビンゴやってきてよ」
お袋はいつまでも息子をガキ扱いする。日々の業務に追われる俺のほんの一握りの余暇を、退屈な小学校の夏休みと同列に扱ってくる。
ただ、そんな母親の戯れに付き合ってあげるのも、親孝行の一つなのかもしれない。
「りょーかい」
俺はそう言って家を出た。
夕日が沈みかけてるとは言え、外はまだ殺人的な暑さを保っていた。
* * *
未だに生き延びている町内会の夏祭りを、俺は幽霊をみるような目で眺めた。
小さな公民館の、猫の額ほどの駐車場で行われる、やたらとこじんまりしたイベントではあったが、ちゃんと櫓も準備されていて、そろそろビンゴ大会や盆踊りが開催されるだろう。
ビンゴは2回やって2回ともポケットティッシュをゲット出来た。花粉症に悩む親父にとっては、この上ない親孝行になるだろう。
二つ重ねてケツのポケットに突っ込むと、俺はここに来たことへの何かしらの意味を見出そうと、氷水に突っ込まれたスーパードライの缶に手を伸ばす。残クレでアルファードに乗ってそうな男に小銭を渡していると、背後から声をかけられた。
「あれ、ナベじゃん?」
振り返ると、そこには派手な髪色をした女が立っていた。その金髪に近い茶髪と、鳥が巣を作りそうな睫毛のせいで最初は誰だかわからなかったが、その声には聞き覚えがあった。
「あれ? あたしの事、覚えてない?」
「サオリ、だろ?」
「そっ。久しぶりじゃん。帰ってたの?」
長い黒髪を一つに結っていた子供の頃の面影は、もはやなかった。ただ、その鼻にかかる声は、自分の日常や空想の深いところまで染み込んでいた。
俺は、今は隣県の会社で働いている事と、久しぶりに実家に帰省している事を、猫に餌を与えるような調子で話した。
サオリは、自分が今実家に住んでいて、駅前の居酒屋でバイトしている事を、犬にフリスビーを放り投げるような調子で返した。
そこでなんとなく、固まってた時間が溶け始めた。俺と同じようにスーパードライを買ったサオリは、公民館の縁側に座ってビールを飲み始める。
俺もそれを真似て、持って帰るつもりだったスーパードライのプルタブを開けた。キンキンに冷えた缶ビールは、夏の夜の味がした。
特に話すことがあったわけではない。
ただ俺は、今の生活とかけ離れたこの過去の世界の入り口で、特に話さなくてもいい事を、わざわざ口に出してみたい感覚に酔いしれていた。
ひとしきりどうでもいい話をしたあと、サオリは勢いをつけて立ち上がった。
「ねえ、行ってみない?」
なんの脈絡もなく発せられたその言葉に、俺は意味がわからず狼狽する。アルコールで赤みを帯びたサオリの頬が、俺の邪な感情を呼び起こさせる。
「どこに?」
俺は訊ねる。
「肝試し」
イタズラっぽい笑みを浮かべて、サオリは笑った。
* * *
「肝試しをしよう」
あの頃の彼女も、やはり同じ笑みを浮かべていた。
小6のサオリは、細身でややつり目の、真面目で大人ウケしそうな女子だった。成績だって僕よりも断然よかったし、先生や近所の大人からも『優等生』として信頼されていた。
だから、盆踊りのお囃子が聞こえる公民館の縁側で、コカコーラを飲んでいた彼女からそんな言葉が出るなんて、俺は思いもしなかった。
「肝試しってなんだよ」
「いいから、着いてきなよ」
そんな俺の質問に答えず、サオリはツカツカと歩き出す。その先にはお寺があり、その裏手の土手には墓地がある。それを思い出して俺は固唾を飲んだけど、サオリの歩みに迷いはなかった。
田舎の墓地なんてのは、出入り自由のアスレチックのようなものだ。俺だって、おもちゃの鉄砲を片手に墓石の隙間を駆け回ったのは、一度や二度じゃない。
でもそれは昼間の話。
日が落ちた墓地は、異界の空気が流れ込んでいるように見えた。夏の日差しの中で青々と茂った広葉樹が、悪鬼の城壁にも、空に牙を突き立てる巨獣にも見えた。
「あそこの、一番上まで上ろっか」
サオリは坂上を指差す。土を固めた傾斜が、林の割れ目を抜けて伸びている。あの先はたしか、雑草が生い茂る広場になっていたはずだ。
サオリの後を追って、俺は歩き出した。
ウマオイとササキリの放つ音が、近づいて、止まり、再び遠くで鳴り出す。昼間の熱を溜め込んだ足元の茂みからは、湿った匂いが漂ってくる。
月が墓石を青白く照らしていた。
幽霊が出るなら、これほどおあつらえ向きの夜はないだろう。俺は、風に揺れる草も、墓に供えられた菊の花も、全てが霊や人魂のように見える。
「ねえ、知ってる?」
「なんだよ」
「人魂って、人体に含まれるリンが、自然発光したものらしいよ」
「そう……」
俺はサオリが何を考えてるのか理解に苦しんだ。優等生のはずのサオリが、イタズラに夜の墓地へと忍び込んでいる。それは、俺の知る真面目な彼女像とはかけ離れていた。
胸の高鳴りを覚えた。恐怖からくるものかもしれないし、密かに憧れていた彼女が見せる、不自然な一面への戸惑いだったのかもしれない。
坂を上るに連れて、祭りの囃子は小さくなっていく。少しずつ、自分の知る現実から遠ざかっていく気がする。
こめかみから汗を流して、必死の思いで坂を上りきっても、残念ながら視界は開けなかった。来た道を見下ろせば、今まで恐怖の対象だった墓地が、作り物のミニュチュアのように見える。過ぎ去ってしまえば、全ては作り物だ。質感も、熱も、匂いもない。
「なんもないね」
何を期待していたのか、サオリは呟いた。そしてカバンをゴソゴソと漁り、小さな手持ち花火のセットを取り出す。
「ビンゴ大会でもらったんだ」つまらなそうにサオリは言う。「花火でもしょっか」
あの夜のサオリは、自分の表皮に張り付いた殻を引き裂こうと苦心していたのかもしれない。優等生の殻。いい子の殻。夏の夜にセミの幼虫が、薄暗い土中から這い出し、背中を引き裂くように。
墓参り用のじょうろに水を溜め、俺達は墓の外柵に座って花火に火をつける。
それは今までで一番静かで、今までで一番倦怠的な花火だった。墓石の間を、白い煙が満たしていく。死に際のセミみたいな音を響かせて、火花が弾け、すぐに消えた。
「私、私立の中学を受験するんだ」
サオリは言った。
「お父さんもお母さんも応援してくれてるし、頑張らなきゃいけないなって思ってる」
「そう」
俺はそう返した。あの頃の俺は、そう返す事しか出来なかった。何が言えた? 何も言えるわけない。
「でも……」サオリの声が小さくなる。「本当は私、みんなと同じ中学に行きたい……」
花びら紙の火が火薬に到達し、再び激しい色と熱を放つ。そして、その光の先端を、僕が持つ沈黙の花火へと近づけた。
先端が触れ合い、熱が伝播した。
「ねえ」
サオリが呟く。
「なに?」
「試しに、キスでもしてみる?」
そう言ったサオリの目は、花火で揺れているように見えた。いい子の呪縛を破って、無理に背伸びしようとする彼女の熱に、俺は無言で応えた。
小さな唇が少しだけ触れた。
* * *
サオリはポケットからタバコを取り出し、火をつける。あの夜、その手の先で揺れていた鮮やかな光は、夜の海にポツンと漂う灯のような、弱々しい赤へと変わっていた。それは脆弱で、儚く、見るものを哀愁の境地へと誘う。
誰もいない夜の墓地。そこに、一体何が埋葬されているのか、俺にはわからなくなっていた。
幼い頃の思い出か、薄れてしまった恋心か――
「ナベは――」サオリは陸地を探す船乗りの目つきで、タールのような暗海に浮かぶ灯りを見つめる。「ナベは、今彼女とかいんの?」
俺は答えに窮した。窮す必要などないにも関わらず、過去に引き込まれた自分の感情が、吹き出しの根元に絡みついていた。
「結婚するんだ、来年」
やっとの思いで、俺はその言葉を解き放つ。
「ふーん、おめでと」
サオリの言葉は淡白だった。自分の言葉に感情を乗せ忘れたみたいだった。吐き出された言葉は小舟のように海を漂い、知らない場所へと流れて行く。
「ありがと」
サオリの言葉を受け取れぬまま、俺もまた明後日の方向に言葉を流した。
「あたし、今日は彼氏と旅行の予定だったんだ。でもクソムカつく事があって、許せないからすっぽかしちゃった」
「冷蔵庫のプリンでも食われたの?」
「浮気されてた」
「ああ」
「これで3回目」
「ドンマイ」
「ほんと、最悪だよ」タバコを挟む右手の薬指に、派手な指輪が輝いているのに気付く。「でも好きなんだよなぁ。あんな奴なのにさ、一緒にいるとすごく幸せなんだ……」
サオリは困った顔で笑った。そして、それ以上何も言わず、夜空を見上げた。
遠くで祭囃子が聞こえる。
まるであの夜の再現だ。
でも俺達は、指先一本触れ合うことはなく、ただ懐かしい音の波に身を任せていた。
サオリは幸せなのかも知れないし、もしかしたらそうじゃなのかもしれない。
でも彼女が、自分の意思で背中を引き裂き、空へと羽ばたいた事――それだけは紛れもない事実なんだと思う。
俺は自分の未来を考えた。
鮮やかな色を失った、パステルカラーの未来でも、それはそれで、やはり美しいものなのだと感じた。
お読みいただきありがとうございます(*´Д`*)
久しぶり? に純文学っぽいのを書きました。
調べたら、長崎の方ではお墓で花火やる風習があるらしいですね。とーほぐ人の幕田にはわがんね……。
あと花火の先端についてる『花びら紙』ってやつは、ちぎって使うのが正しいらしいですけど、そんな使い方した事ないので、作中でもそのまま燃やしちゃってます(^◇^;)