思いもよらぬ壁
課題の告知から、明けて翌日。
いつもの朝の騒動を経て、レルシェは工房にて金紅石と向き合っていた。
しかし、その表情はあまりにも深刻であり、顔色は青白い。
それを見守るラルシャンの顔もまたやや強張っており、懸念の色が強い。
レルシェは、いつも石詠みをする時のように何度も金紅石に意識を集中した。
けれども――石から、何も感じられない。
まるで厚い隔ての向こうにあるように、その秘める『声』も、何にも触れられない。
むしろ、触れようとするとレルシェの胸に激しい痛みが生じる。そうしてはいけない、と何かが言っているように。
一筋、二筋冷たい汗が伝っていくのがわかる。身体の負荷に加えて、精神的な負荷が時間を追うごとに募っていくのが分かる。
でも、次は大丈夫かもしれない。次こそは。
そう自分を奮い立たせながら何度石に向き合おうとも、伝わる静寂は少しも変わりはしない。
焦りばかりが募り、身体が震えそうになるのを必死で堪える。
もう幾度目か分からない失望にレルシェが唇を噛みしめて、それでも尚次に挑もうとしたその時。
レルシェと金紅石を遮るように、ラルシャンの白い手が差し出された。
「……今日はもうお止めなさい。明日が期限というわけではないのです。調子の合わない日だってあります」
口調こそ穏やかだが、その声音はいつもとは違う冷静さと厳しさを帯びていた。
ラルシャンがこういう物言いをする時は、それ以上を許さない時だ。
しばし物言いたげな焦りを帯びた面もちで沈黙していたレルシェは、やがて静かに頷いた。
それをみたラルシャンは安心させるように優しく微笑むと、お茶を入れますからね、とレルシェの頭をそっと撫でて作業部屋を後にする。
申し訳ないような、嬉しいような。複雑な心持ちで師匠の背を見送りながら、レルシェ心に呟く。
今日はきっと、昨日の緊張や疲れがあって調子が悪いのだ。だから、明日には、明日こそは。
そう言い聞かせても、心に生じた焦りや不安は消えることはなく。
その不安を裏付けるように、翌日以降も与えられた課題の石は、レルシェの前に沈黙し続けたのである……。
「レルシェ、顔色が良くないよ……。無理をしているんじゃないかい?」
「お前、とんでもない顔をしてるぞ……」
「すいません……」
課題を言い渡されてから、実に十日が過ぎた日の朝のこと。
いつも通りに食事のバスケットを受け取りに食堂へ足を踏み入れたレルシェを見て、女将は心配そうな表情で溜息交じりにそう言った。
刻は、既に賑わいの時間を過ぎていた。人もまばらになりつつある頃に差し掛かっている。
毎朝レルシェが訪れる時間より明らかに遅い頃合いだ。どうやら、テウタやレンツォはレルシェが姿を見せない事を心配していてくれたらしい。
ここまで遅れた理由としては、レルシェが朝起きられなかったからだ。
あれから、課題の石は沈黙を続けたまま。けしてレルシェが詠もうとしても欠片の『声』も感じ取れずにいた。
石詠みの力自体に何か問題が生じたのかと思って他の石で試してみたが、他の石は何時も通りちゃんと石詠み出来た。
つまり、あの課題の金紅石だけがレルシェを拒んでいる。レルシェにけして内に秘めるものを伝えようとしないのだ。
今日は駄目でも、明日なら。明日こそは、きっと。
そう思い続けてもう十日。レルシェはここ数日、懊悩して夜眠れなくなってしまっていた。
ラルシャンが暫く休みなさいと忠告してくれるけれど、そうしている間にも期限はやってくる。砂時計の砂は止まってはくれない。
ようやく見えた夢に至る道のりに生じた大きな障害。落ち着こうとどれほど自分に言い聞かせても、ただ焦燥は募るばかりで。
面もちや顔色からレルシェの心中を察してしまったテウタとレンツォは、顔を見合わせた。
テウタは元気づけようというように、レルシェの好物である果物の蜂蜜漬けを持って来る、と行って厨房へと入っていく。
気を遣わせてしまったと申し訳なく思いながら小さくなるレルシェに、レンツォが一つ溜息を吐く。
「まあ、俺は石詠み師じゃないから何も言えないけど。ただ突っ走るだけじゃなくて、角度を変えてみるとか、どうだ?」
「変えてみる……?」
優しい苦笑を浮かべながら、レンツォは肩を竦めつつ問いかけてくる。
鸚鵡返しに呟くレルシェに、どう言ったものかと迷う様子を見せつつも、レンツォは続けた。
「師匠の意見っていうか。直接アドバイスを聞くんじゃなくて……例えば、師匠の課題の時はどうだったか、とか聞いて参考にしてみるとか」
言われて、レルシェは思わず目を瞬いた。
ラルシャンもまたこの街で一人前の認定を受けているなら、彼も今のレルシェと同じ様に課題を与えられ、それを乗り越えたはずである。
なのに、それを聞いてみようとしたことは今までなかった。
ただただ、目の前にある自分の課題に遮二無二取り組んでいただけだった。
考えを変えてみることも、目線を変えてみることも。気分を変えてみることもせずに、ただ只管課題を越えることだけを考えていた。
「考えてもいなかった……」
「まあ、それが解決になるかはわからないけど。聞いてみるのもいいんじゃないか? ただ唸っているよりは」
俺も知りたいからな、というレンツォにレルシェは思わず首を傾げてしまう。
何故にレンツォがラルシャンを気にするのだろうと不思議に思って見つめていると、視線に気付いたレンツォは苦笑いした。
「お前の師匠については、色々と謎が多いからなあ」
謎があれば触れてみたくなる性質だからという言葉が返って来る。
そういうものか、と思うけれど、彼の言葉を聞いて確かにと思うところはある。
ラルシャンは確かに謎が多い。
私生活についてはあの通り非常に手がかかるし、駄々っ子だ。
だが、レルシェが弟子入りする前のことについては分からない事だらけだ。
本人は好んで語ろうとしないし、街の人々も彼についてはそこまで詳細に知るというわけではないようだ。
何故この煌めきの街にいるのか、工房から頑なに出ようとしないのか。そして、何故石詠み師を目指したのか、どのような道のりを経て来たのか。
そう考えてみれば、レルシェの知るラルシャンは彼女が弟子入りしてからのラルシャンであり、それ以前の事はあまり知らないということに改めて気付く。
ラルシャン本人が積極的に語ろうとしない事だから、聞くのを無意識に躊躇っていたのかもしれない。
根ほり葉ほりするつもりはないが、師匠が試験に挑んだ時のことを聞くぐらいなら許されるのではないか。
そんな風に考えていた時、テウタがバスケットに蜂蜜漬けを詰め直して持ってきてくれる。
調度人も少なくなったから、とテウタの言いつけでレンツォが中層への階段までバスケットを運んでくれることになった。
テウタに礼を伝えて有り難く言葉に甘えて、レルシェはバスケットを抱えたレンツォと街中を歩く。
突破口とまではいかないが、少しだけ違う切り口が見えた気がした。
それをレルシェが素直に伝えると、レンツォは気障な仕草で片目を瞑る。
「俺は何時でもレルシェの事を知りたいって思っているからな?」
「今は冗談に付き合っている暇はないから」
澄ました声音で言われた言葉に、盛大に溜息を吐くレルシェ。
これが無ければ素直に感謝して終われたのに、とやや半眼になってしまう。
レンツォは時折、こうしてレルシェに対して口説き文句のような言葉をかけてくる。
付き合い上の冗談だとは思うけれど、それを受け流せる時とそうではない時というものはある。
呆れた風に見つめてくるレルシェにレンツォが苦笑いしつつ謝罪した。
二人がそのまま足を進めると、やがて階段へと至る。
レンツォからバスケットを受け取ったレルシェは、礼の言葉を残して中層へと帰っていく。
「……冗談じゃないのに」
段を上って去っていくレルシェの背を暫く無言で見つめていたレンツォは、やがてぽつりと呟いた。
その声は、何故か不思議なほど……怜悧な響きを帯びていた。




