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reverie

作者: 田村ハルト

 諧謔的な世の中では、滑車に吊るされた世人たちが、一歩己に堰き止められれば人後に落ちるんばかりと、もう取り返しのつかないことがぜんぜんであります。私はというと、俗世の跫音の届かぬ、僻地にて、死の床の下準備だけを済ませて、後は身体が朽ちるのを待つだけの、終末モラトリアム、爾後無きモラトリアムと云いましょうか。そういった類いを過ごしている身であります。

 社会というものは、常にジャムったトラフィックのようなもので、順当にインターチェンジから参加していれば、流れに任せるだけでいいものですが、どうにも後から横入りしようというのは、不可能に近く、難儀なのです。私はとっくにインターチェンジを通り過ぎてしまっていますから、今更駄々を捏ねて社会に受け入れてもらおうにも、彼ら(ここでは社会を構成する人々のことを指します)は不親切で無意思な木偶の坊ですから……

 時折り、自分の役割について考えます。無論自分が社会の一員でないことを承知の上で、しかし社会というものが、オフレコードの密室パーチーでないとの見解をもとに、そういうことを考えるのです。きっと私も、開かれた社会のいずれかの片隅にて、何かしらの役割を請け負った下請けの下請け業者で、その役こそが私の生きていて良い理由であり、社会人たちの滑車をちと借りて、首を吊ったのではいけない理由になっているはずだと、希望を込めてそう考えるのです。

 あゝ、社会よ。私を見つけてください。可能なら、私をあなた方の内の、どなた様でも良いですから、後部座席……トランクルームでも良いですから、私も乗せていってもらえないでしょうか。

 不幸な私は、悲観的で穿った眼を常に隣人たちに向けていますから、テレビジョンニュースなんかで、医療の発達が病弱で生まれた赤子を救う話なんかをみて、それをとても蔑みます。本来ならば、彼らは社会に参加する必要はありませんでした。神がそうさせなかったのです。死をもってしてレーストラックから彼らを、追い出してしまおうとしていたのです。白い彼ら(弱弱しい赤子)を科学という宗教で救うことを、煤けた私は僻んでしまうのです。

 メトロポリス(1927)が描いたものを、私は将来への不安、社会の抑圧、そして集団心理だと思っています。特筆して最後の集団心理というものが、私がこのムービーを初見した時に、強烈に感じ取った事柄であります。

 チャップリンの言葉を借りましょう。彼の云う“近くでみる”が個人だとしたら、社会こそが“遠くでみる”です。集団というものは、どこか喜劇的に見えます。演劇団のような、どこか一つの生命体のような、そういう様相をしています。個人はその逆です。私のような、集団(社会)に属せない流浪者は、とても悲劇的に見えます。痩せ痩けたスタンドアップコメディアンのような、悲痛な様相をしています。しかし、社会の皆様方もまた、個人の集積でしかないことをお忘れのようです。あなた方は、ふとした時に集団の隊列の歩幅を逃して、アンリズミカルなタップダンスを披露した後に、両脚を絡めて地表を知るのです。そういうときは私のところを訪ねてくれれば、死に床を一つ追加で用意しますので。一緒に夢想にでも耽りましょう。

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