4.
相楽駿会長がわたしを連れてきたのは、昼休みの生徒会室だった。
当然、施錠されていた。彼はポケットからキーホルダーのついていない鍵を取り出して、生徒会室のドアを開けた。
「入って」
まるで自分の部屋のような態度でのたまう。
4.
普通の特別教室と変わらないくらいの広さだった。
整然と向かい合わせにデスクが並んでいて、まるで職員室みたいだと思った。衝立の奥はロッカーと休憩スペースのようだ。
「座って」
「何処に座ったらいいの」
「何処でも、お好きなところに。――何か飲む?」
会長は上座の机の上に鍵を置くと、衝立の奥まで歩いていった。冷蔵庫を開ける音がした。
「こんなのしかないけど」
わたしが所在無く座った席の机に、缶コーヒーを置いてくれる。自分も同じものを握っていた。
「どうも」
わたしは軽く会釈した。気遣ってもらって初めて、自分が喉カラカラであることに気づいた。
缶コーヒーって、怪我をして泳げなくなって初めて飲んだ飲み物だ。それまでは躰に悪いからって両親が触らせてくれなかった。
同じ理由でコーラも飲んだことがなかった。
わたしはあの頃、本当に、世界を知らなすぎた。
水の中に住んでいたから陸の世界なんて興味なかった。
むしろ、陸に上がったときの躰の重さがイヤでたまらなかった。
泳ぎで天下をとってたら、きっと今頃、くだらない噂をたてた連中をギャフンと云わせられたのに。
わたしはずっと竜宮城の乙姫様でいられたのに。アリエル姫でいられたのに。
どうしてわたしは事故に遭ったんだろう。
どうしてあの事故で水の世界を捨てちゃったんだろう。
「――水生、何かあった?」
コーヒーに口をつけて、会長は、わたしを見ている。
「その理由は昨夜の一件で充分だと思うけど。他のことは会長に関係ない」
わたしはそっぽをむいた。
「それからわたしのこと、水生って呼ばないでくれる? 話って何なの。早くしないと、もうすぐ昼休みが終わっちゃうよ。わたしはバカだけど授業はサボらず出席したいの」
なるべく会長の方を見たくなかった。
見たら、何だか、本気で彼を好きになってしまいそうな予感がして、こういうときにそうそうことを思ってしまう自分のお花畑満開の恋愛脳がイヤになる。
@
「中学を出てすぐ、イギリスに行ったんだ、俺」
と、会長は云った。
彼はくすくすと笑う。悪戯な子供みたいに。
ヨッ、と軽く勢いをつけて、ぴょこんと会長の席に座った。椅子ではなく、机の上に腰掛けた。
「俺の曽祖父がそこに住んでんの」
「曽祖父。ひいおじいさん?」
「そう、ひいじいさん。日本人なんだけど、向こうの女性と再婚して、あっちで貴族様みたいに暮らしてる。俺、この高校に進学することが決まってたんだけど、みんな放り出して家出した。楽しかったぞー、丸一年遊び暮らして。俺は小公子みたいな気分だった」
「イギリスの、どの辺?」
「くっそド田舎。地名だしても水生はきっとわかんないだろうな。『嵐が丘』って知ってる? ブロンテって女の人が書いた小説」
「読んだから知ってる」
わたしは見栄を張った。読んだのは原作じゃなくてマンガだ。
『嵐が丘』は、我侭娘のキャサリンと、ジプシーの子ヒースクリフの、悲恋の物語だった。
「曽祖父の邸は、その舞台みたいなところでさ、天気が悪いと風がゴーゴー鳴って怖かった」
会長はまたコーヒーを飲んでる。わたしもつられて、飲んだ。
「どうして家出したの?」
「婚約のせいかなあ。まあ政略結婚だな」
「許婚だっていう子に会ったよ、昨日わたし」
「知ってる。彼女からきいた」
「本当に婚約してるの?」
「まだ口約束だけなんだ。本契約は、俺が18になったら、ってことになってる」
「――昨日で18になったんでしょ」
「そうなんだよね、参った参った」
他人事みたいだ。会長はぽりぽりと頭をかいた。
「婚約しちゃうの? 結婚するの?」
「することになるんだろうけど、俺としてはすっごくいやだ」
「でも、親の命令って絶対なんでしょ、金持ちのお坊ちゃんとしては」
「それはそうだけど、人間としてダメだと思うんだよ――彼女、俺の異母妹だから。戸籍上はオッケーでも、生物学上はアウトオブアウトでしょ」
「イボマイ?」
「母親の違う妹、の異母妹」
ここまで喋って、会長は、はぁぁ、と長い溜息をついた。
@
「誰も知らないことなんだ。俺以外は。あの女の子も、うちの父親も、相手方の父親もたぶん。彼女の母親と俺の父親はこっそり付き合ってた。でもその女性が産んだのは彼女の夫の娘だと皆が信じてる」
「じゃどうしてそんなこと、会長だけが知ってるの」
「彼女の母親ってひとが、二年前に亡くなったんだけど、その女性から俺が直接きいた。婚約の話が大きくなって云いだせなくなってしまったけれど、私の娘はあなたのお父様との間に生まれた子なのよ、って」
「……」
「だから、絶対に、結婚しちゃだめよ、って」
嘘みたいな話だ。
でも世の中にはたぶん、そんな不思議な話はいくらでもあるような気がした。
何より、会長が嘘を云っているようには見えなかった。
「それは親に話したの? だったら婚約なんてすぐに破談じゃない?」
「云えるかよ。――父親に不倫相手の子がいたなんてさ、俺、誰にも云いたくない。うちの母親だって死ぬほど傷つくし、異母妹にそんなこと言ってあの子の人生を壊したくない。八方みんな傷つきまくりのズタズタでしょ」
誰にも云えない秘密を託されてしまった少年は、どうしようもなく、誰を傷つけることもできずに、高校には一日も通わないまま休学して、曽祖父を頼って渡英したのだった。
「そのこと、ひいじいちゃんに相談したんだね、会長」
「そういうこと」
「ひいじいちゃんは、何て?」
「いっそ親子の縁を切っちまえってさ。親から独立しろって。そのために力を貸してくれるって――ただし条件があって、」
そして会長は、覗き込むように、わたしを見た。
「曽祖父の90歳の誕生日までに、俺は自力で選んだ妻を曽祖父に紹介しなくちゃならない。彼女が曽祖父に認められたなら」
「認められたら?」
「曽祖父は持てる権力の全てを使って、俺の縁談を破談にしてくれるってさ! さらに遺産をたっぷり俺に分けてやるって遺言を書いてくれることになってる」
話が、ぼんやりと、見えてきた。
「そのひいじいちゃんの90歳のお誕生日、って、いつ?」
「来週の火曜日。ところで水生はパスポート持ってるよな? 今週末には出発しないと」
「ちょっと待って。自分の政略結婚を叩き壊すために偽装の契約妻が必要ならわたしじゃなくてもいいじゃないの」
「誰でもいいって訳にはいかんですよ。俺にだって選ぶ権利ある」
「その台詞はそっくりそのままお返しますけども」
わたしは飲み干したコーヒーの缶を会長に向かって投げた。
会長はそれを、ひょいとよけた。
「水生じゃなきゃ駄目なんだ。俺も一応俺なりにギリギリまで悩みぬいたんだけど、やっぱり、水生じゃなきゃ厭だ。俺」
「――わたしたち、同じクラスにいても全然口きいたことなかったじゃないの……わたしがひとよりちょこっと美人だから? ただそれだけ? わたし、会長に何かした?」
「水生がしたんじゃない。俺が水生に、したんだ」
ん?
どういう意味?
「水生が事故に遭ったのは俺のせいだ。俺の責任だって思ってる。だから、嘘でもいいからつきあって欲しい。俺を愛さなくてもいい。俺の妻としてふるまってくれるだけでいい。それで、曽祖父から遺産を相続したら、半分を水生に渡したいと思ってる。それが、君を水の王国から引きずり出してしまった俺のお詫びであり責任であり、この契約結婚の報酬だ」
と、相楽駿は、云った。
「……どういうこと?」
トゥー・ビ・コンティニュードゥッ!