16話
それから俺は無事志望校に合格し、1年も通っていなかった高校を卒業した。
なんの感動も感慨もなく、ああ俺の高校生活終わったんだな、くらいの感想しか抱けなかった。
親しい相手も佐伯しかいなかったし。
佐伯とはまた会おうとか連絡しようねとか、そんな他愛もない話をした。別れ際、彼氏と一緒に上京して同じ大学に通うことを打ち明けられた。佐伯の言葉は周囲の会話に混ざって溶けて、他人事のように感じられた。一言、良かったなとだけ返し、手を振って別れた。
寂しいと思う。同時に虚しい。
佐伯みたいに異性を好きになるのが普通なんだろう。
俺は同性愛者のつもりはないけど、世間から見たらそうじゃない。それなら最初からそう言う相手を探した方が早いのかもしれないが、うまく言えないけど、俺の場合それは違う気がする。
恋愛は一生しなくてもいいと思うようになっていた。心まで女になれそうにないし、この先まともに人を好きになれそうにない。当たり前のことではあるが、大体に行ったら学業に専念しよう。そう考えていた。
3月も終わりに近づいた頃、引越しのために実家で親父の車に荷物を積んでいると、誰かが家に近づいてきた。
千春だった。
「久しぶり」
「……久しぶり。まだこっちにいたのか。何の用?」
相変わらずつれないねと千春は苦笑いした。
「別に大した用事じゃないけど……お互いこの町を離れるから、挨拶くらいしておきたくて。ごめんね、作業中に」
「律儀な奴」
俺は手を止め、親指で玄関を指した。
「上がっていけば。大したもてなしできないけど。今ちょうど家族出掛けてるし」
「ここで十分だよ」
「そう? お前と話すことももうないだろうからと思ったんだけど。まあいいか」
すると千春は不貞腐れたような顔をして俺を見た。
「……そんなに僕と縁を切りたいわけ?」
「そういう言い方はしてないだろ」
「そうだよね、白崎くんはそういう人だよね」
わざとらしくため息を吐く。なんだこいつ。喧嘩売ってるのか。
「いつ引っ越すの?」
「明日」
「明日?……そっか……」
千春はしばらく何か考え込んでいるようだった。
「なあ、やっぱり長引くんなら家入れよ。無駄に目立つから嫌なんだよお前」
「君とは色々あったけど……」
「聞けよ」
「良かったらこれからお茶しない? それ、手伝うから」
「何言ってんだお前。挨拶でお茶が必要なのか」
「これで最後かもしれないんでしょ? 忙しい時に悪いとは思ってるよ」
真っ直ぐに見つめられて、俺は居心地が悪くなった。
「ほとんど積み終わってるから手伝いはいらない。……で、どこに行くんだよ」
「……」
「おい、なんで急に黙るんだ」
「絶対断られると思ってたから。ありがとう、嬉しい」
やけに優しい声音でそう言うと、目を細め柔らかい笑顔を作って見せた。こいつのこういう顔に女子は騙されるのかな、そんなことを思った。
千春に連れて行かれたのはこの間吉野と行った喫茶店だった。
時間は15時を回ったところで、小腹が空いてきたのでちょうど良かったかもしれない。
千春はピザトーストとコーヒーを、俺はプリンアラモードと紅茶を頼んだ。
元々甘いものは好きな方だったけど、男の時はちょっと頼みづらかった。
その点に限って言えば女になって良かったと思う。
「なんでこの店?」
まさか吉野といた所を見ていたんじゃないだろうな。
「……覚えてない?」
「何を」
主語を言え、主語を。
千春は俯いて、口を開きかけるもののなかなか話し出そうとしなかった。
「お前、相変わらずウジウジしてんなあ。自分で連れてきた癖に」
俺は頬杖をつき、呆れながら言った。
「昔……まだ僕達が4つか5つの頃」
記憶を辿るように、視線を遠くにやりながら語り始めた。
「お互いの母親に連れられて一緒にここに来たんだよ。片手で数えられる程度だけどね。君はプリンアラモードが大好きで……そう、今君が食べてるやつ。昔と変わらないなあ。それで、僕が同じものを食べているといつも君が僕のプリンを食べちゃうんだ」
そんなことあったっけ。子どもの頃この店に来たという記憶はうっすらとあるが、千春のことは覚えていない。言われてみるといたような、いなかったような。
「正直記憶にないけど……なんだよ、プリン返せって?」
「そんな昔のこと言わないよ。でもそっか、覚えてないんだね」
寂しそうに笑った。
「お前の捏造じゃないのか」
「するわけないでしょ。……実は僕、記憶力がいい方だから。結構細かく覚えてるよ」
「俺は忘れっぽい方だけど。覚えてるってたとえば?」
「僕がメロンクリームソーダを零しちゃって大泣きしたんだけど。それも食べかけのアイスを落として」
思わず吹き出した。
「それはありそう」
「笑わないでよ」
いじけたように俺を睨む。
「母さんより先に白崎くんが机を拭いてくれて」
「まじか。俺、すごいしっかり者の幼児じゃん」
「アイスでべとべになった口を白崎くんが手で拭ってくれたんだよ」
「…………」
そんな幼児いる?
「なあ、それお前の母さんと俺がすげ変わってないか。しかも何、俺とお前隣同士だったの? お互いの母親じゃなくて?」
「向かいの席の君が身を乗り出して」
「話作ってない?」
「作ってないよ。君のお母さんも僕の母も覚えてるんじゃないかな。君って、結構世話焼きだったんだよ」
「お前には悪いけど、俺は虫持って追いかけ回したり叩いたり脱がせたり罵ったりした記憶しかない」
「改めて言葉にされるとひどいよね」
否定できない。
やっぱりこいつ俺を恨んでるよな。千春の様子を伺う。上品な仕草で、ピザトーストを一口一口咀嚼している。俺だったら30秒も経たないうちに食べ終わるのに。
育ちが違うんだろうな。道理で気が合わないわけだ。
そんなことを考えていると、食べ終えた千春が俺をちらりと見た。
「どうだった」
「おいしかったよ。でも君がじっと見てくるから、途中から味がしなかった」
「見てねえよ」
「はいはい。白崎くんは全然進んでないみたいだけど」
「いいんだよ俺は。すぐ食べ終わるから。で何? 昔話がしたかったのか?」
「前君に嫌いって言ったこと、訂正したいんだ」
「あー、そんなことあったな。いいよ今更取り繕わなくたって。本心だろ? お前が俺を嫌いでもそうだろうなとしか思わない。まさか最後に俺の心象良くしようとか思ってんの?」
「嫌いっていうか苦手だったんだけど……そうじゃない部分もあって」
「少しはいいところもあるってフォロー?」
俺はお前のそういうはっきりしない物言いが嫌いだけど。そう言いたいところだが、今口にする程野暮ではない。
「そうじゃない。色々助けてもらったから。感謝してるんだ」
確かに昔の俺は多少は千春の面倒を見ていたかもしれないが、あまり記憶にないということはほんの数回程度なんじゃないか。こいつの中ではわずかな俺の善行が悪行に勝る印象を残しているんだろうか。例えるなら、普段からロクでもない奴がたまにいいことをするといい奴に見えるけど、優等生がちょっと悪いことをしたら前者よりも悪い奴に見えたりする現象。俺は前者だったんだろう。
とはいえ、今更俺を善人のように語られると寒気がする。なんせ悪行しか記憶にないんだから。
罪悪感を覚えた俺は、プリンを一口掬って千春の口元に向けた。
すると、千春は目をぱちくりさせて俺を見た。
「ほら、返すよ。なんかお前に申し訳なくなってきたし。ほんの少しだけどな」
動きが停止しているようだった。
「あ、スプーン? 大丈夫だよまだ使ってないから」
「白崎くんて、そんなタイプだったっけ」
俺は首を傾げた。
「何のことかわかんないけど、いらないのか」
「……いる」
千春はスプーンに口元を寄せ、ゆっくりとプリンの欠片を飲み込んだ。
「美味しいよ。ありがとう」
俺から目を逸らしながらお礼を言われた。
「何だ、一口じゃ足りないのか。もっと食べる?」
「もういいよ。十分だから」
「ならいい」
俺の取り分が減ったのは残念だが、多少なりともこいつの気が晴れるなら仕方ない。
その後しばらく取り止めのない話をいくつかして、俺達は店を出た。
「それじゃ俺、ちょっとコンビニ寄って行くからここで。じゃあな」
「あ‥…」
踵を返そうとする俺の腕を千春が掴んだ。
驚いて咄嗟に手を振り解こうとしたが、千春は珍しく焦ったような、困ったような顔をしている。
ここで突き放したら昔みたいに泣くんじゃないか。そんなことはないだろうけど、そう思わせる表情だった。
「まだ何かあるのか。俺達にしては結構話しが続いた方だと思うけど」
「吉野くんとは、その、どうなったのかなって‥…詮索したいわけじゃないんだ。でも、気になって」
「吉野?」
なんでまた吉野? まあでも、結果は気になるものなのか。
「フツーだよフツー。説明したら理解してくれたよ。俺の正体も腑に落ちたみたいだし、俺への妙な憧れもすっぱりなくなったとさ」
「そうなの? 本当に?」
千春は眉尻を下げて不安そうに俺を見た。
「何を心配してるのか知らないけど、俺としては万々歳だよ。どう? これですっきりしたか?」
「あ、うん‥……良かった。良かったね‥…」
「お前さ、言いたいことがあるならちゃんと言えよ。前も同じようなこと言った気がするけど」
ボリボリと頭を掻きながら俺は言った。すると千春は、俺の手をとり強く握りしめた。
「いた、お前 力強すぎ! てかベタベタ触るなって……」
抗議の声をよそに、千春は口を開いた。
「今日が最後だなんて言わないで」
「え?」
「このまま離れていってて、知らない街で生きて、その内お互いの顔も思い出さなくなるなんて」
ぽつぽつ雨が降り始めた。もう春とは言っても、頬に触れる雨粒は冷たい。
「でも俺達、仲なんて良くなかっただろ。そんな別れを惜しむようなこと言われても。俺もお前も、今までずっと避けてきたのに。まさかとは思うけど、俺が女になったから見る目変わったとか、そんなんじゃないよな? 言っておくけど、自惚れじゃなくて確認な」
「……ちょうどいいきっかけだったんだよ。君が苦しんでたのにこんな言い方は良くないけど。君が僕を嫌ってたのは知ってる。僕も君が苦手だったし。でも本当は君に憧れてた。対等な関係に、友達になりたかった。性別なんて関係なくて‥…」
苦しそうに吐き出される言葉。俺を揶揄っているとは思えなかった。
「散々お前のこといじめてた相手にそう思うなんて、頭おかしいんじゃねえの」
「そうかもね」
「つまり俺と友達になりたいって?」
「……形にこだわりなんてないんだ。君が嫌じゃなかったら、その、これからも、気が向いたときでいいから、本当にたまにでいいから、今日みたいに話ができたらって……」
だんだん弱まっていく語気に、俺は同情とも庇護欲とも似つかない感情を抱いた。
思えばこいつのことはよく知らない。昔は泣き虫でいじめられっ子で、今はいけすかない優男だってことくらいしか。好きなもの嫌いなもの、得意なことも苦手なこともほとんど知らない。知る機会も必要もなかったからだ。でも今は少しだけ興味が湧いている。
「いいよ」
俺の言葉に、千春は目を丸くした。
「俺は薄情だからこれで最後だろうが気にもしなかったんだけど。でもまあ、そこまで言われたら断ろうなんて思わない。ああ、期待はするなよ。俺は筆まめでもないし、お前の大学俺の大学からまあまあ離れてるし……でも時々連絡する。気が向いたら会う。それでいいか」
「なんだか、僕がそう言わせちゃったみたいに聞こえる。嫌だったら、本当に……」
「俺がいいって言ってるんだからいいんだよ。いつまでもうだうだ言ってると気が変わるぞ」
「うん。ありがとう白崎くん。これからもよろしくね」
ようやく千春の手が離れて、俺達は別れた。
静かな雨が降り続く中、また今度と手を振って。




