無重力G
もし、無重力の部屋を作れたら。
一度は、体験してみたかった。
……
酉之南高校の1年B組、放課後、ある女子高生以外誰もいなくなった教室に俺はやって来た。夕方なので赤い光が校舎を照らし、それは俺が来るのを待ちわびていた女子高生の顔にも当たる。
「話って何、神奈川さん」
俺は黒板付近にいた彼女に近づいていった。これから部活なので体操服を着ている俺と、文化部なので制服のままの彼女、神奈川みい。猫みたいな名前だよな、なんて半年以上前にもなる入学式後に渡された名簿を見て思ったっけ。大人しそうで、まあ普通、っていう印象しか今までになかった。
勝手に俺がつくるイメージだと、家で編み物か料理でもしてそうな家庭的な雰囲気だった。
でもそんな内気そうな彼女が6時限目の終わりに俺へ、話しかけてきて言ったんだ。「大石くん。放課後、話があるんで待っててくれる?」って。だから着替えて、部活にいく前に教室へと戻ってきた。
呼び出して、一体何の話なんだろうか。
とか言いながら、8割がた俺は告白されるに期待している。物ごとはいい方に考えたらいいんでね。ああ喉が痛い、ごほごほ。
「風邪? 大丈夫?」
彼女は心配そうに俺を見て言った。
「あ、いや。平気だから」
視線を相手から逸らし、斜め上方向をわざとらしく見た俺。声の調子を整えただけだ。「あのね……」ためらいがちに、彼女は俯きながら次の言葉を出そうとしていた。
だがその時だった。
「え……」
「うわ」
体が軽くなる。
始め、上にと引っ張られたかと思ったんだ。足が浮いたから。
同時に、体重を忘れた。
「きゃあああ」
「なん……」
フワッとする感触がして、まるで羽が生えたようにも思えた。足は床から離れ、速く蹴り上げたように動かすと後ろへひっくり返りそうになってバランスを崩し、俺は慌てていた。
自分のことに精一杯になってしまって、周囲も神奈川さんのことも後になっていた。
「危ない、大石くん!」
彼女の声に俺はやっと周りに関心が向く。「へ?」間の抜けた声を出して顔を上げると、視界が真っ暗になった……星が飛んだ。ガツン。「ぎゃあ」
歯にも当たって、衝撃と痛みが全身に広がっていくようだった。状況を確認してやっと解る、今、俺に当たってきたのは教室にあったイスだった。
俺は空中に浮いている、それはそばの神奈川さんもそうだった、それから俺たちだけでなく教室にあった机やイスがクラス人数分、黒板消しやチョーク、花瓶、プリントや教科書、塵ゴミほこり、誰だグラビア雑誌なんか置いてた奴は……それらが皆、宙に浮いていた。
(どうなってんだ、こりゃ……)
「どうなってるの、大石くん!」
神奈川さんも困惑して俺の考えていたことと同じことを言った。お互いに聞かれても、と思う。それより気をつけていないとまたイスや机が襲撃してくるかもしれないぞ。歯についた痛い衝撃は少しずつ治まっていったがまだ手で押さえていた。ふが。
「フガガ……神奈川さん、落ち着いて。どうやらこの教室だけみたいだ、外は……」
俺は手で押さえていた顎を突き出して見るように促すと、窓から外を見た神奈川さんは本当だわ、とますます難しい顔をした。俺たちがいる3階の窓から見えるのはサッカーやソフトボールをしている部活中の生徒、平穏なグラウンドの光景だった。何にも変わった所は見られない。
「外は普通だわ、地面から浮いているのは、私たちだけみたい……というよりは、教室のなかだけみたい」
「水中にいるみたいだな。すげー気持ちいいんだけど」
俺は感想を口に漏らしている。神奈川さんも激しく同意して、肩までだった髪や膝までだったスカートをひらひらと翻し、目を閉じて安らいでいった。宙に漂う物は皆穏やかで、速く動くことはない。それなりに気をつけていれば当たらないし当たっても骨が折れるとかはなさそうだった。
「泳いでいるみたい……ねえねえ、そういえばねえ」「え?」
「子どもの頃、プールの授業で光る石とか拾わなかった?」
彼女は何かを閃いたようで、俺に聞いてきた。光る? 石? 何のことだったろうか。
「先生がプールのなかに予め石をばら撒いておくの。水面から見ててピカピカ光っててさ、私たち生徒が先生の号令で潜っていって、石を拾うの、たくさん」……
俺は最初、何で彼女がそんなことを言い出したんだろうと考えていた。俺が水中と言ったからだろうか。「どうだったかな。忘れた」俺からは乾いたような返事しかない。
「ええい、クロール!」
突然、神奈川さんは腕を振りまわしてかいて、バタ足で前に進もうとした。「ちょ、ちょっと!」
彼女が大きく運動したせいで、周りのイスやゴミがつられて漂う速度を上げた。それはそうとスカートがめくれて、めくれ方によっては太ももの奥から白い物が……ごほんごほん。
「風邪? 大石くん」「いや」
目を逸らし、適当に思いつくことを言った。
「宇宙飛行士にでもなったみたいだよね」……
そうだ、これは宇宙遊泳なんだ。ここは宇宙なのか、それは楽しい。
さっき浮く時に感じたのは、エレベータに乗って動き出す時に感じるあのフワッと感、まさしくそれだった。それが長く続いて、羽が生えたように思ったんだ……
上も下も判らない、だから回転してもへっちゃらだ。イスなどの障害物、宇宙なら宇宙ゴミか、には衝突に注意しないといけないが。
「何で体験できちゃったんだろ……これって『無重力状態』ってやつじゃない?」
背伸びしながら彼女は嬉しそうだった。
「違うだろ、落ちてないじゃないか」
俺が言うと、彼女は疑問を顔で表した。「落ちる?」
「えーっと、だから……」
俺はどう説明しようか迷う。察するに、彼女はたぶん宇宙飛行士のつもりになって、宇宙船に乗って宇宙空間を飛んでいる夢を見ているに違いない。搭乗している宇宙飛行士は今の俺たちみたく浮遊してはいるが、そう『見える』だけであって、それは例えばスペースシャトルや人工衛星なんかは地球に向かって自由落下している、重力に引っ張られているせいだ。
正確に言うと、無重力ではなく『無重量』、重力の影響を受けていない状態を無重力、重力が存在していても何らかの力で打ち消し、あたかも重力が無いように見える状態を無重量と言う……そもそも、こんな長時間ずっと浮遊できるなんてどういうことなんだろうか、有り得ない。
「大石くん?」「あ、ああ、ごめん。考えごと」
「大石くんすっごい険しい顔してた。何か悩ませちゃった?」
「いや、まあ、重力について色々と」
頭を掻きながら取り繕っている俺を見て彼女は、ふうん? と可愛らしく首を傾げていた。
「せいぜい落下しないと無重力状態なんてなるわけないし、ジャンプする一瞬程度なら解るがこんな長時間この状態でいられるなんて、変だ。重力じゃなく、磁場か電導か……別の働きがこの部屋に」
俺はブツブツと独り言を言い出していた。彼女は呆れたような顔をしていた。
「物理詳しいんだねえ、私もっと気楽に考えてたよ」
俺は口先を尖らせる。物理に詳しいのは、授業に科目選択でとっているからだ。「気楽に考えられなくてね、こんな状態」ちょっと拗ねたように言ってしまった。
「神様が用意してくれたプレゼント、って思うことにしてるよ」
彼女の気楽さは、そう結論づけた。
「そうだな……」
呆れて、でも次には笑いがこぼれて、俺は笑顔のまま泳いで彼女に近づいていった。
どんな巡り合わせかは解らないが、有り得ないことを有り得ないと決めつけるより事実を受け入れてしまえばいいだろう、不安がるよりは。せっかくなので楽しむことにしよう、恐らく二度はなさそうな、貴重な体験なのだから……。
外は変わらず、山や校舎はここに比べて静止しているように見え、あれが全部重力のおかげで動かないでいられるんだよなとまだ未練たらしく物理を持ち出していた。変わるものといえば沈みかけていた夕日だった。
俺は俺らを宇宙飛行士みたいだと言った。
昔観た、NASAの映像を思い出す。月面着陸した飛行士の、月から見た地球の映像を。親指サイズほどの地球、上部だけの半円、青く輝く宝石箱だと誰かが言った。真の感動は言葉なく映像で伝えられたんだった。夕日は赤く刺激的だが、地球は青く神秘で満ちあふれている、壊れそうな小さな天体。
「ここには俺と、神奈川さんしかいないよな……」
孤独を感じて、俺からそう思いがこぼれた。
圧倒的な孤独。きっと今の俺と似たような感覚で、もっと強大な抑圧を、飛行士たちは感じたに違いない。着陸した月には生物がいなかった、降り立った宇宙飛行士たちだけだった。管制センターの担当官たちの声が通信で聞こえても直接彼らのそばにいるわけではない、月に来た彼らは自分たちの力を信じて来た時と同じく帰還せねばならない。先を示すため――残された地球人類や家族のためにも。
窓から見える建物や風景は整然だ、あのなかに生物がいて光があって、生活があって。
それを小さな俺たちは今、見つめている。
「……私がいるよ、大石くん。ひとりじゃないよ、……寂しくなんかない」
傾きながら、神奈川さんが言った。「神奈川さ……」
見れば真剣だった。せっかく笑えた俺の顔も、表情を失って相手を凝視してしまう。彼女は見えない何かに抵抗しているかのように言葉に詰まって、ごく、と唾を飲み込んで緊張していたようだった。
無重力の空間はそういえば体に良くはない、浮き始めてから何分が経過していたんだろうか、俺は不安になった。「大丈夫か、気分が悪かったら……」
教室を出ることが出来ればいいんじゃないかと思った、その時だった。
「好きです。大石くん」
俺は過去に予想した通り、告白されていた。
……
数分間だった無重力時間は、終わりを遂げた。
俺たちは去ろうと、教室を出ようとした時だった、白衣を着ていたがなかは黒服の数人に出会い頭に衝突し、俺たちが床へと通常の落下で落ちかけたのを庇うようにして、取り押さえられた。
無理やりにカプセルみたいな物を飲まされる。口も塞がれて大声なんて出せなかった。
消えていきそうな意識のなかで、神奈川さんの身も気になっていたし、時々に会話している奴らの言っていた内容も気になっていた。
意識が遠のいていく。口のなかに大根おろしみたいな味が残っている。
ああ、もうダメだ、眠い……。
「……で、実験はどうだった」「可もなく不可もなく。ハプニングでしたが人体にも影響ないみたいで」「未来へ帰るぞ、記憶は消したか、起きたらまずい」「そうですね」……
暗闇へと引力で引っ張られていくようだった。
……
目が覚めたら、隣に並んで神奈川さんが寝ていた。
しかも寝ていた場所が1年B組、教室を出た廊下だった。「はくしょん!」敏感に寒気が全身を走り、くしゃみを連発しまくった。「へくしっ」
本気で風邪ひくぞと神奈川さんを急いで起こして、俺は上着を取りに室内へ入った。教室のなかはちゃんと机とイスが元通りになって……元通り?
俺は釈然としない気持ち悪さを軽く覚えたが。元通りって、どういうことだっけ?
「何だ? 大事なことを忘れている気がする……」
壁に手をついて考えてみても、答えが浮かばなかった。すぐに諦める。
「落としたよ、キーホルダー」
廊下で座り込んだままだった神奈川さんが、俺の方を見上げながら言った。大きな星で英字がかかれた、カバンに付けていたキーホルダーだったが、何でこんな所に?
上手く事態が呑み込めなかったが。
「あ、ありがと」
俺がそれを受け取ろうとして神奈川さんの手に触れた時だった、くすぐったいような気持ちが俺を襲う。しかもそれは神奈川さんも同じだったようで、妙に顔が赤く染まっていく。
お互い様だった。
ひとりじゃないよ、またここから。
何処かで声がする、神奈川さんかと思った。
神奈川さんが近くになって俺に彼女と呼ばれるようになった時。
忘れられた置いてきぼりの約数分間は、のちに取り戻されるだろう。
《END》
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