コールアンドレスポンス
ブレーキの効きが良くないことは分かっていたのだけど、それを思い出すのはブレーキを踏んでからだった。前方に見える信号機が赤色に変わるのが見えてブレーキを踏み始めたけどスピードがあまり変わらなくて、そこで焦って力強く踏み込みようやく車は止まる。
目的の街まではもう少しあったのだけど、走ってきた田舎道を左にハンドルを切った。すると緩やかな下り坂が続いていた。その先に、これは気のせいかもしれないのだけど、どんよりと淀んだ、何となく部外者を拒んでいるような集落が見えた。
緩やかな坂を下っているとカーブにさしかかったのでブレーキを踏む。そこでまた思い出す。平らな道ですら効きが悪いブレーキは、緩やかとは言え下り坂で効くわけもなくスピードを落とさずにカーブへ入った。
「よい、よい、よい、よい、おっとっと」
なんて言いながら対向車線に大きくはみだしつつ何とかカーブを曲がり切った。はっきり言って危ない。今のタイミングで荷台に牛を十五頭乗せた大型トレーラーが対向車線に現れたら、そんな事を考えるとドナドナドナ。子牛じゃなくて大牛だよ。一息ついたのも束の間、チョンの間、あっちゅう間に次のカーブが迫ってきた。一応ブレーキはベタ踏みしているから少しはスピードが落ちているのかもしれないけれど、概ね時速にして三十キロメートルは出ている。
「くいぃぃぃぃぃぃぃんて、もうちっと、くいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん」
ハンドルを切りつつ身体も遠心力に逆らうように斜めになる。そこでブレーキが急に効いてカーブの途中で車が止まった。
「なんや急にブレーキ効いてからにして、こん畜生」
とかなんとか言って、止まってしまったエンジンを再スタートすべくギアをニュートラルへ戻し、キーをキュルキュル回してもエンジンはかからない。
少し困ったけど閃いた。ここは緩やかだけど下り坂ではないか。それであれば押しがけが出来る。ブレーキペダルから足を退けるとニュートラルに入った状態のマイカーはゆったりと坂を下り始めた。段々とスピードが上がってきて、あとはクラッチ踏んでギアをサードへ入れクラッチペダルから足を離すとエンジンがかかる寸法だったのだけど、マイガー!次のカーブが現れた。
「なーんでーやねーん」
状態にツッコミを入れてみた。けど本当はそんな事している場合では無かった。さっきよりもスピードが出ていた。すかさずクラッチを離すとガコンとなりエンジンが再始動したのだけどそのままカーブへ突入した。エンジンブレーキが効いて多少スピードは落ちたみたいだったけど対向車線を越えて、そのまま中途半端な間隔の空いたガードレールとガードレールの間を車は突破してしまった。
「ガードレールの意味ないやろがぁ、阿呆陀羅ぁぁぁぁぁ」
車は、草の生い茂った割りとなだらかな斜面を、割りとスピードをつけてボコスカ言わせながら下って行った。三十メートル程下りきると、グラウンドみたいな所に落ち着いた。
乾いた薄茶色の地面には所々雑草が顔を出している。かなり広い土地に車が五、六台バラバラに停まっている。
「なにここ?」
上空には素敵な青空が広がっていた。ひばりの囀りも聞こえる。目線を戻すと、広場の入口みたいな所に手書きの看板が立てかけてあって、駐車場と書かれていた。特に料金を払ったりする施設も見当たらず、その看板に料金表みたいなものも無く、何というか、誰でも停めていいよ!マジで!みたいな感じに思われた。
とりあえず一服しよう。運転で疲れたから、カフェでアイスコーヒーでも飲もう。それで身体を少し休めてから、あの街を目指そう。そう思い車から降りて、駐車場の入口みたいな所から歩いて出た。出る間際にあの手書きの看板を見ると、横のところにラーメンマンが描かれていた。当然額には、中と書いてあった。
駐車場を出て左へ曲がると交差点があり、その交差点を右へ歩くと商店街の入り口があった。アーチ型の古びた門柱に[ようこそ和右衛門商店街へ]とあった。何て読むのだろう。わうえもん?かずえもん?まぁそんな事はどうでも宜し、とりあえずカフェを探そう、そして疲れた身体と脳を休めよう。そう思って商店街へと足を踏み入れた。なんとなく明るさレベルの目盛がひとつ下げられたような、全体的に照度が、ルクスが下がったような気がした。
「こんなとこに来るな言うたやろ」
金物店らしき店の前を歩いている時だった。後ろの方から声がした。振り返ると、黒い自転車を押しながらゆっくりと歩く老人が目に入った。老人は目を瞑っていて顔は横を向いている。自分に向かって言っているわけでは無さそうだったので、気を取り直してカフェ探しを再開する。
「お前や、お前。こんなとこに来るなて言うたやろが」
振り向くと老人は自転車を横たえ地面に座っている。完全に目を閉じて下を向いていた。周りを見ても人は居らず、かと言って自分へ言っているわけでも無さそうなのでまた歩き出そうと思ったところで発見した。老人の傍らには猫が居た。
「なんや、猫に言うとったんかい。まぎらわしいのぉ」
早よカフェで一息つこうと歩き出すと老人の声がする。
「チュウ」
は?と振り返ってみると老人はしっかりと此方を見ていた。目もギンギンに決まっていた。口元がチュウって感じのまま止まっていて、傍らの猫までもが老人と同じ顔つきだった。なんか気色悪かった。
昼間の商店街には人の姿は無く、店は営業しているみたいだけど活気はゼロだった。さっきから気になってはいたのだけど、商店街の両側には微妙な大きさの紅白幕が張られていて、なんとなく大売出し的な事を演出したいのかなと思ったけど、そういう雰囲気でもなかった。商店街に足を踏み入れてから人に会っていない。居たのはさっきの老人と猫だ。これではカフェどころではない。
商店街の中程に魚屋があった。店先の冷蔵ガラスケースの中には氷が敷き詰められ、その上に生きの良い魚がドヒャーっとある。のが普通だけれど、ガラスケースの中は微妙な量の氷と素人目にも鮮度の下がった魚が四尾、横たわっていた。
「あのう、すんません」
声をかけてみた。返事はない。店の奥をガン見してみると、人影がゆっくりと動いているのが見えた。その人影はこっちに向かってきていた。それにしてもかなりのスローモーションだ。ようやく顔が見えるくらいまでの距離になった。
「はい、なんでっしゃろ?」
身体の動きとは反比例して、サクサクした言い方だった。少し早口な感じさえした。
「すんません、ちょっと聞きたいんすけど、この辺にカフェってありますか?」
魚屋のおっさんは困ったような、猿の屁を嗅いだような、道端にあったうんこを踏んでしまったような顔をしてから答えた。
「カフェってなに?」
あ、そっか、迂闊、部活、串カツだった。おっさんやからカフェなんて言い方しないんや。そこでもう一度聞いてみた。
「喫茶店というか、コーヒーやその他の飲み物なんかを提供してくれて、その店でちょっとした食べ物、例えばスパゲッティだったりピラフだったり将又ケーキなんかのデザート類が食べられるような店ってこの辺にありませんか?」
するとおっさんは薄ら笑いを浮かべたり、ちょっと吹き出したりしながら涙目で教えてくれた。
「兄ちゃんどっから来たん?プププ、そんならそうて言うてくれれば良いのに、カフェとか訳わからん事言うから。ワッチュウ屋の事かいな」
「ワッチュウ屋?」
「は?今どきの若いもんがワッチュウ屋知らんのかいな?さて何て説明しよかいねっつーか、さっき兄ちゃんが言うてたような店の事やがな」
ワッチュウ屋ってカフェって事?ポカンとしてたら、おっさんがあきらかに小ばかにしたような顔で更に付け加えた。
「ワッチュウ屋知らんて、兄ちゃんの地元には無いんかいな?あらあらあら、お涙頂戴やあるまいし」
そう言って五、六軒先を指さした。
「あの黄色い看板あるやろ、そのワツドモ屋の横がワッチュウ屋やわ」
また変な用語が出てきた。ワツドモ屋ってなに?自分は無意識のうちに、どす黒い目でガラスケースの魚へ向かって、腐ってしまえビームを浴びせていた。おっちゃんは慌てて「かなんがなかなんがな」と言い、「もしかしてワツドモ屋も?」と聞いてきた。そこでおっちゃんは急に「あ」なんて言って理解したみたいだった。
「今日さ、今日わかる?トゥデイな」
完全に馬鹿にされていると思った。
「今日も明日もやけどワッチェム商店街は中売り出しやねん。今週いっぱい中売り出しなんよ」
このおっちゃんは何を言っているのだろう?ふざけているのか何なのか。そこで商店街入り口のアーチ型の門柱を思い出した。あれワッチェムって読むのか。するとおっさんはまともに話しておるって事なのだけれども、チュウ売り出しってなんやねん?
「ワツドモ屋寄ってくか?今日は中日やからワツ共がいつもよりも詰めとんぞ」
何がなんやらさっぱりだった。
「小売り出しよかはやっぱ良いわな。小とか無理にやらんでもええのに、まぁ中もアレやけどな」
「中売り出しってなんですの?小売り出しとか」
「あああ、ああそうやね」
そう言って頭をカクンカクンさせ、ヘッドバンキングみたいな感じで考えを纏めているようだった。
「会長が、商店街の会長が一昨年代わって、今の会長になったんよ。新会長は商店街の売上を伸ばそうと考えたんやね」
「はぁ」
「年に何回かの大売出しとかあるやんか?歳末とか新春とかサマーとか、そん時はそりゃそこそこ売上は伸びるんやけど、通常営業の時は駄目やねん。で、新会長が提案した秘策が、大売出しの時期やない時、つまり今月みたいな六月とか中途半端な月でも、月のなんつーか中途半端度に応じて小、中と売り出し期間を設定したわけよ。それによってここワッチェム商店街は年間通して売出しをしているって寸法なんよ」
それで六月である今は中売り出しって訳かぁ。ってコラ。つい、そんなノリ突っ込みをもやってしまうほど頭が混乱してきた。そう言えば商店街の両側に張られている紅白幕の大きさに違和感を覚えたのは、もしかして中くらいの大きさだからって事か。小売りだしの時はもっと小さくなるんかーい。自分の考えに突っ込んでいると、おっさんが提案をしてきた。
「兄ちゃん、せっかくやからワッチュウ屋いくまえにワツドモ屋行ったら良いわ」
そんな事を言われてもワツドモ屋が何屋なのかも分からない。考えあぐねているとおっさんが店の奥へと消えていった。そしてまた出て来て俺の肩に手を置き、軽くトントンとした。
「兄ちゃん、初めてやろから一緒に行ったるわ」
という訳でおっさんとワツドモ屋の前までやって来た。ワツドモ屋の中からは活気に溢れた声がしていた。暖簾には大きな丸の中にカタカナでワと書かれていた。
「ここからなワツ共を呼ぶんや、やってみいや、ワツ共よーいって呼んでみ」
かなり躊躇したけどしょうがない。ごめんください、みたいなテンションで言ってみた。
「ワツ共やい」
店の中からは活気のある声がしているけど何の変化も無かった。おっさんは腐った魚を見るような目でこっちを見ていた。
「全然駄目。言うても中売り出し期間中のワツドモ屋なんやから、こう、ガンといかんと、見とけよ」
そう言っておっさんは息を深く吸い込んだ。
「ワーツドーモよーい」
かなりデカい声でおっさんが言うと店の中が静かになった。そして一斉に声を合わせて返ってきた。
「なーんかーいなぁー」
「きーぶんは、どーう?」
「さーいこーよーん」
「のーってるかーい?」
「バーリバリよー」
「あーりがーとさーん」
「まーたきーてねぇー」
おっさんの顔が爽快になっていた。おっさんだけじゃない。それを目の当たりにしていた自分も何だか気持ち良くなっていた。
「始める時がワツ共よいで終わる時はありがとさん。途中の文言は自由やねん、言わばワツ共達とのセッションや、長さも決まってへんから好きにすればいい」
おっさんはそう言ってワツドモ屋をあとにした。少し歩いてから何かを思い出したように振り返った。
「そうそう、教えてやったんやから帰りにうちで魚買うてくれや」
そしておっさんはまた歩き始めた。魚なんかどうでもよかった。ワクワクしていた。この胸の高鳴りはなんだろう。きっと、こういうのやってみたかったんやなぁ俺。
やるか、よし、いきますか。
「ワーツドーモよーい」
するとさっきのようにワツドモ屋の中から声を揃えて返ってきた。
「なーんかーいなぁー」
来た来た来た来た来た。さ、どう繋ぐ。考えがまとまらず心の声が出た。
「あうあうあー」
すると
「あややややー」と返ってくる。完璧やんけ。それからはアドレナリン放出タイムに突入した。
「お前らサイコー」
「お前もサイコー」
「うーんこブリブリ」
「しーっこもマンネリ」
「オケツとキャン玉くっつけてぇー」
「やりたくなったら、でガンショー」
なになになになにこの感じ。
「つーるは?」
「せーんえーん」
「亀はぁぁぁぁ?」
「わいでまんねーん」
クライマックスをむかえていた。
「オッケーオーライ」
「チンゲモボーボー」
「あーりがーとさーん」
「まーたきーてね」
感動の嵐が身体じゅうを吹き荒れていた。生まれて初めて味わったようなエクスタシー。何もかもが黄金に輝いていた。そしてもう一度、いや二度三度、快楽で頭脳と身体がデレデレになるまでワツドモ屋で繰り返した。最後の「あーりがーとさーん」は声が裏返っていたと思う。
黄金に輝く商店街の道を歩いて駐車場へと向かった。車に乗り込みエンジンを始動する。駐車場を出て黄金に輝くワッチェム商店街をあとにする。カフェや魚屋のおっさんの事など忘れていた。もちろんブレーキの効きが悪い事も忘れていた為に目的の街へ着く前に事故った事は言うまでもない。
痛くもなんともない。ただ頭の中はワツドモとのコールアンドレスポンスで満たされていた。
〈了〉