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向日葵の畑で  作者: 田代夏樹
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カムバック

 催眠治療は十五回を数え、季節はすっかり春になっていた。三月、桜前線の話題がニュースで頻繁に取り上げられる頃、俺の記憶は二十一年の四月まで取り戻せていた。しかし。

「ゴールデンウィーク以降の記憶がなかなか出てきませんね」

薫子先生が珍しく笑っていない。三月末になってからの治療は進展していないのだ。

「山崎さん、今更ですが催眠療法による記憶の回復って、どんなイメージですか?」

「眠っているような、夢を見ているような・・。意識もあるのかないのか、はっきりしません。自分の体験なのに、どこか俯瞰的に見ているような感じもしますし」

「記憶を思い出すのも夢を見るのも、脳の中で起きていることはほぼ同じなんです。こうやって意識がはっきりしているときは、自分で記憶の引き出しを開けて、欲しい情報を取り出しています。夢というのは、実体験がベースにありますが、それを意識的に取り出しているわけではありません。それに何かしらの外部要因や願望、空想イメージが混ざり合って作り出されるものです。ですから夢の中では現実世界ではできない空中浮遊なんかも起きるし、男の子なら女性とエッチした夢も見るのではないですか?」

確かに。そう言われると妙に納得できる。クラスメートの女の子とエッチする夢、見たもの。実際にはデートしたことも、二人っきりになったこともなかったけれど。

「私は、催眠下での心はコップに張った水の表面のようなもの、と考えています。そこに私が言葉を投げ掛ける。言葉は雫となって水面に落ちます。するとそこに波紋が起きて、水面は揺れます。言葉を重ねて水面に落とすことで波の波長が合えば、波紋は増幅されて波は大きくなり、水面は大きく揺れます。心が大きく揺さぶられることで、記憶を仕舞っている引き出しが開くのです」

俺は地震で勝手に扉が開いた、茶箪笥のことを思い出した。あんな感じか。

「記憶喪失のほとんどは、引き出しの場所が判らなくなっているか、開け方が判らなくなっているか、そのどちらかだと言われています」

「すると潜在意識で記憶を封印している、というのは?」

「引き出しに鍵を掛けている、ということです。今まで取り戻した記憶では、二人の女性と仲良くツーリングを楽しみ、バイク談義を楽しんだ、というものです。おそらくそのお二人、チームNinja400は貴方にとって大切だったもの、のはずです」

「でもそれを示す記録、証拠がない・・・」

「引き出しに鍵が掛かっていては、心を揺らすだけでは開きません」

「ではどうしたら?」

「何か、他の方法を考えなくてはなりませんね。鍵を壊す、インパクトのある出来事、とか。ただ一番いいのは貴方自身が記憶を取り戻したいと渇望し、鍵を開けることですけどね」

難しいな。潜在意識で締めた鍵、つまり俺は思い出したくないと考えているわけで。思い出したくないことを思い出したいに変える方法なんて、あるのか?

「ところで、もうバイクには乗らないんですか? 意外とバイクに乗って走り出したら、思い出すかも知れませんよ? バイクも、貴方の記憶のキーパーツですから」

親からはもうバイクは止めて車にしろ、と言われているが。そうか、そう言えば説得できるな。だいたいもう親から行動を制限される歳でもないし。

「買いますよ。今探しているところです」

明日はバイク屋に行って、相談するとしよう。


 昼飯を済ませてから、バスに乗ってバイク屋に行った。コンビニで饅頭を十個ほど買い込み、店に入ると案の定、常連がたむろってた。

「おー! 珍しい顔だな」

「あれあれ? バイク降りたって聞いたけど? 何の用?」

勿論解っていて言っている。仲間の軽口だ。

「これ、差し入れ。皆も俺をイジルの止めるなら食べていいよ」

ごちそうさーん。四方から手が伸びる。それでも俺イジリは当分続くんだろうな。

「よっ。やっと乗る気になったか」

作業の手を止めてオヤジさんが言った。日に焼けた、しわだらけの顔。爪の隙間のオイルはきっともう洗っても取れないのだろう。

「で、何にするの?」

「やっぱNinja400かなあって」

「大型免許取ったら? 選択肢、広がるよ?H2とかVERSYSとか」

「俺はツーリングユースだから、ミドルクラスで十分だよ」

「そおかあ? 排気量多いが良いって。クルージングも余裕だよ?」

「その分重くなるじゃん」

ああもう。外野がうるさい。

「色はどれにする? 新車だろ?」

オヤジさんがカタログを引っ張り出した。角がちょっと折れてる。

「いや。十五年式の、白にしようかと」

煙草に火を付ける、オヤジさんの手が止まった。

「後期モデルならABS標準装備だぜ? 知ってるだろ?」

勿論知っている。だけど記憶を取り戻すにはあのカワサキがいい。俺には確信めいたものがあった。あのモデルならチームNinja400を探せる。乗り換えるのは記憶を蘇らせた後でも構わない。でも今は白いカワサキ。

「十五年式の白。探せるかい?」

「待ってな。極上のヤツ、取り寄せてやる」

紫煙を吐きながら、そう言ってニヤリと笑った。

 

 オヤジさんの店で注文を入れてから、たった二週間で納車になった。昨日、仕上がったから取りに来なよ、そう電話があったときは正直、マジかって思った。

 ヘルメットを抱えて店に入ると、坂口さんと西やんが居た。オヤジさんはトラブルで動かなくなったバイクの引き取りに出てるという。他の従業員はタイヤ交換とミッションオイルの交換をしていた。俺の新しい相棒は、一番奥だ。

「サンキュー」

と、俺の肩を叩く西やん。何のことだ?

「賭けしてたんだよ、二人で」

と、坂口さん。

「西木くんが、たぶんザキはまたNinja400を選ぶよって言うから、なら俺はそれ以外の車種で、って。オッズは一対十、カワサキ以外ならドロー」

事故の直後に坂口さんが賭けを持ち掛けたらしい。こいつら・・・。

「降りたって噂が出たときは、賭けが流れたー、って思ったんだけどな。いやあ、半年以上経って副収入があるとは。嬉しいよ」

 ワックスの掛けられた俺の相棒は、とても七年落ちの中古車には見えなかった。タイヤは前後共新品に変えられていた。このトレッドパターンは、いつものタイヤじゃない。

「やっぱ目ざといね。気が付いた?」

坂口さんが言う。

「夕べ覗いてみたら、店長がさ、二度と俺の整備車で事故らせやしない、って。それに替えてた。サーキットでも使えるハイグリップタイヤだよ。高いんだろって聞いたら、車両価格が思ってたより安かったから、ってさ。で、俺も」

そうか、タイヤ交換は坂口号か。

「安かったって、まさか中身ボロボロ号じゃないだろうな」

「あほう! あの店長がそんなもの掴むかい。この一週間は時間を見つけては瞬君のバイクに手を入れてたよ。少しでも吹けが良くなるようにって、ポート研磨まで始めてさ。あ、帰って来た」

「よお!」

「オヤジさん、ありがとう」

「なーに。工賃はしっかりもらうよ。で、程度はまさに極上だ。ETCは前のヤツから移植した。タイヤは見た? そうか。これなら雨でも全開にできるよ。それからシフターな、ショートリンクに変えたから、チェンジ感、ちょっと変わったぞ」

「ありがとう」

「よし、瞬君のニンジャ、納車だ。タイヤは一皮剥くまで慎重に、な」

「じゃ早速明日行こう。俺もタイヤの慣らし、したいし」

「どこ行く? 俺も行くよ」

「勿論、扉峠。まずはリベンジからでしょ」

「よし。ザキのカムバックツーリングだ」


 日曜日、朝八時。いつものコンビニ。俺は朝食のサンドイッチとホットコーヒを買って、バイクに寄り掛かりながら食べていた。松本市に二人は住んでいる。もしかしたら今日にでも会えるかも知れない。顔は覚えていないけど、白と黒のNinja400を探せばいいのだから。俺は結構楽観的に考えていた。あと手掛かりはハンバーグレストランだ。美樹ちゃんは昔あの店で働いていたって言ってた。あの老夫婦に聞けば美樹ちゃんの連絡先が判るかも知れない。仮に教えてくれなくても、俺が探してるって伝言と電話番号くらいは受け取ってくれるだろう。

 サンドイッチを平らげ、紙コップのコーヒーを冷ましながら口にしていると、二人一緒にやって来た。西やんは900RS、坂口さんはNinja650だ。

「朝飯は?」

「済ませて来た」

「俺も」

「じゃ、このまま行ける?」

「ノープロブレム!」

「行きましょう」

俺は店内のゴミ箱にゴミを捨て、ミラーに掛けてあったショウエイを被った。

「首都高から中央、岡谷まで。一発目は八ヶ岳PAで。いいかな?」

二人は頷くとアクセルをあおった。

 坂口さんや俺のニンジャはともかく、西やんのRSはネイキッドだから高速は苦手のはずだ。カウルを持たないバイクは、高速走行ではライダーにもろに風圧を浴びる。それでも西やんは、そんなの関係ないね、っとばかりにガンガンアクセルを開ける。948ccの排気量は重い車体を、やっぱりそんなの関係ないね、とグイグイ前に押し出す。坂口さんは還暦のスピード狂だ。知り合った頃は生涯取得赤紙数を自慢していた。彼に未だに免許があるのか不思議でならない。カウルに身を伏せるでもなくまだまだ出るぜ、っとばかりに余裕のライディングだ。そして俺。約八カ月半ぶりだというのに、バイクに乗るのが久し振りっていう感覚が全くない。催眠療法で何度も記憶を辿ったせい。だろうか。

 高速を降りて国道を抜け、県道の199号へ。八島ヶ原湿原で194号、460号、ビーナスラインだ。そして扉峠67号。一旦東へ回って長和で昼飯を済ませ、178号で和田、460号に曲がって再びビーナスラインで扉峠。そこから松本方面に進路を取り、事故現場へたどり着いた。460号から分岐してすぐのところだった。

「ここ?」

「そう。らしい」

「左カーブの先、緩い下り勾配、右カーブ。なんてことないよな」

「うん、大したカーブじゃない。下りだってことを差し引いても、ザキが事故るとは思えない」

俺もそう思う。なんでこんな場所で転んだのだろう。魔が差したってやつだろうか。

「例えばさあ。ビーナスラインで誰かに追いかけられてこっちに逃げ込んで、オーバーペースのまま飛び込んだ、とか?」

「後ろから小突かれた、とか?」

「ここは道幅の狭い往復一車線区間、いくらなんでもそんな無茶するとは思えないけどな。小突くったって、一歩間違えれば自滅だよ」

一部分のガードレールはまだ新しいものに見えた。たぶん俺の保険で張り替えられたのだろう。自滅という言葉が引っ掛かる。まさか、自殺? 何かトラブルがあって自暴自棄になって? ぞくぞくと鳥肌が立った。

「逆に何かを追いかけていた?」

「動物が飛び出してきた」

「それが妥当かなあ。取り敢えず、走ってみるか。この区間をオーバー八十だっけ? 何キロで入れるんだ、ここ」

「この区間、一つ目と二つ目が空いているもの。結構出ると思うよ」

 俺たちは何回か往復したけれど、結論は大したカーブではないってこと。俺らはかなりのスピードで入り、そして脱出した。一つ目の左カーブをスピードに載せれば脱出の加速では八十は簡単に超える。減速してある程度速度を落とせば二つ目の右は問題なくクリアできる。むしろその先の右カーブの方がスピードは乗っている分、危ない。古い山荘に突っ込みそうになった。これはシャレにならん。

 もう一度停まって現場を歩いた。スリップマークはもう見えない。

「ブレーキ痕は何処から始まっていたんだろう?」

「普通なら、ここいら辺でブレーキングの開始だよね」

「ここまで突っ込んだら?」

「そりゃ行けなくもないけど、でもザキの走り方じゃないだろ。ザキはそこまでアグレッシブに突っ込まないよ」

「やっぱりレースでもしてたのかな?」

「追いかけっこするならあっち、ビーナスラインだろ?」

いくら考えても解らなかった。ブレーキポイントにカワサキを置いて写真を撮った。

「さてと。リベンジも完了したし。次は何処?」

「松本。柊さんにもう一度聞いてみる」

「誰それ?」

「お巡りさん」

二人は顔を見合わせて、それからしょっぱい顔をした。


 警察署の駐車場に三台のバイクを停め、短い階段を上がった。丁度柊さんが出てくるところだった。安藤さんも一緒だ。

「久し振りです。あの、山崎です。昨年バイク事故にあった・・・」

「あ? ああ、覚えてるよ。・・・やっぱりバイクに戻ったか。今日はなんだい?」

「すみません。もう一度事故のこと、教えて頂けないかと思って」

「現場には?」

「行って来ました」

「そうか、これから巡回なんだが・・・。あんまり時間は取れんぞ」

俺たちは署に入って行った。

 会議室、なんだろうな。待たされていると、手にファイルを持って二人が入って来た。

「で、何が聞きたい?」

「まずもう一度、写真を見せて頂きますか?」

現場の写真を見た。スリップマークの位置、歪んだガードレールの支柱。壊れたバイク。何枚もの写真を見ながら、無言の時間。

「やっぱり思い出さないのか」

「ええ。現場を走って見ましたが駄目でした。でも判ったことがあります」

「なんだい?」

「このスリップマークの開始位置は尋常じゃない。馬鹿みたいに突っ込んでいます。これは、例えば猪や鹿が飛び出してきて、パニックブレークを起こしたのではないことの証左です」

「なるほど」

「私は、何かを追いかけていたのでしょうか? あるいは追われていた、とか?」

柊さんは何も言わなかった。安藤さんも。

「・・・もしかしたら、トラブルは私の中にあったのかも知れません。自殺するつもりでカーブに入るはずが、直前に怖くなってブレーキを掛けたとか」

「おい!」

叫んだのは西やんだ。坂口さんが制止する。

「それはないと思う。県道67号線はその先でもっと断崖絶壁の崖の横を通る。自殺を選ぶならここじゃない」

「でも私は地元のライダーではないし」

「それに。もし自殺する気なら見つかり難い場所、時間を選ぶもんだ。だって誰かに見つかったら助かってしまうかも知れんのだから」

そういうもんなのか? 俺には自殺者の心理状態は解らないが。突発的なものだってあるだろうに。今度薫子先生に聞いてみよう。あ。

「時間。どうして十時頃って判ったんですか?」

「現場のすぐ上に駐車場があったの、知ってるか?」

「ええ。今日も通りましたから。でもレストランは閉まってましたよ」

「それでも県外から来る人はあそこに入れるのが多いんだ。そして当日、たまたまあそこには人がいた。車を停めて景色を眺めていたら、何かが強くぶつかった衝突音がしたと証言してくれたんだ。それがだいたい十時頃」

「よく探せましたね」

「探すも何も、その人が第一発見者だよ。さすがにあの音はおかしいって気になったらしい。事故じゃないかって、わざわざ下まで降りてくれたんだな。そして通報してくれた」

「ザキの命の恩人だな」

「その人は、私が誰かを追いかけたり、追いかけられたりしたのは見ていないんですか?」

「通報者は上の駐車場で景色をみていたんだ。下の県道は見てはいない。君の事故そのものも見てはいないんだ」

「そうですか・・・」

「それと、証人はもう一人いてな。十時二十分頃、現場を通った車がいたんだ。松本市から上がって来た車が。その運転手は、すれ違った車もバイクもないと証言した。ドライブレコーダも確認したが何も映っていない」

「でも、事故を見てUターンし、ビーナスラインから逃げたってことも・・」

「それなら駐車場から降りて来た第一発見者が見ているはず、そうだろう?」

やっぱり単独事故なのか。

「さ、いいかな? 皆さん安全運転で帰って下さい」

促されて俺たちは会議室を出るしかなかった。

「さ、帰るか」

「ごめん、もう一軒寄りたい場所があるんだけど」

「遠いの?」

「松本インターチェンジと塩尻北との間くらい」

俺はエンジンをスタートさせた。

 走っている最中はとにかくバイクを探した。白いカワサキも黒いカワサキも見つけられない。市内のどこかにいるはずなんだが・・・。

 ハンバーグレストランは休業中だった。店の入り口に貼られた紙。

「店主療養中のため、申し訳ございませんがしばらく休業します」

なんてこった。あてにしていた手掛かりがなくなっちまった。張り紙を見ながら呆然としてしまった。

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