催眠療法
金曜日の朝八時半、俺は心療内科の待合室にいた。足元に大きなバッグ。九時になると同時にモニターに番号が表示される。俺の番号だ。ノックを三回して扉を開ける。
「おはようございます。あら、大荷物ですね」
「おはようございます。これは事故当日に身に付けていたものです。あと、昨年のバイクツーリングの記録になるかと思って、カードの利用明細。使ったガソリンスタンドのマッピングと写真はネットで見れます」
「はい、ありがとうございます。これからの治療は、記録と記憶を結合させることにあります。催眠療法も取り入れますが、リラックスしてください」
「あの、この一週間でいろいろな記録を探しているうちに、いくつか判ったことがあるんですが、それはお話しした方が良いでしょうか?」
「是非お願いします」
俺は、ツーリングキャンパーで、去年はほぼソロでバイクツーリングをしていたこと、夏の信州ツーリングの計画を立てていたこと、それ以降、何故か他の場所には行かず、長野県ばかり通っていたことを話し、その裏付けとなるカードの明細とガソリンスタンドのマップを示した。FBの写真も、その前後のスタンドの利用日から信州の何処かであろうということ。そして今年。ペンションでの着替えにわざわざ靴とサマーセーターを持参し、コンドームがポケットに入っていたことも話した。若い、きれいな薫子先生に話すのはちょっと恥ずかしかったけど。
「あら、男の子ですね」
そう言って笑ってた。笑顔はさらに魅力的だ。
「ちゃんと責任の取れる男子は素敵ですよ」
「・・・つまり、今年の夏、私にはそういう関係となる女性がいた、ってことでしょうか」
「女性とは限りませんが、そういうパートナーがいた可能性はあると思います。キャンプ場でなくペンションを利用したことも、そう考えると納得できますね」
「私、恋愛の対象は女性なんですが」
眼鏡の向こうがきらりと光った気がした。
「山崎さんは記憶を失くしてしまっています。先入観は持たず、全ての可能性を考慮すべきです」
確かに。言われてみればその通りだが。いや。しかし。そう考えると、確かに忘れてしまいたいことでもあるな。ぶるっと鳥肌が立った。
「こちらへどうぞ」
診察室の奥は、間仕切りで応接室のような造りになっていた。大きめのリクライニングシートは背もたれの角度が浅い。看護師にそこに腰掛けるように促され、頭にネットを着けられた。ネットからはコードが出ていて、たぶん脳波を計測するのだろう。シートは体が沈み込むような座り心地で、柔らかい。看護師がケーブルを機械に付け終わると、次にヘッドフォンを持って来てそれも着けるように言われた。ヘッドフォンからは小さな音量で川の流れる音が聞こえた。薫子先生が見下ろすような角度の椅子に座り、マイク越しに話し掛ける。静かな、ゆったりとした、優しい声。
「今、水の音が聞こえていますね。心地よいアルファ波が流れています。少し照明を落とします。リラックスして下さい」
寝てしまいそうだ。
「私の声だけを聴いて下さい・・。今から十、数えます・・。一・・二、五まで行くと体の力が抜けてもっとリラックスできます・・。・・三・・四・・五。はい、完全に力が抜けました・・。今度は、十までいきます・・。十になると貴方の心は、記憶の中に入ります・・。・・六・・七・・八・・もうすぐ記憶の中です・・九・・十・・・」
気が付くとふかふかのシートにずっぽりと沈み込んでいた。あれ? やっぱり寝てしまったのか。しまった。これじゃあ治療にならない。
「気分はどうですか?」
「すみません。気分はすっきりしているのですが、私寝てしまったようです」
「大丈夫、寝ていませんよ。完全なトランス状態に入っていましたね。時間は十五分ほどです」
何か判ったのだろうか? 聞こうとした寸前、
「断片的ですが、判ったことがあります。けれど先入観を持たれると、そのイメージで記憶が書き換えられる恐れもありますので、治療が終わるまで私からは言いません」
そういうものなのだろうか。記憶は書き換えられる?
「大丈夫です。記録は客観的なもの、記憶は主観的なもの。必ず繋がります。この治療を続けていれば、モノクロの写真がカラーに変わるように鮮明になっていくと思います」
「そんなに効果があるものなんですか」
「全ての記憶が蘇るかどうかは何とも言えませんが、断片的にでも蘇ることを言えば大体五割の人に効果は出ています」
なんだ、半分か。
「山崎さんはトランスの状態がとてもいいので、効果は期待できますよ」
気休め、だろうか。
「毎晩寝る前に何かしらの記録を手に持って、一生懸命思い出そうとしてください。お酒を飲まれていても構いませんし、そのまま寝てしまっても構いません」
「わかりました」
「来週も同じ時間でお願いします」
「コレは?」
俺は荷物を指さした。バッグからジャケットが見えている。やっぱり使ったのだろう。
「大変でしょうが持って来て下さい」
やれやれだ。バッグのジッパーを閉じると、ありがとうございました、と言って部屋を出た。これから出社だ。荷物は木曜日まで会社に置いておこう。写真があれば良いのだから。
その晩、早々と暖房を入れた部屋で、テキーラを飲みながら写真を眺めた。FBからスマホにダウンロードして会社の帰りにプリントアウトしてきた。黄色い向日葵畑の写真。何か思い出せそうで、思い出せない。もどかしい。ワンショットグラス、四杯目のテキーラで酔いが回って来た。電気を消してベッドに潜り込む。大きなあくびを一つしたら、寝てしまった。
夢を見た。向日葵畑の中に俺が立っている。振り向くと遠くにカワサキ。その近くに誰かいる。顔が逆光で見えない。白っぽい服はワンピースだろうか、女性だと思えた。近づくと風が吹いて向日葵たちが大きく揺れて波を打つ。あれは薫子先生?いや香子先生の方か。白衣の女医。顔を近づける。こんな美人ならどっちでもいい。目を閉じて俺を誘っている。そっと交わす口づけ、柔らかい唇。俺は後ろに回ってそっと抱きしめる。腕に感じるボリューミーな胸。華奢に見えたけど、結構大きい。後ろからボタンを外して白衣を脱がす。白衣の下は裸だ。うふふって、笑い声。やっぱり薫子先生の方か。肩に手を掛け、こっちを振り向かせると、胸がない。反射的に下を見る。男のシンボルがそこにあって・・・。
「うわあああ」
自分の声にびっくりして目が覚めた。なんという夢だ。勘弁してくれよ、俺は呟いた。
それから、時々夢を見るようになった。というより、夢のことを覚えているようになった。だいだい夢なんて目が覚めたら忘れてしまうようなものだけれど。向日葵畑に立つ俺、遠くにカワサキ、カワサキの近くに誰かがいる、このシュチエーションはもしかしたら現実の記憶なのではないだろうか。
金曜日の診察室、バッグを横に置いてリクライニングシートに横たわる俺。照明の落とした部屋で、ヘッドフォンからは川のせせらぎが微かに聞こえる。薫子先生の静かな、ゆったりとした、優しい声。
「山崎さん・・この一週間で思い出したこと、何かありますか?」
なんだろう、寝ているような起きているような、不思議な意識の中で薫子先生の声が聞こえる。いや感じる。
「暑い陽射しの中、向日葵畑の中に俺が立っています。遠くに俺のカワサキがあって、誰かがカワサキの近くにいます・・・」
話すでもなく呟くでもなく、俺はそれを口にした。あれは夢で見た状況なのに。もう夢なのか現実なのか判らなくなっていた。
四回目の催眠治療が終わって、部屋が明るくなった。目の前には薫子先生。
「来週は五回目ですけれど、その次は年末になりますね。予約は入れられそうですか?」
「年末年始は実家に帰ろうと思います。両親にも心配掛けたんで」
「そうですね。ご実家では昔話を沢山して下さい。一月は第二週から始めましょう」
「はい。地元の友人と盛り上がりますよ」
薫子先生はにっこり笑って、こう言った。
「山崎さん、ここまでの治療は順調ですよ」
ちょっと意味深に思える微笑みだ。ピンクオレンジのルージュが悩ましい。キスしたくなる唇だ。そう思ったら例の夢を思い出した。いや田村姉妹は女性でしょう。あれ? このこと、薫子先生は知っているのだろうか。まさか?
「先生。私、カワサキ、カワサキって言っていますけど、バイクのことなの、判っていらっしゃいますか?」
悟られないようにして話題を逸らした。彼女は微笑みを深くした。
「私たちもバイクに乗るんですよ」
「何に乗ってらっしゃるんですか?」
「私はGSX250R。姉はSR400です」
へえ、そうなんだ。つい反射的に言ってしまった。
「今度一緒にツーリング行きましょう」
あ、いけね。俺、今はバイクが無かった。しかも担当医をナンパするなんて。
「診察室でナンパしないで下さい」
そう言ったのは看護師の方だ。薫子先生は声に出して笑った。
年末に帰省すると、親父もお袋も少し神妙な面持ちで俺を迎えてくれた。
「どうなんや」
「どうって、体?体はもうバッチリよ」
「記憶障害の方は?」
「記憶障害はもう大丈夫。あれからのことは覚えてる。ただ、一年分の記憶はまだ・・」
「・・・記憶喪失か・・」
心療内科で治療を進めていることはいつか電話で話していた。
「担当の先生が言うには、順調だって」
「ほいでも、なんも思い出さんのやろ?」
「記憶の回復は人それぞれなんだって。少しずつ思い出す人もいれば、いきなり思い出す人もおるらしい」
「ま、ゆっくりしてけ。ゆっくりできるんやろ?」
「ああ。今夜はいつものメンバーで忘年会や」
駅前の焼き鳥屋。既にテーブルの上では日本酒の二合徳利が何本も空になっている。
「昔はさあ、焚火なんて何処のキャンプ場でもできたわけよ。それが今じゃ焚火禁止のキャンプ場だってあんだから」
「もう今は地面の直火なんて、どっこも無理よ。焚火台はマストだし、焚火台使ってもNGってとこもあんの」
「適わんなあ。あの、火がユラユラするのがキャンプの醍醐味やんか」
焚火の炎を見ていると心が和む。1/fゆらぎ、だっけ。自分が自然界の一部だって思える瞬間だ。
中学、高校と過ごした悪友、今夜は三人来てくれた。いつまで経っても変わらない友達。会った瞬間、高校時代にタイムスリップする。こいつらとは四季を問わずキャンプをした。満天の星空の下、焚火の周りでいろんな話をした。こいつらがいたから、俺はキャンを覚え、キャンツーにのめり込んだのだ。ふと、誰かと焚火を見ていたことを思い出した。誰だ? いつだ? あの時はソロキャン用の小さな焚火台で、ウィスキーのポケット瓶で飲んでいた。確かに誰かいた。
「マサルのやつ、来年結婚するで」
「マジかぁ?」
「コースケは会社辞めて家業継ぐってよ」
「ほうかあ。俺らももう二十八やし、将来のことも腰据えて考えんとなぁ」
「ザキは帰って来んのかあ?」
「ザキは東京に憧れて、故郷を捨てた薄情モンやからなぁ」
「捨てとらんわ。年末年始は毎年帰って来ようが」
「ほーじゃなくて」
「判っとるよ。でももう少し東京に居てみたい・・・」
「女か? 女やな? くそー! 俺も女欲しい」
「あ、いいのかその発言。小百合ちゃんに言うぞ」
「ありゃぁもう、腐れ縁や。浮気もご自由に、って言いよお」
皆で大笑いして、話はどんどん飛んで行った。
夜、毛布を重ねた布団の中で将来のことを考えた。このまま今の会社に居ていいのだろうか。仕事にやりがいを見出せない自分を考えると、彼が羨ましい。ん? 彼って誰だ? 誰かと将来のことを話した気がする。ウィスキーを飲みながら。焚火の前で。キャンプ、焚火、ウィスキー、自分の将来を語った彼。繋がるようで、繋がらない。
夢の中。目の前には焚火台。揺らぐ炎。無音の世界。薪をくべて、ウィスキーを一口。パキッと炭が弾けて火の粉が舞う。その瞬間、音が甦った。
「俺、青年海外協力隊に申し込んだんです」
「え? そうなの? 凄いねえ。そーゆー人、初めて見た」
「大学卒業するとき、実家の仕事を引き継ぐ覚悟をして家に戻って。そもそもそのつもりで大学も選んだし。親父にそう言ったら、林檎農家、なめんなよ、って言われて。二年やってみて、これでいいんだって思える自分と、もっと他にも何かできるんじゃないかって葛藤が生まれて。たまたまテレビのコマーシャルで海外ボランティアを見て、体が震えたっていうか、電気が走ったというか」
そういうと彼と俺の間に置かれたポケット瓶を手にして、彼はウィスキーを一口あおった。
「一年か二年、なんでしょ?」
うろ覚えの知識で言ってみる。
「二年です」
「じゃあしばらくバイクにも乗れないね」
彼の向こうに白いNinja400。俺と同じモデルだ。
「それで一旦売ろうと思ってたら、妹が、あたしが乗るって言い始めて」
「親父さんは?」
「親父もバイクに乗りますから。特に反対はしませんでした」
「いやそうじゃなくて。海外ボランティアの話」
話の腰を折ってしまったせいで、会話が迷走する。
「一年掛かりで説得しました。二年間親父の元で林檎育てて来たんだ、その知識と経験で世界の困っている人を助けたいってね」
「・・・立派だ」
「たった二年で何が身に付いたと言えるんだ、ってカンカンでしたよ。でもね。最後は自分の人生なんだから、好きにしろって」
「親父さんも立派だ」
「このツーリングが終わったら、妹に譲るんです。カワサキ」
彼はそう言うと、自分のカワサキを見て、ポケット瓶をあおった。俺もつられてそっちを見る。パールホワイトのNinja。俺のとの違いはナンバープレート。彼のカワサキは青森ナンバーだった。
正月が明けて東京に戻る日が来た。
「ほいじゃ、行くよ」
「おお、体に気を付けるんよ」
玄関までお袋が見送ってくれた。
「母さん。前に、入院中に、向日葵がどうこう言ってたよな? あれって何?」
「え? ああ、あれね。あれはあんたが向日葵畑で素敵な女性と出会ったって話」
「ええ⁈ なんでそんな話、今までしてくれんかったんや?」
「だって記憶障害って言われたから、いつの話か判らんし、現実かも妄想かも知れんし」
なんてこった。あれは夢じゃなかった。俺は向日葵畑で女性と出会ってたんだ。
「で? 他には? 他にはなんと?」
「いやあ、そんだけ。でも、あんたニヤニヤしとったから、あたしは困ったよ」
「サンキュー母さん」
俺は力強く駅に向かって歩き始めた。