記憶
仕事を終えてワンルームマンションに戻ると、俺は記録の発掘を始めた。シューズボックスもクローゼットも、見慣れたものばかりだ。衣服に新しいものはなさそうだった。
次に通信販売の購入履歴を追いかけた。オイルやフィルターなど、バイクの消耗品が何点か確認された。だが、それだけだった。ちぇっ、と舌打ちする。山崎瞬一、ほんとつまんねえな。
カードの利用明細は直近三ヶ月しか見ることができない。これは月曜日の日中、カード会社に利用履歴の照会を依頼するしかなさそうだった。
スマホを取り出し、アドレス帳を眺める。一人ひとりの顔を思い出してみる。新しく追加された名前も番号も見当たらなかった。まあこれは想定の範疇だ。やっぱりドラマはなかったみたいだ。
パソコンの写真とビデオのファイルを見る。ビデオのファイルはない。写真は、去年の四月までのものしかなかった。バックアップは小まめにしなきゃだめでしょ、自分に呟く。スマホで撮った写真は全て消えてしまった。
インターネットでFBを見る。こっちの最終更新日は十月末だった。といっても八月に向日葵畑の写真とカワサキの写真が数点、十月に紅葉の山とやっぱりカワサキの写真が写っているだけだった。日付は八月四日と十月二十五日。パソコンに写真がないところをみると、スマホからアップしたみたいだ。ということは、撮影日も概ねその辺りだろう。向日葵の写真を見る。何故か引っ掛かる。誰かに向日葵がどうこうって話、したっけ。向日葵畑の場所も、色づいた山も記憶にない。何処だろう? 判らないが、手掛かりその一だ。
ついでにネットの閲覧履歴を見る。通販サイト、マップ、マップ、マップと、やたらマップが多いが、これもツーリングライダーの習性だろう。ん? ペンション蓼科ロッジ? ここって今年泊まったところか。キャンプライダーを自称する俺が、何故ペンションに連泊なんだろう。理由が解らないが、まあ宿泊先を探していたのなら閲覧記録があってもおかしくない。案の定、キャンプ場も検索されている。
履歴を一年分遡るのは大変な作業だ。日付けとサイトの名前をメモしながら作業は深夜にまで及び、ようやく去年の八月まで来た時、手が止まった。蓼科ロッジ。去年も宿泊したのだろうか。しかし日付は八月十日。おかしいな。毎年取得している夏休みは八月の第一週の月~金の五日間だ。去年は一日二日が土日だから三日から七日まで休みを取って、八日九日が土日、つまり十日は月曜日だ。夏休み明けにペンションのウェブサイトにアクセスしたってことか。俺はロッジの電話番号も一緒にメモした。
翌日の土曜日。九時を回ったところでペンションに電話を掛けた。名前を告げて、まずは宿泊できなかったことを詫びた。たぶん食事も用意してもらっていたはずで、俺は料理も心遣いも無駄にしてしまったのだから。そして事故の後遺症で記憶があやふやになっていることを告げ、当時のことを教えて欲しいと頼み込んだ。やたら愛想のいい、元気なおばさんが電話口で教えてくれた。
「山崎さんね、足立区の、オートバイの、はいはい、覚えていますよ。そうよ、貴方。朝バイクで出て行ったきり帰って来ないから心配してたんですよお。その翌日も連絡ないし。それで、もしかしたら何か事故か事件に巻き込まれたんじゃないかって、心配になって警察に届けたんです・・・」
長い話に相槌を打ちながら、用件を切り出した。
「あのう。私、一人でしたよね? そちらで誰かと待ち合わせていたとか、ありませんでしたか?」
「さあ、どうだったかなあ。ちょっと待ってね。・・・予約は山崎さんご本人がされたみたいだし。御一人様で八月の一日から五泊六日。誰か別の人の予約は受けていませんねえ」
ふいに電話声が遠くなって、お父さーんという声。ほら、あのオートバイ事故の山崎さん、おばさんの声が微かに聞こえる。嫌な修飾語だ。電話はご主人に代わった。
「オートバイの山崎さんね。もうお体は良いんですか?」
「はい。ご心配ご迷惑をお掛けしました。それで、宿泊の期間中、誰かが訪ねて来たとか電話が掛かって来たとか、ありませんでしたか?」
「いやあ、誰も来なかったと思いますよ。それにほら、今は皆さん携帯電話をお持ちですから」
そりゃそうだ。ここに手掛かりはなさそうだった。
「あ、予約はウェブでしたか? 電話でしたか?」
「電話、ですね。うん、貴方のは電話で受けています。えーとねえ、五月の九日だ」
「あの、その前は? 私は今年の八月が初めての宿泊でしたか?」
「今年の夏が初めてのはずですよ。私ら常連さんは覚えてるし。二度目の人も予約帳にはそう書き込みますから」
「そうですか」
「あー、・・・そうだ。貴方最初の日に変なこと言ってたなあ」
「変なこと、ですか?」
「うん。こちらにいらしたとき、私が、いらっしゃいって言って、道、迷いませんでしたか? って聞いたら。いえね、同じようなペンションがあるもんで、道を間違える人もいるもんだから。そしたら、大丈夫、二度目ですから、って」
二度目? 初めてのペンションで?
「初めてのお客さんなのに、変なこと言う人だなあってね。まあこの近くで宿泊されたのかも知れませんし、あまり深く考えませんでしたけどね」
俺は丁寧にお礼を言って電話を切った。どういうこと、だろう。これは手掛かりなんだろうか。
月曜日、休憩時間を待ってカード会社に連絡をし、一年分の利用明細を送ってもらえるように頼んだ。俺はガソリン代はほとんどカード支払いで済ませている。都内で車は駐車場代が馬鹿にならないから自家用車は持ってはいない。レンタカーかカーシェアリングで済ませているから、これも支払いはカードだ。だからカードの明細を見れば何処で給油したのかが判るし、車でもバイクでもおおよそ走った場所は絞り込める。今の俺にできることはここまでだ。後は明細を待つしかない。そう思ったが、そうだ、段ボール箱。事故当日のジャケットがあった。何故この土日で開梱しなかったのか、悔やまれるが仕方がない。
仕事を定時で切り上げ、さっさとワンルームマンションに帰った。駐車場に、本来であれば停まっているはずのカワサキは、今はもうない。バイク用の月四千円の駐車場代は、金を捨てているようなものだ。ぽっかりと空いたスペースを見ながら、バイク買うかな、と思った。体に支障がなければ、やはりアシがないのは何かと不便だ。
コンクリートの階段を二階まで上がり、一番奥の部屋。ただいまと言っても誰にいない部屋に、それでも声を掛ける。一人暮らしは大学入学時からだから、そろそろ十年か。電気を灯して部屋の中へ。見るはずもないテレビを点けるのは音が恋しいからだ。
十一月の三週目、無精な俺もそろそろクローゼットの夏服を仕舞うべきだろう。その、クローゼットの奥から段ボール箱を引っ張り出した。入院中の着替えや、ペンションに預けてあった着替えを出したから、今はヘルメットとライディングジャケット、グローブ、ジーンズが入っているはずだ。中から、痛々しいヘルメットを最初に取り出した。ヤスリ掛けの跡が生々しい。シールドもない。顎紐は切られている。次にジャケット。これも切り刻まれている。医療用のハサミ? 何でも切れるんだな、と妙なことを感心する。ポケットの中も確認するが何もない。病院側も確認したのだろうか。グローブは、これは脱がせてくれたのだろうか、ハサミを入れた跡はなく、使えそうだ。ジーパンもポケットとひっくり返して見るが、出てくる物は何もない。一番底にバイク用のショートブーツ。これでおしまい。革のグローブもショートブーツも、擦り傷だらけで痛々しいが手掛かりはなかった。しかしこれらを当日身に付けていたことは間違いがない。
次の診察日にどうやって持って行こうか、と考えていたら、ふと、ブーツが気になった。バイクに乗っていたのだからブーツを履いていたのは間違いないだろう。だからここにあるのだ。では退院時、俺は何を履いて帰って来たのだ? 玄関のシューズボックスを開く。仕事用の革靴。デッキシューズ。サンダル。新しく追加された靴はない。そうだ、デッキシューズで帰って来たのだ。でも何故? お袋が着替えを取りに来たのか? いや、そうではないだろう。入院中の着替えは全て松本で買ったと言っていた。そうだデッキシューズ。これはペンションから引き上げた荷物の中に入っていた奴だ。でも何故? わざわざ荷物になる靴をツーリングに持って行ったのだろうか? ペンションに寝泊まりすると言っても、部屋を出るのは食堂に行くくらいだ。バイク用のショートブーツで事足りる。
俺は着替えの中にサマーセーターが入っていたことを思い出した。高原の、夜の寒さ対策くらいにしか考えていなかったのだが、違うのか? 俺は何か別の目的でセーターを持って行ったのか? チェストに無造作に突っ込まれたサマーセーター。蓼科からこっち、着ていない服を手に取る。ポケットに手を入れると何かに当たった。何だ? 取り出すと、それはゴム、避妊具だった。何故、こんなものがこんなところに入っている? 全くわけが解らなかった。
木曜日に仕事を終えて帰宅すると、郵便受けに封書がいくつか入っていた。全てカード会社のものだ。依頼通り明細を送ってくれたらしい。部屋に上がると早速中身を確認する。レンタカー、カーシェアリングは使っていない。通販の買い物とETCの利用、ガソリン代の引き落としだ。つまりこれでバイクでの長距離移動先は判る。
まずガソリン代の方はスタンドの名前をインターネットで検索しながら場所を特定した。自宅に近いところは除外して、と。あれ? やたらと長野が多いな。千曲、上田、佐久、小諸、白馬、蓼科、松本。今年のゴールデンウィークは糸魚川、魚津、飛騨、高山、下呂、木曽、駒ケ根か。
高速道路の利用を確認すると、こっちは長野がほとんどだった。諏訪、岡谷、塩尻北、松本。去年の八月以降今年の八月まで、俺は長野しかツーリングに行っていないってことか。しかも月二回ペースだ。妙だな。どういうことだろう。俺は夏休みの他に、四月五月のゴールデンウィークも連休を取る。どちらもロングツーリングに行くのが常だ。長野にベースキャンプを置き、信州の峠を手当たり次第に周るというプランは悪くない。だけどそれは昨年の夏にやったことじゃないのか。なのに月二で長野に通い、ゴールデンウィークの連休も長野に行ったというのか。これは普通じゃない。もしかしたら。俺はスマホを取り出し、バイク屋へ電話した。
バイク屋はもうとっくに閉まっている時間だが、店舗兼住宅だからオヤジさんはいつでも電話に出てくれる。コール音が響く中、四回目で受話器が上がった。
「あ、オヤジさん?山崎ですけど」
「おー! 瞬君、どうした?こんな時間にバイクの物色か?」
無類の酒好きは既に出来上がっているようだ。
「いやその件は置いといて。去年の夏からこっち、俺、誰と走ったか覚えてる?」
「んー? 月例ツーリングには何回か来てたと思うけど、確か、去年の瞬君は出席率悪かったよなあ」
「秋の連休やゴールデンウィークは?」
「えーと。どうだったかなあ・・・」
「思い出してよ」
「確か、西木さんとか康君が、ザキは付き合い悪いなあ、とか言ってたから、ソロだったんじゃないの?」
西やんか、何度かキャンツーにも行ったから携帯の電話番号はわかる。
「ありがと。西やんに聞いてみるよ」
そう言って電話を切った。少し乱暴だったかな。オヤジさん、ごめん。スマホのアドレス帳を操作して、西やんに電話するとすぐ出た。
「あ、西やん?俺、山崎」
「どうしたの?こんな時間に」
「ちょっと教えて欲しいことがあってさ」
バイク仲間には事故のことは伝わっているが、記憶喪失のことはあまり知られていない。オヤジさんも、プライベートなことだから気を使ってくれたのだろう。
「あのさあ、俺、去年の八月以降、誰と何処を走ったか、知ってる?」
「はあ? なんだよ、藪から棒に」
「頼むよ、知っているなら教えてくれ。今年の夏じゃなくて去年の八月からこっち」
「・・・ザキ。お前、もしかしたら記憶を無くしているのか?」
意外とカンがいい。何も言わずいると、西やんの声のトーンが変わり、
「八月は信州にソロキャンだって言ってた。お盆明けの、定例会には来てたけど、定例ツーはそれっきり。シルバーウィーク、ゴールデンウィークもソロキャンだ。誰とも走っていないよ、俺の知る限りはね」
「・・・そうか。一人か・・・」
「忘年会のとき、確か、信州にハマってるって言ってたぞ。なんで? って聞いたけど教えてくれなかった」
やはり、信州か。親戚も知り合いもいない土地で、何があったのか。鍵は八月のソロキャンにありそうだ。
「ありがと。今度ゆっくり話すよ。長い話になるから」
「一杯おごれよ」
電話を終えると、少しだけすっきりした気分になった。