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向日葵の畑で  作者: 田代夏樹
2/14

病室

 プールの底から浮かび上がるかのような目の覚まし方だった。目をつむっているはずなのに、明るい水面の揺らぎが判った。仰向けにゆっくりと水面に近づき、そこに着くと同時に目が覚めた。白っぽい部屋の中、だったと思う。

「い、痛い・・・」

頭が割れそうな痛みに思わず顔をしかめる。

「瞬!」

誰かの叫び声が聞こえたような気がして、あれはお袋?と思う間に意識が遠のいた。


 とても良く寝た気がして目が覚めた。目をこすろうとした右手が動かない。なんだぁと思いつつ、左手を持ち上げると激痛が走った。首が痛い。いや、首だけではない。全身の至る所に痛みがあった。

「山崎さーん、聞こえますかぁ? 判りますかぁ?」

病院独特の匂いに気が付いて、視界に入って来た若い女性が白衣であることを意識し、ナースの制服っていいよな、と何気なく思った。

「判ります、聞こえます」

半分擦れたような声を出しながら、でも本当は自分のことが何にも解ってはいなかった。

「今、先生お呼びしますね。あ、山崎さん、息子さんの意識戻りましたよ」

入れ替わりにお袋の姿が見えた。

「もう! あんたって子は。びっくりさせないで頂戴・・・」

そう言って涙をこぼした。一体何があったというのだ。病院に入院中だということはなんとなく判る。このシュチエーションは。病気、ではないよな、怪我をしたのだろう。動かない体から考えられるのは、たぶん事故だ。でも自分が何の事故を起こしたのか、あるいは巻き込まれたのか、さっぱりだ。やがて五十絡みの白衣の男性がやって来て、ー見るからに医者という風体だったがー

「山崎さん、私、担当医の楠木です。少し診察しますね」

そういうと俺の顔に近づき、両手の親指で涙袋を引き下げた。

「上向いて」

言われるがままにした。一体何だってんだ。医師は手を離すと、右手の人差し指を立てて、

「私の指を目で追ってください」

そう言って右、左とゆっくり右手を振った。診察というからは脈を取ったり聴診器を当てたりするのかと思いきや、医師の反対側にはモニターがあり、そこから出ているケーブルは俺の体に繋がれている、ようだ。

「山崎さん。生年月日と住所、言えますか?」

「一九九三年十二月三日生まれ。現住所は東京都足立区」

「ここ、どこだか判りますか?」

「・・・? 病院、ですよね?」

「ここ、松本市の病院です。あなたは、オートバイで事故にあって、ここに運ばれて来たのです。覚えていますか?」

松本、と聞いて少なからず驚いた。え? なんで?

「判らないです。どういうことですか?」

「事故の詳しい状況は判りません。ただあなたは扉峠で倒れているところを発見され、緊急搬送でここに運ばれて来たのです。付近に転倒していたオートバイ、それとあなたの服装から、オートバイの運転中に事故にあったものと思われます」

事故ったのか、俺は。

「事故については病院では判らないので、警察で確認してください。事故の前から少し記憶が途絶えているようですが、意識もはっきりしているようなので、警察には連絡しておきます。後で事情聴取に来るでしょう」


 医師と看護師が病室を離れると、お袋がポツリぽつりと話してくれた。今日は八月の五日。三日前の八月二日に事故を起こし(事故に遇い)、三日間意識不明だったという。警察から電話があったときは心臓が止まるんじゃないかと思った、そう言ってまた涙を流した。

「親父は?」

「さっき連絡した。意識が戻ってほっとしたんじゃろ。最後は怒ってたわ」

「あ、会社」

「それも連絡しといたわ。望月さんって人からお見舞いの言葉も頂いたわ」

望月部長か。次の出社が怖いな。

「そう。ありがとう。心配も迷惑も掛けたね、すまん」

「・・・子どものすることを、迷惑だと思う親はおらんよ。ほんに心配なだけだわ」

 それから久しぶりにお袋と話しをしたが、何故かところどころ嚙み合わない。自分の体以上に違和感があった。なんだろう。

 病院の質素な食事。三日ぶりの食事だというからガッツリ行きたいところだったが、胃の中が空っぽだからという理由で流動食に近いお粥だった。食事のあと、便意を告げると看護師が二名来てくれて、俺の下半身を持ち上げながら、怪我人なんだから気を使わなくていいですよ。尿意とか便意を感じたらすぐにコールしてくださいね、と優しくされた。そう言われてもまだ若いナースに言われると、やっぱり恥ずかしい。とは言ってもこの年で親に下の世話になるのもごめんだ。そして恐る恐る怪我の状況を確認すると、右鎖骨骨折、同肋骨三本骨折、腰骨と大腿骨にひび、頸部に損傷。擦過傷多数。云々。やっちまったなって感じだ。

 翌日、体から心拍やら体温やら血圧やらの計測ケーブルが外されたタイミングで制服警官が二名やって来た。見た瞬間体の細胞が身構える。この制服は嫌いだ。

「交通課の安藤と柊です。早速ですみませんが、当日のことを教えてください」

峠の写真、倒れたバイクの写真、路面のスリップマークの写真、ガードレールの写真、何十枚もの写真を見せられ、各々の位置関係を教えてもらったが、全然ピンと来ない。

「すみません」

何を聞かれても答えられなかった。

「どこへ向かう途中だったの?」

それも判らない。そもそもなんで長野を走っていたのかさえ、判らないのだ。まあたぶん、ただバイクツーリングを楽しんでいただけだと思うけど。ふと写真を見て、疑問に思ったことが口をついた。

「荷物」

「え?」

「荷物が写っていません。日帰りで走るにしても、カッパとか最低限の荷物は積んで走るはずだし、夏の連休中ならそれなりの荷物をバイクに載せているはずです。連休、そうだ、私は会社の夏休みで八月の頭なら通常は連休をもらっている時期です」

顔を見合わせ、ため息をつく二人の警官。

「あなたは蓼科のペンションに荷物を預けています。そこに六日間の滞在予定でね。覚えていないんですか?」

何を言っているのだろう。ペンション? キャンプ派の俺が? 五泊で? ありえないでしょ。


 結局、事情聴取と言われたが、何も答えられずに終わった。警官たちはやれやれといった感じで引き上げ、お袋は何故か終始オロオロとしていた。

「瞬一。あんた夕べ、私に向日葵の話したの、覚えとお?」

「はぁ? 向日葵? そんな話、したっけ?」

その一言でお袋の顔色が変わるのが判った。血の気を引いたってやつだ。病室を出て行くお袋。相部屋の住人とお見舞いの人が一斉に振り返る。すぐに病室に楠木医師と看護師がやって来た。え? ええ?

「MRIは?」

「すぐに確認します」

「山崎さーん、判りますかぁ? 担当医の楠木です」

失礼な。

「判りますよ。楠木先生でしょ。名札にも書いてあるし。そっちの看護師さんは橘さんでしょ?」

「朝、何食べましたっけ?」

??? 何だっけ? 出て来ない。夕べはお粥だったよな。味のしない奴。

「・・・夕べはお粥で。今朝は・・、今朝はまだ食べていません」

じーっと俺の顔を見る医師。

「失礼しますね」

顔面の目の周りとかエラの下とか、両手で触診する。顎を持ち上げられると痛い。

「先生、MRI予約入りました。すぐ行けます」

「よし。ストレッチャー」

看護師が数名、ストレッチャーと一緒には入って来た。

「山崎さーん。体の力抜いてねぇ」

「行くよ! イチニッサン」

体がふわっと持ち上がってベッドからストレッチャーに移動した。そして。


「山崎さん。事故の前のこと、少しお伺いしますね」

「はい」

病室に戻り、上半身を少し起こした状態で診察が始まった。医師の後ろに看護師。ベッドの反対側にはお袋。様々な質問をされるなかで、八月からの記憶がないとこが段々判ってきた。七月までの記憶は、ある。それは思い出した。勿論七月一日の食事の内容なんて覚えちゃいないが。ただ七月以前のことをはっきりと話しているのに、医師が時々不思議そうな顔をする。看護師も。お袋も。

「山崎さん、ところで今年は西暦の何年ですか?」

「・・・二〇二〇年でしょ」

お袋がへたり込んだ。慌てて看護師が支えに行く。

「今年ね、二〇二一年なんです。山崎さん、一年分の記憶がないみたいです」

本当に目の前が真っ暗になった。


「前頭葉と海馬に肥大が見られます。これが記憶障害の原因でしょう」

検査の後に楠木医師から告げられた言葉はショックだった。それはベッドの横で聞いているお袋にも同じだったようで。

「治るんですか!」

切迫した声で問い掛ける。

「今の時点では何とも言いかねますが・・・。外科的な損傷もありますので、脳外科、それから神経科の先生とも相談して、今後の治療方針を決めたいと思います。少しお時間を下さい」

何だか大変なことになって来た。


 医者の話では、事故に限らず、ストレスなんかでも記憶障害は起こるらしい。まあ俺の場合は事故が原因なのは間違いがないだろうけど。翌日、お袋が治療方針を聞いてくれたが、記憶障害の息子のために、メモを取ってくれた。

 まず骨折は安静にするしかないということ。脳は腫れているとはいえ手術の必要はないだろうと判断、定期的にMRIを取って経過観察する。車椅子で移動できるようになったら記憶回復の治療を始めるが、基本的にはカウンセリングが中心。こんなところだった。

 取り敢えず命に別状はないということで緊急性はなく、お袋は田舎に帰って行った。帰る前に、宿泊していたというペンションから荷物を持って来てもらったが、中身は着替えと雨具、デッキシューズ、それからスマホの充電器だけだった。これを見ると、どうやらペンションに連泊するつもりでいたのは間違いがなさそうだ。ジャケットに入れたあったスマホは壊れ、使い物にならない。お袋に新しいスマホを買って来てもらえば良かった。これでは当分どこにも連絡が取れないし、暇つぶしもできない。

 しかし何故、俺は野宿ではなく、高いペンションに泊まっていたのか。そもそも何故、長野に来たのか、何処に行こうとしていたのか、目的がどうしても思い出せなかった。去年の夏休みは信州を満喫しようと計画を立てていた。それは覚えている。六月に夏休みの申請をして、それからキャンプ場を探して。マップを見ながら計画を立てたのだ。たぶん、夏の信州を楽しんだと思う。なのに今年も長野なのか? そしてこの一年の記憶・・・。

 それからの数日間は正直、辛いの一言だった。看護師の名前も、食べた食事も、満足に記憶できない。覚えた端から忘れる。たぶん、俺は何度も同じことを聞いているのだろうが、当の本人が何にも覚えていないのだ。その一方で、全ての記憶を失った訳でもなく、また新しく体験したことの全てを覚えられないという訳でもない。若年性認知症、なんて言葉が脳裏を横切る。夜中に不安でボロボロ泣いている自分に気が付き、胸が締め付けられる思いだ。そしてツーリングの記憶、どころか、昨年の八月からの生活が思い出せない。失った一年分の記憶と、これらか先の不安で押しつぶされそうなプレッシャーを感じていた。


 お盆前にもう一度お袋が来てくれた。何かお袋に頼みごとがあった気がするが、それが何なのか、思い出せない。しかしこの頃の俺は元々の楽観的な性格が戻ってきたようで、過去にはこだわらない、明日のために今なすべきことをする、と開き直っていた。そうだ、失った記憶は思い出せないのかも知れないが、だからどうだというのだ。過去に縛られて生きるなんてまっぴらだ。そう思い込もうとしていた。

 外来が終わった、午後一番の診察室。看護師が車椅子を押してくれた。

「山崎さん、今日は中学校時代のお話を聞かせてもらえますか?」

脳外科医の藤原医師は優しい口調で話し掛けた。三十台の後半くらいの、髪形をびしっとキメた先生だった。社交ダンスのダンサーみたいだ。

「中学生の頃の、何を話しましょうか」

「・・そうですねえ。担任の先生、一年生の時の担任の先生、覚えていますか?」

これが診察なのか治療なのかは判らないが、この医師と週四日で話をする。昨日までは小学生時代の話だった。昔話を、俺は記憶の糸を辿りながら話す。勿論、言いたくないことはそう言えばいい。

「ちょっと化粧っ気のない二十代終盤の女性、国語の教師でした」

単なる思い出話をしているだけのような気がする。これが十五分から二十分くらい。それが終わると二十枚くらいのイラストを描かれたカードを続けざまに見せられる。一秒間に一枚のペース。それが一周すると、今度は俺が二十枚のカードに何のイラストが描かれていたかを答える。これを三回繰り返す。こんなトレーニングを日々繰り返し行っていた。


 病室に戻るとお袋がお茶を入れてくれた。

「体の方は大丈夫なんか?」

「まあ運動はできんけど、生活はなんとかね。ただまあ、左手は上手いこと使えんね。やっぱり利き腕じゃないと」

「頭の方は?」

「元々そんなに出来のいい方じゃないからなあ」

そんな軽口もお袋と交わせるようになった。車椅子からベッドに移る。体に痛みはあるが、それほどでもない。むしろ体を動かせる方が嬉しい。

「・・・ねえ母さん。俺の一年、何があったんだろうねぇ」

お袋は何も言わなかった。沈黙の後。

「お盆には帰らんかったよ。年末は二十八日から帰って来て、正月は三日までウチにおった。あとは、知らん」

「それって、毎年のことや」

「じゃけ、毎年変わらんことに過ごしたんやろ」

「・・・・」

「お父さん、心配しとるよ。電話しとき」

電話。あ、そうだ。電話。電話?何だっけ?

「・・・ああ、電話ね。母さんが伝えてくれたら済むんじゃ?」

「馬鹿ね、直に声聞いた方がええに決まっとるね」

「ああ、じゃあ掛けるか」

「今はまだ仕事しとるき、夜にね」

「そうやね。夜掛けるし。母さん、そこにメモしておいてくれるか? 忘れるかも知れんし」

一瞬手を止めたお袋が、十九時、父、電話、とメモを書き、サイドテーブルに置いた。

「瞬ちゃん、あのね」

「ごめん母さん。今はまだ、聞いたことを覚えている自信がないんだ。できれば、メモにして欲しい」

「・・・ううん。大したことじゃないから」

「経過は良好だって、言われた。実感、ないんだけどね」

「大丈夫よ。先週より、はっきりしてる。会話になってるわ」

 また月末に来るから。そう言い残してお袋は帰って行った。たぶん、月末には退院できる見込みだと医者に言われたのだろう。今夜は松本市内のビジネスホテルに泊まって明日朝一で帰るらしい。夕食後、食器を片付けてぼうっとテレビを眺めて時間をやり過ごし、十九時になってメモを手にした。親父に電話。反射的にスマホを探す。チェストの引き出しを開けると、壊れたスマホが出てきた。あ。そうだ。忘れてた。

 一人ではまだ車椅子を動かせない。看護師を呼んで、公衆電話の所まで連れて行ってもらった。電話機にコインが落ち、電話の相手が俺だと判ると、親父はいきなり怒った。

「こん馬鹿垂れが!年寄りに心配ばっか掛けんな」

「すまん」

すまんとしか言いようがない。それから説教が続き、そして俺は黙ってそれを聞くしかなかった。

「・・・のう、瞬一。親より先に逝く、これ以上の親不孝はないんぞ」

親父の小言が切なく胸に響いた。

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