サプライズ
翌土曜日の朝から降った雨は、日曜日になっても降り続いていた。俺は観念してカッパを着込み、タンクに伏せるようにして雨の中央高速を走った。ヘルメットのシールドが濡れて視界がゆがむ。雨は強くなったり弱くなったりを断続的に繰り返しながら、それでも遠く西の空は明るい気がした。せめて帰る頃には上がってくれ。そう思いながら走った。
松本警察署。軒下でカッパを脱いでコンビニのレジ袋に突っ込み、玄関を開けた。真っ直ぐ交通課に行き、柊さんに面会を申し入れると、腰のベルトに両手の親指を入れて彼は出て来た。
「よう。また来たのか」
仏頂面のまま、にこりともせず。
「今度はなんだ?」
「ここじゃあちょっと・・・」
交通課のカウンターの前から離れて、自動販売機の前に移った。
「この雨の中、またバイクで来たのか。車はないのか」
「都内で車を維持できるほど稼いでいませんよ」
「で? 今度は何を聞きたいんだ?」
「あの日、婦女暴行事件とか未遂事件とか、ありませんでしたか?」
「・・・なんでそんなことを聞く?」
「私はあの日、ある女性を傷付けてしまったらしいんです。その人は私に会いたくない、口も聞きたくないと怒っていたと言います」
「話がよく解らんな」
俺は諦めて、涼子ちゃんのことを話した。
「つまり、君は。自分では記憶がないがその女性を襲って嫌われたんじゃないか、と?」
俺は頷いた。もしそうなら俺は罪を償わなくてはならない。
「朝の八時から十時までの間にか?」
もしそうなら、俺は自分の欲望に負けた最低の男だ。
「・・・まったく。何をどう考えたらそんな発想が出てくるんだか」
「え?」
「夜ならまだしも! 朝っぱらから婦女暴行などと、聞いたことがない! それに、だ。君が泊まっていたペンションを出たのは朝八時。その頃まだその女性はペンションに居なかったのだろうが」
「じゃあ。窃盗、恐喝、当て逃げ、ひき逃げ、放火、喧嘩、何か事件は? それを後日彼女が知って・・・」
「そんなに自分を犯罪者にしたいかね?」
「いや、可能性の話で・・・」
「いいか? あの日あの時間管内で起きた事件事故は君の単独事故だけだ。他に事件など起きていない。だいたい・・」
「だいたい?」
「だいたい知人女性を怒らせるなら事件みたいな大袈裟なことじゃなくて、他にもっと、些細なことじゃないのか? 例えば約束を破ったとか誕生日を忘れたとか」
誕生日? 誕生日だって⁈ 頭の中で何かが弾けたような気がした。
「なんでまた八月の頭から走り回ってるの? カワサキ、渡すだけなら八月の末に陸送する手だってあったでしょ? 今が一番暑い時期なのに・・・」
「二年分走り貯めしたかったのもあるけど・・。二日がね、涼子の誕生日なんです。兄馬鹿でしょ?そのために津軽から走ってくるなんて」
そう言って笑う太一君。一昨年のキャンプ場、ウィスキーの香りと焚火の匂い。
「いい? 八月二日は涼子ちゃんの誕生日なの。これはトリプルサプライズ。キャンプ場に居るはずの貴方がペンションに宿泊している、そこで差し出す花束は就職の内定祝い、そして告白のバースディプレゼント。作戦名は・・・」
美樹ちゃんの車の中、大人の色気を漂わせる香水の香り。
「あ。柊巡査部長、こちらにおいででしたか。そろそろ巡回の時間です」
「ああ、今行く」
「あ、君は山崎君。また来たのか。・・バイクか? 雨の中大変だな」
柊さんと安藤さんが立ち去って行く。俺は茫然としていた。涼子ちゃんの誕生日を思い出せずにいたなんて。
金曜日、俺は治療の前に薫子先生に先週の話を始めた。
「そんなことを心配されていたのですか?」
「そんなことって、言わないでください。こっちは真剣に悩んで、松本まで確認しに行ったのですから」
「ごめんなさい。でもね、山崎さん。貴方はそういうことはしていないと思いますよ。今までの治療を通して貴方から犯罪の匂いはしません」
「だと良いのですが・・・。でも涼子ちゃんと私の間には何かあった、ってことは間違いないですよね?」
「おそらくは」
それを知るのはやはり少し怖い。
「あ。それと誕生日。八月二日は涼子ちゃんの誕生日でした、あの事故の日」
「今日はその近辺を投げ掛けてみましょう」
診察室の奥へ移動しリクライニングシートへ横たわる。照明が落とされて薫子先生の声が静かに頭の中へ響いて来る。
八月一日、ペンションの夕食を済ませたタイミングで美樹ちゃんからLINEが入った。
「外に来て。誰にも見られないように」
「ペンションからの小道を下った、ビーナスラインで待ってるわ」
続けざまにメッセージ。了解、と返信して静かに外に出ると、少し肌寒かった。部屋に引き返しサマーセーターを着て、薄暗い小道を歩いた。県道との分岐のところに美樹ちゃんのスカイラインが停まっていた。窓をノックして助手席に乗り込む。美樹ちゃんの匂いと香水。
「作戦を言うわね。いい? 八月二日は涼子ちゃんの誕生日なの。これはトリプルサプライズ。キャンプ場に居るはずの貴方がペンションに宿泊している、そこで差し出す花束は就職の内定祝い、そして告白のバースディプレゼント。作戦名はオペレーション・トリプルサプライズ」
「まんまですね」
こつんと頭を小突かれた。
「瞬ちゃん、キャンプ場じゃいっつも焚火臭いから。それじゃ雰囲気台無しなの。」
「ちぇ」
「明日の午前中には花束は用意しておくこと、いいわね。そしてそれはお部屋に隠しておく。涼子ちゃんはお昼には着くって言ってたから、鉢合わせしないように夕方までバイクで走り回っていなさい」
「でも宿泊名簿見られたらバレるんじゃ」
「馬鹿ね、アルバイトはそんなもの見ないわよ。涼子ちゃんが気が付くのはたぶん貴方の夕食のとき。食堂ね」
「そのときに花束を?」
「あーもう! 黙って聞いて。キャンプ場に居るはずの貴方がいきなり食堂に来たらびっくりするわ。それは第一弾。そこで涼子ちゃんがなんで? って理由を聞くでしょうけど、そのときは、あとで部屋に来れる? とだけ答えるの。夕食時は忙しいからたぶんそこでは深く追及はされないわ」
「アルバイトが終わる九時半に、たぶん賄いも食べずに貴方の部屋に来る。そこで瞬ちゃんは花束を渡して、就職内定おめでとう! といって、花束を差し出す」
「びっくり感激している涼子ちゃんに告白するタイミングはそのときよ。誕生日おめでとう。そう言って抱きしめる。そして耳元で愛の告白!」
美樹ちゃんは恍惚とした表情になっていた。完全に自分の世界に入り込んでいる。
「あのう。なんかベタ過ぎませんか? それに抱きしめたときに拒否られたら?」
「涼子ちゃんみたいな純朴な、田舎娘には、ベタなくらいがちょうどいいのよ。・・・瞬ちゃん、あたしと最初にあった時のこと、覚えてる?」
「信州スカイパークの駐車場? 美樹ちゃんたちがナンパされていた?」
「そう。そこで涼子ちゃんは貴方のバイクを見つけた。それは本当に偶然だったの。そしてこのバイクのライダーに会いたいって、あたしに言ったの。この人は向日葵畑で出会った人に間違いないからって。その後、涼子ちゃん、貴方になんて言った?」
「なんだっけ? 確か、奇跡とか運命とか・・・」
「そうよ。女の子が奇跡とか運命とか、そんな言葉を口にするのはその人が好きだからに決まってるじゃない。わかんないの? 鈍感!」
鈍感?
「解ってないのねえ。涼子ちゃん、貴方のことが好きなのよ? ツーリングのとき、貴方と会話する目は教官にレクチャーを受ける目ではなくて、恋する乙女のそれじゃない。本当に気が付かなかったの? マジ鈍感! どんだけ鈍感よ」
鈍感鈍感って。
「ゴールデンウィークだって、急遽実家に帰ったのは、就活の事でご両親と揉めたからなのよ。津軽じゃなくて東京で就職するって言って反対されて。東京に決めたの、瞬ちゃんが居るからじゃない」
え? そうなの?
「本当にもう・・・。あとの四日間、何が起きるかは、あたしも想像できないけど・・・。コレ持っておきなさい」
そう言ってコンドームを差し出した。
「いい? もしものときは女の子に恥かかせちゃダメよ」
美樹ちゃんはコンドームをセーターのポケットに押し込んだ。
「それから。瞬ちゃんスマホ貸して」
スマホのロックを外して美樹ちゃんに渡す。
「もう少しドラマチックにするわね」
そう言って、俺のスマホからグループトークを退会させ、涼子ちゃんと自分のアドレスをブロック削除した。
「あ! 何を」
「これでグループから貴方は消えた。今夜涼子ちゃんはトーク画面を見て驚くわ。貴方に何かあったのかしら? と疑心が湧く。でも連絡が取れない、つまり消息不明みたいなもの」
「何も消さなくても・・・」
「これで明日の食堂サプライズは大盛り上がりね」
アドレスを消した犯人が、ここに居た。そして・・・。
診察室。明るくなった照明の下で、薫子先生と向き合う。
「これでおおよそ山崎さんの記憶は蘇りましたね」
そう、何故俺が避妊具を持っていたかも、何故LINEのアドレスが消えたのかも解った。そして何故事故が起きたかも。良かった。俺は犯罪者ではなかった。
「ええ。でも・・・。涼子ちゃんが何故、何を怒っているのか」
「それは本人に聞くしかありませんね」
「教えてくれるでしょうか?」
「協力者が必要ですね」
俺は頷いた。治療を始める前は知らなくてもいいと思っていた一年間は、実は二人の女性絡みで複雑な事情を抱えており、そしてその事情は一年越しで終わっていないのだ。伝えるはずだった思い、そして彼女はどんな理由で怒り、傷付き、今まで過ごして来たのか。知らなくてはならない。それは俺の記憶よりも大切な気がした。中途半端では終われない。
治療の途中ではあったが、その場で薫子先生に美樹ちゃんへ電話を掛けてもらった。
「佐橋さんですか? 心療内科の田村です。薫子です。今、少しよろしいでしょうか?」
「なんですか?」
「今ここに、山崎さんがいらっしゃいます。貴女のおかげで、彼の記憶はほぼ蘇ったと言っても良いと思います」
「本当に? 瞬ちゃん、思い出したのね?」
「ええ。でも最後に疑問が残りました。石崎涼子さんのことです」
「涼子ちゃん?」
「ええ。この前、石崎さんは、山崎さんの事故や記憶喪失の話を聞いてひどく取り乱した、と姉が言っていました。あの日、二人は会ってはいないはずなんです。だのに何故。二人に何があったのか、教えていただけませんか?」
「私の口からは言い難いわね、それは。プライバシーのこともあるし、私の憶測が混じる可能性もあるし・・・」
「それでは申し訳ありませんが、石崎さんと連絡を取って頂けませんか?」
「瞬ちゃんとは会わないと思うわよ」
「いえ。私とです」
「田村先生と?」
「ええ。石崎さんをツーリングに誘って頂けませんか? 私のことは伏せて。偶然会った、というシュチエーションで構いません」
「どうして? 涼子ちゃん、また傷付くかも知れないのに、できるわけないじゃない」
「私は、心療内科の医師ですよ? いわば心のプロです。石崎さんからの依頼ではありませんが、彼女が傷付いて今もまだ苦しんでいるのであれば、見過ごすことはできません」
「・・・貴女も。涼子ちゃんの味方になってくれるの?」
「勿論です」
「でもどうして?」
「それが最終的に山崎さんの治療に繋がるからですよ」
「・・・解ったわ。それが涼子ちゃんのため、瞬ちゃんのためなら。二、三日、時間頂戴。涼子ちゃんにツーリングの話、してみるわ」
「お願いします」
薫子先生は電話を終えると俺に話し掛けた。
「今電話で話した通り、私が石崎さんと会ってきます。まずは関係構築から始めなければなりませんので、多少時間が掛かるかも知れません」
「お願いします」
「今日の治療で記憶の回復は終了となりますが、もう数回通って下さい」
「何故です?」
「記憶が蘇ったことによる心理的影響の有無を見るためです。前に申し上げたでしょう?記憶が回復したことで逆に貴方を苦しめる事態になったら、私たちがケアすると」
「そうでした」
「具体的には、日常生活において不安感や脱力感、無気力、あるいはイライラや怒りっぽくなったとか、夜寝れない、夜中に起きてしまう、睡眠不足などの症状ですね。一応来週の予約も入れておきますが、今言ったような症状が出るようなら、その前に予約を取り直して頂いて構いません」
「解りました」
診察室を出る前、俺は振り返った。
「あの。香子先生にもよろしくお伝え下さい。ありがとうございました」
「お大事に」