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向日葵の畑で  作者: 田代夏樹
10/14

再会

「記憶喪失のことも、話す間もありませんでしたね」

「でもこれで判ったこともあります」

「そう。石崎さんは怒っている。それはご主人が言われた通り、山崎さんが石崎さんを怒らせる、何かしら言動があったということ」

「私からもう一度話をしてみましょうか?」

「いえ。少し時間を置きましょう。それとできるなら接触するのはご主人ではなくて、私たちのほうが良いと思います。ご主人と石崎さんの信頼関係は最後の頼みの綱です。この綱が糸のように細くなるのは避けたい」

「でもどうやって?」

涼子ちゃんの個人情報をオーナーは話してくれない、それは田村先生が医師でも同じだろう。

「夏まで待って石崎さんがアルバイトに来る頃、私たちがまた泊まりにくればいいのです。彼女がライダーであれば、きっとツーリングの話には乗ってくるでしょう。それで信頼関係が作れれば・・・」

先の長い話だけれど、それしかなさそうだ。

 それから、俺たちは走りに出掛けた。部屋に一旦着替えに戻って、出てきたのはレザースーツを身に纏った香子先生とフライトジャケットのワイルドな薫子先生。荷物は少なかったのに着替えはどうやって? そう思って聞いてみたら、着替えは事前に宅急便で送ってあったそうだ。なるほどね。

 諏訪まで下りて県道50号、辰野町で国道の153号、ちょっと上がって19号。木曽川で県道の26号に乗り換え、39号を左折して野麦峠、高根乗鞍湖まで往復して26号に戻って北上、スーパー林道の看板を目印に左折、白樺峠を経由して乗鞍、84号を右折。乗鞍の観光センタを左折して白骨温泉。

 二人はセンターラインのないワインディングも遠慮なく突っ込んでいく。香子先生のバックステップが路面を削り、薫子先生はお尻を落としたハングオフで追従する。白衣の女神はワインディングを軽やかに舞い、愛機を自在に操って鬼のような突っ込みを見せる。でも、二人はきっと正しい。別に交通違反をどうこう言うつもりはないし、俺自身、速度の超過を楽しんでいる部分はある。そもそもバイクに乗ってスピードを楽しまないなんて、嘘だ。

 何度か目の休憩で聞いてみた。昨夜の会話があって今日は休憩がこまめだ。薫子先生はスマホではなく、デジカメで写真を撮りためている。

「そのSR、外見だけでなくエンジンにも相当手が入っているんでしょ?」

「外から見えないところで言うと、ハイカムとクランクですね。勿論ポートも研磨しています。39まで広げてキャブはFCRに替えて。それからギアも変えてますよ。今はツクバ用ですね」

「パワーはどのくらい出てるんです?」

「測ったことありませんけど。推定で40psでしょうか」

「そんなに出てるんですか?」

「薫子のGSXだって、35ps近く出してると思いますよ。FIとECUを替えてレース用の出力マッピングにしてありますから」

かー。何という姉妹だ。そんなの、公道じゃ反則でしょうよ。

「あの子は見掛けによらず意地っ張りです。姉の私より遅いバイクには乗りたくないみたい」

いや、見掛けは同じだから。同じ遺伝子だし。

 遅めの昼食は軽く取り、ペンションの夕食時間に合わせて帰路に着いた。帰りは158号を松本経由、塩尻、諏訪と回ってもらった。途中で夕食の買い物をしたい。事故現場に行きたいという二人を説得し、明日、帰る前に立ち寄ることで承諾してもらった。

 その夜、二人はまたやって来た。差し入れよ、そういってワインを差し出した。じゃんけんで負けたのは香子先生の方だ。俺は普段飲まないワインを薫子先生と飲み、少し饒舌だった。香子先生は時々悔しそうな顔で焚火台に薪を乗せる。焚火の炎と小さなランタン。薄暗い灯りの中で、若く美人な姉妹。なんて贅沢なひとときだろう。バイクの話、ツーリングの話、診察室の中ではできない。

「先生方、お歳はいくつなんですか? 失礼ですけど」

「山崎さん、セクハラですって」

「アラサーですよ。超えた方のね」

「いやー、見えないっす。俺より若いと思ってました」

「そうね、元々童顔だし。病院にいるとお化粧も濃くできないから」

「病院って、化粧ダメなんスか?」

「お化粧がダメなんじゃなくて、女おんなしている、なんていうの、アピールの強いメイクがダメなのよ」

薫子先生も酔っているようだ。

「私たち仕事柄、患者さんをじっと見るでしょう?きっちりとしたメイクで見つめると、中には勘違いされる男性の患者さんもいるので。ほら、男の人って、色っぽい女性とか、艶っぽい女性とか好きでしょう?」

「好きです、大好き! お二人ともセクシーです。すっぴんでも判りますって」

「もう! 調子いいんだから」

「ほら! そろそろ行こう。山崎さん、かなり酔ってる!」

「・・・山崎さん、佐橋美樹さんは美人で色っぽい大人の女性、石崎涼子さんは純真無垢で可憐な女性、そういうイメージだっておっしゃっていましたよね」

不意に薫子先生が医師の顔に戻った。

「貴方は佐橋さんと石崎さん、どちらの女性に惹かれていたのですか?」

え? そう言われて考えた。二人は俺の恋愛対象だったのだろうか。今まで考えもしなかった。

「美樹ちゃんは結婚してるんですよ。不倫はダメでしょ」

「するしない、ではなくて、気持ちのことです」

どっちだろう。二人の顔も思い出せないので、何とも言えない。

「もし好きだったとすると、その人の顔も思い出せないなんて悲しいですよね」


 二人はGSXにタンデムで帰って行った。

「ほら、酔っ払い!しっかり捕まって。ワイン落としたら承知しないからね」

どうやら香子先生はワインの残量が気になっていたらしい。薫子先生の手には五分の一になったワインのボトルが握られていた。

 二人を見送った後、焚火の残り火を見ながらウィスキーを一口あおる。渋かった口の中にウィスキーの香が広がり、喉を焼いていった。涼子ちゃんを怒らせた何か。それは一体なんだろう。馬鹿にした、からかった、傷付けた、何かを無くした、壊した、そこまで考えて一つの言葉が浮かんだ。まさか強制わいせつ? 婦女暴行? いくらなんでも、そんなことを自分がするとは思えない。ビールから始まった夕食は、ワインになりウィスキーになり、思考を混乱させてゆく。俺だって男だ。女性に対してそういう行為をしたくないとは言わない。でも合意なくその行為をしたら、それは犯罪だ。そこまで理性を無くしたのだろうか。

「いかん、酔った・・・」

 残り火を火消壺に移し、蓋をして、他のものはそのままにして眠ることにした。シュラフに潜り込むと、ランタンがグラグラ揺れていた。いや揺れているのは俺の方だ。揺れているというより回っている。二日酔いにならなけりゃいいが。


 朝七時、薄曇りの空の下、目を覚ますと思ったよりずっとすっきりしていた。インスタントのコーヒーを飲みながらパンをかじり、残飯やごみを片付ける。食器を洗って水気をざっと拭き取り、クッカーを一纏めにしてパッケージに仕舞う。バーナーは濡れたタオルで温度が下がっていることを確認してから、焚火台とそれぞれ専用のバッグに仕舞った。テントに潜り込んでシュラフを小さく丸め、テントを畳んだら後は簡単だ。ツーリング用の馬鹿でかいバッグのおかげで今は何でも積み込める。七時五十分、さあ、女神たちのお迎えに行こう。

 ペンションの前で、既に二人の準備は整っていた。オーナー夫妻が横に立っていた。

「では申し訳ありませんが、石崎さんがアルバイトに来る日が決まったら連絡を下さい。よろしくお願いします」

「承知しました」

それからご主人は目を細めて、

「お二人とも凛々しいお姿ですね。お気をつけて」

おばさんは深々とお辞儀をした。

 ビーナスラインラインを下り、ガソリンを入れてから県道424号で霧ケ峰へ抜け、194号で八島ヶ原湿原を通って460号ビーナスラインに再び入る。そのまま扉峠だけど一旦通過して178号まで行って右折、東に入って和田、旧中山道の国道142号を南下し、茅葺き屋根のバス停を目印に右折、県道67号で扉峠に戻って来た。ここを松本方面に右折せれば事故現場だ。

「ここです」

「なんていうことのない、コーナーですね」

そう、何度見ても平凡なカーブだ。

「左と右の間が結構開いてますね。右手前の最大速度は百キロ超、百二十くらいまで上げられるでしょうか」

それは香子先生がレーサーだから。普通のツーリングライダーはそんなことしません。

やはり三人で何度か往復してみた。

「山崎さんの走り方なら、とても事故を起こすコーナーとも思えませんね」

俺は突っ込みでは無理しない。かなり余裕をもった速度で進入し、立上り重視だ。俺はバイクをスリップマークの開始位置と思われる場所に停めた。

「警察の、現場検証の写真ではここら辺からブレーキ痕がありました」

「ここまで突っ込むのは馬鹿ですね」

きっついなあ。

「同意見です。でも私はそれをやった」

「レースをしていたとか、ではないんですよね?」

「警察の見分では単独事故です。エビデンスもあります。事故当時に上の駐車場に人がいて、事故の音を聞いています。その人が第一発見者で、下から上に上がってきた車やバイクはなかったそうです。それと松本から来た車があって、誰ともすれ違っていないと」

上を見上げたが、そこからは駐車場にいる人の姿は見えない。

「上がってみますか」

Uターンして丁字を左折、駐車場に入れようとするとそこには先客がいた。白と黒のNinja400。まさか、ここで会えるとは⁈ 

 二人はヘルメットをしていた。ここに着いたばかりか、それとも休憩を終えたのか。前がこっちを向いているのでナンバーは見えない。慌ててその横にカワサキを停める。サイドスタンドをけり出して、ヘルメットを脱ぐのもまどろっこしい。

「あ、あの!」

俺を見るや否や無視した二人は、しかし黒い方、つまり美樹ちゃんだろう人が踵を返して俺に近づき、いきなり頬を叩いた。パンっとすごい音がして、その後にやって来る、焼けるような痛み。この人は美樹ちゃんじゃない? よく見ると黒いレザーのパンツは腰にも膝にも分厚いパットが入っていて、セクシーラインとはほど遠い。ジャケットのがっしりとした肩幅がパット入りであることは一目で判る。

「あんたって人は! 今更何しに来たのよ!」

それから俺の肩越しに二人を見て。

「しかも女連れ? 一体どんな神経してるのよ!」

ヒステリックに叫ぶ。その後ろでエンジン音が吹け上がる。

「涼子ちゃん⁈」

目の前の女性は判らないが、白いNinja400は涼子ちゃんらしい。俺には目もくれず駐車場を飛び出して行く。

「香子!」

「任せて!」

SRが追いかける。薫子先生がヘルメットを脱いでこちらに近づいて来た。

「佐橋美樹さん、ですね?」

ヘルメットを脱ぐと、金髪のショートヘアが風に揺れた。大人の色気を漂わせた美人だ。彼女の上がったテンションが急激に下がるのが、判る。

「そうです。貴女は?」

「私は田村薫子。東京の病院に勤務する心療内科の医師です。山崎さんの担当医です」

長いまつげ、切れ長の目、小さな口は半開きで、何か言いたげに唇が光っている。薫子先生は胸のジッパーを下ろし、カードケースを取り出すと名刺を一枚抜き取って、美樹ちゃんに差し出した。

「申し訳ありませんが、少しお時間を頂けませんでしょうか?こちらの山崎さんのことで、お話を伺いたいのですが」


 五月晴れの空の下、閉鎖されたレストランの外階段に腰を下ろし、俺と薫子先生は代わるがわるに状況を説明した。去年の八月二日、この下のカーブで俺が事故を起こしたらしいということ、そこから一年前へ遡って記憶を失ったこと、治療のかいあって去年の四月まで記憶が蘇ったこと。石崎太一、涼子との出会い、チームNinja400の存在、涼子ちゃんと美樹ちゃんとのツーリングは覚えていても、二人の顔を思い出せていないこと、そして消えたLINEのアドレス。話を聞いて、美樹ちゃんは涙ぐみ、何かをじっと考えているようだった。

「お三人の関係、山崎さんとの思い出、消えたアドレス、なんでもいいんです。知っていること、お話頂けませんか?」

「ちょっと瞬ちゃん、席を外して」

俺の話なのに。でもその言葉におとなしく従った。

 カワサキの横に立つ。五月の日差しにさらされたシートが熱い。遠くに見えるのは蓼科山か。香子先生も涼子ちゃんも戻って来ない。まさか香子先生がちぎられることはないにしても、平常心ではない涼子ちゃんが事故を起こしている可能性は否定できない。香子先生の連絡が待ち遠しい。

「山崎さん!」

呼ばれて振り返ると、美樹ちゃんは少しバツの悪そうな顔をしていた。薫子先生はいつもの笑顔。話はまとまったのだろうか。その時、薫子先生がスマホを取り出した。香子先生からの着信だ。

「瞬ちゃん、ごめんね。痛かった?」

あっちの会話が気になったが、今はこっちの方だ。

「いえ。それよりも俺の方がごめんです。顔を覚えてなくて。体は、その、ボディラインはなんとなく覚えているのだけれど、記憶と現実にギャップがあって」

「本当に覚えていないの? 去年のゴールデンウィークに何があったか」

「すまないです」

「事故なら仕方がないことだわ。・・・ただ、涼子ちゃん、傷ついたから。去年の夏のこと、あの娘は向き合えるのかどうか、よね。瞬ちゃんの記憶喪失、できるだけ協力してあげたいけど、でも涼子ちゃんも大切な友達だから、彼女の心の傷にも寄り添ってあげたい。解るでしょ?」

やはり、俺と彼女の間に何かあったのだ。そう思わせる言葉だった。

「あたしにも責任の一端はあるわ。だから・・・」

え? それは一体・・・。薫子先生が電話を終えた。

「美ヶ原美術館で捕まえたそうよ。話を聞いてもらって。でもまだ動揺しているし、もう少し、側にいるって」

美術館まで。よく十キロも香子先生から逃げ回ったものだ。でも事故を起こさずに良かった。逃げる? 事故? 俺も何かから逃げていたのだろうか?

「とにかく、ここは日差しがキツイわ。長和町が近いかしら。入れる店を探しましょう」

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