1.婚約破棄
事の始まりは、婚約破棄だった。
そもそも、わたしには王城で勤める未来など有り得なかったのだ。
わたしの名前は、ララリアラ・シュリー。伯爵家の次女で、幼い頃から決められた結婚相手がいた。
その人は、伯爵家の次男で、名をクルトと言った。黒くてつやつやとした髪を肩口で切り揃えた、中性的な雰囲気の少年で、やや神経質なきらいがあるが、頭が良く、研究熱心な性格だった。
私には彼と共に家を継ぎ、領地を治めていくことが望まれていた。
自然と淑女教育ではなく、経営に関する知識ばかりがついていった。
わたしは、クルトに幼い恋をしていた。
二つ年上の彼が会いにくる日には、朝から張り切って着飾って出迎えた。彼の訪れがあくまでも婚約者としての義務だとは考えもせず、わたしを好いてくれているのだと愚かにも思い違いをしていたのだ。
だからこそ、彼の前では感情を露わにし、ともに出かけたいとねだったり、自分の話ばかりをしていた。そんなわたしの態度を、母や姉はやんわりと注意していた。--そう、わたしにも、非はあったのだ。
でも、だからと言って、婚約者をすげ替えることはなかったのではないだろうか。
「ねえ、こんなつもりじゃなかったのよ」
馬車に乗り込むわたしの背中に、姉の声が降ってきた。それは雨の中に吸い込まれるように小さな声だった。
「今からでも遅くはないわ。侍女なんかになるのはやめて、うちに残ってちょうだい」
イルゼリアの懇願する声がまとわりついてくる。それは頼んでいるのではなく、そうなって当たり前だと思っているのがありありと受け取れる声色だった。
わたしの胸の奥は、わけのわからない苛立ちでいっぱいになった。イルゼはいつもこうだ。自分が頼めば、思い通りになると思っている。
振り返ることなく無言で馬車の扉を開けると、怒号が響いた。
「イルゼのことを無視するな!」
弾かれたように後ろを向く。クルトが凄みのある目をわたしに向けていた。
彼はイルゼの肩を抱いており、彼女はクルトの胸に頬を寄せて、さめざめと泣いていた。
「君は本当に子どもだな。気に入らないとすぐに拗ねたり泣いたり。……淑女らしさのかけらもない」
元婚約者の吐き捨てるような声が胸を突き刺した。
「それでいて、少しばかり賢しいからと調子に乗って知識をひけらかす。僕は、君のそういうところがとても嫌いだった」
両手が空いていたなら、わたしはきっと耳を塞いだだろう。
足元からがらがらと崩れ落ちていくような喪失感に襲われていた。気を張っていないと倒れてしまいそうなくらい悲しくて、それでいて怒りをぶつけてしまいたい気持ちもあった。
姉がクルトに肩を抱かれたまま身じろぎする。わたしはさっと踵を返し、馬車に乗り込むと、気まずそうにしている御者に目をやった。
「クルト......。悪いのはわたくしなのよ。あなたを好きになってしまったのだから、拗ねて当然のことだわ。--あの子を責めないで」
見なくても、姉がどんな顔をしているのかわかった。大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、クルトを見上げているのだろう。
姉がその顔をすると、誰もが彼女に従った。まるで魔法みたいに。
それまでは口にするのが憚られた。そんなことを感じる自分はおかしいのだと自分を責めていた。でも、--わたしは、姉のことが嫌いだ。
わたしよりも美しくたおやかなところも、病弱だからと厳しい教育を免除されているところも、両親の愛情を独り占めしていたところも、わたしのほしいものを無意識に奪っていくところも、全部。
「わかったよ。僕は君のお人好しなところが好きだ」
クルトの声は、わたしの知らない色をしていた。甘くて優しい声。
わたしは振り返らなかった。涙なんて見せたら、また咎められるのだから。
姉に婚約者を奪われた形となったわたしは、家を飛び出して、王城で勤めはじめた。
クルトと姉は、わたしが家に残るべきだと言って聞かずに、何度も手紙を寄越していた。姉は病弱さを理由に、領主になるための教育を受けていない。すべてが私頼みの結婚だったのだ。
好きだった相手と姉との結婚生活を間近で見るなんて、悪夢もいいところだ。
意外にも助け舟を出してくれたのは父だった。父こそがイルゼを一番に甘やかしていると思っていたので、わたしは少しだけうれしかった。
父の伝手があったからこそ、わたしはなんの経験もないにも関わらず、侍女として職を得ることができた。彼らが王城へ押しかけてこようとしているのを止めてくれているのも父だ。
だが、わたしはそんな父への恩に報いることが出来ていない。
目覚めると城の救護室の中だった。
見慣れぬ天井に、すっかり明るくなった室内。自分が何をしていたのか、なぜここにいるのか、しばし混乱した。頭が鈍く痛む。
そして、思いがけず気づいてしまったことに動揺して胸が早鐘を打っていた。
わたしを運んできたのは男性だと言う。お礼を言いたいと告げると、年配の侍医は困った顔をして口を濁した。ああ、彼もまたわたしの噂を知っているのだろうと思った。厄介なことだ。ーーまあ、あのような接し方をしてきたのだから仕方のないことかもしれない。
自分のことながら、苛立ちを覚える。
「一体どんな方法を使ったのかしら?」
ジュエラベリーの入った籠をわたしの目の前に突きつけながらそう言ったのは、無茶な雑務を頼んだ張本人であるミカエラだった。
彼女の中では答えが出ているのだろう。まるで羽虫を見るかのような視線をわたしに向けた。
「まあ、ミカエラ様。決まっていますわ。どうせおともだちに頼んだのでしょう」
「自分一人ではなにもできないからって、情けないこと」
「ーーあら、それは仕方ないわ。この国でもこんなことは初めてだというもの。負け犬の黒侍女だなんてね」
ミカエラの友人たちが、口々に言う。彼女たちは言いたいことを言って満足したのか、そのまま去っていった。
わたしはふう、と長く息を吐いた。ーーなにから考えたらいいのか。処理しきれないくらいいろいろなことがあって、混乱していた。