奇蹟
キッチンではジャクリーヌが無言のまま夕餉の支度を始めたようだ。
調理する料理の香ばしい匂いが流れてくる。
ベルモンドはひくひくと鼻を蠢かせた。
(これは絶対美味いやつだな)
長らく戦陣暮らしであったベルモンドは女の手料理など、ほとんど食したことがあった。
かつて、同僚や部下の家に何度か招かれ饗応されたことがあったが、千年のちの今のように料理は洗練されていなかった。
だが、ジャクリーヌはテーブルのそばでジッと立ったまま感情のない顔でベルモンドの食事を見ているだけだ。
「その、なんだ。いっしょに食べないのか?」
「いえ、わたしはあとでいただきますから」
「そ、そうか」
にべもない返事とはこのことだ。
――冷え切っている。
逃げ出したい気持ちで一杯だったが、ベルモンドとは目の前の女とこの世界のベルモンドの関係を知らないのだ。
「ごちそうさま」
さすがに居心地が悪くベルモンドはロクに食事を味わうことなく終えた。
ふと気づくとジャクリーヌが苦しそうな表情で酒器のセットを盆に乗せて持ってきた。
「ああ、酒は悪いがいらない」
「えっ?」
ベルモンドがそう言うとジャクリーヌは初めてうろたえた表情を見せた。
同時に手をすべらせて酒瓶やグラスをそっくり落とし盛大な音を響かせる。
「ああ、もうしわけございませんっ!」
そう叫ぶと蒼ざめたまま素手で割れたグラスを拾おうとする。
「あ、ダメだ」
割れたガラスをそのまま掴もうとするジャクリーヌを押し止めたが、同時に鋭利な部分が右手のひらに触れる。
瞬間、サッとベルモンドの手に朱線が走る。
痛みにベルモンドはわずかに眉を下げた。
「あっ」
「大丈夫か」
ジャクリーヌの手を取って裏返す。幸いにもベルモンドの動きが速かったので、彼女は怪我をせずに済んだようだ。
――苦痛を無視する方法は心得ている。
かなり深く切ったようだが、ベルモンドからすればこの程度はかすり傷であった。
戦場ならば、腕が皮一枚で繋がっていても兵たちの前では微笑を崩してはならないのが大将の責務である。
「大変、血が、こんなにも。待っていてください。今手当をしますから!」
「おい、こんなものかすり傷だ。どうってことない」
ついさっきまでの仮面をかぶったような無表情さが嘘のようにジャクリーヌは泣きそうな顔で叫ぶとパタパタとキッチンを出て行った。
扉の向こうから、三、四歳くらいの幼女が顔を出してジッとベルモンドの様子を窺っていた。
(確かこの子はジャクリーヌの妹でマリーヌとかいう名前だったな)
ジャクリーヌの両親は他界しているので、新婚であっても彼女のただひとりの妹であるマリーヌを引き取って養っていると父であるナゼールが言っていたことを思い出した。
「おや、嫌われたようだな」
ベルモンドの視線に気づいたのかマリーヌは慌てて扉から離れて駆け去っていった。
「やれやれ、だ」
「そこに座ってください。今止血しますから!」
「おお、でも本当にこんなものはかすり傷だからな」
「そんなわけないでしょう。あなたは、本当にいつまでも考えなしで……」
椅子に無理やり座らさられてベルモンドは手当てをジッと受けた。
ジャクリーヌは貝殻から軟膏を取り出すとベルモンドの傷口に塗り込んだ。
(とはいえ、この程度の傷は気合で止められる程度だ)
神経を手のひらに集中し強くイメージする。
意図的に筋肉を強張らせて、全身のオーラを手のひらに集中すると血は一瞬で凝固した。
「あれ、うそ……止まってる」
「な? だから言っただろう。騒ぐことじゃない」
「……でも血止めはしますから」
元々頑固な性格だったのだろう。
ジャクリーヌはむっとした表情でベルモンドの手にぐるぐると包帯を巻いた。
そして食事が終われば就寝の時間である。
さすがに結婚して一年しか経っていない新婚が共に寝る部屋をわけてはいなかった。
「おやすみなさいませ」
「あ、ああ。おやすみ」
灯火を消した寝室は暗く、女の匂いが満ちており、不覚にもベルモンドは興奮した。
(仕方がない。この身体はまだ若いからな)
考えればベルモンドは若き日のそういった情動のほとんどを戦場で燃やし尽くした。
三日三晩、寝ずに駆けて腕が上がらないくらいに剣を振れば体力と気力のほとんどは消耗され尽くした。
それでもなお、消えない炎があれば余力で娼婦を買う。
ベルモンドは少しドキドキしながら毛布をまくり身体を入れると、横を向いて寝るジャクリーヌの身体が小刻みに震えているのがわかった。
気持ちも力もいい塩梅に抜けた。
「悪いな。身体が本調子じゃない。このまま寝かせてもらうぞ」
特に返事はなかったが、ジャクリーヌの身体が如実に反応を示した。
女がなくとも熟睡することなど自己の精神支配を完全に行えるベルモンドは苦ではなかった。
目蓋を閉じて自己暗示をかける。
眠る時に寝て体力を回復するのも一端の軍人の作法だ。
夢も見ずに朝まで泥のように寝入った。
半ば、悪夢の続きを願っていたくせに、まだひと握りの奇蹟にすがろうとしている。
ジャクリーヌにとってベルモンドはけして良い夫とは到底言えなかった。
だが、すべての始まりはジャクリーヌ自身にあるのだ。
父母と生まれたばかりの妹の生活を支えるために王都へ出稼ぎに行ったのが間違いだったのか。
ベルモンドも最初からあのように酒に溺れてか弱い女に手を上げるような最低な人間ではなかった。
直情的なのは生まれつきであったが、彼の猜疑心を助長させるような行動を取ったのは間違いなくジャクリーヌ自身である。
自分を追うようにして王都にやってきたベルモンドとロクに会う時間も作らず、休暇にはお上りさんよろしく、世話になったシリル男爵に誘われるがままに、上流階級の一端になったつもりで戯れに耽った。
(わたしは、ただのメイドだったのに。なにを勘違いして、婚約者である彼を放っておいたのよ)
挙句の果てに、ベルモンドは嫉妬からくる刃傷沙汰で男爵の屋敷で暴れる始末。
シリル男爵の器が大きかったから良かったものの、その場で身分からすれば辺境都市の下級貴族とメイドではその場で手打ちにされても文句は言えないはずだった。
尾羽打ち枯らした姿で故郷に戻ったものの、ベルモンドは妻であるジャクリーヌが男爵と密通していたという妄想に駆られ、ようやく得た騎士団の仕事もロクにこなさず、酒に溺れる日々。
だが、ジャクリーヌはベルモンドを捨てることができなかった。
王都での日々で、知り合いもロクにない孤独なベルモンドに寄り添ってあげれば、結果はきっと違っていたと考えれば、なにも言えなくなった。
かつて、望んでいた新婚生活は凄惨で暗いものだった。
両親を病で亡くし、懇願して引き取った三歳の妹も酒に溺れて荒れ狂う日々に笑顔を失っていく。
ベルモンドはなんども自分を閨で抱こうとして、猜疑心と情欲の炎に焼かれたまま、その手が自分を抱きしめることはなかった。
正直なところ、酔ったままダーバ河に落ち、溺死体で発見され、蒼白い顔のまま安らかに眠りについたベルモンドの顔を見た瞬間、ジャクリーヌは深い悔恨と同時に自分が愛していた太陽のような笑顔を持つ少年を思い出し気も狂わんばかりだった。
だが、夫は目覚めた。
それは同時に地獄の日々が戻ったことを意味していたが、ジャクリーヌは不思議と安心していた。
いや、以前のように、以前以上に責められ続けることに、安堵していたのだ。
――記憶を失っている。
義父からそう聞かされた時は信じられなかった。
だが、目覚めたベルモンドの瞳には溺れる前は常に灯っていた怒りと焦燥の炎は消え、代わりに理知の光が輝いていた。
昨晩の夕食の時間、ベルモンドは確かに自分の手をかばって自ら怪我をした。
それが気遣いと優しさであることに気づいたとき「まさか」という想いしかなかった。
だが、夢想は夢想のままで終わらなかった。
ベルモンドは酒を呑まなかった。
これはフライドブルクに戻ってから初めての奇蹟だった。
ジャクリーヌは今朝も極めて静かで落ち着いた状態のベルモンドとあいさつをかわして、たとえようもない幸福と安らぎを感じていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
さわやかな朝の光に包まれて家を出て仕事に向かうベルモンドは普通の家の普通の夫にしか見えなかった。
朝靄の中でジャクリーヌは神に祈った。
もう少しだけ、この奇蹟にすがらせてください、と。