軍盤
街はおおむね平穏を保ち、結果としてベルモンドの職務に忙しさが生ずることはなかった。
――平和か。素晴らしいことだ。
この世界には望んだものがすべてそろっている。
美しい妻に、我が子のような愛らしくも幼い義妹。
仕事は特段心身を削るほど過酷ではなく、適度に身体を動かして暗くならないうちに帰宅することができる。
「さあ、昼飯にするか」
いつもまとわりついてくる副団長のパトリシアは市外の遠縁の家に行っているということで、ここ数日はのんびりと暮らすことができていた。
ベルモンドは近ごろ凝っている軍盤と呼ばれるこの世界の遊戯道具一式を陽に当てながら、持ってきた弁当をつまんでいた。
ふと、視線を向けると大通りの方角から見慣れない男が馬に乗ったまま近づいてきた。
昼の十二時から十三時までは規則として門を開けないことになっている。
近ごろはほとんどなくなったが、身分卑しからぬ御仁や羽振りの良い商人が居丈高に押し通ろうとやってきたのは記憶に新しい。
――おや?
男と目が合った。
年齢は四十代前半かそこらだろう。
金色の髪を綺麗に撫でつけ、ジッとベルモンドを見下ろしている。
馬に乗った状態でこれだけ大きく見えるのは男の背が相当に高いからであろう。
「おや、失敬」
ベルモンドの姿を認めた男はひらりと軽やかに馬から降りると手にしていた杖をそっと地面に置いた。
全体的に痩せぎすであるが、神経質な感じはしない。瞳には温和な色を湛えており、鷲鼻が目立つが威圧感はなかった。
着用している服装から貴人であることはわかったが、特にこの時間に麝香騎士団の詰所を重要来客が訪れる予定はなかったとベルモンドは記憶していた。
「わたしはテオドールという者です。ここが騎士団の詰所であるのに間違いはありませんか」
「ええ、そうです。名乗り遅れました。私は麝香騎士団のベルモンドというものです。団長はいまだ療養中であり、副団長は所用で席を外しておりますが……」
「ええ、それは知っております。あなたが噂のベルモンド殿ですね。わたしはあなたにお会いしたくやってまいりました」
またか、と思わないでもない。なにせ巷間の噂に尾ひれがついて、ベルモンドの実像が世間では百年にひとりの大豪傑として広まっていたからだった。
ほとんどの物見高い市内の貴人は、実際のベルモンドを目にすると「ああ、なんだ、こんな小僧か」とあからさまにがっくりして去っていく。
それもいたし方ない。
事実、現実のベルモンドは中身が千年前の軍神と呼ばれたいくさ上手の英傑と知っていなければ、背丈も風貌もありふれた青年に過ぎなかった。
だが、目の前のテオドールと名乗った男は特に失望する様子もなく、興味深そうにベルモンドのことを観察しているのだ。
「あの、なにか私に御用ですか?」
「さあ、特段用があるといえば用があるのですし、ないといえばないと言えます。さてはて……」
テオドールは杖の上部に据えてある紫色の宝玉を革手袋で撫で回しながら、どこか楽しそうだった。
「お。それは軍盤ですね。ベルモンド殿は軍盤を嗜まれるのですか」
「ええ、まあ、手慰みのようなものですが。私は特に趣味もない男ですが、こいつだけは昔から続けています。独特の深みもあって、中々飽きません」
「そうですかそうですか。それでは、お時間がよろしければひとつ手合わせ願えませんでしょうか。実はわたし、軍盤にかけてはちょっと自信がありましてね」
「はあ……まあ、いいですが。午後も仕事があるので昼休みの間しかつき合えませんが」
軍盤はベルモンドが生まれる前からあった、ロムレス最古のゲームである。
軍人であるベルモンドは一兵卒のころから、誰に師事したわけでもないが、特にこのゲームが強かった。
「いやいや、お手合わせ願えるとはうれしい。わたしの主人はこの手の遊戯を誘ってもまったくつき合ってくれませんので」
「はぁ……」
軍盤はかなり頭を使う。
時間をかけようと思えば、何日どころか一手指すのに数年かかったという名人同士の対局戦もあるくらい奥深いのだ。
事実、将棋に似たこのゲームは特に軍人や騎士などに好まれ、そして実力差が如実に出るものであった。
ベルモンドはテーブルの上に軍盤のボードを載せると、駒をテオドール側に押しやった。
(まあ、あんまり時間もないからな。速攻でカタをつけよう)
勝つにしろ、負けるにしろ。
よく知らない人間と話し合うよりも、軍盤で一戦交えるほうがよっぽど時間の使い方としては有意義だろう。
(そういや、駒の動かし方ってどうだっけ……)
南門の詰所の奥で埃をかぶっていたものを、たまたま目にして虫干ししていただけあってベルモンドのブランクも千年はあった。




