破綻
ジャクリーヌの居なくなった病室でベルモンドはフリーズしていたが、数分後ゆっくりと起動した。
部屋にはひとつだけ小さな手鏡が置いてあった。
手に取って自分の顔を映してみる。
「うん、目の周りがどす黒く、極めて不健康な顔色だ。溺れてしにかけたとか、そういう問題じゃないな」
落ち着いて自分の身体を確認すると、四十台だった前世に比べて関節は圧倒的によいが、なにやら身体のあちこちに澱のような疲労の塊が沈殿していた。
手のひらに息を吐きかけて嗅ぐ。
「……酒か」
この臭気は酒精だけではなく疲労困憊した臓器から発せられている、醜悪なものだった。
「若いくせに、酒に呑まれやがって。こりゃ、昨日今日じゃないな」
今世のベルモンドの容貌も身体つきも決して悪くない。
背丈は一七五センチほどであり、酒精に冒されているというのに、筋骨はそれほど衰えていない。
「とにかく数日休んだら身体を鍛え直さにゃならないな」
――面白い。
戦場で自然と身体を鍛えたベルモンドは系統的に剣技や術を深く研鑽したことはない。
(だが、この身体と年齢ならば、此度はかなりの時間を費やして個人的な強さの高みを目指せそうだな)
長じては指揮官として戦場を往来することが多かったが、若いころは食うために盗賊や冒険者の真似ごとをしていた。
「長い休暇を貰ったようなものだ。もう、俺の戦争は終わったんだ。なんの気兼ねもなく、俺は生きたいように生きることができる」
考えてみれば、前世で病が治ったとしても、王はベルモンドを戦場で酷使し続けただろう。
そして、それに終わりはない。
だが、自分の前世から千年経ったこの時代ではあらゆるしがらみがない。
ゴロンとベッドに横たわっていても、軍使斥候の報告を気にすることなく、また刺客に怯える必要もないのだ。
「あーはっはっはっ。こりゃあ、なんとも……!」
生きている。
それだけで十二分に楽しいのだ。
ベルモンドは底抜けに明るい笑い声を響かせていたのだが、廊下では修道女のクリスが蒼ざめた表情でドアノブに手をかけたまま固まっていたことを知る由もなかった。
「お加減はどう? ベルモンド」
「シスターか。悪くないな」
部屋に入ってきたシスターが花瓶に花を生けながら、そんふうに声をかけてきた。
「悪くない、じゃないわよ。本当にあれだけ言ったのにがぼがぼアホみたいに呑むから。って、記憶がなくなったって本当なの?」
若い。二十代半ばくらいだろうか。ピンと立った耳からエルフ種という亜人であることがわかるシスターの語り口調からベルモンドは転生前の肉体の持ち主が彼女と近しい仲であったことを推測した。
「記憶はない。ついでにきみの名前も教えてほしい」
「こーいう状況じゃなきゃナンパすんのってからかってあげるんだけどね。私はローズ。教会のシスターであなたのカウンセリングを奥さんのジャクリーヌに頼まれてよくやってたの。結果は無残だったけど」
ローズと名乗ったシスターは胸の前で腕を組んでジッとベルモンドを眺めている。口元は妙に歪んでなにかを言いたげな様子であったが、面倒なのでワザと無視した。
「説教はまた今度にしてくれ。う、なんだか急に調子が」
「かわいくない子ねー。まったく。ま、神父さまが看病してやれっていってたからイジメるのはやめにしとくわ。これに懲りたらお酒は控えるべきね」
「そうするよ」
「……やけに素直じゃない。気持ち悪い」
「アンタ本当にシスターか?」
「いやいや、この僧服見て。本物よん」
ローズはぐっと胸を寄せてくるので厚い布地でも強調されてなんだか直視するのが憚られる。自然と視線を逸らしたベルモンドであったが、調子が悪いと勘違いしたのか、ローズは本気で心配そうな表情になり眉をひそめた。
「ホントに平気?」
「ああ、問題ない。が、ちょっと休ませてくれるか」
――なんかあったら呼んでね。
と、ローズは言うと踊るように部屋を出て行った。
「変わった女だな」
ベルモンドは首を左右に動かしてコキコキ音を出した。
翌日、迎えに来たジャクリーヌに連れられてベルモンドは一度も入ったことがない自宅に戻った。
――数刻が経過した。
「まさか一言も会話がないとは……」
確かにジャクリーヌは昨日告げた時間通りに教会に迎えにやって来た。
食事の用意も朝昼とキッチリ行っている。
だが、それだけだ。
「それでは、御用がありましたら、お呼びください」
それだけいうと、奥の部屋に引っ込んでしまい、ベルモンドはぽつんとひとりきりになった。
「もしかして、こいつらの夫婦関係は破綻しているのでは?」
というか、破綻している。
ベルモンドは一般的な夫婦の関係がどのようにあるべきか実態を知らないが、これはさすがに良くないということが理解できた。
「これは敵味方以上に血が通わんね」
戦場でのことを思い出す。
ベルモンドは将軍であったころ、心血を注いで殺し合った相手であっても、いざ戦闘が終われば馬上で私語をかわし、互いの戦術を批評し合ったり、ときには捕虜となった敵将と酒を酌み交わしたことを思い出す。
その敵の将軍とも馬上で斬り合ったことがある相手なのだ。
「夫婦のことはわからんが、これはたまらんな」
そもそもどこになにがあるかもわからないので、時間の潰しようもない。
どうしようかと、ベルモンドが中年によくある来し方を思い起こして夢想に耽っている間に夜の帳が落ちた。




