悪魔
ある日のことである。
買い出しに出て行ったトールは足早に木の葉亭への帰路を急いでいた。
数日前からパオロたちは討伐に出かけており宿にはいない。
だが、主人であるトールがいないときに彼らが戻れば、アリスンの身は危険極まりない。
下男のコリンは知能が並みより低く、銭勘定が満足にできない。
またアリスンも元奴隷だと知られており、村内では一段低く見られているので、物資の購入はトールにしかできない仕事であった。
いつもならばこの程度の買い出しは村の人間に配達を頼むこともできなくはないが、勇者と揉めた一件と、はやり危険視されているご本尊がいる宿に好んで足を運ぶ者もおらず、一瞬の空隙はさけられなかった。
「さあ、おれたちは疲れているんだ。口上はどうしたよ。お?」
「勇者さま。あたしたちのために今日もお仕事お疲れさまです。この卑しい下僕のアリスンが英雄たちのおみ足を清めさせていただきます」
見れば、早朝の店の入り口でアリスンが今しがた戻ってきたであろうパオロたちの足元に土下座させられていた。
床には湯気の立つ手桶が幾つもあり、アリスンはパオロたちに足を清めようとしていた。
アリスンがタオルに湯を浸してパオロの毛脛が目立つ素足を拭おうとすると制される。
「違うだろう」
「え――」
ニヤニヤと笑うパオロがベロと舌を出す。要求されたことに愕然としたアリスは屈辱に顔を歪ませながら、震える手を伸ばし足に顔を近づけた。
――なんて、ことだ。
うら若き乙女の舌が雑巾扱いされたことに憤るがトールはその場に飛び出すのをなんとかこらえた。
自分がもっとも蔑んでいた相手に屈服させられた場面を見られたと知ればアリスンの気持ちはいかばかりだろうか。
その現場には、ほかの泊り客もなんだなんだと顔を出していたので、それ以上はなかったが、トールは怒りではらわたが煮え返りそうだった。
そしてトールは数日間、ほっかむりをしたまま感情に蓋をした。
「なあにその顔? さ、トール。今日もがんばろっ」
トールが知る限りアリスンは純潔はギリギリ守っていたが、とても人さまに知られてはならないレベルの屈辱を受け続けていた。
そして受け続けながらも悟られまいとする空元気が余計にトールの無力感を倍加させた。
「ごめん、ちょっと今日は宿を空けるんだ。夜には帰るから」
「う、うん?」
アリスンは一転して不安げな表情をすると身体を寄せてきた。
「でも、早く帰ってきてよね、トール」
トールは村人に見つからぬよう竜の出る渓谷に向かった。
無論、竜を倒すためではない。
勇者一行の行為に疑問を持ったからだ。
相手は竜である。
パオロが王国認定された勇者であり、かつ優秀な冒険者パーティーならば、これほどまで討伐に時間がかかるのはなぜだろうか。
そして、トールは真実を知った。
「へへへ、バカな村人たちでやすねえ勇者さま」
「けけ、アルドの言うとおりだぜ。こんなちゃちなことにずっと引っかかるだなんてよう」
魔道士アルドと戦士ジョリュジュがパオロと酒を酌み交わしている。
――巨大な竜の前で。
「あの小僧もバカなやつだ。おれたちがこうしてウンベルトの飼い慣らした竜でいい思いをさせてもらってるって知らずによ」
パオロはカカッと笑い声を漏らすと杯を揺らした。
「りゅ、この竜、お、おでのペット」
「魔物使いのウンベルトの竜を狙った村に放つ。困った村人がギルドに助けを漏らす。ここぞとばかりにおれたち勇者さまが乗り出してやる。あとは討伐するぞするぞと言って、遊び暮らす」
「パオロの兄貴が勇者さまだなんてよ! 笑けるぜェ!」
「おいおい、みなごろしの異名を取る大盗賊ジョリュジュに言われたくねーな」
「パオロの兄貴こそ、かつてはあの有名な血塗れギリーの副長だったじゃねえんですかい? おお、怖い怖い」
ジョリュジュが自分の身体を抱くようにして震えて見せた。
「――けど、そろそろ喰っちまいましょうや。あのメスガキ」
「ああ、アリスンだっけか? そろそろだな――誰だ!?」
トールは吹きつける殺気から身を守るように物陰に身体を隠した。
だが、パオロが投擲した手斧は弧を描いて強烈な勢いで落下した。
トールは肩口を深々と抉った手斧をそのままに駆けた。
――致命傷ではない。
だが、パオロから逃げることはできなさそうだ。
消えゆく意識の中でトールは聞いた。
「おやあ、これはこれは、木の葉亭のご主人。意外なところで会いますねえ」
三白眼のパオロの表情。
初めて本物の悪魔を見たと思った。




