変化
「昨晩、あんたの旦那、三日月亭で大活躍だったらしいじゃないの!」
隣家の主婦にそう声をかけられて、ジャクリーヌはびっくりするよりも、またいつもの悪癖が出たのかと思い、冷汗三斗で碌々話の内容を咀嚼することができなかった。
「三日月亭って、あの、親不孝通りにある三日月亭のことですか?」
「そうそう。昨日ね、ウチのボンクラがたまたま飲み歩いて居合わせた際に、あんたのとこのベルモンドさんが店で暴れていた冒険者を取り押さえただか、なんだか……とにかくすごい大活躍だったそうよ! もしかして、聞いてないの?」
「すみません。主人は疲れているらしく、帰ってきてすぐに休んでしまったもので」
隣家の主婦は根掘り葉掘り聞きたい様子であったが、ジャクリーヌは忙しいと断ると、すぐに家に引っ込んだ。
どうやら、酒癖が復活して暴れたらしいわけではない。
昨晩は、遅くまで帰って来ず、ジャクリーヌはひとり深い絶望に襲われていた。
河水に落ちる前に戻っただけだ。
また、毎晩の呑み歩き、当たり散らされる日常が始まる。
ジャクリーヌは狐につままれたような顔で、昨夜のことを思い出していた。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「ううん、なんでもないのよマリーヌ。ベルモンドはお仕事で遅くなるかもしれないから、先に寝ようね」
「おねえちゃんといっしょじゃなきゃやだー」
「わがまま言わないで。良い子だから。お姉ちゃんがお歌を歌ってあげるわ。ね」
「ん……」
まだ三歳でしかないマリーヌは目元をしきりに手でこすりながらふああ、とあくびをしている。
ジャクリーヌは添い寝をしながらマリーヌの柔らかな髪を撫でて、じわりと盛り上がる涙をこらえていた。
王都と違って地方の一都市であるフライドブルクではなんら特殊技能がない若い女ができる仕事など限定されている。
極端にきつく、それでいて長時間拘束される賃仕事か、あとは夜の女になるしかないのだ。
まだ、三つのマリーヌをひとり家に残しておくわけにもいかない。
両親が生きていれば、ある程度は子守を頼めるのだが、すでに流行り病で亡く、義父は一応市役所警備の仕事を持っているので、常時預けるわけにもいかない。
結果、真っ当な勤務態度でないにせよ、ベルモンドの稼ぎに頼るしかないのが実情だった。
ベルモンドの酒癖の悪さを安易に考えた自分が馬鹿だった。
そして昨晩、彼がジャクリーヌに見せた小さな変化にすがろうとしていた自分に腹が立った。
「今夜も、荒れるのかしら」
テーブルの上で迫りくる眠気と戦いながら、ジャクリーヌはこっくりこっくりと舟を漕いだ。
以前、帰りが遅いので先に休んでいたら、酔って帰ったベルモンドから鬼のような顔で罵られたのだ。
罵倒されることになれるはずもない。
自分に負い目のあるジャクリーヌはベルモンドに怒鳴られるだけで身が竦み、目尻に涙が浮いてなにもできなくなる。
そしてベルモンドはひとしきり怒りが収まると打って変わって、自分がしたことの非を認めて謝罪するのだ。
心の底からといったふうに詫びるベルモンドは雨に打たれた犬のように、惨めで弱弱しく、かえってジャクリーヌが気を遣うほどだった。
――そんなことを考えていると、きい、と扉の軋んだ音がどこか遠くで響いた。
昼間の家事の疲れもあってか、起きようと思うのだが身体がすぐに動かない。
(また、怒られちゃう……!)
顔を上げようとしあっと気、ジャクリーヌは自分の身体がふわりと宙に浮くのを感じた。
今さら寝たふりをやめることもできず、目を瞑っていると、力強い腕は軽々と自分の身体をベッドに横たえ、優しく毛布までかけてくれた。
「帰りを待っていてくれたのか」
夫だ。
声でわかった。
ざらついた固めの生地の制服から酒や紫煙のにおいが漂っている。
ギッと軋んでベッドが鳴った。
当然のように夫婦の行為に移行するとジャクリーヌはわずかに身を強張らせたが、ベルモンドはやさしげに手を伸ばすと髪に指を通した。
分厚く大きい手のひらがゆっくりと頭を撫でているのがわかると、ジャクリーヌは先ほどとは違う種類の涙が自然と目にあふれ出ていた。
気持ちというものは言葉にしなくても相手に通じる部分があるものだ。
ジャクリーヌは掛け値なしにベルモンドからあたたかい優しい気持ちをかけられて、どうしようもなく胸が熱くなった。
目を開けることができない。
かすかなやすらぎが消えていきそうで怖かったのだ。
身体から力が抜け、ポッポッと胸にあたたかい火が灯った。
ちょっとだけうとうとするつもりであったが、気づけば朝になっていた。
「……おねえちゃん?」
きい、と寝室の扉が遠慮がちに開き妹であるマリーヌの声が耳に入った。
それが今朝方のこと――。
ちなみにジャクリーヌが起床した時、ベルモンドは寝間着に着替え隣でぐっすりと寝入っていた。
そして、今もまだ夢の世界である。
「でも、昨日、呑まなかったのは本当……どっちがホントのベルモンドなの?」
記憶を失って以降のベルモンドは性格が変わった。
無論、ジャクリーヌからすればいい方向にである。
まず、一切の酒を断っている。
これが大きい。
そして、どういったことかはわからないが、余裕があるのだ。
ジャクリーヌからすればベルモンドはひとつ年下であり、酒に狂う前はどちらかというと手のかかる弟のような感じであった。
二十歳になった今のジャクリーヌからすれば、どうして彼を将来の伴侶に選んだかというほどの思慮のなさが見受けられたが、同時に切なくなるような一途さがあった。
だが、その一途さは舵を切り間違えたことによって、ジャクリーヌにとって悪夢でしかない方角に進んでいったのだが、それら一切が河水に消えたとしか思えない状況では、どこか超然とした、奇妙な器の大きさを感じさせるものに変化していた。




