三日月亭
「良いですか。一か月後ですよ! 一か月後に必ずコンディションを整え、本来の私を貴方にお見せします。それまでは、今日のことを忘れず首を洗って待っているが良いです」
パトリシアはそれだけいうと、わずかに乱れた髪を整え、たたっ、と小走りで去っていった。
ぎいっと軋んだ音を立ててベルモンドが入口から姿を現した。
「なんというか、今の世はこれが普通なのか?」
ベルモンドの顔中には強く吸いついたようなあとが、幾つもついていた。
自分の顔を撫でさすりながら、情けなくもにやけてしまうのは彼が平均的に美人が好きな男であるからだ。
(とりあえず貞操は守れたようだが。いきなり、ディープキスから始まって、ぷちゅぷちゅとあちこち吸いつかれるとは思わなかったな)
パトリシアに小屋へと強引に連れ込まれたベルモンドはペナルティと称した彼女のキス奉仕を受けたのだった。
「いきなりズボンを脱がされそうになった時は焦ったな。貴族娘はそういう方面に開放的なのか」
ベルモンドは、処女であるパトリシアが屋敷の侍女たちからそういったアダルトな偏った情報を仕入れており、妙な耳年増であったことをこの時点では知らなかった。
「それにしても、今の世界の俺は強いのか? 弱いのか? よくわからなくなったぞ」
今の世界では規格外に強くなっていたことをベルモンドは理解していなかった。
「やぁー、それにしてもオレも見たかったよ。ベルモンドが副団長をこてんこてんにやっつけちゃうところを!」
「どっかに雲隠れしてたのは俺が負けると思ったからだろ」
「ちーがーうって! オレはマジでマジもんで団長を探してたんだけど見つかんなくってさあ。そんで、どうも遅くなって練兵場に行くのもアレだしさ、そこは、ね? 許してくれい」
「調子のいいやつだ。ここのメシは奢りだぞ」
「任せてくれよ、相棒!」
退勤後、ベルモンドは詰所でコソコソしているアルベルトに怒っていると勘違いされ、パトリシアとの勝負の祝勝会と称して街の酒場に連れ出されていた。
「にしても、マジでベルモンド酒呑まないの? おまえともあろう男が」
「ああ。当分はやめておこうと思う。記憶を失う前はずいぶんとやっただろうから、身体がガタガタだ。俺には気にせずアルベルトは好きなだけ飲むがいい」
「へーん。どうせオレの金ですよ。ま、言われなくても呑んじゃうけどね。お姉ちゃん、こっち、酒お代わりね! ああそれと、もう、今日は料理をジャンジャン持ってきてくれ。メニューの端から端までだ」
「悪いな。呑まない代わり、食うのは任せてくれ」
「ああ、しかし、いつもと逆だから、こういうのは新鮮だな」
「なんというか、前の俺はそんなに酒豪だったのか?」
「酒豪っていうか、タダの飲んだくれだ。それこそ、常時飲酒状態ってやつで、詰所でも朝から呑んで昼に呑んで夜も酒場を梯子だ。そこんとこマジで覚えてないんか?」
「綺麗さっぱりだ」
「そっか……ま! ンなこたぁどうでもいっか! 腐った過去のことは忘れてオレたちは輝きしき未来に向かって歩んでゆこうぜ。てなわけで、再び乾杯っ」
「乾杯だ」
フライドブルクでも名店で知られる三日月亭は酒だけではなく、中々に凝った料理も出す。
酒精を当分断つと決めていたベルモンドは酒こそ注文しないが、出される料理に舌鼓を打った。
「しっかし、あの美人の奥さんに悪いな。せっかく九死に一生を得た旦那をこうして引っ張り回してよ」
「いや、同僚との懇親は重要だ。いざというときは互いの背を預けなければならないからな」
「うん? ま、まあ、そういうこともあるかもだが……ぶっちゃけ城壁に籠ってる限り、オレたちが危険な目に遭う可能性は低いから大丈夫だよ。たぶん」
「なあアルベルト。憶えていないから訊ねたいのだが、麝香騎士団の麝香の由来はなんなんだ?」
「ああ、えーと確かこの騎士団を創設した頭領の前職は猟師でジャコウジカをよく取ってご領主さまに献上してたってんだってよ。麝香は香料として貴族のご婦人方に特に珍重されたんだってよ。そんで、縁起がいいからってんで麝香騎士団。そんだけ」
「まあ、わりとよくあるパターンだな」
「そそ。捻りも糞もない。捻って出るのは糞だけ。カカカッ」
「ちょっとー。またアンタたちなの? いくら酒の席だからって下品すぎるわよ。ここはフライドブルク一の名店三日月亭なんですからねっ」
ブロンドを三つ編みにした女給がたしなめるように声をかけてきた。
歳は十五、六だろうか。ドイツの民族衣装であるディアンドルに似た衣装を着ており、前が開いているのでたわわに実った胸が零れ落ちそうである。
(なんだ? この店は娼婦を堂々と接客に出しているのか?)
ベルモンドがキョロキョロとあたりを観察すると、彼女だけではなく酒肴や料理を運んでいる女はいずれも若く、おなじ服を着ていた。
(娼婦を買うのは久しぶりだが……困ったな)
そんなスケベ心をおくびにも出さず、グラスの水を煽っていると、娘が馴れ馴れしく声をかけてきた。
「ベルモンド。まぁーたそんなにカパカパやったら悪酔いするわよ。……って、呑んでないの? うそ?」
「あ、そうだベルモンド。こいつはべレニス。歳は十六で、三日月亭一人気の娘だ。お節介焼きがすぎて、どういうわけかいっつもおまえの世話を焼いていた」
「ああー。そういえば河水に嵌って溺れたんだって? もしかして、噂で記憶をなくしたとかなんとか、それってマジだったのベルモンド」
「ああ、すまない。きみのこともすっかり忘れているが、これからはキチンと覚えておく」
ベルモンドはべレニスが娼婦ではないと知れて、ちょっとガッカリしていた。
「あーうん。そうね。改めてよろしくお願いします……って、これお客さんとするあいさつなのかな? それよりも素面のベルモンドってこんな感じなんだ。いつもは酔っぱらいすぎてて会話にもロクにならないからさ」
「当分酒は呑まんがそのぶん料理で貢献するつもりだ」
「うーん、店側の人間としてはちょっとくらいお酒も注文して欲しいんだけどさ。ま、いいやね。ベルモンドの奥さんもかわいそうだし、お酒を呑まないぶん、これからもちょくちょく顔を出してよ」
「べレニス。ベルモンドに寂しいから会いに来てよってストレートに伝えたほうがいいんでないかい?」
「うっさい! 馬鹿アルベルト!」
「おぼんで頭を叩かないでくれい」
べレニスは顔を真っ赤にして空のおぼんでアルベルトを叩いた。
「じゃ、そういうことで、なにかあったらあたしを指名してよね。結構融通利かせるからさ」
「ちょ、なんでオレを叩く?」
「うっさい!」
てけてけとべレニスは遠ざかり、カウンター近くで振り返るった。
ベルモンドと目が合うとべレニスは小はにかんで小さく手を振った。
「なあ、ベルモンド。べレニスはおまえのこと惚れてんぜ? どうだよ、そろそろ喰っちまえよ。奥さんには黙っとくからさあ」
「いきなりどうした。酒精で脳がやられたか?」
「ひでぇじゃん。でもよ、冗談はともかくあの子、いい子だよな」
「そうだな」




