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ヒェンのダメ譚 3.5

この回はヒェンの母親であるサクラ視点となります。

始まりは2話の途中で家の外へ出かけていった場面となっています。

 「それじゃあ、レシェ。手紙を出しに行くから、ヒェンをお願いね。」

 「うん!」

 娘のレシェの元気な返事を聞き、私サクラ・アルタンは家をでた。

 中央のモドに手紙を出すために一階に向かう。

 見慣れたモドの廊下は今日も変わらず多くの人が行きかっている。

 冬の間、体を休めるための住居であるモドは私にとって一番過ごしやすい場所である。

 全ての部族のまとめ役である黒の部族の長、ウォードの娘として生まれた私は、小さい頃からモドの中で過ごしてきた。

 黒の部族の(ウォード)は中央のモドで暮らし、そこから居を移すことは地渡の狩りの時以外はまずない。

 (ウォード)の娘である私もモドで一年を過ごし生きてきた。

 クルタスと結婚し、黄の部族に嫁入りしたことで今は南のモドで暮らしているが、大きさが違うくらいでモド自体の作りは全く同じなのでこの光景はとても落ち着くはずなのだが、昨日意識が戻ってからヒェンの様子がおかしいので今は落ち着かった。

 三日前の朝、ベェーの背から落ちたヒェンは頭を強く打ってしまい、丸二日以上意識が戻らなかった。

 その日の昼前にはヒェンのことが中央のモドに伝わり、吹雪の中を父がアンシ様を連れてやってきた。

 とてもありがたかったのだが、お年を召されたアンシ様を吹雪の中連れてきたことには血の気が引いた。

 アンシ様は賢医とよばれる白の部族の最長老で、先々代の白の部族長でもある。

 医薬をつかさどる白の部族の中でも最も多くのことを知っているお方で私の大叔母でもある。

 そのお婆様の言葉が頭を過ぎる。

 「サクラ。ヒェンの意識が戻るかどうかは、私でもわからない。意識が戻ったとしても記憶を失っているかもしれない。または身体に障害が残ることもある。もしくはその両方。覚悟はしておくんだよ。」

 そう言ってアンシ様は帰っていかれた。

 意識が戻ってからのヒェンはよく動いていたので体の方は問題が無さそうだった。

 だが、以前のようにママと言ってくれず、表情もあまり変わらなくなってしまっている。

 記憶を失っている?

 いや、まだ分からない。

 体の方に関してもそうだ。

 やはり近いうちに中央のモドに行き、アンシお婆様のところを訪ねよう。

 「サクラ!」

 階段を下りながら考え事をしていると向こうから声を掛けられた。

 声を掛けてきたのは幼馴染のカエデだった。

 「カエデ。今から機織りに?」

 「ああ。ヒェンの様子はどうだい?うちもそうだけど他の大家も気にしてるよ。」

 アルタン家は多くの黄の部族の長を輩出してきた大家で、ウォードが世襲性に変わってからは黄の部族の長を担ってきた。

 現在の長クルタスの息子であるヒェンは次期黄の長として多くの人が気にかけている。

 そのヒェンが一時意識不明になっていたのだ。

 他の大家の方々が気にするのは仕方がない。

 「大丈夫。昨日、目覚めてからミルクも飲んで元気に動いていたから。」

 「その割に、あんたの顔色が優れないから心配だよ。」

 「ずっと看ていたから、少し疲れが出たのかも。」

 「そうかい。手紙を出しに行くんだろ?一緒についていくよ。」

 「機織りの手伝いはいいの?」

 「遅れても問題ないよ。ヒェンのことがあってウォードが大分心配してるらしいからね。

 ここであんたが倒れたらウォードがまたアンシ様を連れて来かねないからね。」

 「わかった。ありがとう。」

 二人で少し笑いあった後、一階の大通りを一緒に歩いていく。

 門の近くにある小道に入ってすぐの部屋に入る。

 そこはモドの外へと出かけていく人たちが集まる休憩場所だ。

 主に男性が情報交換をする場所でもあるため、他のモドから来た人がここで休憩した後、自身のモドに戻ることが多い。

 手紙などを急いで送る場合は急使をたてるか、ここで人に頼むかのどちらかである。

 急使などはよほどの大事でも起きない限りはたてないので基本はこちらが主で手段だ。

 部屋の中では多くの男達が談笑しており、出発前の英気を養っていた。

 「リドラ!ちょっといいかい。」

 カエデが近くで談笑していた痩身の男性を呼んでくれた。

 彼はカエデの夫でクルタスの親友でもある。

 「カエデにサクラか。どうかしたのか?」

 「お話し中にごめんなさいね。父にこの手紙を届けてほしいのだけど誰かいるかしら?」

 「中央にか。ヒェンの事なら昨日急使を送ったぞ。」

 「え?わざわざ急使を?」

 「ああ。ユトがヒェンの事でウォードの気が立っているから何かあったらすぐに教えてくれと言われてな。」

 ユトはカエデの弟で、父の補佐をしている。

 どうやらヒェンの容体が気になって苛立っている父を少しでも落ち着かせようと、わざわざリドラに頼んだのだろう。

 ユトに会ったらちゃんとお礼を言っておかないと。

 「そうだったのね。ありが「ウォード!!??」

 リドラにお礼を言おうとしたら、門の方から大声がした。

 誰のものかはわからないが、父のことを呼んでいる?

 周りにいた人も驚いて声のした方を見ている。

 「まさか、来たんじゃないだろうね。」

 カエデが嫌な予想を言ってくる。

 今日は近々帰国する予定のミノ・ガザルの商団の為に父が酒宴を開くことになっているはずだ。

 その酒宴の主催である父が南のモドに来ることは普通ありえない。

 普通は・・・・・。

 「とりあえず見に行こう。」

 リドラの提案に私とカエデは頷いて答えた。

 すぐそこの門に着くとまだ成人前の男の子たちが数人話し合っている。

 どうやら彼らが今日の門番のようだ。

 「お前たち。何があった。」

 「リドラさん。それが、ウォードがやってきてすごい勢いで中へ走っていきました。」

 男の子の中で一番年長の子がホッとした様子でリドラに状況を説明してくれた。

 「そうか、お前たちはそのまま役目を果たすように。」

 「「「「はい!」」」」

 リドラに元気のよい返事を返した後、男の子たちは戻っていった。

 「予想が当たったな。」

 「当たらなくていいのにね。」

 二人がため息を吐きながら言ってくる。

 当たってほしくなかったので頭を痛くしているのだろう

 「家に戻るわ。」

 その気持ちに共感しながら、父が暴走しているかもしれない我が家に戻ることを決める。

 「ああ。その方がいい。」

 「送っていくよ。向こうがどうなっているのか知りたいし。」

 「わかった。」

 カエデは弟のこともありミノ・ガザルとの酒宴がどうなっているのか気になっているのだろう。

 「アンシ様!!??」

 家に向かおうとしたら、またしても予想外の人物の名前が聞こえてきた。

 振り向くと、ドゥマからゆっくりと降りてくるアンシ様がいた。

 普通は門の前までドゥマで乗り入れてくるのはいけないのだが、アンシ様など年を召された方は許可されており、門の前でドゥマを降りるのはよくあることなのだが、予想外の人物が来たことで門番の子たちが慌てている。

 隣の二人は更なる予想外の人物が来たことで頭を抱えている。

 「お役目ご苦労様。おや、ちょうどいいところに。サクラとカエデ、それにリドラ。おはよう。」

 ドゥマを降りたアンシ様はそう言って門をくぐって入ってきた。

 「おはようございます。アンシ様・・・。」

 なんとか返した挨拶にアンシ様は微笑んでいるが、こちらとしては父が無理矢理連れてきたのではないかと気を揉んでいる。

 「サクラ。ヒェンの様子を見させてもらえるかい。」

 アンシ様はそう言ってくるが、こちらとしては色々と聞きたいことがある。

 「すみません、アンシ様。お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

 リドラが代表して聞いてくれるようだ。

 アンシ様がそれに頷いて答える。

 「ウォードとともに来られたようですが、今日はミノ・ガザルとの酒宴のはず。どうしてこちらに?」

 「昨日、急使を送ってくれただろう。あれでオロスがうるさく言い始めてね。しょうがないから夕刻までに戻るのを条件にここに来ることにしたんだよ。私はヒェンの様子とオロスがちゃんと戻るのを監視するために一緒についてきたのさ。」

 「そうなのですね。」

 酒宴のことと、父に無理矢理連れてこられたわけではないことがわかり安堵する。

 後のことを任されたユトや黒と白の皆には申し訳ないが。

 「あのアンシ様。いいですか。」

 「なんだい、カエデ?」

 カエデは何かが気になるのか辺りを見渡している。

 「お付きの者はどこですか?見当たらないのですが。」

 部族で一番お年を召されているアンシ様には必ず一人は付き人が付くようにしている。

 アンシ様は嫌がっているが七十を超えるアンシ様に何かがあってはいけないとお部屋にいらっしゃるとき以外は必ず誰かが付くようにしているのだ。

 だが、周りを見渡してみてもそれらしき者はいない。

 「ああ。お付きはオロスだよ。」

 その言葉に私たちはぎょっとした。

 アンシ様と父は仲が悪くないものの母のことがあり、良いとも言えないのだ。

 アンシ様は姪である母と大変仲が良く、自分の娘以上に可愛がっていたらしい。

 そんな母に次期ウォードであった父が思いを寄せたことで色々とあった結果、アンシ様と父の関係は微妙なのだ。

 そんな関係の父が付き人としての役目を果たすわけがない。

 事実、アンシ様はこうして一人でいるのだから。

 明らかにこうなることが分かっているのに、何故父をお付きにしたのか。

 「アンシ様!父がお付きなどするはずがないでしょう。」

 「そうです。うちの弟でも誰でも何故連れてこなかったのですか。」

 「今頃誰かが来てるはずさ。オロス以外だと私がセンリを駆けさせただけで何か言ってくるんだ。たまにはセンリと早駆をしたかったのさ。」

 怒って言う、私とカエデにアンシ様は微笑みながらとんでもないことを言ってきた。

 センリはアンシ様のドゥマの名だ。

 ドゥマの足の速さは草原において敵う者がいない。

 本気で駆ければ中央のモドまで四半時もかからない。

 確かにドゥマと駆けるのはとても気持ちがいい。

 だがお年を召されたアンシ様に何かあればと思うと駆けてほしくはない。

 「先日も吹雪の中、駆けてきたのだから大丈夫。さぁヒェンの所に案内しておくれ。」

 更にとんでもないことを暴露してきたアンシ様に、もう何を言っても聞いてくれないと察した私とカエデは言われるままに我が家へ案内したのだった。

 

 「ヒェンの様子はどうなんだい?」

 家に向かう途中でアンシ様が尋ねてきた。

 「体の方は元気に動いていたので問題ないと思います。」

 昨日、夜に大声を出して泣きだした時のことを思い出しながら答える。

 意識を取り戻した後、ミルクを飲まし寝かしつけたヒェンがすぐに泣き始めたのだ。

 最初は夜泣きかと思っていたが、手や足を暴れるようにばたつかせ、泣き寝入るまで大声で泣き続けたのだ。

 以前とは違う泣き方に困惑したが、手や足を元気に動かしていたことに安堵もした。

 そして昨日の夜から今朝までのヒェンの様子を思い出しながらさらに答えていく。

 「ただ、以前のようにママとは言ってくれません。表情もあまり変わらず、大好きだったベェーのミルクも最初はなかなか飲んでくれませんでした。」

 「そうかい・・・。とりあえず見てみようかね。」

 「はい。お願いします。」

 私は一度立ち止まりアンシ様に頭を下げた。

 「ヒェン!返事をしてくれ!ヒェン!」

 すると廊下の向こう側から父の声が響いた。

 その声は焦っており、必死にヒェンの名前を叫んでいる。

 嫌な予感が頭を過ぎり私は走り出した。

 家の近くまでくると扉の前には人が集まっていた。

 父の声を聞きつけ集まってきたのだろう。

 「ごめんなさい。通してください。」

 私は急いで人の間を通り抜け家の扉を開けた。

 「ヒェン!ヒェン!しっかりせんか!ヒェン!!」

 「ウォード。落ち着いてください。」

 「馬鹿者!ヒェンの様子がおかしいのだぞ。何を言っている!!」

 「うわああああん!ああああああん!」

 父は慌てふためき、夫は父に落ち着くように促し、娘は大泣きしている。

 部屋の中は混沌としており何が起こっているか分からなかったが、父の腕の中で力なく抱かれているヒェンを見つけて顔が青ざめる。

 「ヒェン!」

 急いで父のもとに駆け寄り、ヒェンの様子を見る。

 目は胡乱げで、体に力が入らないのか腕も脚も垂れ下がっている。

 「サクラ!ヒェンの様子がおかしいのだ。どうしたらいい?」

 「父さん!ヒェンをこちらに渡して!」

 「う、うむ。」

 ヒェンを受け取ると今まで力なく下がっていたヒェンの手が上がりギュッと私の服を握ってくる。

 顔を見ると怒っているのか少し頬を膨らませてムッとしている。

 「ヒェン。どうしたの?ヒェン?」

 声をかけるが変わらず何も返してはくれない。

 ママと返してくれていた以前の事を思い出し胸が少し痛くなる。

 「ヒェンは大丈夫なのか?どうなのだ?」

 父が堪らず聞いてくるが家を出る前と今では機嫌が悪くなっていることぐらいしか変わっていない。

 ヒェンの機嫌がここまで悪くなっている理由は分からなかったが、それ以外は特に問題はなさそうだった。

 「父さん落ち着いて。ヒェンは大丈夫ですから。」

 「おお!そうか、よかった。ヒェン、ジイジの方へおいで。」

 父が腕を広げておいでと催促してくる。

 それを見たヒェンは私の服を握る力を強め更に行きたくないという風に抱き着いてきた。

 どうやら父の方へは行きたくないようだ。

 「父さん。ヒェンが嫌がっています。何をしたんですか?」

 「す、少し抱きしめただけだ。それ以外何もしておらん。」

 父を問いただすと狼狽えながら弁明してきた。

 少し抱きしめたというがそれだけでヒェンが嫌がるとは思えなかった。

 「やれやれ。また強く抱きしめすぎたのかい?この馬鹿は。」

 「ぐっ。」

 遅れてやってきたアンシ様がヒェンの嫌がっている理由を推測し、父を罵りながら入ってきた。

 図星だったのか父は黙ってしまった。

 ヒェンが喋りだしたころにやってきた父はジイジと呼んでもらえて喜びのあまり思いっきり抱きしめてしまったことがある。

 全部族の中で一番力が強い父に力いっぱい抱きしめられたヒェンは泣き叫び、しばらく父を見ると泣くようになってしまった。

 それ以来ヒェンを抱きしめるときは優しく抱きしめていたのだが、今回はそれが出来なかったようだ。

 「父さん?」

 ヒェンは頭を打って目覚めたばかりなのになんてことを。

 怒りのあまり父を睨みながら詰問する。

 「そんなに強く抱きしめておらん。少し力を込めてしまったかもしれんが。」

 「しばらくヒェンは抱っこさせてあげません!よろしいですね!」

 「待ってくれ。それは酷いではないか。」

 「いいえ。酷くありません。父さんが悪いのですから。それにしばらくはヒェンが嫌がります。」

 「そんな・・・・。クルタス!何とかしろ。」

 「往生際が悪いよ、オロス。これ以上騒ぐとたたき出すよ。」

 「ッ・・・・・・・。」

 父は大きく肩を落とした後、夫に私を説得すように命令したがアンシお様の横槍が入り阻止されてしまった。

 「あの・・・ちょっといいかい?」

 アンシ様と一緒に入ってきていたカエデがおずおずと話しかけてきた。

 「どうしたの?」

 「なんか臭くないかい?」

 「そうだね。ヒェンから臭うが漏らしてはいないのかい?」

 どうやらアンシ様も臭ったらしい。

 先ほどまでヒェンのことで頭がいっぱいになっていて気付かなかったが、確かに部屋の中が少し臭かった。

 ヒェンのおしりを嗅ぐと服の上からでも漏らしていることがはっきり分かった。

 ヒェンの顔を見ると先ほどよりも頬を膨らしムッとしている。

 どうやらヒェンがご機嫌斜めなのはこれが原因ようだ。

 「オムツを変えてきます。」

 頭を打ってから今まで大きい方はしていなかったことを思い出し、オムツを替えるため私は寝室に急いで向かった。


 寝室に入りヒェンをベッドに寝かせてオムツを交換していく。

 今朝起きてすぐのオムツ交換の時はヒェンが暴れてレシェに手伝ってもらいながら変えたのだが今は暴れる様子もなく非常に静かでされるがままになっている。

 表情も不機嫌に頬を膨らませていた先ほどとは違い、何かが抜け落ちたような無表情でとても心配になる顔をしている。

 特に目は虚ろで、どこを見ているのかわからない。

 「ヒェン。」

 心配になり声をかけるが虚空を見ていた目がこちらを少し向くだけで反応はなかった。

 よほどおしりの状態が嫌だったのか、微動だにしなかったのでオムツの交換はすぐに済んだ。

 ヒェンを抱きかかえ居間に戻ると椅子が用意され父たちが座っていた。

 アンシ様の椅子は我が家にはない背もたれ付きの椅子で、姿がなくなっているカエデがわざわざ持ってきてくれたのだろう。

 レシェを膝に乗せ座っているクルタスの隣にある椅子に座る。

 「ヒェンの機嫌は直ったか?直ったのならワシに抱かせてくれ。」

 椅子に座ると父がさっそくヒェンを渡すように催促してくる。

 父がこちらに両手を広げてくるのを見たヒェンは先ほどよりも強く抱き着いてきた。

 父に抱きしめられるのが嫌なのだろう。

 「ヒェンが嫌がっていると先ほども言いましたよね。」

 「今度は加減するから。な、頼む!」

 「ダメです。ヒェン自身が嫌がっているんですから。」

 「冷たいことを言うな。ヒェンのためにアンシを連れてきたのだぞ。」

 「アンシ様を連れてきてくれたのは感謝します。ただ付き人として一緒に来ているはずなのにアンシ様を放って何故こちらに来たのですか。」

 「放っておいて死ぬ玉ではない。それにモドまでは一緒に来た。問題なかろう。」

 「問題あります!父さんもアンシお婆様がどれだけお年を召されているかご存じでしょう。どこで何かあるか分からないお年なのですよ。」

 「しかしだな。」

 「二人ともゆっくりと喋っている時間はないんだ。オロスを酒宴に間に合うよう連れて帰らなきゃならないからね。」

 アンシ様が私と父さんの言い合いを止めに入ってきた。

 「オロス。ヒェンは嫌がってるんだ。これ以上無理に抱こうとするともっと嫌われるよ。」

 ヒェンにこれ以上嫌われたくない父は仕方なく手を引っ込めた。

 「ヒェンを見させてもらおうかね。」

 「はい。」

 私は立ち上がりアンシ様にヒェンを手渡した。

 アンシ様はヒェンを膝に乗せ、手や足を触りながらヒェンの体に異常がないか確認していく。

 手を触れられると握り返し、足の裏を触ると足を大きく動かした。

 見ている限りでは体に異常は見えないが、ヒェンの表情が変わらないので不安になってくる。

 隣で見ている父もそれに気づいているようで先ほどまでと打って変わって非常に静かだ。

 「サクラ。ヒェンを返すよ。」

 私はヒェンを受け取ると椅子に座りなおした。

 「体の方は問題なさそうだね。記憶はなくなっているみたいだね。」

 「アンシ。記憶を失ったからといって、ここまで表情が変わらなくなるものなのか。」

 父が堪らず問う。

 「頭に怪我を負ったらどうなるかは、私も詳しくはわからない。一時的な記憶の混濁で済む場合もあるし、一生戻らないこともあるらしい。どうなるかは経過を見ていくしかないね。」

 父もこれ以上聞いても何もわからないことを悟り静かになる。

 アンシ様に記憶を失っていると言われたが、私は冷静に受け止めることが出来た。

 ヒェンの様子から察してはいたから。

 しかし、ヒェンは記憶を失ってはいるが生きているのだ。

 今までの記憶がないことは少し寂しいが、あの時のように子を失ったわけではない。

 もう、失うわけにはいかない。

 ヒェンもレシェも決して失いたくない。

 「わかりました。しばらく慎重にヒェンの様子を見てみます。」

 アンシ様は静かに頷いた後、レシェの方を向いた。

 「レシェ。具合は悪くないかい?」

 「うん。平気。」

 「具合が悪くなったら、すぐにお母さんに言うんだよ。」

 「うん。あのね、アンシお婆様。さっきヒェンすごく暴れたんだよ。」

 レシェはアンシ様とお話がしたいのか先ほどのヒェンの様子を話し始めた。

 「ミルクを飲ませた後、ヒェンが眠そうだったからベッドに連れていこうとしたらね、急にヒェンが肩を叩いてきたの。」

 「そうなのかい?肩は痛くなかったかい?」

 レシェは首を横に振りながら話を続ける。

 「ううん。痛くなかったよ。ちょっとビックリしたけど。」

 「ヒェンはどうして肩を叩いてきたんだい?」

 「ヒェンの方を見たらね、倉庫を指さしてたの。それで連れて行くと扉を叩き始めたから開けてほしいのかなって思って開けてあげたの。」

 「ヒェンは倉庫に行きたがったのかい?」

 「うん。でも違ったみたい。開けたらヒェン静かになってね、すぐに父上の寝てるお部屋を指さしたの。また近くまで連れていくと扉を叩こうとしたから父上が寝てるからダメって怒ったらスゴイ大声を出したの。」

 ヒェンはどこかに行きたがっている?

 どこへ?

 「扉を開けてあげたのかい?」

 「ううん。父上が起きてきたの。」

 アンシ様がクルタスの方を見やるとクルタスはその後の出来事を話し始めた。

 「ヒェンの大声が聞こえ、何事かと思い居間に向かったのです。扉を開けると二人がおり、レシェから事情を聴こうとしました。その途中ヒェンが暴れはじめレシェの腕から落ちてしまい、すぐに怪我をしていないか見るために抱き上げようとしたのですが、ヒェンがまた暴れはじめたのです。」

 「暴れたこと以外に何か気にかかったことはなかったかい?」

 「・・・レシェの話を聞いているときヒェンが何かを見ていたような気がします。」

 「寝室の中かい?」

 「はい。ただ何かまでは。」

 「暴れた後はどうしたんだい?」

 「それがすぐにウォードがやってきまして。」

 「そうかい。その後は私達が来た時と状況は変わらないね。」

 「はい、ウォードにずっと抱かれていました。」

 「ふむ・・・・・・。」

 アンシ様は小さくつぶやいた後、そのまま考え込んでしまった。

 父は強く抱きしめすぎた時のことを話されバツが悪いのか黙り込んでいる。

 レシェはアンシ様の様子が変わったので不安になったのかクルタスに話しかけている。

 ヒェンは目の前の父とアンシ様が気になるのかジッと見て動かない。

 我が子に何が起こっているか分からず情けなくなる。

 母なら何かわかったはずなのに。

 亡くなってしまった母は賢く、偉大だった。

 それなのに自分は。

 ガタリ。

 聞こえた音にハッとなり前を向く。

 アンシ様が立ち上がっており、ヒェンの方を見ていた。

 そのままこちらに近づきヒェンの目線に合わせるように中腰になった。

 ヒェンはいつの間にか抱き着いてきており顔を隠してしまっている。

 「ヒェン。ヒェン。」

 そんなヒェンに対してアンシ様は声を掛けはじめた。

 しばらくするとヒェンはゆっくりとアンシ様の方に顔を向けた。

 アンシ様はヒェンがこちらを向くのを確認すると自身を指さした。

 「アンシ。アンシ。」

 ヒェンに自分の名前を教えようと自分の名前を何度も言いはじめたのだ。

 「ボケたか、ババア。」

 父がいらないことを言ってくるがアンシ様は無視して、自分の名前を言い続ける。

 するとヒェンが口を動かし始めた。

 「アァシ。アァシ。」

 すぐにヒェンは真似をして喋りはじめる。

 指もアンシ様の方に向けている。

 アンシ様は小さく頷くと父の方に指を向け父の名前を教え始めた。

 ヒェンは父の名前もすぐに覚え、父を指さしながら父の名前を呼んでいる。

 父が少し嫌そうな顔をしている。

 あれは以前のようにジイジと呼んでほしかったのだろう。

 ヒェンはそのままクルタスとレシェの名前も覚えていった。

 それにしても驚いた。

 何度も話しかけて覚えさせていたことを、すぐに覚えてしまうのだから。

 クルタスも同じことを思っているのか目を見張っている。

 次は私の名前の番だ。

 ヒェンは言葉を覚えるのが嬉しいのか楽しそうだ。

 このまま私の名前もちゃんと呼んでほしい。

 そう思いながら静かに見守る。

 アンシ様が私を指さした。

 ヒェンはこちらを向いてアンシ様の言葉を静かに待っている。

 アンシ様が口を開き私の名前を教える。

 「サクラ。」

 私の名前を聞いたヒェンが一瞬大きく震えた。

 こちらを見る目は大きく見開かれ、口は小さく開いたままになっている。

 その顔からは先ほど楽しさは消え、驚きだけが存在していた。

 ヒェンが何に驚いているのか分からないが、そのまま動かなくなってしまったので心配になり声を掛けながら頭を撫でた。

 すると次の瞬間ヒェンが勢いよくアンシ様の方を振り向いた。

 私もそちらを向くとアンシ様の顔がいつも以上に真剣で怖い顔になっていた。

 その顔が怖かったのかヒェンは少し震えている。

 アンシ様が手を差し出してくるとヒェンは嫌がるように強く抱き着いてきた。

 何故そこまで怖い顔をされるのが分からなかったが、怒っているわけでもヒェンを怖がらせたいわけでもないのはわかっている。

 昔から考え込んだり集中しだしたりすると眉間にしわが寄りとても怖い顔になってしまうのだ。

 アンシ様は差し出した手で怯えるヒェンを撫でると表情を緩めた。

 ヒェンは撫でられたことに気づきアンシ様の方を見ると怖い顔でなくなっているのがわかったのか抱き着く力を弱めた。

 震えも止まり落ち着いたようだ。

 アンシ様はもう一度、私を指さして名前を言った。

 先ほどのようなことは起こらずヒェンは私を指さしすぐに名前を呼んでくれた。

 それを聞き終えたお婆様は満足気に頷くと席に戻っていった。

 「アンシ様、何かわかったのですか?」

 私は先ほどの顔が気になり堪らず聞いてしまった。

 アンシ様は少し目を閉じるとゆっくりと首を横に振った。

 「何でもないよ。それより来たついでだ。サクラ診察をするから寝室に来てくれるかい。」

 「待て!アンシ。それではこの月にサクラ達が中央に来てくれなくなるではないか。」

 「この季節、外の移動は少ない方がいい。それくらいわかるだろうに。」

 「だが孫たちに会う回数が減ってしまう!」

 「あんたが会いにくればいいだけだろう。それとも体の弱い娘と孫を危険にさらしてまで会いに来てほしいのかい。」

 「グッ!・・・わかった。」

 月に一度、私とレシェはアンシ様の診察を受けるために中央のモドに通っている。

 今月の診察を今日ここで行ってくれるのだが、父は孫たちが遊びに来てくれるその日を楽しみにしているため反対したのだがアンシ様の正論に負け引き下がった。

 「それじゃあ、サクラ。いくよ。」

 私はアンシ様に促され立ち上がった。

 アンシ様が寝室にすぐに入っていったので急ぎ抱きかかえたヒェンを誰かに渡そうと周りを見ると父が満面の笑みで腕を広げていた。

 もちろんヒェンが嫌がるのが目に見えているのでクルタスにお願いすることにする。

 「クルタス、ヒェンをお願いできる?」

 「サクラ。父の願いを無視するのか!頼む!な!な!」

 父が手を伸ばしてヒェンを渡すようにと懇願してくる。

 「クゥタシュ。クゥタシュ。」

 どうしようかと悩んだ瞬間、ヒェンが父の手を嫌がるように手をばたつかせ、クルタスの名を呼んだ。

 明らかにクルタスに助けを求めている。

 父もそれがわかったのか、衝撃を受けている。

 「レシェ。ウォードの方へ行ってくれるか。」

 「うん。」

 クルタスがレシェを膝から降ろしたので、ヒェンを手渡す。

 「レシェ〜。ヒェンに嫌われてしまった。ジイジはどうしたらいい。」

 父がレシェを抱っこして頬ずりしている。

 「ジイジ、チクチクする。やめて!チクチクなジイジ嫌い!」

 いつもは綺麗に髭を剃っている父だが今日は朝早くに来たために剃っていないようだ。

 男の人達にとって髭は自身を強く見せるための象徴で多くの人が生やしているのだが、母は髭が嫌いだったので、父に結婚する条件としてちゃんと髭を剃ることを課したそうだ。

 以来、母が亡くなった後も父は几帳面に髭を剃り続けている。

 ちなみに母の髭嫌いを見てきた私も髭が苦手なのでクルタスに髭を剃ってもらっている。

 「そ・・・ん・・・な・・・。」

 父はレシェの言葉がよほど心に刺さったのか意気消沈してしまっている。

 この光景を見て父がヒェンにいらぬちょっかいを出すことがないと感じたので、私は安心して寝室へと向かった。






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