ヒェンのダメ譚 2
目の前に差し出された木匙をジッと見つめる。
木匙には昨日と同じミルクが掬われていて、いい香りを漂わせている。
元気があれば昨日みたいに何杯もお代わりしてお腹いっぱいになるまで飲むのだが今日はそんな元気もない。
昨日発覚した異世界あるあるのチート能力などがないと分かったうえに、今朝起きたらやらかしていたのだ。
何をやらかしていたのかって。
・・・おねしょ。
そうだよ、おねしょだよ!
朝起きたら股間が洪水になってるアレだよ!
オムツを装着していたから大惨事にはなっていなかったが、その後母親によるオムツの交換イベントが発生。
自分で出来ると抵抗するもレシェと母親に抑えられて強制交換。
もろもろが精神的に大ダメージです。
恥辱のあまり死んでしまいそう。
途中で自分が男の子だという小さな証明を見つけられたのが唯一の救いだった。
前も言ったが俺に赤ん坊プレイの趣味はない!
こんな状況が続けばホント精神的に死んでしまう。
何とかしなければならない。
誰か俺にここの言葉がわかったり喋れるスキルをください。
せめてトイレってなんていうのか教えてくれ!
「ヒェン?ヒェン?」
母親が声をかけてくるが答える気力が起きない。
なぜなら朝起きた惨事より更に酷い惨事の危機に直面しているからだ。
朝起きた惨事は小であり、今直面している惨事は大だ。
今はまだ少しお腹が痛い程度で済んでいるが、このままではお尻が爆発してしまうだろう。
その後に待っているのは汚い土砂崩れであり、羞恥の跡片付けである。
このままでは第一災害を超える最悪の未来が待っている。
何とかしなければこの未来は確実にやってきてしまう。
「qq`ej。」
どうしたものかと悩んでいると、扉の向こうから男性の声が聞こえた。
それを聞いた母親は匙を置き俺を抱えて扉の方へ歩きはじめた。
母親が歩く振動でお腹に小さなダメージが蓄積されていく。
もう少しゆっくり歩いてほしいが伝えることは無理そうなのでギュッと力いっぱいしがみつく。
母親が扉を開けるとそこは広い居間のような場所だった。
真ん中にストーブが置かれ寝室のように家具が壁際に配置されている。
「6t5luxe。」
母親が別の扉の前にいる男性に声をかけた。
男性は背が高く、レシェと同じ少し濃い緑の髪で瞳は黒色をしている。
精悍な顔つきをしており、体格もしっかりしていてとても力強い印象を受ける。
その隣でレシェが嬉しそうに自分の身の丈よりも大きな剣を持っている。
子供になんて物騒なものを持たせているんだ。
レシェはその剣を細高い二枚扉の箪笥の横に立て掛けた。
それを横目で見ているとグイっと男性に高い高いの格好で持ち上げられた。
手の感触は固く母親のものとは真逆だった。
今はお腹のこともあるので持ち上げられたくないのだがとりあえずされるがままになる。
母親とレシェの感じからこの男性が父親であるということは間違いないだろう。
高い高いされたまま父親の顔を見ていると父親は戸惑ったような表情になり、俺を下した後胸に抱いて母親と話し始めた。
たぶん子供の様子が以前と違うことに違和感を覚えているのだろう。
以前の様子を知らないし、幼児の真似などできないのでこのまま通すことにする。
それにしても鍛えているのか胸板が厚くとても固い。
母親に抱かれている方が心地よいので戻りたいなと思っていると、足元からレシェが母親のズボンを引っ張っていた。
両親と喋った後、レシェは寝室の方に入っていき、すぐに戻ってきた。
その手にはミルクの入った木皿と木匙を持っている。
机の上にそれを置くと丸椅子を持ってきて座った。
座ったレシェに父親は俺を渡すと母親と一緒にストーブ近くに座り喋りはじめた。
レシェに後ろから抱きかかえられながら木皿を見る。
ほとんど飲んでいなかったので木皿にはまだミルクがたくさん残っていた。
レシェは木匙にミルクを掬うと俺に飲ませようと口の前に持ってくる。
ミルクを飲んでしまえば腹痛が悪化する恐れがあるので口を閉じて抵抗していると、レシェの顔が悲しげに歪んでいく。
クッ、ここで飲んでしまうと最悪の未来が近づいてしまう。
たとえ泣かれようともこのまま抵抗して飲まずに切り抜ける!
「ヒェン・・・・。」
ゆっくりとレシェの目尻に涙が溜まってきてしまった。
うん、これはダメだ。
罪悪感が半端ない。
仕方がないのでミルクを飲む。
すると一瞬でレシェは笑顔になり急いでミルクを掬って口の前に持ってくる。
俺は判断を間違ってしまったのではないだろうか。
木皿に入っているミルクを全て飲むまで解放される気がしない。
ヤバイ!
トイレを伝える方法の一つも浮かんでいないのに状況が一気に悪化していく。
何としても二杯目は防がなければ!
鋼の意志を持ってもう一度抵抗する。
しかし飲もうとしないとすぐにレシェの表情は曇り、こちらの鋼の意志を折ろうとしてくる。
しかも雲行きの悪化は早く涙の雨がすぐ降ろうとしてくるのだ。
ミルクを飲まない程度で泣かないでほしい。
このままではこちらの心が待たないので諦めてミルクを飲む。
笑顔になるレシェ。
ミルクを再び差し出されて抵抗する俺。
泣き顔になるレシェ。
諦めて飲む俺。
そんなことを繰り返しているうちに全てのミルクを飲まされてしまった。
俺の鋼の意志はレシェの涙によって簡単に溶かされてしまったのである。
ミルクを飲み終えた後、少々おネムになってきた。
ただこのまま寝てしまうと朝のように気づかないまま災害を起こしてしまう可能性があるので眠気に抵抗しながら解決方法をさがす。
父親と母親の方を見ると、話し合いが終わったのか、父親は寝室に向かい母親は机で何かを書いている。
そういえば今がどうして朝だということに気づいたかというと、家の天井部がほのかに光っているからだ。
照明がないのに光っているので、上から太陽が透過して光を届けてくれているのだろうと推測したからである。
光が透過しているということは、屋根は布地か異世界特有の不思議物質で出来ているのだろう。
父親が入っていった寝室も同じように光っていたので間違いないはずだ。
天井を見ていると、母親が目の前にやってきていた。
レシェに話しかけた後、父親が立っていた扉からどこかへ出かけていってしまった。
あの扉が玄関なのだろう。
居間には三つ扉があり、寝室と玄関が今判明している。
あと一つの扉はトイレだろうかと考えていると、レシェが動き出した。
抱き方を後ろから前に抱える形に変え、椅子から一気に飛び跳ねるように降りたのだ。
全ての動作が早くお腹にかかる負荷を抑えることが出来なかった。
結果、俺のお腹は深刻なダメージを受けた。
ミルクと椅子から降りた時のダメージにより、さっきまであった余裕はなくなった。
少しの間声も出すことができなくなり、レシェに抱きつき必死に便意を我慢することしかできなくなってしまった。
そこで閃いた!
いや、気づいたのだ。
この部屋にある三つ目の扉。
そう、トイレと思しき最後の希望に。
最悪の結末を回避するためにも行動するしかない。
何としてもレシェに気づいてもらうため強めにレシェの肩を強めに叩き扉を指さす。
「ヒェン!?」
レシェは叩かれたことに驚きこちらの顔を見てきた。
顔ではなく扉を指している指を見てほしいので、指している腕を大きく動かす。
指に気づいたレシェは、戸惑ったまま扉の方に連れて行ってくれた。
この家の扉はどれも大きく重そうなので幼児の自分には確実に開けるのは不可能だ。
そこで扉をペシペシと何度も叩き中に入りたいとアピールする。
レシェは困りながらも俺を近くの床に降ろすと頑張って扉を開いてくれた。
今世の姉のやさしさに打ち震えながら扉の向こうに広がるのが希望のお花畑であることを願う。
俺、この扉をくぐったらお花を摘みに行くんだ、などと馬鹿げたことを思いながら扉の向こう側を見る。
そこは・・・・・倉庫だった。
普段使われないものがしまわれているのだろう、大きな葛籠や袋が並んでいる。
俺が求めた便器はどこにもなかった。
希望が潰えた瞬間、お腹の反乱が勢いよく始まった。
動けないほどまでに襲い掛かってくる便意。
希望はもうない。
それでも諦めきれなかった。
必死に耐えて一筋の光を探す。
もうトイレの可能性は家の外にしかない。
ただ外に出してはくれないだろう。
レシェ一人での外出は許可されているかもしれないが、幼児の俺込みだと両親のどちらかがいないと外出は禁止されているはずだ。
父親は寝ており、母親は外に出ていったまま戻ってきていない。
父親を起こしてもらうか。
しかしどう伝えればいいか思いつかない。
母親が帰るまで待つ。
限界が近いので無理!
せめてオマルでもあれば一人でできるのに!
・・・そうだ!
オマルだ!!
歩ける幼児がいるのだ。
オマルがある可能性は高い。
前の世界みたいに便器の形はしていないだろう。
たしか昔は壺のような物に用をたしていたはず。
なら大きな口をした壺の可能性が高い。
匂いが外に漏れないように蓋もついているだろう。
汚いものを入れるのだから分かりづらいところに隠しているはず。
誰かが入ってくる居間でさせはしないだろう。
倉庫も普段いないところに置きはしないだろう。
残るは寝室か!
心配そうにこちらを見ていたレシェに寝室の扉を指さし、行きたいとアピールする。
レシェに抱きかかえてもらい扉の前に移動する。
再び開けてもらおうとアピールしようとするとレシェが扉から離れて叩くことが出来なかった。
「ヒェン、q`/!」
言葉は分からないが語彙の強さから多分怒られているのだろう。
だが今はそんなことを考えている余裕はない。
お尻の導火線にはもう火が点いていて、いつ爆発してしまうか分からないのだ。
『アーエエ!アーエエ!』
開けてとレシェに訴えていると、扉が開いて奥から父親が出てきた。
寝る前か後かはわからないが、子供たちが扉の前で騒いでいたので気になって起きてきたのだろう。
起こしてしまったなら申し訳ないが今はそれどころではない。
部屋の中に目を向けトイレに使っているような壺を探す。
そして見つけた。
ベビーベッドのすぐ下に蓋つきの口の大きな壺を発見したのだ。
あれがオマルだ!
助かったああああああああああぁぁぁ。
急いで壺に向かってほしいで壺を指さしてアピールするが、レシェは父親に事情を説明しているみたいで動いてくれない。
父親もそれを聞いているので動いてくれない。
こうなったら自分で歩いていくしかない。
間に合うかどうかは賭けだがやるしかない!
最後の力を振り絞り、レシェの腕から逃げ出すために暴れる。
急に暴れだした俺にびっくりしたレシェは俺を落とした。
手と足を使って四つん這いで着地。
着地の際にお腹にダメージが来たが何とか耐えることが出来た。
あとは立ち上がってオマルに向かうだけだ。
しかし立ち上がろうとしたら父親に捕まってしまった。
父親はすごく心配した顔でこちらに話しかけてくるが放してほしい。
どうせならオマルの方に連れていってくれ。
後ろではレシェが泣きながら何か言っているがそれどころではない。
父親の拘束からもがいて逃れようとしていると玄関の扉が勢いよく開いた。
びっくりして全員がそちらを向くとそこにはでかい爺さんが入ってきていた。
父親よりもでかく逞しい爺さんだ。
あまりの体の大きさにオマルのことも忘れて見ていると、こちらを見てとてもうれしそうに突進してきた。
「ヒェェェェェェェェェェェン!」
体はでかいがその動きは俊敏で俺の名前を叫びながら一瞬で目の前までやってくる。
状況がわからないまま呆然としている俺を、父親から奪い取ると抱きしめてきた。
爺さんの両腕は丸太のように太く、胸板は岩のごとく厚く硬かった。
しかも抱きしめる力は強く、俺は丸太と岩に圧し潰されてゆく。
そしてそれが汚い土砂崩れへの最後の一押しになった。
アッ―――――――――――――――。
光が消えていく。
足掻いて、足掻いて何とか見つけた光が。
手に入れたかった光は届かず遥か彼方。
もう限界だった。
もう無理だった。
モウドウニデモナッテシマエ・・・。
次の瞬間お尻が爆発した。
それと同時に俺の中の尊厳とか羞恥とかも爆発して消えてしまった。
最悪の未来を迎えてしまった俺は強く決意する。
早く喋れるようになろうと。
そしてジジイ許さない。