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七話目以降(3)

「始めてください」

この合図に、一斉に紙を裏返す音が教室内に響く。

皆がシャープペンシルを持ち、真剣に紙と向き合う日――――――定期テスト当日。

俺もみんなと同様に、紙を裏返し、解答用紙に名前を書く。

最近は、ちゃんと「氷」になっているか確認するようにしていた。今の自分はどっちなのか確認するためでもある。

今までなら、「氷」の点が抜けていて「水」になっていても、ちょんっと付け加えれば何もなく終えていたのだが、今ではそうとはいかない。

俺にとっては「ちょん」っとした点でも命取りとなるからである。

ちゃんと、「ちょん」を確認した後は、問題を解いていく。

見るからに、今までの定期テストとは違い、難しいのが目立つ。しかし、初めて客人として絹織家に勉強会に行った日から、毎日のように絹織 文音とテスト対策勉強会を二人きりで開いていた。

さすがにあれだけ勉強したんだ、俺の頭脳は成長していた。

――――解ける。

迷うことなくスラスラと動かせる手が気持ちいい。今までは時計と睨めっこしていたが、今回はちゃんと問題用紙と睨めっこ出来ていた。

ちっとも笑えて来ないが、それでいい。俺が出来てるんだ、絹織 文音だってこんな問題スラスラと解けているに違いない。

そう思うとなんだか――――

「こら、氷崎。 なにニヤニヤしてんだ」

「―――あっ、すいません」

にやけてくる。


さすがにヤバいと言うことで、場所はファミレスに変え、お互いに最低限必要な言葉しか口にせず、黙々とポテトフライを食べながら、教科書とノートに目をやっていた。その光景をクラスの奴らに見られ、誤解を解くのにも苦労したのだが、勉強に支障が出ることはなかった。

それでも、一人で勉強している時より、はかどっていたのは確かな事だった。

やはり、分かる問題を解くと言うのは本当に気持ちが良い事だ。

俺と絹織 文音が欠点を取らないことによって、「氷崎 凛」は進級でき、「水崎 凛」は解雇されないですむ。

最初はどうなることかと思っていたのだが、ここまで先が読めると―――。

「おい、氷崎。さっきから何がおかしんだ」

「―――いや・・・すいません」

今回の定期テスト、五教科で俺の手が止まることは無かった。



「難しすぎるだろ」「どうしよ、進級できないかも・・・」なんて声があちらこちらから聞こえる放課後の教室。

俺と絹織 文音はお互いに微笑んだ。

「お疲れ、文音」

「凛こそ、お疲れ様」

帰りの準備をしながら、言葉を交わす。

「ちゃんと、勉強したおかげだな」

「そうね―――あんなに勉強したんだもの、出来て当たり前よ」

「でも、始まる直前まで年号やら、数学の公式やらを繰り返してたじゃないか」

「な・・・あ、あれは、り、凛に言ってあげてたのよ!」

「さすがに無茶があるだろ・・・」

「まあ、とにかく! 凛が出来たのは私のおかげなのよ、感謝してよね」

とにかく! と一旦言葉を切って、感謝してよねと、クールを装って話す

「ああ、感謝してるよ。文音に数学教えてもらわなかったら、今回のテスト欠点だった」

それは絹織 文音がクール気取ってツンデレをしているわけではない。本当に分かりやすく教えてもらい、今回の数学は救われたのだ。

ほんと感謝、感激だ。

「私のありがたみを分かればいいのよ、分かれば――――――だから、ケーキでもおごってよね」

「ああ、いいよ」

「―――え?」

絹織 文音は一瞬止まった。そして、もう一度言う。

「・・・だから、ケーキでもおごってよね」

「うん・・いいよ?」

まさか・・・みたいな顔をしている絹織 文音に俺は「いかないのか?」と聞くと、目を輝かせながら「いく!」と答えた。

その姿は正しく、子供。

さっきまではクールを気取っていたのに・・・・。揚句には鼻歌まで歌い始める。

キャラの変わりように少しは統一させてくれと思うが、おもちゃを買い与えた子供のように、はしゃぐ絹織 文音もまた―――――。

「じゃ、行こうか」

俺は鞄を肩にかけ、制服を正した。

絹織 文音も鞄を手に持ち、スカートに着いたほこりをはたいている。

そんな姿を見て、クラスの奴らは俺らに「デートか?」と笑いながら問う。いつもなら「違う!」と突っ込むのだが、今日ぐらいはいいだろう。

「―――楽しんでくるわ」

その言葉に、クラスの奴。と、絹織 文音は驚いていた。

「おお、おう」

そんなクラスの奴らを横目に、俺と不思議そうな表情をしている絹織 文音は教室を出て、近くにあるカフェへと向かった。


「―――いらっしゃいませ」

落ち着いた店内の雰囲気に、低い声が似合っていて、俺と絹織 文音は奥のテーブルに座った。店内には、俺と絹織 文音以外の紅葉ヶ丘高校の制服を着た生徒があちらこちらに座っていて、仲良く美味しそうなケーキを食べながら、お喋りしているカップルが多かった。

席に着くや否や、俺はメニューを広げ、絹織 文音に差し出した。

「食べたいの決めて」

「・・・ほんとに、いいの?」

絹織 文音はきょろきょろと周りを見渡し、小さな声で申し訳なさそうに言った。

「数学を教えてくれたお礼だって、気にしなくていいから」

そういうと、俺が差し出したメニューを絹織 文音は目を煌めかせながら食いついて「どれにしようかなぁ」と楽しそうに選んでいた。

甘い匂いが漂う店内にはレトロな置物が多く置いてあり、照明も少し暗く、とても落ち着く造りとなっていた。

車がたくさん行き交う外とは違い、ゆっくりと時間が進んでいくような―――。

そんな雰囲気の店にしたかったのか、時間を確認できるようなものは置いていなかった。

「―――じゃあ、これにする」

絹織 文音が指さしてるのは、木苺のタルト。サンプルの写真からも美味しさが伝わてきそうな外見に惹かれたのだろう。

「すいませーん」

落ち着いた格好の店員さんが注文を受け取る。店の雰囲気作りには、従業員にも関わってくるのだろう。

「早く、食べたいなあ」

木苺のタルトのサンプル写真を指でなぞるその姿は、無邪気な子供のようで、どこか儚げだった。

「ちょっと、トイレ行ってくるわ」

一気に暖かい所に来たからだろうか、尿意がやばい。「うん、分かった」と返事をする絹織 文音の声を確認して、俺はお洒落なレトロの椅子を引き、席を立った。と、同時にガチャンと音がする。

そんな大きな音では無いため、周りの視線は集まらないのだが、俺にはダメージが大きかった。

「やば」

スマホを落としたのだ。落ちて裏返ったスマホを、液晶画面が割れていないか、恐る恐る拾い上げ、裏返し、液晶画面を見た。

「・・・・はぁ」

良かった。割れてはいない。これだから、学校指定のコートは嫌なんだ。浅いポケットに手を突っ込んで思う。

「大丈夫・・・?」

「ああ、うん。割れてなかった」

絹織 文音も心配そうに俺のスマホを見ていた。問題のスマホを裏表見せ、無事だったことを知らせる。

スマホを俺はテーブルに置き、「んじゃ、行ってくる」と店の奥にある、トイレに向かった。

ここの店は、トイレにまでこだわっていて、レトロな感じがトイレでも十分に感じられるようになっていた。そんなもんだから、ある意味落ち着いて出来ない。トイレは普通な感じにしてほしかったと、ここは不満を思う。

なんとか用を済ませ、手を洗っている時、目の前の鏡に写る自分と目が合った。

目の下にうっすらとクマが出来ていたことに気付く。

「疲れ溜まってんのかな・・・」

どこか頼りない表情の自分に呟いて思いっきり目をつぶり勢いよく開けた。ゆっくりと、ぼやけていた視界がクリアになる。俺流の疲れている時に気合を入れる方法だ。中学時代からしているこの行為で、どことなく気合が出る。

「よし」

どことなく元気になったかな、ぐらいの自分に喝を入れるように呟き、無駄にお洒落なトイレを出た。

席に戻ると、絹織 文音が注文した「木苺のタルト」、俺が注文した「コーヒー」がテーブルにあった。しかし、絹織 文音は目の前に待ち遠しく待っていたタルトが来たのに、かしこまった格好で固まっている。

「あれ、食べててよかったのに」

席に着きながら、絹織 文音に言うが、「う、うん」と変な返答をする。俺はてっきり、「遅いじゃない! あんたを待ってたんだから!」と、うるさく言われるかと思ったのだが、そんな感じではない。

「ど、どした?」

俺は首を傾げ、視線を合わせようとしない絹織 文音に聞く。が、答えない。

むしろ、もっと、そっぽを向いてしまう。

―――俺、何かしたか?

自分、自分のテーブルの周り見渡すが、変わったことは無い。ちゃんと手も洗ったし。変わった事と言えば、注文したものが来ただけ、「木苺のタルト」と「コーヒー」。

理解できない状況に、俺はコーヒーを一口飲んだ。

―――うん、やっぱりここのコーヒーは美味しい。

特別なことがないと、あまりここには来ないのだが、美味しいコーヒーの味は忘れてはいなかった。

音をたてないように静かにコーヒーカップを机に置いた。その時、万が一、コーヒーをスマホにこぼして・・・なんてことを思い、ポケットが深い制服のズボンの方にしまおうと手に取った時、始めにスマホを置いた時と、向きが逆になっていることに気付いた。

―――ということは。

「―――電源付けた・・・・?」

「・・・・うん」

電源を付けたと言う、絹織 文音に俺は直球に聞く。

「・・・見た?」

「・・・・」

カァーと顔が赤くなる絹織 文音は答えず、黙っていいるが答えは「見た」だろう。

―――見られたのだ。絹織 文音、本人見られたのだ。

もう、何も言い逃れする準備も出来ていない。それにこんなテストお疲れ会でこれがバレるとは。

俺には、とにかく本当の事を言い、謝る事しかできない。

「ごめん、文音。ほら、覚えてるか分からないけど・・・文音が貧血で倒れた時の写真で・・最初は、文音の弱みとして使えるかなぁ、なんて冗談半分で思ってたんだけど・・・見てたら、あまりにも綺麗で・・・・つい・・・」

痴漢で捕まった奴の言い訳みたいな言葉が、次々と出てくる。でもこれも、痴漢みたいなもので、絹織 文音は俺を軽蔑したに違いない。

「本当に・・・ごめん」

頭を下げて俺は謝罪した。どんな罵声も浴びる覚悟は出来ている。でも、あまり大きな声じゃなく、目の前に人がいる場合のトーンで、出来るだけ小さく罵声を。

頭を下げている際に、絹織 文音は怒って出ていき、一人、俺だけ店に取り残されるという、最悪な光景が思い浮かんだ。

思いっきり目をつぶり、勢いよく開け、少し気合を入れなおした。

「・・・・凛」

低いトーンの声がした。

俺は、ゆっくりと頭をあげ、絹織 文音を見た。目線は合って、その目は、犯罪者を見るような冷たい、軽蔑した感じでは無く、小さい子供が怪我をして、それを心配そうに温かく接する近所のお姉さんみたいな、そんな感じだった。

「・・・凛、目つぶって・・」

「・・・え」

「目・・つぶって」

殴られる。か、なにか物理的な攻撃の前段階。俺は、抵抗も反論もせず、言われたように目をつぶった。

悪いのは自分だと分かっている。もしもバレたなら、それぐらいの報いは受けるつもりだった。その覚悟で半年以上、俺のスマホには眠り姫がいて、眺めていたのだから。

ガサガサと鞄を探る音が聞こえる。うっすらと目を開けるなど、この場に及んでそんな事をするほど、度胸は無い。

素手で殴るなど、俺に触れたくはないのだろうか。女子高生のカバンの中身は未知だが、バールなんて鈍器は、さすがに入ってないだろ?

例え、バールが入っていて、俺に振りかざしても、絹織 文音を恨み、悪霊となって再び、この地へ蔓延ることは許されないし、そんな事をする権利は俺に与えられない。

せいぜい、地獄とやらで鬼さんたちと、駄弁るぐらいだろ。

――――――この暗い視界の外で、絹織 文音は何を思っているのだろうか。

いろいろと覚悟が決まった時、「カシャッ」とだけ、音が鳴った。

始めは何の音か分からなかった。しかし、次第にあの保健室の時、聞いた音だと思い出す。

「目・・・開けていいよ」

徐々にクリアになっていく視界に、目の前に映る絹織 文音は片手に、女の子らしいキーホルダーが付いた、スマホを持ち、なにか画面をタッチし、操作していた。

そして、「よし」と呟き、絹織 文音は腕を伸ばし、微笑み、自分のスマホを俺に見せつけた。

「これで、お相子でしょ?」

絹織 文音のスマホのホーム画面には、やはりどこか頼りない俺の顔があった。無駄に、構えるようにして目をつぶっている姿が、更に頼りなさを強調している。

「それに、私だって、凛のスマホで時間を確認しようとしたのも悪かったし・・・だから、ごめんなさい」

絹織 文音も頭を下げて言う。そして、小さくボソッと何か呟いた。

なんて言ったのか聞こえなかったが、頭を上げ、優しい笑顔で、

「それじゃ、いただきます!」

フォークを入れる、それは宝石のようにキラキラと綺麗に、今までの事を全て呑みこんでしまうように輝いていた。


それから小一時間が経った今、俺と絹織 文音は「さよなら」をして別れた。

視界から、絹織 文音が消えるのを確認したら、俺は急いでいつものコンビニへ向かう。

「氷崎 凛」は終わり、今からは「水崎 凛」として絹織 文音と会うために。

氷崎家、絹織家は犬猿名家として広がっていたが、最近、紅葉狩祭後から、仲が悪いなどを、おもむろに言われることは少なくなっていた。

それでか、学校でも俺と絹織 文音は仲が悪いという意識が薄れていき、今では昼ご飯も一緒に食べるぐらいになっていき、それに加え、今日は一緒にカフェまで行っている。

この現状を、母さんが知ったらどうなるのだろうか。

もし、敵対視している家の娘と、息子が仲が良いという状況に母さんは、どう動き、どう思い、どう対処するのだろうか。

今考えれば、父さんが事故でいなくなってから、余計に母さんの絹織家に敵対する思いが強まったと思う。

父さんの事も詳しく教えてくれないし、母さんの考えていることは全く分からない。

父さんの死が関係しているのは薄々、分かっているが面と向かって聞くほど、母さんに対して俺は強くない。

ちゃんと報告書はまとめているし、本当の目的である潜入調査の方も最近は頑張っている。

だが、その反面に俺が報告書をちゃんとまとめるほど、絹織家は不利になっていく。

そのジレンマが最近、俺の一番の苦しみでもあった。

いつものコンビニ、いつものトイレ、いつものスーツに、いつものカツラ。

これが当たり前になっていく程、俺は、どちらも選べない苦痛に侵されていく。

「氷崎」と「水崎」の間でいられることが出来たらどれだけ楽だろうか。「点」が付くだけの違い。その小さな違いに、たくさんの感情があり、たくさんの思い出があり、たくさんの俺と絹織 文音がいた。

慣れた手つきでカツラを被り、整えている姿が映る鏡は、いつも綺麗に俺を映していた。店員さんが綺麗に磨いているのだろう。

自分が映る鏡を見ると、たまに、自分がどちらか分からない時がある。絹織 文音を想う気持ちが、こんがらがって、不安定に溢れ出し、自分を困らせる時がある。

でもそれは、ある意味、不安定のまま、結論を出さないでいいまま、気軽であるということで、自分は、この状況に縋り、楽をし、悲しむことはないように、逃げているんじゃないかと思う時もある。

いつまでもこの関係が続くことは無い。

分かっていても、俺らに与えられた犬猿名家というのを、自ら背負い、その言葉に守られたまま、絹織 文音と触れ合って、絹織 文音を想って、絹織 文音を見てきたし、見ていたいと思った。

――――分かっていても。

でも、この言葉自体がもう嘘で、本当は全く分かっていなくて――――。

考えだしたらきりがない。

何を見てきて、何を想ってきて、何を見たいと思って、何を想ってほしいと願って、何を何を何を・・・。

分からないとして逃げてきた無色な言葉たちに、分からないフリをして逃げてきた無色な想いたちに、俺はどんな色をどのようにつけたらいいのか。

―――自問自答している俺を誰か答えへと、導いてはくれないだろうか。

前に、そう思った。

自分の中だけで考えて、でも、本当は違って。なら、誰かに任せよう。半ば投げやりに思ったことだが、今日、絹織 文音の付き人の仕事を終え、家の帰宅し、母さんに呼ばれ、殺風景な部屋にいる今、これまでのすべてを終わりとする地点に俺は立った。


時間はもう遅い、時計は午後十時を過ぎていた。

目の前にいる母さんの手元にはたくさんの報告書があった。それは俺が注意を受けて、以降、ちゃんとまとめているもの入っている。報告書についてはこれ以上の注意が無いと思い、俺は未だに、なぜ呼ばれたのか分からなかった。

母さんは顔色一つ変えずに、口を開く。

「お疲れ様ね」

そう言われたのは初めてだった。この潜入調査を始めて、俺は一度も母さんから「おつかれ」と言われたことがなかった。それは母さんが実力主義で、与えた仕事を終わらせるまでは褒めない、途中でどれだけ成果を出しても、それは成功の過程にすぎなくて、褒めるに値しない。と昔、この部屋で言われたことがあり、それから俺は、母さんからの「おつかれ」は成功の合図、終了の合図として認知していた。

だから、なぜ今日こんな時間に呼ばれたのか、想像がついた。

「どうして、こんな時間にあなたを呼んだのか分かるかしら?」

「うん・・・終わったんでしょ―――潜入調査」

母さんは少し口元が緩む。やはり母さんは、勘が良い人間を好むようだ。

「そうよ、凛。潜入調査は終わったの、よく頑張ったわ」

母さんの口から聞く「終わった」という言葉。どうしてだか、達成感がない。

「でも、かあさ・・・お母様、何が何でも、急すぎじゃ・・」

「そうかしら? あなたの仕事が終わってから、呼び出したのだから、急じゃないでしょ」

「いや、そうゆう事じゃなくて・・・・」

「凛・・あなた、まさか今の仕事に潜入調査としての意識のほかに何か芽生えたんじゃないでしょうね?」

「・・・・」

―――勘が良い人間を好む人間は勘が良い。

「何があなたをそうさせているのかしらね」

母さんは報告書をペラペラと無造作にめくりながら言う。俺の考えていることなんて、手に取るように分かっている。そう、言っているように報告書をペラペラと。

「何をって―――」

「絹織 文音―――かわいい子ね、礼儀も正しくて、うん、お嬢様みたい」

俺の言葉をも、遮って母さんの言葉は俺に突き刺さる。そして俺は自分の不甲斐なさに気付かされた。

―――――母さんが知らないはずがない。

絹織 文音が俺のお見舞いだと、うちを訪れた時、あの接触はやはりヤバかった。息子をスパイとして相手の家に送り込むぐらいだ。どんな情報網があるか分からない。

「お母様は、絹織 文音をどうしたいの・・・」

「さあ・・・ね」

ペラペラめくっていた報告書を閉じ、母さんは俺に微笑んだ。背筋が凍る。

―――圧されている。

母さんはには敵わない。

この潜在意識が俺の感情を抑制し、言えないまま、伝えられないまま、俺はスパイとして絹織家に潜入し、報告書を仕上げ、ある日突然、終わりを告げられる。

これがもし、俺という人間の宿命だとしたら、これが悲劇だと分かっていても成し遂げないといけないのだろうか。

それならせめて、最後ぐらいは自分で幕を下げたい。

「一週間」

「え?」

「一週間、期間を下さい」

「何を言ってるの?」

母さんの声のトーンが低くなる。喉の渇きをどうにかしようと、俺は唾をのんだ。

「最後は、自分で仕上げたいから」

「だから―――終わったって言ってるのよ? 何を仕上げるのよ」

「自分の気持ちに―――」

母さんは笑う。冷たく、乾いた声で笑った。

「凛? いつからあなたは、そんなに効率悪く生きるようになったの? 効率良く生きなさいって、昔から言ってきたわよね?」

効率良く生きなさい。この言葉は確かに母さんから耳にタコが出来るほど聞かされてきた。それが間違っているとは思わない。だから、俺は母さんが言うように効率良く生きてきたつもりだ。

だけど、自分の想いを差し置いて効率良く生きるのも正しいとは思わない。

「俺は―――自分が正しいと思う行動をしたい。お母様が言ってることは間違ってるとは思わないけど、それを俺が必ずしも行使しないといけないということも無いから・・・」

何度も母さんに抵抗してきたことはある。だけど、勝てなくて俺はいつも母さんの言う通りに動いていた。でも、それはもうあきらめがついていて、母さんが言った通りにした方が良い結果が出たり、つまり、結果、母さんに全て任せていたのかもしれないし、自分の意志でやったことに責任を持つことが怖くて、なげていたのかもしれない。

でも、後悔だけはしたくない。今まで、付き人として絹織 文音と接していた事を自分の中で生きた価値として残したい。

俺が言った言葉に、母さんは一回、俺から視線を逸らし、考えたように、

「それなら、一週間後に聞くわ。あなたが絹織家で何を見てきて、何を感じ、何を想ったのか。それをちゃんとあなたの口から私に言いなさい。それであなたの思考に柔軟性が価値観が、理論的に成長していたら、その期間は無駄じゃなく、効率良く過ごしたとして認めるわ。でも、もし、言えなかったら、その時は覚悟してくのよ」

「―――はい」

―――一週間。俺の意志で、母さんから勝ち取ったこの期間の最後に俺が見てきたもの、感じたもの、想ったもの、伝えないといけない。それがもしも母さんに伝わらなかったとしても、悔いがないように言いきれば、俺は――――――。

部屋を出る時に、さりげなく、言葉を置くように俺は母さんに聞いた。

―――どうして、そんなに絹織家を嫌うのか。

母さんは小さく答えた。

―――あの人を喪ったからよ。

正直、答えないと思っていた分、母さんの言葉は、俺に複雑に伝わる。そうだろうと感じていても、直接、本人に聞くというのは、なんだか、辛い。

でも、知りたかった。母さんが絹織家を嫌う理由を、その母さんの想いが絹織家を嫌う理由なら俺の想いだって、きっと母さんに届くはず―――。

カタンと閉まる襖を背に、冷たい廊下の空気が俺を撫でる。サラッと乾いていて、本性を見せない感じで、なのにどことなく伝わってくる切なさを理解してほしいような。

―――素直になれない。

そう言えば簡単なのに、人は想いを取り繕うし、本性で語れば、嘘という言葉は無いのに、隠してしまう。

でも、そんな中で知れた本当が綺麗だから、人は宝探しのように、相手をお互いに探り合って、そして自分が求める宝石を見つけた相手を人は「友人」「恋人」そんな風に位置付けする。

片思いをしている友達の言葉をまた思い出した。どんな本で得た知識なのか分からないが、あいつが言ってることはなんとなく分かるような気がして、俺はどんな宝石を求めているのか考えてしまう。

「文音の気持ち・・・・」

無意識に出た言葉に、俺は自分の本当に近づく。

俺は絹織 文音の事が――――――。



最終週――――一日目。

俺はこの日に、この週で付き人を辞めることを理沙さんに告げ、雪菜さん、由依さんにも挨拶をした。

理沙さんは急な事に多少、戸惑っていたが、「今まで、お疲れ様」と最後は笑顔で言ってくれた。理沙さんには本当にお世話になってきて、いわば、雇い主というより、もう一人の母さん、みたいな存在だった。

雪菜さんと由依さんは、俺が辞めると挨拶をしたら、顔を見合わせ、「嘘でしょ?」と、これが二人の初めの反応だった。

嘘ではないとちゃんと説明して、引っ越すことになったからと伝えると、二人は顔を見合わせ「本当に?」と聞く。それに「本当です」と答えると、その場に空気は急に湿っぽくなり、二人は寂しそうな声で「そうなんだ」と「そう・・・」とこぼす。

「でも、まだ今週はいますから」と、付け加えると雪菜さんは「なら、たくさん思い出つくろっか!」と、由依さんは「・・・通信」と、持っていた携帯型ゲーム機に目を落とした。

絹織家で働く、先輩として、たくさんのアドバイスをもらったし、時には楽しい話や、三人でトランプをしたりして、雪菜さんと由依さんは俺にはとって、弟の面倒を見る姉ちゃん達みたい存在だった。

そんな、理沙さんや、雪菜さん、由依さんともう関わることが今週で最後だと思うと、とても寂しく、とても悲しくて、俺が潜入調査として仕事についていたという事実があることが何よりも辛かった。

そして、「辞める」と、絹織 文音にも言わなければならない。

珍しく俺の方から、「話したいことがあります」と絹織 文音を呼び、い草の香りが漂う、部屋で初めて「水崎 凛」として挨拶した時のようにテーブルを挟んで座り、向かい合った状況に、絹織 文音の表情は少し、固かった。

「なに? 話って」

「話と言いますか、報告しなければならないことがありまして」

「報告? りん、何かしたの?」

「いえ、私は何もしてませんよ。ただ、急に決まったことで」

「急に決まったって・・・・」

絹織 文音は察しがついたのか、テーブルに手を乗せ、前のめりになり、

「辞めるんじゃないでしょうね⁉」

俺が言う前に言ってしまった。

「はい・・・今週いっぱいで」

「・・・今週いっぱいでって・・・」

さっきの勢いはシュンと無くなり絹織 文音は肩を落とした。

「申し訳ありません。でも、決まった事なので・・・私の力ではどうにも・・・」

「・・・・」

いろいろと責められるかと思って構えていたのだが、絹織 文音を俯いたまま、俺の言葉に淡々と頷いているだけだった。

「辞めないで」少しは期待したが、絹織 文音の口からその言葉は出ることは無く、辞めると言うことを伝えた後は、いつも通りに、部屋で絹織 文音はソファーで漫画を読み、俺は部屋の片づけをした。

一生の別れというわけでもないが、漫画を読んで笑っている絹織 文音を眺めては、胸が少し痛む。

俺がいなくても・・・・。なんて考えなくても、もう絹織 文音は一人で十分にやれると思う。初めのころに比べたら、部屋なんてとても綺麗で、汚い所を探して掃除する方が難しくなっていた。

時期的には丁度良かったのかもしれない。

俺と絹織 文音の二人だけの部屋では、漫画をめくる音と絹織 文音の笑い声がいつものように響いて、そのいつもの光景に俺は、少し寂しさを感じた。



「うわ、また俺の負けですか・・・・」

「凛君って、本当に弱いね~」

「・・・ある意味・・・すごい・・・」

俺は手に残ったババを、切ったカードの山に加え、再び切り直す。

「凛君って、ババに好かれてるんじゃないの?」

「―――雪菜さん、変な冗談はやめてくださいよ」

「ごめん、ごめん」

笑う雪菜さんにそれを見て、隣で少し微笑む由依さん。このメイド室に入るのも残り、三日となった。

やると必ずのように盛り上がるババ抜きがこの日は、なぜか回数を重ねるごとに、しみじみと誰がババを持っているのか分からないぐらいに表情は一定になった。

「―――なんか・・・あれだね」

雪菜さんが口を開いて、黙々とやっていたババ抜きが一度止まった。

「・・・俺、楽しかったです」

自然と言葉が出た。

「俺・・・ほんとに・・・たのし・・・かったです」

手持ちのカードが歪んで来て、見えない。

「雪菜さんと・・・・由依さんには・・・感謝・・して・・ます」

「も、もう、なに泣いてるのよ・・・凛君・・・・な、泣かないでよ・・・」

「・・・・私も・・・楽しかった」

「ちょ、由依まで・・・もう・・・」

歪んだババが俺を見ているような気がした。

「俺・・・・・ほんと・・弱いですよね・・・・」

「うん・・・凛君は・・弱い・・弱いよ・・・・・」

泣きながらしたババ抜きは初めてで、俺は弱くて、雪菜さんと由依さんからは笑われて、楽しくて。

カードを切るたび終わりが近づいて、五十四枚のカードをプラスチックのケースに直した時には涙は皆、流し終わっていた。

「―――それじゃ、行ってきますね」

俺は、ネクタイを上げ、スーツを羽織り、二人に挨拶をした。

二人はいつものように、

「頑張ってこーい!」

「・・・いってら」

笑顔に見送られて、笑顔で返して、バタンと閉まった扉越しに、

「ありがとうございました」

俺は、独り言のように呟いて残り三日の付き人の役割を果たすため、絹織 文音の部屋へと向かった。



今日は休みでいいから。

このメールが仕事用の携帯に届いているのに気が付いたのは、放課後の事だった。急いだように教室を出ていった絹織 文音も気になるが、このメールも十分に気になる内容だ。

「明日で最後だってのにな・・・」

母さんから一週間という期間をもらって今日で、六日目。明日は最後の仕事で、明後日は運命の日。

まさか、休みが入るとは思っていなかったが、休みと言われたら休むしかないため、俺は仕方なく家へと帰った。

まだ、明るい時間に家に帰るのは、久々な事で、池で飼っている鯉の「ろん」と「どん」に、ただいまと声を掛けて家に入る。

そして自室へと戻った俺は、鞄を机に置き、ネクタイを緩め、ベッドへとダイブした。

自分の体重がベッドへとかかり、疲れがどっと自分にかかる。

「はあ・・・」

無意味なため息が無意識に出る。

目を閉じたらそのまま寝てしまいそうだ。開けていた窓からは少し肌寒いが気持ちの良い風が部屋のなかへと吹き込んだ。

―――いいか・・・このまま寝ても。

俺は目を閉じた。ほんとこの時間に、こうベッドに体を預けるなんていつぶりだろうか。

揺れるカーテンの音が異様に気持ち良い。カッターシャツの首元のボタンを外し、気道を楽に確保する。

意識がだんだん遠ざかっていくのが自分でも分かるぐらい、ゆっくりと眠りについた。




「よし!」

最終日、いつものコンビニ、いつものトイレでいつも以上に気合を入れた。

トイレを出て、いつもならそのままコンビニを出るのだが、今日でここに来ることも最後になってしまうかもしれない。

俺は、買い物かごを手に取り、絹織 文音が好みそうなお菓子、飲み物、それと俺が大好きなお菓子も入れて、レジへと精算をする。

この人は何も買わずにトイレで着替えてる人、と認識されていたのか、俺がたくさんのお菓子、飲み物が入った買い物かごを置いた時の、店員さんの表情は少しビックリしたように見えた。

袋に詰めてもらい、お金を払い、レジを去ろうとした時、「いつも、お疲れ様です」と声を掛けられたのには驚いたが、「ありがとうございます」とちゃんと言えて、コンビニを出た時の、

「ありがとうございましたー!」

という元気な声は、最後の仕事が始まる合図のように聞こえた。

今となっては見慣れた道を左手には鞄、右手には買い物袋を持って歩く。朝の天気予報では冷え込む一日となると言っていたが、今はなんだか暖かい。

ここの角を曲がって、もう少し歩けば絹織家。

始めは、ここの角を逆の方へ曲がってしまい、軽く迷子になったこともあったし、絹織家を素通りしてしまったこともある。

一歩一歩、進むたび昔の事が一つ一つ思い出してくる。

揺れる大量のお菓子に、喜ぶ絹織 文音を想像していたら、口元が緩んだ。

――――――真っ先にお菓子に飛びつくだろうな。

見えてくる大きな洋風の家に俺は思った。

裏口から入り、まずはメイド室へ向かう。最終日、雪菜さんと由依さんに、ちゃんと挨拶をしておきたい。

扉を開け、入るが、電気は付いておらず、中には誰もいなかった。

「あれ・・・・」

いつもなら椅子に座って、

「おっそーい!」と由依さんといるのだが、まさかの休み?

―――いないなら仕方ない。

雪菜さんと由依さんに渡す分のお菓子を置いて、絹織 文音の部屋、俺の職場へと向かった。

扉を前にして、俺は大きく深呼吸をした。

――――最後だからといって、なにをするわけでもない。あくまでもいつも通りに。変に心配はかけたくない。

コンコン。

聞き慣れた音が廊下に響く。

「どうぞ」

――――という声は聞こえなかった。

「・・・・」

絹織 文音もいないのか?

もう一度、ノックするが、返事は帰ってこず、いつかみたいに良い匂いは漂ってはこない。

どうしようか迷うが、一応、鍵はかかっていないか取っ手を掴み、回す。

すると、扉はガチャと音を立て、少し開いた。

「開いてる・・・・」

――――それなら中に入ってお菓子だけでもおいて・・・。

そう、暗い部屋に足を踏み入れた瞬間、電気が付き、パンッパンッっと紙吹雪が宙を舞った。

落ちる紙吹雪を見送り、視線を正面に戻したら、壁に大きく、

『お疲れ様!』

と書かれた紙が貼られていた。

何事かと思っていたら、扉の後ろから絹織 文音が出てきて、

「りん! 今までありがとう!」

そしてパチパチと拍手をする、雪菜さんと由依さんの姿が目に入った。

「・・・・」

俺が驚いて、言葉が出ないと、絹織 文音は「さあさあ」と俺をソファーへと座らせた。そして隣には絹織 文音が座る。

「今日は、りんのお別れ会よ! 盛大にやらなくちゃ!」

俺のお別れ会。そう言って、絹織 文音は笑った。楽しそうに、笑った。

「お、お別れ会なんて・・・・・」

昨日はこれの準備をしていたのか・・・・。

いつも通りに振る舞おうとしていたが、振る舞えない。今の状況にビックリしていて、でも、嬉しくて、もう、ほんとに・・・・。

「さあ、雪菜ちゃんも由依ちゃんも座って、座って」

向かいのソファーには、雪菜さん、由依さんが座った。その光景に一瞬、ここはメイド室かと思わされてしまう。

しかし、『お疲れ様!』と張られたこの部屋は、正真正銘、絹織 文音の部屋で、俺の仕事場で、お世話になった場所。

皆が座ったところで、絹織 文音がテーブルの下に置いていた、袋を取り出した。その袋の中身は大量のお菓子に、飲み物だった。

「ほら、今日は、パーティーよ! みんな、好きなだけ食べてね!」

俺も買ってきたお菓子と飲み物を出した。

テーブルにはお菓子の山、飲み物の高層ビルが建ち並ぶ。

「うひゃ~、これはすごいね」

「・・・・太る」

とは言いつつも、雪菜さんと由依さんは、目を輝かせていた。「これは・・・・うん」と絹織 文音も横目でお菓子の山を見ながら、四人分の紙コップに順に、早速サイダーを注いでいた。

「あ、私がやりますよ」

紙コップにサイダーを注ぐ作業を変わろうとすると、

「いいの、いいの! 今日はりんのお別れ会――――主役なんだから!」

こっちを見て、ニコッと微笑んだ。

「あ、ちょ! 文音様、溢してますって!」

雪菜さんの声に「あぁ!」と溢れるサイダーに絹織 文音は声をあげる。

――――大丈夫だろうか。

俺はコンビニでもらったおしぼりで、溢れたサイダーを拭き取る。「サイダーみたいなのはちゃんと拭き取らないと後でテーブルがベタベタして気持ち悪いから」と前に絹織 文音がソファーに寝転んだ状態でサイダーを注いで今日みたいに溢れ出した時、俺が拭き取りながら言われたことを思い出す。

また、同じように言われるのか。この予想は外れた。

「ごめんね・・・主役なのに・・」

絹織 文音はもう一つのおしぼりを使って溢れたサイダーを俺と一緒に拭く。

「いいんですよ、主役としたって、今日まで文音様の付き人なんですから」

絹織 文音は何も言わなかった。サイダーを拭くので、精一杯で俺の声が聞こえなかったのだろうか。

なんとか、ベタベタにならないようにきちんと拭き終ると、絹織 文音は最後の紙コップに溢れないように、慎重にサイダーを注ぎ、「ゴホン」と咳ばらいをした。

「えー、今日は特別な日です。私はりんに一杯迷惑をかけてきました。でも、それも今日で終わりと思うと、もっと一杯迷惑を掛ければよかったかなって思います。今日は思い出話や最後だから言える暴露話などで盛り上がりましょー!」

絹織 文音らしい言葉に、雪菜さん、由依さん、俺は、クスッと笑った。

「それでは!」

という絹織 文音の言葉に、俺らは紙コップを片手に持ち、

「かんぱーい!」

との合図で、大きく、高く持ち上げた。一人だけ高く持ち上げ過ぎた絹織 文音のサイダーが紙コップから溢れ、それがダイレクトに俺のスーツにかかり、羽織っていたスーツを脱ぐ羽目になったことは後々の笑い話に出来るほどの事となった。


それからは笑い声が絶えない時間となり、その時間はあっという間に過ぎて、カーテンを開けると、外は真っ暗だった。

三十分前には、雪菜さん、由依さんは先に部屋を出て、部屋には普段のように俺と絹織 文音しかいない。

「そろそろ、お開きね」

絹織 文音の声に、俺はカーテンを閉め、「そうですね」と答えた。絹織 文音のその言葉は、今日の仕事は終わりという合図で、聞き慣れている言葉だった。

いつも通り。

絹織 文音はいつも通りに終わらせたいんだろう。それなら俺もそれに従うしかない。

「それじゃ、私は帰りますね」

ほんのりとサイダーの香りを放つ、スーツを羽織り、いつも通りに絹織 文音に挨拶をした。

いつも俺が部屋を出る時は、綺麗に片付いていて、今日も、綺麗に片付けた。

「明日もよろしくね」

いつもその言葉を背に受け、部屋を出ていたが、今日は無い。

ガチャンと閉まる扉は、いつも通りに同じような音で俺を見送った。


外は寒い。白い息が俺の視界を邪魔する。一定のリズムで歩く。一定の呼吸で、一定の歩幅で、暗い道をまっすぐ見つめて。

振り返るな。

そう言っているように後ろから冷たい風が吹く。明日は部屋が片付いてるかな、明日は雪菜さん、由依さんにどんな話をしようか。帰り道はそんな事を考え歩いていた。そんな事を考えているからいつも家に着くのは早かった。でも、今日は考えることがない。家までの距離が遠く感じる。

――――それなら星でも眺めて帰ろうか。

曇っていて何もない。

大きいまん丸な光が霞んで見えるだけ。

俺はスマホを取り出そうと、スーツの内ポケットへ手を入れた。音楽でも聞いて帰ろう。

しかし、それすらも出来ない。

「・・あれ」

俺の手のひらでパンパンになる内ポケットをくまなく探すが、スマホに手が触れることは無い。

―――鞄の中。

暗がりの中だった為、少し進んだ先にある自動販売機まで歩き、放つ光を頼りに鞄の中を探ぐるが、ピンとくるものに手は当たらなかった。

確かに、スーツの内ポケットに入れた。確かに入れた事だから、スマホは最悪な場所にあると想像がつく。

「・・・やばいな」

来た道を戻ろうと、鞄を閉めて肩に掛け、走ろうと振り返った時、暗がりの一本道のど真ん中に人影が見えた。

それは、俺に気付いたように走ってやってくる。

自動販売機で照らされている俺は、走ってくるそれが何なのか分からず、少し身構えた。

が、徐々に自動販売機が照らす範囲にそれが入った時、誰なのか、何の用なのかすべて理解した。

「はあはあ、これ・・・・」

息が上がっている絹織 文音が片手に持って俺に差し出したのは、俺のスマホだった。ホーム画面がバレたスマホで、「氷崎 凛」のスマホ。

俺は黙って、差し出すそれを受け取った。そして聞かれるだろう――――俺は息が整うのを待った。

自分からはもう、何も言い訳せずに聞かれたら全て本当の事を言ってしまおう。

しかし、絹織 文音は息が整っても俺を見つめるだけで、何も言わない。

綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。何もかもを吸い込んで、今なら全てなかったことにしてくれような。

そんな大きな力を持った瞳を前に自分の無力さを感じ、心が痛い。

俺の目の前が歪みだす。目頭が熱い。肩に掛けていた鞄がバタンっと地面に落ち、俺は絹織 文音を抱き寄せた。小さくて、触れるだけで壊れてしまいそうで、だけど、どこか心が落ち着いて。

歪んだ世界はさらに歪み始める。

絹織 文音の腕は俺を包み込むかのように小さく俺を抱いた。そして俺の耳元で囁く。

「泣いてるのはどっちの『リン』なの・・・・?」

その言葉は、点が抜けた俺が過ごしてきた今までに終わりを付けた瞬間だった。



俺は全てを話した。「氷崎 凛」「水崎 凛」がいて、なぜ、その二人がいたのか、全てを。

そして、明日、母さんにこれまでの事を言わないといけないことも。

絹織 文音は「私も一緒に」と、俺にそれを断る権限はない。

それなら明日の放課後、俺の家へ。

そう約束して、自動販売機の前で別れた。

パッと自動販売機に目をやると、コンポタージュが売り切れのランプを放っていた。鞄を肩に掛け、俺は再び歩き出す。さっきより冷たい風が俺の背中を押した。

被っていたカツラ取り、鞄へとしまう。「水崎 凛」はもう、この世には存在しない。

「本当に、お疲れ様」

消えていくもう一人に、もう一人は言った。


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