七話目以降(2)
暖かかった秋も次に来る冬の下準備かのように紅葉ヶ丘高校や、四家の周りにも冷たい風を運んできていた。今までが暖かかった分、いきなりくる寒さに俺の体は、ついていけなかった。
ピピピピっ
「凛様―――三十七度七分ありますね・・・」
「はぁ・・・・」
「体を冷やさないよう温かくしてお過ごしください」
「・・・ありがとう。黒木さん・・・」
「いえいえ―――それじゃ、何かありましたらお呼びください」
黒木さんは優しく微笑み、気を遣ってくれたのか音をたてないようにして襖を閉め部屋から出ていった。
熱を出すなんて何年ぶりだろうか・・・・。
風邪で学校を休んだのなんていつぶりだろうか・・・・。
自分の免疫力が低下していることは今週に入って分かっていた。喉が痛い。分かっていたのに事前に対策しなかった自分の判断ミスだった。
「やっぱり夜風に吹かれたのが最後だったかな・・・」
おとといの夜、絹織家、絹織 文音の付き人として働いている時のこと、外はもう真っ暗で、スーツだけじゃ夜の寒さをしのぐことが難しい風が吹く中、絹織 文音(文音様)があった~いコンポタージュが飲みたいと温かい部屋で言ったのが始まりだった。その言葉は俺に買ってこいという意味で俺は急いで買ってきますねと絹織家を出た。そこまでは良かった、最寄りの自動販売機までは歩いても五分はかからない。走ってそこへ向かうと暗い世界を明るく照らすように自動販売機の明かりは俺を待っていたかのようにそこへあったのだが、問題のコンポタージュが俺を待っていてくれていることは無かった。
売り切れという文字が俺を指さし笑っていた。
それから周辺を走り回り、コンポタージュ販売中の自動販売機を探し回るという大きな使命を背負ったまま暗い夜道を俺は駆け抜けていた。
見つけたのが絹織家を出て三十分後、あまりの遅さに絹織 文音(文音様)からも心配のメールが入っていた。
俺は、そのメールに無事発見、今から帰還。と返信をを返し、すぐに絹織 文音(文音様)からの返信、了解、無事帰還せよというメールにクッスっと笑い俺は、帰還するべく絹織家を目指し足を走らせた。
目の前で、ありがとうと美味しそうにコンポタージュを飲む絹織 文音(文音様)を見ていたらこれまでの苦労は全て癒されていたかのように思っていたのだが、この時、体はボロボロに傷ついていた。
そして次の日の朝、熱をだし学校を休み、
そして今日も熱が下がらず、学校に休むと連絡を入れて今に至る。
当然、付き人としての仕事も昨日から休みをもらっている。
理沙さんは何も気にすることは無い早く体調が戻るように安静にと優しく対応してくれたのだが付き人としては失格ではないのか。と、こんな風に自分でこの頃付き人としての意識に厳しくなっているが分かった。でも、それは同時に、潜入調査という目的で潜り込んでいる意識が薄れていっているということでもあった。
見慣れた天井に絹織 文音の姿が浮かんだ。
「・・・ちゃんとやれてるかな」
付き人になって半年以上が経つが絹織 文音を独り立ちさせるのはまだ、危ないと思うほどのものだった。なんとか最近は部屋を汚さないようになってきたのだが、ほかにも独り立ちさせるのには不十分なこともたくさんあった。
学校では、なんでも一人で出来るよな感じで―――。
でも、家じゃなんでも一人じゃできなくて―――。
一人いる時でも絹織 文音の心配をするようになった俺は、その点付き人として成長したのかもしれない。
でも、今は人の心配よりも自分のこの状況を何とかしないといけない。早く、体調を戻し、学校、絹織家に復帰しないといけない。
俺は、火照る体を黒木さんが取り替えてくれた濡れタオルが少しずつ冷やしていく気持ちよさに瞼をとじ、また眠りに入った。
それから眠りから覚めたのは、黒木さんがいつもと違うテンションの為だった。いつもはクールになんでも仕事をこなす、オフィスレディーのような黒木さん。しかし、今、ぼんやりと俺の視界に映っているのは、無邪気な、そして、からかう同級生のような黒木さんだった。
「凛様! 学校のご友人が見舞いに来ていますよ!」
「え・・・誰?」
今まで、風邪を引いて学校を休んでもお見舞いなんて誰一人来なかった俺は、漫画の中だけの展開だとずっと思っていた。
そんな俺に、お見舞いが来たという報告は、黒木さんのテンションの違いに驚いたのと並ぶ程の驚きだった。
「それがですね!」
「う・・うん?」
「女の子なんですよ!」
「え、まじ?」
渾身のまじ? が出たところでその女の子が誰なのかネタばらしをしよう。
「まぁ、バカも風邪ひくのね」
「・・・・うるせーよ」
俺の事を心配してお見舞いに来てくれた、心優しき女の子の正体は制服を着た悪魔―――絹織 文音だった。
「はい、これプリント」
「あぁ、ありがとう」
一応、確かめるために、どうして来てくれたのか聞いてみると、担任にプリントを持っていくように頼まれたという。断ったらしいのだが、周りからの行け行けという謎のオーラに圧迫され仕方なく来たらしい。
俺の事心配して、お見舞いに来てくれた心優しき女の子というのは撤回しよう。そして、ここへ来る途中、行きたくなさ過ぎて何度も吐きそうになったと言ったのは嘘であってほしいと願う。
「でもよく、ここが分かったな・・・」
「分かるわよ、こんな大きな和のテイストだらけの家、あんたの家ぐらいでしょ?」
「ま、まぁ、そうだけどよ・・・しょうがないだろ? 代々こうゆう家庭なんだから・・・それに母さんも気に入って・・・・・る」
―――母さん。この存在を忘れていた。いや、忘れていたというか、絹織 文音が家に来ることで、母さんという存在を再確認させられ圧倒的絶望を放っているというか、まぁ、この状況が母さんにバレると、とんでもなくヤバいということ。
「文音・・・・」
「・・・ん? なによ?」
「そんな机とか探らなくていいから・・・・その鍵のかかった引き出しを必死にこじ開けようとしなくていいから」
「だって・・・凛の事だし・・・」
「そっとしといて・・・それより、俺の部屋に来るまで誰かと会った?」
「・・・開かないな・・・え? うーん、スーツを着た美人なお姉さん?」
「あぁ、黒木さんか・・・」
「黒木さんって言うの? 綺麗な人だったなぁ、親切だったし」
「そりゃ、黒木さんはうちが誇る、自慢のお手伝いさんだからな」
「誇るお手伝いさんか・・・・でも、うちにもいるよ?」
「誇るお手伝いさんがか?」
「うん。 えっと、お手伝いさんってか、私が一番お世話になってる人かな」
「へぇ、そうなんだ」
雪菜さんか・・・? それとも、由依さん?
「うん、それもイケメンのね」
「イケメンかぁ、良かったなぁ」
―――イケメン? まぁ、たしかに雪菜さんは髪が短いし、可愛いっていうか、かっこいい系だけど・・・・。
―――俺以外に男の人いたか・・・?
「あ、そういえば」
「え、どうした?」
「黒木さんのほかに、もう一人女性に会ったわ」
「え・・・・」
「―――凛のお母さんに」
アウト。
この文字が頭一杯に積もり、今にも溢れ出しそうになり、赤い警告音が身体中に響き、
KEEP OUTのテープで身動きが取れない状態になりそう。と、すごく言い回しが分かりずらくなるほど、俺の心情は混乱していた。
「・・・・挨拶した・・・?」
「うん、したわよ?」
「・・・・・・・なんで?」
「なんでって、言われても・・・ふつう他人の家にお邪魔して、その家の人に会ったら挨拶するでしょ・・・?」
「いや、そうじゃなくて・・・」
「なら、なんなのよ?」
「なんで、生きてんの・・・・?」
「・・・そうとうの風邪を引いたみたいね」
「おかしい・・・」
「凛がでしょ?」
「母さんなんて言ってた・・?」
「うーん、こんな可愛い子が・・・可愛い子がお見舞いに来てくれて、凛も喜ぶだろうって」
「なぜ、二回も? じゃなくて! それだけ?」
「うん、それだけ」
―――母さんは気づいていないのか? 確かに母さんはいちいち、相手の名前は聞いたり覚えたりしない人だけど・・・。
今回は母さんのそんな性質に救われたのか―――。
「なら、いいんだ」
「・・・・頭まで、病気でやられちゃったの?」
「文音は元気でいいな」
「なによ、子ども扱いするような言い方は」
「いや、子供だろ? 俺知ってるんだぜ? お前が、ミラーレンジャーが大好きだって事をな!」
「―――な、なんでそれを⁉」
「お前の隣になって気づいたんだよ―――大事そうに、ミラーレンジャーのシャーペンを使ってるの、いいって、隠さなくて、俺も好きだったし―――」
「・・・・ってるよ」
「え、なんて?」
聞き返しただけなのに、絹織 文音は授業中、先生に急に当てられたかのように答える。
「・・・キ、キモイって言ったのよ!」
「き、きもい⁉」
「なに、授業中、私のこと見てんのよ! 変態!」
「見ただけで、なんで変態になるんだよ⁉」
「いいの! 変態は変態なの! あ、それとも、私の美貌に授業もろくに集中できないぐらい翻弄されているのかしら? 私の事好きなのかしら?」
キャラを思い出したかのように、いきなり声色を変える絹織 文音。だが、そんな定まってないキャラ相手の返しなんてもう慣れている。
「あぁ、そうなのかもな」
「・・・・ほんと?」
「――冗談」
「ほんと、熱がもっと上がればいいのに・・・・八十度ぐらいまで・・・」
「いや、死ぬから」
ぼそっと、怖いことを吐く絹織 文音。俺の勝利だ。
でも、ある意味、翻弄されているのはあながち間違いではないのかもしれない。
でも、こうやって仕方なくでも、お見舞いに来てくれているのは事実で、絹織 文音と話していたらなんだか、熱なんか下がって・・・きたような気がするだけで、実際は下がってはいないのだが、熱があることなんか忘れるようだった。
「・・・なぁ、文音」
「―――なによ」
「好きな人とかいるのか?」
「なっ⁉ 何よ急に⁉」
そうだ、何よ急にだ。
―――俺は何をいきなり聞いているんだ。
「いや、気になったから・・」
「り、凛って・・・たまにおかしなこと言い出すよね」
「おかしなことか・・・そうだよな。悪い、忘れてくれ」
熱で頭がおかしくなったのだろうか、気になっていたのは確かだが、この流れで聞いてしまうとは――――――。
無性に恥ずかしくなり、俺は乾いた咳をした。しかしその咳とはかぶることなく絹織 文音の口が微かに動いた。
「・・・けど」
「―――え?」
「好きな人・・・いるけど・・・」」
この流れで、答えてしまう絹織 文音の方がおかしいのか。そんな事を思うが、それよりも一つ気になることが無くなったら、それを埋めるかのように気になることが生まれてしまった。
―――誰なのか。
好きな人がいると答えた絹織 文音は恥ずかしそうに顔を赤らめ俺と合わせていた目線はなくなっていた。
今、聞いたら答えてくれるだろうか。
素直に絹織 文音が口を開くだろうか―――。
女子高校生というのが、簡単に好きな人などを男子に言うだろうか―――。
それも俺なんかに。
「だ、誰なん?」
目線を合わせようとしない絹織 文音に俺は答えが出るか分からない質問をぶつけた。
異様に部屋が静まる。
―――やっぱりデリカシーが無かっただろうか。流れに任せ過ぎたのかもしれない。
普通に考えたら、好きな人いるの? じゃあ、誰?
なんてのを簡単に答えるわけがない。よっぽど信頼している相手か、頼りにしている相手―――少なくとも俺みたいな関係の奴にそうは簡単に教えるほど絹織 文音はオープンな奴ではないと思う。
「どうしても、知りたい・・・?」
変な空気になっていた部屋を裂くかのように絹織 文音は口を開く。
しかし、それはまだ、俺が求めている答えではなかった。
「・・・うん、まぁ、嫌じゃなかったら」
聞きたい。当然、聞きたいのだが、あまり強引過ぎるのも、なにか恥ずかしいし、
あくまで、「知りたいけど、嫌ならいいよ?」程度にクールにいきたい。
その答えに絹織 文音は俺とちょっと視線を合わせ、
「なら・・耳打ちで・・・」
―――耳打ちで。俺の頭でもう一度繰り返した。
ここには俺と絹織 文音の二人しかいないのに、なぜ、耳打ちで?
なんて、思ったが、教えてくれるというので、耳打ちの理由を問う必要はない。
無駄な事をして、聞けなかった―――なんて後悔は絶対にしたくない。
俺の部屋に来てから、ずっと勉強机の椅子に座っていたのだが、「耳打ちで」といった絹織 文音は、俺が上半身起こして横になっているベッドの余っている部分に座った。
あの日の時を俺はふと、思い出した。
絹織 文音が倒れた時、担いで保健室まで運んだ時、寝ている絹織 文音の頬を触れた事、そして、あまりの綺麗さに写真を撮ってしまった時の事―――。
懐かしい。
その想いが絹織 文音から微かに香る匂いに揺れていた。
「耳・・・貸して」
俺は言われた通り、絹織 文音が言いやすいように片耳を絹織 文音の方へ向け、近づけた。
俺の左耳に絹織 文音の吐息が柔らかく触れるぐらいになった。
途端に、俺の鼓動が速くなるのが分かった。こんなに近い距離まで異性と顔を近づけたことがない俺にとっては、仕方のない事かもしれない。
「私のね―――」
吐息が触れる耳に絹織 文音の小さな声が聞こえる。
大人数いる空間で、秘密の話をするかのように、ひそひそと、絹織 文音の声は俺に伝わる。
この小さな声で、聞こうとしていることは俺にとって大きなこと。
今まで、気になっていたこと。
どんな答えが出てくるのか全く予想できない俺は、ただ必死に答えがでるまで待つしかなかった。自分から答えを聞こうなんて思ったことは無かった。が、自然と答えが出てくるのを待っていては、いつになるか分からないし、それが聞けると言う保証もない。
その場の流れに任せて正解だったのかもしれない。
ここまでたどり着けた。
一番、絹織 文音の魅力を引き出せる人間。一番、絹織 文音を輝かせれる人間。
どんな奴でも、応援する―――。
そんな絹織 文音を俺は見ていたい。
「私の・・・好きな人は―――」
「すいませんでした―――凛様」
「いや・・いいよ」
「あまりにも急用だったもので・・・・確認を取らずに入ってしまいました・・・」
「気にしないでくれ・・・黒木さんは仕事を全うしただけなんだから」
「・・・空気読むのはあまり・・・苦手な方で・・・」
「・・・何か勘違いしてない?」
「か、勘違いですか?」
黒木さんは首を傾げ、自分の勘違いを探しているようだが、
「うーん、してませんよ?」
「・・・ま、まぁ、いいんだけど」
黒木さんは最後にもう一度、俺に謝り、それでは、と襖を閉めて行った。
「はぁ・・・」
ため息がこぼれてしまう。
別に黒木さんに怒っているわけではないし、嫌なことがあったわけでも、母さんに呼ばれたわけでもない。
一人となった部屋には、どこか寂しげになった。
結論から先に言わせてもらうと、
俺は、絹織 文音の好きな人を聞くことは出来なかったのだ。
私の好きな人は―――とここまでは、きちんとこぼさずに聞き取ったのだが、肝心なところに差し掛かるほんの手前で、サァーっと襖が開き、黒木さんが「凛様!」と入って来たのだ。
当然、俺らは驚きその場で固まり、その俺らを見て、黒木さんも固まった。
すいませんでした。と後ずさりで出ていこうとする黒木さんに何とか誤解を招かないように説明したのだが、ちゃんと分かってくれているかは不安だ。
絹織 文音もなぜか顔を真っ赤にしているし、黒木さんは後ずさり、部屋を出ようとするしで大変ことになっていて、
それから、絹織 文音は顔を真っ赤にしたまま帰って行き、そしてさっきまで黒木さんには「空気読めなくて」と謝られていたのだ。
―――もう、ため息しか出ない。
多分、熱なんか下がっているに違いない。
気分の悪さや、体のだるさなどは殆ど感じなくなった。
これもある意味、絹織 文音のおかげなのか、たんに、潜伏期間が終わったのか、分からないが、明日から学校へ通うことも、付き人として働くことも出来るはず。
付き人としての俺には言って分からないからと、「好きな人」の続きを教えてくれそうにはない。
かといって、明日学校で教えてくれるだろうか。
それこそ、ほんとに耳打ちじゃないといけなくなってしまう。
しつこく攻めても聞けると言う保証がない、このかけ引きに俺はどう考え動き、答えを聞き出せることが出来るのか――――――。
それなら、今度は絹織 文音の方から言ってくれるのを待ってみるのはどうだろうか。
言ってくるということは知ってほしいと、いうことで、俺はクールに答えを聞くことが出来る。
―――え? ~が好きだったのか。
ってな感じに。
俺は、見慣れた天井を眺める。
目に入るところにあるシミが人に顔に見えて、小さい頃はよく、その顔が怖くて眠れなかった。
今となっては、その顔にすら慣れて、「おやすみ」とも言ってしまいそうなくらい親しいものとなっているが。
俺は絹織 文音に「おやすみ」と言えるような親しさはあるだろうか。
絹織 文音は俺に「おやすみ」と言ってくれるだろうか。
―――早く、付き人として絹織 文音に会いたい。
―――早く、絹織 文音の席の隣で、授業を受けたい。
この、二つの想いが同じようなくらいに俺の欲求として今、感じていた。
母さんからの許可(登校・仕事)をもらい、明日の準備をしてベッドに入った時、ふんわりと漂ったどこか懐かしい匂いに、
「おやすみ」
と、小さく呟き、俺は目を閉じた。
瞼の裏に、微かに映ったのは、日焼けをした女の子がこっちに手を振っている光景だった。
「凛と歩いてたら余計に寒く感じるわ」
冬本番という寒さに俺と絹織 文音は学校指定のコートを制服に上から羽織り、なんとか寒さを耐えていた。
季節の変わり目を教えてくれる絹織 文音が俺の隣で言った事はスルーするとして、俺は携帯で予定表を確認しながら言った。
「なあ・・・来週、定期テストだけど、文音は大丈夫なのか?」
「定期テスト? そんなの大丈夫よ」
「どこから、湧いてくるんだその自信は・・・」
定期テストと聞いても全く不安な顔をしない絹織 文音を俺は理解できなかった。
確かに、頭は良い。
だけど――――――。
「文音様―――いつまで、休憩してるんですか・・・?」
「えぇ・・・」
「・・・ほら、再来週は定期テストじゃないんですか・・・?」
「うん・・・」
「聞いてます? また、写真を眺めてるんですか・・・」
本を読んでいるのかと思い、絹織 文音を覗き込むと、例の写真を眺めていた。
「もう、紅葉狩祭は終わったんじゃないんですか・・・」
それは、俺と絹織 文音が手を繋いで、そのバックにクラスみんなが並んでいるミッションを優勝した記念に取った写真だった。
その記念写真はクラスみんなに配られ、俺と絹織 文音がいがみ合っていると、クラスの奴から「記念写真の仲の良さはどこ行ったんだ」と新たに茶化され始めたのは痛いが、俺にだってその記念写真は大切なもので、部屋にちゃんと飾っている。
時折、眺めてはニヤッとしているかもしれないから、人前では見ないようにしていた。
「楽しかったな・・・」
俺と同じように例の写真を眺めてはニヤッとしている絹織 文音の姿は、あまり他言しない方がいいだろう表情だった。
「楽しかったのは分かりますが、再来週は定期テストですから、ちゃんと勉強をしてください」
「えぇ・・・今回の定期テスト難しいから、勉強する気が起きないんだよね・・」
「それじゃあ、困るんですよ・・・理沙さんからも文音様に勉強するようにと言っといて釘を刺されたんですから・・・」
「でもなぁ・・・」
なかなか、写真を手放そうとしない代わりに絹織 文音は掃除機を片手に持っている俺に勉強したくないオーラを放っているが、それで引き下がるわけにはいかない。
今回の定期テストは三年生に進級が出来るか出来ないかの大切な考査の第一回目のようなもので、欠点など決してとってはならないとまで言われていると理沙さんは俺に分かりやすく今回のテストの重要性を教えてくれたのだが、二年も通っている高校の事だ、当然、知っている俺でも改めて、重要性を知る機会となった。
そんな大切なテストで、愛娘が欠点を取って、保護者召喚なんてことにはなりたくないのだろう。
いつもに増して、理沙さんは俺に釘を刺した。
欠点などと取られては、俺にも責任が押し寄せ、最悪な場合は付き人を解雇、母さんからは潜入調査としての自覚が足りないと叱られるに決まっている―――。
てか、俺の命はない。
「それなら、友達と勉強するというのはどうでしょうか? 教えられたり教えたり、そうゆうことをした方が頭に入りやすかと」
なんとしても、勉強をしてもらわねば。
「うーん、友達か・・・」
「良い考えではないでしょうか?」
揺らぎ始めている絹織 文音を隙を見せないように攻める。
「うん、楽しそうだし・・・」
「でしょ!」
「勉強もはかどりそうだし・・・」
「その通りです!」
「じゃあ、そうするわ」
「はい、頑張ってください!」
そして今日―――。
「自信なんてないわ」
「べ、勉強してるのか?」
「ううん、全然」
結果、やってはいなかった。
―――友達と勉強すると言っていたのに・・・・。
「ど、どうすんのそれ・・・・」
なにか解決策があるなら教えてほしい。
その不安という言葉を知らなさそうな顔をするなら是非、解決策を教えてほしい。
「なんで凛まで、私の心配するのよ・・・・? 凛だってこのテストは他人事じゃないでしょ?」
その通りだ。俺だって、進級がかかっている。
しかし、俺が欠点とるか、絹織 文音が欠点を取るか―――後の方が俺が無事な保証がない。
「そうだけ・・・・」
どうすれば―――と考えようとした時、絹織 文音の口から予想外な言葉が出た。
「でも、私は大丈夫。今日から勉強するから」
「え、ほんとですか⁉」
あまりの事に、水崎の自分が出てしまった。
「な、なんで敬語?」
「あ、わ、悪い。まぁ、頑張れよ」
はぁ、と安堵のため息が出そうになったが、それは絹織 文音の次の言葉でタイミングをずらされた。
「なに言ってるの? 凛、あなたも一緒に勉強するのよ?」
はぁ、とこれは安堵のため息ではない。
冷たい風がコートの隙間から入ってきて、身体から体温を奪っていく。
俺の隣を優雅に歩く絹織 文音はどこか笑っているように見えた。
放課後、俺は絹織 文音とテスト対策の為、一緒に勉強することになったのだが、それは俺思っていた状況とは全く違っていた。
まずは、メンバー。
俺と絹織 文音の二人だけ。
俺はてっきり、絹織 文音の女友達と混ざって勉強をするのかと思っていたのだ。果たして、二人で教え合いなど出来るのだろうか。お互いに得意な教科、苦手な教科、補って教え合うという方法もあるのだが、俺が人に分かりやすく教えられるほどの得意な教科があったか、絹織 文音に人に教えられるほど苦手な教科があったのか。
となると、この方法はすでに詰んでいた。
普通に、考えると俺が絹織 文音に一方的に教えられることになる。
それは、俺にとってすごく助かるのだが、絹織 文音の学力が低下しないか不安になる。
あくまでも、このテスト対策勉強会は、俺の欠点回避よりも、絹織 文音の欠点回避の方が優先される。
つまり、このメンバー状況は間違っていることになる。
それが、思っていなかった状況パートワン。
そして、パートツー。
テスト対策勉強会の場所。
大人数でやると思っていた勉強会なのだから、当然、俺はいつものファミレスを思い浮かべていた。いや、大人数じゃなくて、少人数、もっと言って、二人だけだとしても、変わらずファミレスを想像していた。しかしここは、ワイワイと賑やかな声が聞こえるファミレスとは違い、二人だけの声しか聞こえない、見慣れたテーブル、見慣れたソファー、見慣れた家具の配置、そして、見慣れた写真立てがある部屋だった。
―――俺の部屋ではない。だけど、見慣れている。
そうなれば、あそこしかない。
「さあ、勉強始めましょうか」
「うん・・そうなんだけど、俺、お邪魔しても大丈夫なのか・・?」
「大丈夫よ! お母さんいないから!」
「・・・それが、一番不安なんだよ・・・」
自分のテリトリーに帰ってきた絹織 文音は強かった。
そう、ここは絹織家の絹織 文音の部屋――――――俺の仕事場だ。
「ほら、お菓子も持ってきたから、食べて食べて」
「あ、いただきます」
どこか、海外からの贈り物みたいなお菓子を一つ食べたが、それは美味いこと美味いこと、
「これ、美味しいな」
「でしょ? フランスに住んでいるおばさんが送ってくれたのよ」
あぁ、このお菓子の缶に描かれている大きな鉄塔はエッフェル塔か。
今度は違う味を・・・・。
「じゃなくて!」
「ど、どうしたのよ」
自分の煩悩に負けそうになって大きな声を出したことを反省しながら、この集まりの趣旨を絹織 文音にもう一度、説明する。
「欠点取りたくないだろ?」
「そりゃ、誰だって取りたくないわよ、欠点なんて」
「なら、勉強しよ?」
「でも、実際は勉強しなくたって―――」
「はい、教科書開いて」
その続きは言わせないように遮った。続きを聞いてしまったら、俺は惨めになる。
絹織 文音は言葉を遮られたことに「もー」と口を尖らせながらも、俺が言ったように教科書を開いた。
「よし―――」
と、なんとか始められた二人だけのテスト対策勉強会は、教科書に沿って、テストに出そうなところをマーカーで印をつけ、大学ノートに要点をまとめていった。
やっている間は、絹織 文音はちゃんと集中していて、ノートを見ると、綺麗にまとめていて安心した。
俺の方もなんとか、要点をまとめて、応用に対応出来るように、頑張って暗記をし、合間に挟む、フランスに住むおばさんからもらったというお菓子に舌つづみをし、
そんな勉強会も今は休憩を挟んでいた。
「もう・・疲れた・・・」
「まだまだ、二時間しかやってないだろ」
「二時間もよ! 二時間も!」
ぶつぶつと文句を言っている割には、自分のまとめたノートを眺め、教科書と照らし合わせて見ている。
時刻は午後六時過ぎ、いつもなら付き人として、絹織 文音の部屋を掃除しているところだが、先ほど、仕事用の携帯に文音様から、今日はお休みというメールが来ていた。
当然、休みにしてもらわないと困る。なんせ、俺は二人もいないから。
そして、掃除と言うことで思い出したのだが、あたりを見回すとゴミひとつ落ちていない、
俺が掃除した直後のような部屋だった。
「部屋綺麗だな」と言うと絹織 文音は自慢するように「綺麗好きなのよ」と嘘を付いた。
なんと、自分でここまで部屋を綺麗に出来るのなら、俺が掃除機をかける意味は何だったのかと思ってしまうし、ここまで部屋をきれいに出来るのなら、俺の存在は必要なのかということも、思ってしまう。
しかし、思っていても仕方がないし、勉強に集中していたのだが、休憩している今、部屋を見返すとやはり、思ってしまう。
「ねえ、凛、それとって」
「自分で、取れるだろ?」
手を伸ばせば届きそうな距離にあるお菓子を、俺に取らせようとする絹織 文音。
「ええ、ケチ」
そう言って、絹織 文音は白く細い腕を真剣に伸ばして、取ろうとする。
しかし、当たり前に手は届かない。
ソファーで寝転んでいるから届かないに決まっている。
それでも、絹織 文音は起き上がろうともせず、寝転がったまま、取ろうとしている。
それだけ、自分の腕を過信しているか、単に起き上がるのがめんどくさいのか。
一応、目の前に同級生がいるのを分かってほしい。俺は、こんな姿しょっちゅう見ているのだが、学校ではクール気取っている奴がこんな姿を同級生の前で晒していたら、普通は引いてしまうだろう。
そんなに俺は意識されていないのだろうか。
カンっ!
俺は、不意に大きな音に驚いた。
何事かと思い、意識を戻すと、お菓子の缶を床にぶちまけ、粉々になったクッキーが床一面に散らばり、目の前の絹織 文音は寝転んだまま、しまったという表情をしていた。
「あらあらあらあら・・・」
俺も呆れてしまう。
寝転んでいる絹織 文音を横目で確認しつつも、俺は立ち上がり、掃除機を収納しているクローゼットを開けた。
絹織 文音は口を開けて呆然と、こちらを見ている。
自分の事なのに何もせずに俺に任せるということは当たり前のようになっていて、掃除機をコンセントに挿し、スイッチをオンにして俺は、散らばったクッキーを綺麗に吸い上げる。
絹織 文音は体を起こし、なにか口をパクパクしているが、掃除機をかけているため聞こえずらい。
どうせ、喉乾いたからジュースとでも言っているのだろう。
俺は、ブレザーの袖をたくし上げる。
―――と、ここで思う。
ブレザー?
いまだに、口をパクパクしている絹織 文音が「ジュースが欲しい」と言っていないことが分かった。
では、なにを不思議そうに俺に向かって語りかけているのか。
俺は、ゆっくりとスイッチをオフにした。
キューン―――と次第に小さくなっていく掃除機の音に、次第と大きくなって聞き取れるようになった絹織 文音の声。
絹織 文音は不思議そうに言う。
「どうして、掃除機の収納場所知ってるの?」
――――――そりゃ、幾度となく掃除してきましたから。
とは言えない。
なんせ、今、俺の姿は「氷崎 凛」なのだから。
またもや、やってしまう―――――痛恨のミスだ。
それも今回は、結構ヤバいやつ。絶対に分からないであろう掃除機の収納場所を何のためらいもなく当て、掃除機を取り出し、絹織 文音の失敗の後始末をしたのだ。
もう、やっていることは「水崎 凛」と変わらない。
そんな結構ヤバいことをしてしまった俺「氷崎 凛」はどう言い訳をしたら良いか思い付かなかった。
「あぁ・・・」
俺の答えを待つ絹織 文音の真剣な眼差しに言葉が出ない。
部屋に異様な空気が流れる。
物語の最後を問うような絹織 文音の言葉に、俺は最後を告げていいのだろうか。
本当の事を言ったらこの空気は掃除機をかける前のように戻ってくれるだろうか。
しかし、そんなはずはない―――――。
潜入調査として付き人になっていた。
なんてことを、この場で、堂々と言えるわけがない。
定期テストという関門があるのに、自分で新たに関門を作ってしまった。
ここは、どうにか潜り抜けないと――。
「だ、だいたい、入ってるかな・・・って」
曖昧な答えに絹織 文音は納得はしていない様子。
「俺んちも・・・掃除機はそうゆう所に収納してるからさ・・・それに、一大事だったから、体が勝手に、掃除機を見つけ出したってか、なんていうか・・・お、俺も綺麗好きだから・・・」
これが精一杯の抵抗。
これで通用しなかったら、俺は終わる。
気付くと俺は絹織 文音から目線を逸らしていた。
言葉があやふやなうえに、視線すら合わせていないとなると、怪しさが増すだろう。
恐る恐る、視線を絹織 文音と合わせる。
―――疑いの目。
とまでは言えないが絹織 文音の目は、そんな感じの目だった。
そして、絹織 文音はそんな目で俺を見つめながら口を開く。
「うーん、まあ、いいわ」
そう言うと、絹織 文音は再び、教科書とノートを開き、「続きしましょ?」とシャープペンシルを握る。
俺は、急いで掃除機を元あった場所へ直し、教科書とノートを開いた。
そして、絹織 文音から一言。
「ありがと」
これを合図として、沈黙が佇むテスト対策勉強会後半となった。
カチカチと鳴らす絹織 文音のシャープペンシルは今日も、ミラーレンジャー。所々、印刷が擦れていて、透明になっているところもある。
そんなに、大事なものなのだろうか。
目の前では、ミラーレンジャーのシャープペンシルで、教科書の要点をノートに写している絹織 文音。
いっその事、聞いてみようか。この俺が用いた沈黙にはもう耐えられない。
「なあ、文音。 その、シャーペン本当にいつも大事そうに使っているけど、誰かにもらったものなのか?」
俺の急な質問に絹織 文音は手を止めて、手に持っているミラーレンジャーのシャープペンシルを眺め、
「―――昔に・・・好きな人からもらったのよ」
と、小さく答えた。
「ああ・・・ね」
まさかの答えに返事が詰まる。
あまり、下手に触れないようにしようかと思い、話を変えようと―――考える間もなく、絹織 文音の方から喋り出した。
「この、シャーペンはね、昔・・・暑い夏の昔に、男の子からもらったの。その日初めて会ったのにも関わらず、道に迷って泣いていた私を助けてくれて、別れの最後にこのシャーペンをくれたのよ」
「へえ、そうなのか・・・」
そんな、思い出のあるシャープペンシルだったとは。
「宝物だから、大切にしてくれよって・・・いつ、返してって言われても良いように、大切に、無くさないように使ってるの」
「そうか・・・それは大切に使わないとな」
昔を思い返すように語る絹織 文音はどこか、懐かしく綺麗に見え、
そして、俺の言葉に絹織 文音は、「はぁ」とため息をこぼす。
「その男の子には会えないのかもね」
好きな男の子に会えない残念さから出た、ため息だったのだろうか。
「このあたりに住んでたんなら、探せば―――」
「例え、その男の子に会えたとしても、私の事を覚えていなかったら意味ないの」
遮るように絹織 文音はミラーレンジャーのシャープペンシルをクルクルと回しながら、言う。
「そんな・・・宝物をあげたのに忘れる奴なんか―――」
「いるでしょ」
またもや、遮られる。
しかも、なぜか怒っているような口調で、カチカチとシャー芯を出しながら視線は教科書を向いていた。
下手に干渉したせいだろうか。部屋に再び、異様な空気が流れ込む。文字を書いている音しか聞こえない。
―――気まずい。
これが率直な想いだった。
俺が、しつこく問い詰めたわけではない。触れないようにしようとしたのに、絹織 文音が先に喋り出し、変な空気になったのだ。
なんか、俺が無理やり語らせて、絹織 文音を怒らせて、変な空気にしたみたいな・・・。
それに・・・俺だって、絹織 文音の好きな人なんか正直、聞きたくはない。
「誰にもらった?」
こんな質問をした俺が悪いのだろうけど、まさか、「好きな人から」と答えるなんて思ってもみなかった。
謎の男といい、過去の男の子といい、それは同一人物だろうか。
だとしたら、絹織 文音は再会していることになって、でも、「会えない」と言っているということは、本当に、その男は覚えていなかったということになる。
それならもし、その男が思い出し、絹織 文音に話したとしたら、それはもう、俺が望まない結末になるということで、でも、輝いている絹織 文音を見たいという望む結末にもなるということにもなってしまう。
結果俺は、絹織 文音にどうなってほしいのか――――――今、解いている問題よりも難しい答えになる。
そもそも、絹織 文音の事に、俺の感情が干渉するのが間違っているのだけれど、そんな事を言われたって、俺にはどうすることも出来ない。
感情の制御が完璧に出来る人間なんているわけがないし、もし、いたとしたらこの世界に正義や悪、愛や、幸せは生まれなかったと思う。
しかし、あまり干渉しすぎるのはその人の自由を奪うことになり、そこでまた別の感情が生まれて、現状が崩れてしまう事がある。
人は常に、ぎりぎりのところを歩いて現状をどうにか保ち、他人と触れ合っている。と言うことだと俺は思う。
絹織 文音の好きな人と聞いて、どこかチックっとくるのは本当で、輝いて、綺麗な絹織 文音を見ていたいというのも本当で――――とにかくもう、解けない。
数学の公式のように感情も、順を追って解けるような公式があればいいのに。
と、長年、片思いをしていた友達が言っていたのを思い出した。
そんなのがあったら、人を想うドキドキ感とかなくなって面白くないだろ。
と、俺はその時、友達に言ったが、今ならすこし気持ちが分かるかもしれない――――。
「それじゃ」
「うん、気を付けてね」
暗い道を街灯が照らし、月が半分だけ、顔を覗かしている頃に俺は絹織家を出た。
「文音様、お母様が帰宅されました」
と言うのが、終了の合図となった。
理沙さんが帰宅したと伝えに来た、雪菜さんに「あれ?」そんな顔をされたが、俺は出来るだけ目線を合わせないように下を向いて、部屋を出た。
やはり、今まで、絹織 文音が気付かないのがすごかったのだろう。
だからもう、客人として正門から絹織家に入ることは無い、心臓に悪いし、それに万が一というのが怖い。
学校指定のコートを羽織っても、寒さは普通に感じる。
冬というのはどうしてこんなにも寒いのだろうか。そんなことを考えても答えは「冬だから」で片付いてしまう。でも、そんな冬でも一つ楽しみな事がある。それは、
「綺麗だな」
見上げた空には、星が綺麗に輝いていた。冬は空気が乾燥していて輝く星が綺麗に見えるらしい。
そんな天体に詳しいわけではないが、今まで生きてきて冬の方が星が綺麗だと思うことが多かった。
吸い込まれそうな星空に俺は思う。
この俺の絹織 文音を想う感情は綺麗に輝くことが出来るのか、この想いが絹織 文音に伝わったとしたら、それを綺麗だと言ってくれるだろうか。
自問自答している俺を誰か答えへと、導いてはくれないだろうか。
自分の家へと帰る際に、見かけた自動販売機にはコンポタージュが販売されていた。それを見て、財布を一瞬取り出そうとして止める。
買っても「ありがとう」と言って飲む人はここにはいない。
時間を確認しようと電源を付けたスマホには、眠り姫が映っている。
―――九時半。
確認した俺は電源を切ってポッケトへとしまう。
少し、歩くペースを落とした。カッコよく言うなら、夜風に吹かれたい気分。
絹織家の門を出て、振り返ると絹織 文音が小さく手を振っていた。それに応えるため、俺も小さく振り返した。
だんだん遠ざかっていく絹織 文音の姿に俺は、既視感を感じ、眉を歪めた。
はっきりとしない何かが俺の中に根を張った。