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神戸物語  作者: 山井 月
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03 「この手は届かない」

「シーンちゃん」

客が誰もいなくなった夜の十時過ぎ、『愛の巣』のドアベルが鳴った。妃菜だった。

「あらァ、ひなたん、どないしたん」

「シンちゃんに会いに来た」

黒いジャージの上下を着て、フェイスタオルを首にかけているところを見ると、夕飯も風呂も済ませて来たのだろう。女嫌いの心里しんりの眸に、唯一、愛おしく映る子である。

「ホットミルク飲む?」

「うん」

頷いて、妃菜は飛び乗るようにしてカウンター席に腰かけた。乾きかけの髪が揺れて、シャンプーが香った。ホーローのミルクパンに牛乳を注いで火にかけ、温まるのを待つあいだ、妃菜は何を言うでもなくぼんやりとコンロの炎を見つめていた。ぼんやりとしているときの妃菜は、どことなく大人びて見える。普段は無邪気な表情が、不思議なほどせつなげになるのである。見ているこちらの胸がぐっと詰まるような、どこか遠くに行ってしまいそうな不安を感じさせるような、そういう表情を見せることがあった。

何か心にひっかかることがあるのだろうが、彼女はこういうとき、なかなか心のなかを打ち明けることをしない。『愛の巣』に来て心里の顔を見ることで、落ち着くらしい。それでいい、と心里も思っている。

母親こそいないが、藤倉家の人々はいつでもあかるい。双子の妃菜と透は思春期の高校生兄妹とは思えないほど仲が良いし、父親の敦も、まっとうにこの二人の子を可愛がっている。だが、その奥底に苦い暗さが横たわっていることを、心里は知っていた。今、藤倉家に満ちているあかるさは、藤倉家の人々が懸命につくりあげているあかるさである。あかるくあろう、と彼らはそれぞれ心に誓い、頑なにその誓いを守り続けているのだった。悲しい誓いだ。彼らは、自分たちを縛るその誓いのために、泣くことが出来ない。だから妃菜は、泣きたくなるとこうして、『愛の巣』にやってくるのだ。

「泊まっていく?」

ホットミルクをカップに注いでやって、心里は優しく妃菜に問うた。

「…………」

彼女はほんの一瞬、躊躇したようだ。躊躇したということは、ひょっとしたら、よほど苦しい気持ちでいるのかもしれない。いつもならすぐに、「お父さんが泣くからもう帰る」と、冗談めかしたお決まりの台詞を返してくるのに。

「……シンちゃんの顔見たらすぐ帰るって、言うて来たから……」

妃菜はやはり、どこかぼんやりとしていた。

「飲んだら帰る?」

「うん」

帰るといっても、『愛の巣』から藤倉家まで歩いて三十秒とかからない。だから父親も、さして心配することなく妃菜をここに来させるのだ。

「そう。ま、遅なったら送ってったるし、ゆっくりしィ」

「うん」

白い口ひげをつけて、妃菜はようやく透きとおった笑みを見せた。



翌日、めずらしく心里は店を休みにした。昼過ぎから、三宮で洒落たデザイナーズマンションに住む馴染みの男を抱き、夜になってから二人連れ立って北野坂のバーに繰り出した。こういう、ちょっと爛れた遊び方をするのは、久しぶりのことだった。

「それにしても、めずらしいな」

と、佳人よしとは言った。情事の名残りか、少し疲れたような表情に色気がある。

「何が」

「心里が僕を誘うの。けっこうご無沙汰やったやんか」

「まあ、そうやな」

ガラス製の灰皿に煙草の灰を落として、心里は苦く笑った。

「本命にふられたとか?」

「……本命なんかおるか、ダボ」

軽く佳人を小突いてやると、彼もまた、かすかに苦みを帯びた顔で笑った。「僕らももう相当な腐れ縁やけど」と、佳人はウイスキーを舐める。

「なかなか幸せには縁遠いなあ」

「おまえ、不幸か」

「僕? 不幸とまでは言わんけど、まあ、幸せってこともないなあ。ただ生きてるだけや。その日その日、些細な楽しいことを探しながら」

そのとおりやな、と心里も思う。その些細な幸せが、心里にとっては『愛の巣』という店であるような気がするのだった。

「……僕、こないだまで彼氏おったんや」

「うん?」

「ゲイやって言うてたのに、女と結婚した」

ああ、と心里は納得した。今日久しぶりに会ったときから、どことなく鬱屈した表情を見せていたのは、そのためだったのだ。だが、よくある話だった。

「心里とおると、楽でええねん。体の相性もええし」

「…………」

「恋人でも何でもないけど、でもやっぱり、心里ともいずれ疎遠になるん違うかと思うと、ちょっと不安や。だって心里は、言うても男も女もどっちもいけるやろ」

今日の佳人は、失恋のためか、いささか恨めしげである。

「僕らみたいなネコは、女にはどうしたって勝てへん。惚れても、与えてやれるものが少なすぎる」

愛だけでは、大人は生きてはいけないのだ。

「佳人。心配するな。寂しかったら、慰めたる」

「……ほんま、心里は人たらしやな。たち悪いで」

「でもな、人間、なるようにしかならへんぞ」

心里は、ぽんと佳人の背を叩いた。「ま、そやな」、と微笑みかえす佳人の透きとおった表情が、ふと妃菜と重なった。


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