02 「羨望」
校舎内の床が、土埃で汚れていた。体育祭の予行の後、すぐ土日に入ったからだろう。校舎内もグラウンドも関係なしに土足で行き来するものだから、雨が降ったり、体育の授業が多かったりすると、すぐに校舎内の床が泥だらけになる。
(慣れては来たけど、でも、汚いよな)
と、橋本漣はぼんやり思った。中学生になってすぐ両親が離婚し、父親とともに神戸に越して来た。とうに馴染んでいるような気もするが、しかし、関西言葉を話さないために微妙に浮いているような気もする。
教室に入ると、すでに新井健太が席についていた。彼しかいない。「うす」、と漣は挨拶ともいえないような挨拶をしたが、新井はそれを完全に無視して、窓の外のグラウンドを眺めている。彼は、漣に対してだけ、いつもこんな調子だった。
漣が椅子に腰を下ろして三十秒もしないうちに、
「あーっ、いた、健太ぁ!」
教室の扉ががらりと開いた。三組の藤倉だった。
「何やねん、うるさいな朝から」
素っ気ないが、彼女に対しては、新井はきちんと反応する。彼らは同じ商店街で育って来た幼馴染みで、その絆は思う以上に強い。
「現国の教科書忘れてん、貸してぇ。お願い!」
+
漣には、忘れられない出来事がある。去年の冬のことだ。高校一年のときも、漣は新井と同じクラスだった。学校に隠れてアルバイトをしていた新井は、しばしば授業中に居眠りをして、教師に怒鳴られていた。彼が母子家庭であることや、下に弟が二人いること、生活が貧しいということなどは、クラスに溢れる様々な会話の奔流から窺い知ることが出来た。
ついに、社会科教諭の堪忍袋の緒が切れた。授業中に新井の机を蹴りあげ、「そんなに眠たいんやったら外出て正座しとかんかい、ダボ!」と怒鳴り、新井を教室から追い出した。歴史と伝統こそあるものの、界隈では荒っぽい校風だと有名なこの高校では、自然、生徒指導もずいぶん荒っぽいものになる。
新井は、そういう時代遅れの大人の怒りを、毎度大人しく受け流してきた。このときもそうだった。「はい、すいません」と言って、大人しく教室の外に出た。
事件はその後、授業が終わってから起きた。教師は廊下で、再び新井を罵った。教室で怒鳴っていたときのような声量ではなかったが、廊下を行き来する者には聞こえる程度の声だった。トイレに行こうと教室を出た漣の耳にも、それは聞こえた。
「おまえ、顔のかたち変えたろか。在日が何を調子乗っとんど。指導拒否で停学したってもええねんぞ」
ひやりとした。
教師は、言ってはならないことを言った。怒鳴らなかったのは、おそらく自分の言葉が、許されるものでないことを彼自身が知っていたからに違いない。だが、彼の目は本気だった。彼は、本気で「在日が何を調子乗っとんど」と思っていたのだ。
(それは駄目だろ)
と、漣は思わず振り向いた。振り向いたそのときには、男性教師の体が吹っ飛んでいた。新井ではない。同じクラスの倉橋という男子生徒が、教師を突き飛ばし、二発三発と殴っていたのだった。
「アキヲ、やめろ、おい、やめろ!」
必死になって倉橋を止めているのが、新井だった。新井は泣いていた。茫然と立ち尽くす漣やクラスメイトたちの前で、倉橋も新井も、そして唇から血を流し、目を腫らした教師も、駆けつけて来た他の教師たちに連れて行かれた。
倉橋がまず退学処分を受けた。殴られた教師は、被害届を出さなかった。新井はしばらく学校を休み、そのまま退学するかに思われたが、倉橋に説得されたか何かで、年明けから再び登校するようになった。
倉橋を止めているときの新井の泣き顔を、漣はいまだに忘れられずにいる。
+
倉橋も、新井も、そして今教室に駆けこんできた藤倉も、同じ商店街育ちである。高校入学からもうすぐ一年と半、誰もが彼らの絆の強さを知っている。
「土日、何しとったん」
現国の教科書を鞄から取り出しながら、新井は藤倉に訊いた。漣はスマホのゲーム画面を開いていたが、二人の会話は聞こうとせずとも聞こえてくる。
「昨日、久々にアキちゃんと遊んだ」
「アキヲと? 俺、最近あいつと会うてへんわ」
新井の横顔には、まだ微かに悔恨の色があるように見えた。羨望、尊敬、感謝、嫉妬、様々な感情が、新井の表情の下に沈みこんでいるようだった。だが、藤倉のほうは、あっけらかんとしている。
「健太がびびって全然シンちゃんとこ来ぉへんからやで。ちょいちょいアキちゃん、来とうねんで」
「びびって、て何や。別にびびってへんわい」
正直なところ、新井のことはどうでも良かった。漣はただ、言葉に出来ない不安を感じていた。藤倉のような明るい気持ちで、生きていければどんなにか良いだろう。「在日が何を調子乗っとんど」、という脅迫めいたあの教師の声を、漣は忘れられないのだった。
なぜあのとき、同胞であるはずの漣が何も出来なかったのか。倉橋が、羨ましい。