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神戸物語  作者: 山井 月
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01 「愛の巣」

早起きをしすぎた。二度寝することもできず、暇をもてあまして『愛の巣』に行ってみると、アキヲがカウンター前に腰かけていた。純喫茶、というカテゴリにはいささか不似合いな店名のここは、港町商店街では唯一の、年中無休の喫茶店である。『愛の巣』には、盆も正月もない。客がいようがいまいが、常に店は開いている。

「ウッス、妃菜ひな

アキヲは煙草の煙をふうと吐いて、右手をひらりと振ってみせた。去年の冬休み直前に、教師を殴って一発退学処分を食らい、すでに土建屋で働いている十七歳である。

「アキちゃん、いつ来た? 今日、お休み?」

「おう。朝まで先輩らと新開地しんかいちで飲んどってん。ついでに朝飯食うて帰ろ思て、さっきここ寄ったとこ」

言いながらアキヲは、煙草を灰皿に押しつけて火を消した。彼と妃菜のほかに、客はいない。カウンターの中からは、

「ひなたんも何か食べるゥ?」

マスターであるシンちゃんの、妃菜の耳にはよく馴染んだ、太い声が飛んできた。商店街の連中はとうに慣れたが、もし何も知らない客が彼を見れば、『愛の巣』とは純喫茶でなくゲイバーだと思うに違いなかった。

実際にシンちゃんは、「女なんて大嫌い」と公言して憚らない、堂々たるゲイではある。二十代半ばまでは大阪キタのゲイバーで働いていたらしいが、痴情のもつれだか何だか、とにかく人間関係上ののっぴきならない理由で店を辞め、地元神戸に帰ってきて実家の純喫茶を継いだのだという。もちろん店名は、シンちゃんの祖父の代からずっと『愛の巣』で、決してシンちゃんが改名したわけではない。

「うん、モーニング!」

「はァー、癒やし……可愛いわあ、ひなたん。モーニングな、ちょっと待ってて」

「ミックスジュースもちょうだい、シンちゃん」

「ああン、可愛い、まだまだ子どもやねんからァ、もォー」

と、シンちゃんは朝からエンジン全開である。「女なんて大嫌い」だが、しかし彼に言わせると、妃菜だけは例外なのだそうだ。女のうちに入らない——とも言えるが、このシンちゃんに、妃菜は幼いころから可愛がられて育ってきた。なぜそんなにも可愛がってくれるのか、正確なところは分からない。

(実はうちのお父さんのことが好きなんやろか)

と思ったりしたこともあったが、今となってはもう、ただ素直に可愛がられるばかりである。四十に届くかどうかという年齢のシンちゃんは、黙って立っていれば、まさか「ああン、可愛い」などとは天地が逆さになっても言いそうにない、いわゆるガテン系の男前であった。

妃菜の初恋は、何を隠そう、このシンちゃんである。

「おまえ、暇なんか」

と、アキヲは煙草を指先で弄びながら言った。十七歳にしてヘビースモーカーのアキヲだが、妃菜の前では飲酒も喫煙もしない。

「うん、暇」

「ほんなら、服買いに行くん付き合えや」

新開地で飲み明かしてきたというのに、タフな少年である。妃菜は、一も二もなく頷いた。

「ついでに映画でも観て、昼飯食ってから帰ろか」

「いやァ、デート? うらやましいわァ」

と、体をくねくねさせながら、シンちゃんがモーニングプレートを出してくれる。半分に切った厚切りのトーストに、ゆでたまご。そして喫茶店のミックスジュース。完熟バナナ多めのミックスジュースは、妃菜のために研究してくれたらしいシンちゃんの特別レシピである。他所の喫茶店のミックスジュースとどれほど味が違うのかは、行ったことがないので分からない。

「あんたもほんま、ひなたん離れの出来ひん子よね。いつになったら彼女出来るんよ」

「そっくりそのままシンちゃんに返すわ。むしろ妃菜の心配したれって。男の気配なさすぎちゃうか。もう高二やぞ。女子校に通てるわけでもないのに」

「ええの。ひなたんは永遠の処女でええの。アイドルやから」

シンちゃんは、無茶苦茶なことを言う。本当は二度ほど告白されたことがあるのだが、そのことは双子の兄であるとおる以外には、言っていない。ここの商店街の連中は、良くも悪くも、他人のことに首を突っこみたがりすぎる。

妃菜には、好きな人がいる。シンちゃんの次に好きになった人である。だが、誰にも知られたくない。本人にさえ、知られたくない。だから妃菜は、無邪気を装いながら、周囲に言うことと言わないこととを冷静に選別している。恋愛ごとに関しては、どんな些細なことであっても絶対に言わない。妃菜はそう決めている。

「食うた? 行くか?」

うん、と妃菜は頷いた。

アキヲと出かけるのは、久しぶりである。彼が高校に在籍していたころは毎日のように会っていたが、退学して働くようになってからは、当然のことながら、そういうわけにはいかなくなった。

「じゃあシンちゃん、行ってくるね」

「ン、行ってらっしゃい」

シンちゃんの双眸が優しい。妃菜のことだけでなく、アキヲのことも見守ってくれている眸である。アキヲはシンちゃんのことを誰よりも信頼している。




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