齢から見える高みがあるのも、若さゆえにしれない
僕の私服は黒が基本。それは夏でも変らない。ゆえに暑い時はほんとに暑い。
制服に着替えると紺碧に変わる。制帽を被り、紺碧の姿になると生徒達から声をかけられる。挨拶を交わしながら校門に立つ頃には、校舎の前の道は登校して来る生徒で車の横行も困難になるぐらい。都心にあるこの中学校に通う生徒の家庭はいわゆる金持ちと言われるくらいの経済力で不良と呼ばれるような生徒は存在しない。挨拶を返さない生徒は多くいるが、それはそれだけの知能しかないからに過ぎない。持てる者は、その持てるものに気づかない。容姿だったり、学力だったり運動神経だったり色々あるが、それがなぜ持たされたのかの意味まで問う者はほとんどが皆無だろう。
もしもこの世界をつくり、動かしている何物かがあるとすればその何物かの考え、思い、感じる何かがこの世界を作り出したのだろう。であるならその何物かと同じ考え、思い、感じになれば、この世界がどのように動かされているのかわかるということになる。
つらつらとそんなことを夢想しながら僕は生徒に挨拶をしている。
毎日のように小学生、中学生に挨拶して登下校を見送っていると挨拶と表情との因果関係、しいては姿形との因果まで見えて来る。
それはまるで、光。
明るい笑顔で挨拶をする子は表情から輝きが見える。それは心の輝きの現れ。輝きは表情だけではない、声にも現れていく、光とは何か、それは響き。
声の見えない響きは揺らぎとして心に感じられる。それは中心に見えない光が当った証となる。
ぼくの言葉は正しい、それは葉となる前の芽から出ている言葉だから。
あいさつは挨拶になると見えなかった光を見せる。弱いから、弓を取る。弓を取るから矢を射る。
挨拶は心の的に矢を射る行為だと気づけば……。
そんなことを思いながら、伏目がちに俯き、前を通り過ぎる暗い顔をした女生徒を見つめる。
たかが警備の人に挨拶を振りまいても、何の得にもならない。そんな蔑んだような目をして黙って通り過ぎる女生徒も中にはいる。
可哀想だと思う。その思考、思想の末にある景色を僕は知っているから。だから笑顔であいさつをする、無視し続ける生徒達にも。彼らは真なる苦悩をまだしらないことを知らない。齢から見える高みがあるのも、若さゆえにしれない。
しかし、そのままに無視し続けるなら齢を手にした時すでに君達には人を惹きつける心はない。儚いのは、なぜ失ったのか気づくことも、永遠に失うことか……。