慈悲
この世界は残酷で滑稽だ。愚かさが愚かさを生み出し、賢さが愚かさを生み出す。愚かさと賢さの量が逆転することが不可能である限り、この世界はいつまでも残酷で滑稽であり続ける、そのことに幼い頃に気づいてしまった、僕が生きるこの世界は、絶望しかない。
本当の悲しみを幼くして僕は知った。
それでも僕は諦めなかった、量ではなく質を問うことは出来るはず。
僕が今もこの世界で生きているのは、知りたいから。この世界を生み出した何者かに理由を聞きたい、この残酷で滑稽な世界に僕を作った理由を。
僕は考える、僕は生きている、生きているなら、生きるとはどういうことか、僕は生きている物。なら生きている物とは何か。生きているとは息をしているということ。息が止まれば、生きている物は死んでいる物に変わる。僕は息をしているから生きている。息をするために、生きている。考えると肺の動きを感じ、心臓の動きを感じて、鼓動が聞こえてきて、心が苦しくなる。心が苦しくなりながら歩いていると思いもよらなかった思考が浮かんだり、生まれたりする。巡回する時など、歩いていると自然に思いが湧いてきて気づく前に自然に考えている。
アスファルトにこびり付いた虫の残骸、原形を留めない死骸を気付かずに踏み付ける自分の命とは何なのだろう、なぜ僕はこんなにも命、生命を考えようとするのか、考えれば考えるほど悲しい気持ちが湧き上がって来るのに……生きるとは、死ぬとは何なのか、なぜ僕には過去の記憶があるのか、僕ではない僕の記憶、姿形も人種も声も異なる誰かの記憶がなぜ僕の中に残っているのか、記憶に残る誰かは僕なのか、姿形も人種も声も異なる誰かは僕だと言えるのか……誰か、教えて欲しい。僕とは誰なのだ。
まただ、激しい痛みが頭を締め付ける。これ以上考えると痛みが感覚を支配する。何も考えられなくなる、ただ痛くて、痛みから逃れるために死んだように眠る。僕の安息は意識の無い領域にしかないから、僕は死ぬように眠りにつく。
だから僕は死を慈悲だと感じていられる。僕の夢は二度と目覚めない眠りにつくこと。儚い夢を追いながら、僕は僕として今を生きている。
道端に甲虫が歩いていると拾い上げて付近の木に付ける。おそらくは歩いていると踏まれると思うからだけど、もしかすると木に付けたことで甲虫はこの先死ぬことになるかもしれない、もしかしたら道を渡りきり甲虫の望みのままに生きれたかもしれない、僕がしたことは、することは甲虫にとっては望まなかった未来、しかしそれがわかりながら僕は踏まれそうな虫を見たら拾い上げてしまう、それを僕が望むという理由で。
木に付けた甲虫が飛び立ちまた道に降りて歩き出すことがたまにある。そんな時僕はその虫を見続けることにしている。これまで道を渡り切った甲虫はいない…綺麗な緑色に輝く身体を螺鈿細工のようにアスファルトに張り付かせ、叶わなかった未知なる想いを、僕に見せつけ続ける、繰り返し繰り返して……。




