彼の物語はファンタジーだから。見えても、もう驚かない
始まりの歌は、決まっていた。小説、短編としての題名としてはまずまずの決まり具合かな。そんなことを思いながら、情景を思い出す。
言葉に変え、心に文字を刻む。いや、というよりも、打ち込むというほうがより正確かも。
そんな独り言でさえも文字として頭に思い描きながら、短編を書き上げようとした。
主題は、初日の朝のこと。
初めて取りかかる新しい仕事。その初勤務へのプロローグという感じかな。
では、あとは一気に気持ちを載せて題名から直観を閃かせ、出来事をパーツに分け、大きく切り取りながら物語として紡いでいく。
寒気で、目を覚ました。
暗闇に携帯を探る。
あと少しで目覚ましのベルが鳴る。
朝、5時。
ひさしぶりだ。
こんなに朝早く起きるのは。
照明をつける。
部屋は散らかり放題に散らかっている。
明日にでも片付けよう。いつも思うだけは思うんだけど、独り言をつぶやき、風呂に入ろうと壁に埋め込まれたスイッチを押すと44度にセットされた湯沸かし器が軽快な音を心にこだまさせた。
風呂から上がると、心細い時間が来ていた。
やばい、やばい、道順もわからないし、初日から遅刻するわけにもいかない。
あわてている。
けど、心は落ち着いていた。
なんとか準備を整えてエアコンのスイッチを除湿に変えた。
ボタンを押す時に気づいた。
エアコンをつけっぱなしで寝ていた。
設定温度26度では震えもくるはずだ。
で、その後はどうやって描いたんだったっけ……。
ふと、小説として描いた学校警備の初日のことを想い、文章で心に象ってみたが続きを想い出せなくなっていた。それよりも気になることがどうしても象りを歪めていく、羽、翼、これまで彼を見たのは……。
「なぜあの子は見えたのかな。それとも、見えたのではなく、見せたのか……」
彼は赤い瞳で見据え、微かに顔を上げた。
視線が重なると同時に緩やかに吸い込んでいた、揺れるような吸気を止め、激しく息を吐き切る。
同時に、力なく垂らしていた右腕を微笑した右頬を手の甲で叩くように跳ね上げ、見つめた頬に触れる感触を感じた瞬く間、手首を旋転させ左頬を手のひらで叩き、頬を撫ぜつつ身を沈ませ、首を撫で切った。
空気を裂く音が響き、彼の姿は鏡から消えた……。
勢いをうしない力なく垂れた腕に、激しく当たった感覚が残る。
指先が細かく震えていた。
急激に毛細血管を流れ、先端で行き場をうしなった血が神経を刺激し、重い痛みを響かせている。
壊すための動きを体がなぞる時、火花が散るように脳裏に得体の知れないものが見えては、消えていく……。
「君が教えたんだ、右の頬を打たれたら左の頬を出せと。でも人は愚かだから……あの時も裏切られ、わかっていたさ、わかっていても痛いんだ剣で切られるのも、あれで貫かれるのも……わかるか、心を穿たれ、また、生まれ変わる気持ちが…」
僕は守るさ、大嫌いな……明日を……。
心でつぶやいていたら、風呂場の外から携帯電話のアラームが聞こえた。
洗面台の時計を見る。
選択の余地は無くなっていた。