八と九が知であることも……。
あなたは知っているようにあなたの思考には人としての限りが薄い。
人という限りが濃い人には、自然の力は大き過ぎて見えない。
数の力は、正確に言い直せば、正確に計算する力は、人に限り通じ、作用する。
ということに気づくと天という限りはどこに限りがあるのかに感ずく、感が悪いと数の力が作用する限りを変えることは出来ない。
数の力から力の形を変えるために必要なのは音と形。
数の力の形である十を音を通じさせ、形を変えると十は獣となり音を通じさせて形に数の力を作用させ形を変えた。
次は変わった意味の力を数の音の力を通じさせ、形の力を変えて意味の力を通じ作用させる。つまり、獣とは数の力である計算が通じない、作用しない数の限りの外の力。
と言ってもあなたにはわからないと思うので一例を上げると一は位置の力を持つ。
それは質量という力から通じ作用する物と事の場となる。
そこに獣という生きている物がいる。
ではその位置である場となる地とそこに通じ作用する力とは何か、それは、生きる力。
つまり獣とは生きる力で位置を通じ作用させる。
では、この限りの力で作用する一と十を通じ作用する力とはなにか、それは勘。
この限りの力を人が通じ作用させるために数の力の音を通じ作用させると、四は死、七は死地となる。
では、獣の力に逆らうにはどうすればいいのか。
そのためには数の力で作用させる。
と、勘を感にして死地を質に変え、死を矢に変える。
すると獣は縱となり糸に従い矢が飛ぶには弓がいることに気づく。
糸は四、矢も四でも、矢は八にもなる。
弓は九。
つまり人は獣の限りを道具という物に通じ、作用させる力で、限りの向こうに通じ作用させる力とした。
作用が左用で、左を用いることが手を巧みに用いることで、その巧みさの差が作用するかどうかの限りであることは、感が作用するなら通じる。
あなたには言わなくても八と九が知であることも……。




