六章 今日の陽にさよならを
朝日の温もりが部屋を包み、露の冷気が消えきらぬころ。ギュスタレイドのベッドに顔を伏して寝息を立てていたチェスカニーテは、誰かが自分の髪を撫でるのに気付いて目を覚ました。
顔を上げたそこには、まだ全快せぬ薄蒼の肌に重そうな瞼を僅かに開き、自分の方に優しい眼差しを向けるギュスタレイドの姿があった。彼はベッドの上に投げ出された左の指先を小さく動かして、自分の傍に在り続けた妻の労をねぎらうように髪を撫でている。
「あなた」
驚いたように、それでいてすぐには言葉に変換されない喜びの感情を満面に湛えて、チェスカニーテはギュスタレイドの手を握りしめた。
ギュスタレイドの乾いた唇が妻に向けて笑みをつくる。何か言葉を発しようと喉を鳴らすが、気道を抜ける空気の音だけが無為に吐き出された。
「待って。すぐには無理よ」
そう言って、チェスカニーテはサイドテーブルに置かれた飲料水のボトルを手に取り、その口を医療箱の中にあった脱脂綿で覆って逆さにした。脱脂綿が十分に水分を含んだところで彼女は水のボトルをテーブルに戻し、脱脂綿だけをギュスタレイドの口元へ運んだ。自分でものを飲む力を失っているギュスタレイドは、空気と一緒に吸い込むようにして水分を口内へ入れ、涸れた喉に馴染ませる。
ほんの少しではあるが、喉から肺にかけて軽くなるように思った。
ありがとう、と口の動きと僅かな音だけでチェスカニーテに告げると、彼女は両目に浮かんだ涙を拭いもせずに唇を震わせて頷いた。
何やら室内の異変に気付いて、マリーアンが壁際のソファで目を覚ます。それと同時に彼女は陽光のなかにドミニアス夫妻の姿を目の当たりにし、喜びの内に現状を認識した。
「ギュスタレイド様、お目覚めになられたのですね」
病人の手前、声を抑えてはいるが、口調には感極まったところが多分に含まれている。
チェスカニーテの笑顔の隣でギュスタレイドはマリーアンにも頷いて見せた。
マリーアンは両手で口を覆うようにして、沸き上がる感情を押しとどめようとする。
「ああ、本当に、本当に……!」
よかった、と言いたかったが、言葉が胸の辺りで煮詰まって昇ってこなかった。
「アシュカ様たちにも、お知らせしてきましょう!」
ようやく口をついて出た言葉がそれだった。チェスカニーテがお願い、と答えると、マリーアンは嬉しそうに部屋を後にする。
ふたりきりになって、チェスカニーテはギュスタレイドを見つめた。彼もまた自分を見つめたまま、何かを言いたそうに口元を動かしている。
チェスカニーテは耳を近づけて、ギュスタレイドの唇から漏れる囁きの吐息を集めた。
―――――――― ただいま。
確かに、彼はそう言った。どこから帰ってきたのかチェスカニーテにはわからないが、彼が戻ってきてくれたのだという実感はなぜか色濃く心の中で浮き出す。
嬉しさと愛おしさが胸を満たして、チェスカニーテはギュスタレイドに唇を重ねた。肉体を越えた潤いが、ふたりの隙間を埋めていく。
「おかえりなさい」
そう言って、彼女は生還した夫をやわらかく抱きしめた。
マリーアンからギュスタレイド覚醒の報を受けたアシュカは、そのことを心から喜んだが、まだ目覚めたばかりの万全ではない彼に余計な気を遣わせまいと、部屋を訪れるのは後回しにしひとまず庁舎の瓦礫の撤去作業を覗きに出向くことにした。
男物の服に身を包み、フードつきの聖外衣に身を包めば、ひと目には彼女とわからぬ教会関係者の出で立ちが完成する。この期に及んで身を隠すことにどれほどの意味があるかはわからないが、余計な面倒を避けるためには、周囲に溶け込む形に変装するのが一番なのだ。現に昨日はこの格好で庁舎を走り回っていたが、最期までばれることはなかった。
もっとも、あんな雨の中を一国の姫が水たまりに転びながら駆け回っているなどという、浮世離れしたことを想像した人間が居なかっただけかも知れないが。
邸を出た彼女はまず庁舎へと向かい、宮殿の周囲や火の手の広がった倉庫から新たに運び出された遺体に黙祷を捧げた後、礼拝堂へと向かった。
昨日の雨の影響か、作業は依然としてはかどっている様には見受けられなかったが、すくなくとも垣間見たそこに誰かの遺体はない。騎士団の擁する猟犬が数頭、至る所に散らばった遺体捜索のために投入されており、彼らは中庭周辺と宮廷内ではその能力を遺憾なく発揮したが、どうやら礼拝堂に鼻先が向くことは無いようであった。
煙と血の匂いに嗅覚が潰されたのでなければ、礼拝堂からは肉体の臭いは嗅ぎ取れないということなのだろう。
その事実にアッシュかは幾ばくか気が紛れはしたが、喜ぶ気にはとてもならなかった。猟犬の手伝いを借りて肉片を拾い集めるような惨状を、個人感情を交えても誰が喜び眺められるというのか。
昨日は、サッシュのことばかりが気にかかって周囲に目を向けられなかったが、いまこうして現状を立ち止まって見れば、それこそ十年前にあった姿をそのまま写し取ったかのような殺伐が広がっていた。十年前とは意味も現実も違っている庁舎であっても、そこが戦いの場になると言うことには、やはり多くの悲惨な結果がついてまわるのだ。
アシュカの目から見れば、一方的。あまりに一方的に見えた。雨に血溜まりは流され遺体は大聖堂の一画に集められたと言っても、地から沸き起こる死臭は胸を締め付ける。
かつてマリーアンと散歩した庭。いまは遺留品の捜索に警察機構の捜査員が這い蹲り、父親と語らった噴水には、遺体の身元確認に訪れた王宮警護隊員の遺族達の涙の香りが風に混じって流されてくる。
太陽は高く、空の雲は青にまばらな白を散らして清らかに流れるその下で、人々の想いだけは灰色に沈み、心模様は冷たく暗い夜の岸辺のようだ。
アシュカは宮殿の入り口が警備隊と騎士団に固められているのを見て、西側に面する鐘突塔を目指すことにした。彼女が今日、ここを訪れた理由は作業の進行状況を見るためだが、実際はもうひとつ目的があったのだ。礼拝堂にサッシュが居ないであろう事を悟った今、その目的が具体化した。サイアスなどが聞けば、やはり昨日の晩餐時のように笑い転げるだろうが、旅立つ前に別れを告げたいと思ったのだ。
鐘突塔のバルコニーに上がって周囲を見渡すと、冥讃祭の訪れを告げる日読み旗が庁舎の正門脇に立てられているのが見えた。
その日、この惨劇に家族を奪われた人々はなにを願うのか。逝ってしまった者達に、いったい何を伝えるのだろう。死者を思い出す為のこの祭りも、今年ばかりは別の顔を見せるはずだ。死を悼み、想い、そして涙に暮れるだろう。
形式化しすぎた伝統が本来の意味を取り戻すと言うことが、決して喜ばしいばかりの出来事でないことを知る。
アシュカにしてみれば国民とは家族と等しく愛すべきものであり、加えて過去の歴史においては贖罪の対象たるものなのだ。その民が悲しみに沈み、原因がやはり法王庁の歩んだ道筋にあるというのなら、もはや他人事ではないのである。
人目を忍んで、アシュカは鐘突塔の三階にある渡り廊下から宮殿の外廊下へと渡り、鍵のかかっていないドアのひとつをくぐって中へと入った。
吹き抜けになった通路には、下の階で行われている会議の声が響いている。この事態にあって、議員達は夜通しで対策と原因究明に努めていたが、真相を知る人物が不在では思うように事が運ばないのも無理はなかった。
現場と遺留品、そして生存者の証言だけでは、すべてを推測するのはどだい不可能な話しなのだ。しかし、始めにアシュカが医師や騎士達に口止めしたのが功を奏したのか、まだ追及の手がギュスタレイドに伸びてはいない。
もっとも、たとえドミニアス邸に議員や調査員が大挙して押し寄せたとしても、あの場にサイアスが居たのでは、中に踏み込むことなど適わぬことだろう。
通路を進んだアシュカは角部屋の扉を静かに開けた。議会がこの場所を占拠してから中は宮殿であった頃の装飾品が詰め込まれ、物置のように雑多な様相を呈しているが、元々は幼いアシュカの遊び場として与えられた部屋である。
その頃の名残とも言うべき幼女の肖像画が壁に掛けられたままだ。豪華な衣装に身を包み、大人びた表情で椅子に座る少女の瞳は、クリスタルブルーの透き通った冷たさを放っている。今にしてみれば、冷め切って実にかわいげのない自分の姿だ。
乱雑に家具や小物が置かれたその場所に、幼い日の自分の影が浮かんで見える。
窓から差し込む日差しの中で自分は絨毯の上に座り、隣に居る少女に本を読み聞かせて貰っている姿だ。あのころ友達と呼べる存在はマリーアン唯ひとりだった。それも彼女本人はあくまで世話係の立場を強く認識し、その枠を越えることのない架空の友人。
それでも礼儀作法という法に生き、第二法姫という名の体面を鎧のように着せられる外の世界に比べれば、この部屋は何倍も素直な自分でいられる場所だった。絨毯にそのまま腰を下ろしても叱られず、大きな声を出して笑っても白い眼を向けられることもない。
ただ、はしゃぎすぎたときは、マリーアンが静かに自分を諭すのだ。
自分でも支えきれぬほどに肥大した法姫アシュカという存在から、ほんのすこしだけ解放してくれる自由な時間が、そこにはあった。ここを出ればいつも通り、傲慢で不遜。あらゆる我が儘を周囲がすべて手を焼いてくれる怪物に逆戻り。それを嫌だとも思わず、醜い姿にも気付かないふりを続ける自分自身が、何よりも幼いアシュカの言葉なき悪夢であった。
薄く溶けるように過去の幻想は消え、部屋には静寂と残骸が残された。あの頃と比べても、マリーアンはさらに身近な存在になってくれたように思う。そして彼女以外にも、自分には親しく名を呼び合える存在が出来たのだ。
まずチェスカニーテに始まり、ギュスタレイド、サイアス、そしてサッシュ。
もう一度、自分の幼き日の肖像を見る。今はもう、こんな冷たい瞳はしていない。
鏡に映る自分の姿は、もっと生き甲斐に溢れた人の形をしているはずだ。
その肖像画の脇に、布に包まれて無造作に壁に立て掛けられた別の額縁を見つけて、彼女はそれを表向きにして布を剥ぐ。
それは、父と母の若き日の姿であった。父は十年前に死に、母は物心つく前にすでに居なかった。そのふたりの姿を合わせて今に留めるのは、もはやこうした肖像以外には無い。アシュカも彼女の姉すらも、思い出に確かな母親を持たないのだ。
父は幸せだっただろうか。人々の救いの城の頂点にありながら、十年前には悪の権化のように槍玉に挙げられた父ライザック・クレスベル・サンレスタールの人生は、幸せな時があっただろうか。そして母は。そんな法王との政略婚のすえに若くして他界した母の人生は、本当に人々が口にするほど華やかだったのだろうか。
たとえ華が咲き乱れていたとしても、そこに自分自身の生が無ければくすんでしまう。色褪せた造花に誰が美しさ見出せるというのだ。
そんなものを、幸福とは呼ばない。すくなくとも、アシュカにはそう思えない。自分が生きるのなら、第二法姫としてではなく、アシュカ・クレスベルとして生きたいのだ。そのために彼女は再び旅に出ると決めたのだから。
誰のためでもなく、ただ自分と一握りの幸せのため。そして法王庁とその中で生きた自分の過去に対して本当の決着をつけるためにだ。
だから今日、アシュカはここに来た。幼き日々の多くを過ごし、そしてひとりの少女であることが許されたこの部屋。その思い出にしばしの別れを告げるために。
静かに眼を閉じて、アシュカは天井を仰いだ。次々と思い出される日々に、懐かしい顔と過去の面影が入り交じって、胸の奥から温かい気持ちが込み上げてくる。
祈るように、願うように、アシュカは自分の胸の前で手を組んだ。
どうか、行く道をお守り下さい。
現世にある誰かにでは無く、想い向かう先への祈りだった。いつ帰るか知れぬ旅路へ、自らの足で死の隣まで歩く事への。
恐れはある。このままで居たいという欲求も、もちろん心に渦巻いているのだ。でも、それでも彼のもとへ行きたい。彼がどこかで道に迷い、あるいは疲れ果てているのなら一刻も早く助けたい。そしてそれと同じだけ、自分の弱さを支えて欲しいのだ。
切なさや、恋しさに胸を焼く日々に暮れたくない。
アシュカは目を開き、今一度部屋を眺め渡してから扉へと向かう。
振り返り、もう戻ることの出来ない場所に置き去りにした未練に彼女は言った。
行って来ます、と。
アシュカと同じく、ギュスタレイド覚醒の知らせを受けたサイアスだったが、やはりすぐに話しに出向くのは避け、しばらく時間をおくことにした。
できればもう少し安定し、病院に搬送できる準備が整ってからにしたい。なんにせよこの邸で緊急処置をせねばならぬほど重篤な状態から覚醒したばかりなのだ。いまは時間を図るのが道理というものだろう。
さて、空いた時間を何に費やすかと考える。アシュカは旅支度をすでに昨晩のうちに完了させた様子だし、自分は着の身着のままで、いつでも出立できる。
持て余していたところでサイアスは昨夕 訪ねてきた女性のことを思いだした。
エーシュだ。今日、マルスの葬儀をやるというので、わざわざ自分の居場所を調べてそのことを知らせに来たのである。
たしか、場所を記した紙を渡されたはずだ。受け取ったそれをコートのポケットに。
すぐにコートを手にとって、両側のポケットをさばくってみた。
指先に触れるものがあり、サイアスはしわくちゃになった紙切れを取り出す。
紙には詳細とはいえないが、要点を押さえた略図が記されていた。記憶と照らし合わせると、葬儀の会場は間違いなく裏町の一角、それも『公園』と称される、いわばならず者の集会場のような場所だ。
どうして、そんな場所をおさえる必要があったのか、そもそも参列者が大人数になるとは思えないマルスの葬儀で自宅以上に広いスペースなど使うはずもないのに。
違和感は拭えず、疑問の答えは出向くことにしかないと知った。
サイアスはコートを羽織り、紙切れを内ポケットに押し込んで部屋を出た。階段を下りると、丁度マリーアンと出くわす。
「サイアス様、お出かけですか?」
訊かれて、サイアスは頷いた。
「ああ、昨日女が来ただろう。葬式に顔を出してくる」
「そうですか。それが、よろしいかと存じます」
何が嬉しいのかわからないが、マリーアンは微笑んで頷き返してきた。そしてすぐにあることに気付いて、あっと声をあげて口元に手を添える。
「喪服のようなものをご用意した方がよろしかったですわね。少し待って頂けましたらなにか探して参りますが」
何を言い出すかと思えば。
「必要ねぇ。そんな堅苦しい場所じゃねぇよ」
裏町の公園だ。正装していけば笑われることはあっても、畏まられる事など無い。
「それに、俺はもう別れはすんでる。暇つぶしさ」
嘘偽りなく本音だった。死者を弔いに出向くわけではないのだ。
「そうですか」
マリーアンの表情がどこか寂しそうな色を浮かべた。サイアスはそれに気付かぬ風を装って、何気なく話題を切り替える。
「そうだ、ひとつ頼まれちゃくれねぇか?」
「なんでしょう」
頼み事とはいったい何だろうか。言葉を待つ彼女にサイアスは親指で二階を指しながら言った。
「ギュスターのやつがもう少し落ち着いたら、病院に移すことになる。頃合いを見て、その手配をしてくれ。ただし実際に移すのは俺が話しをしてからだ」
つまり容態が安定したら話しがしたい。それが済み次第、病院に搬送してくれということか。深く事情を追求せずマリーアンは頷いた。
「わかりました。わたくしもチェスカニーテ様の負担が和らぎましたら、邸に戻らねばならない身ですので、あとの始末はつけさせて頂きます」
アシュカの邸をもう丸一日空にしてしまったのだ。ギュスタレイドが病院で看護を受けるようになればチェスカニーテは休息できるし、自分も邸に戻ることが出来る。
べつにここに居ることに彼女自身は何の苦情はないしチェスカニーテも心配だが、本来の居るべき場所を離れていることを周囲が許してくれないと思うのだ。
「それじゃあ、頼んだぜ」
軽く彼女の肩を叩いて、サイアスは玄関から外へと出ていった。彼女は一瞬だけ触れた彼の温もりを大事にするように、自分の肩に手を当ててしばらく立ちつくしていた。
ドミニアス邸を出たサイアスは、真っ直ぐに地図に書かれた場所へと向かう。
橋を越え、繁華街から裏町へ。路地へと足を踏み入れたとき、ひとつ気になることがあった。音楽が聞こえたのだ。
呻き声や喧騒の代わりに、笛や打楽器の奏でる軽やかで楽しげな音楽が。
その音に誘われるようにして、サイアスは公園へと歩を進めた。
崩れかけた建物がひしめく路地を抜け、汚水の滲む土を踏み越えた先に視界を解放する開けた空間が顕れる。
八方から排水路が結びつく浄化槽。現在は閉鎖されている干上がった擂り鉢状の堀の底に、予想だにしなかった人の群が波打っていた。
ある者は歌い、ある者は踊り、音楽と笑いと歓声がそこにある。
柵を乗り越えて、サイアスは坂を滑り降りて堀の底に降り立った。
まるでカーニバルのような熱気があたりを包み、そこかしこのテーブルに並べられた酒と料理の匂いが空気の密度を濃くしている。
――――――― これが、マルスの葬式。
横隔膜を震わせるようにして、ふつふつと笑いが込み上げてきた。
まるで宴会だ。そうか、これがあいつを送り出す最期か。
声を殺して笑っていると、サイアスにひとりの女性が近づいて声を掛けた。
「来て下さったんですね?」
見れば、それはマルスと恋をしていた女性エーシュ。この葬儀の喪主だ。
「まあ、暇つぶしにな。それにしても」
そう言って、サイアスは辺りに目を向ける。
「これだけの人間を、どうやって集めたんだ?」
マルスの為だけにこれだけの人間が集まるとは到底 思えない。友達が欲しければ犬を飼え。彼はそんな生き方をしてきたのだから。
サイアスの言葉を聞いたエーシュは、くすっと笑ってから、悪ふざけをした子供のように舌をぺろりとだした。
「料理とお酒、タダで振る舞うって言ったんです。でも、この方が賑やかでいいでしょ?」
そういうことか。サイアスは彼女につられて口元を緩ませる。
――――――― 辛気くせぇのは嫌いなヤツだったからな。せいぜい楽しく送ってやれ。
自分の口から出た言葉が、こんな形で実現しようとは思ってもみなかった。
「やるじゃねぇか。まさかこう来るとはな」
笑いを堪えられずに、サイアスは爽快そうに声をあげた。
「これが、あたしに出来るせめてもの事ですから」
そう言ったエーシュの顔には、大切な者を失った憂いと、この熱気に身を浸している興奮とが同居している。
改めて、彼女は自分が呼び集めた人々に目を向けた。これが自分が笑顔でいるために、マルスを忘れず、そしてその死を乗り越えて生きるために出来る唯一のことだ。
人々の歓喜を縫って、ふたりに近づく影があった。
「あら。そいつも結局 来たんだ」
赤毛で実に涼しげな軽装に身を包んだ女性が、料理の皿と酒のボトルを両手に持っている。確かエーシュの同業者で、名前をフェムアと言ったか。
「フェムア、今日はありがとうね。料理もお酒も、この場所もあなたの協力がなかったら揃わなかったから」
感謝するエーシュの言葉に、フェムアはすこしくすぐったそうな顔になった。
「なぁに言ってるんだい。金さえあればね、ここじゃ手に入らないものなんてないのさ。べつにあたしの力じゃないよ」
言いながら彼女は傍らにあった椅子を取って腰を下ろし、膝の上に皿を置いて軽食を摘んで口に運んだ。エーシュは取りそろえられた料理を覗き込み、楽しげに言う。
「それじゃあ、喪主として味見をしとこうかなぁ」
皿に伸ばした彼女の手を、フェムアがぴしゃりと叩いた。すぐさま手を引っ込めて、エーシュは口を尖らした。
「痛いっ。もう、どうして叩くの」
その言葉に、酒のボトルを握る手で指さして、フェムアはしれっとした顔で言う。
「財布はあんたでも、今日のあたしは『客』なのよ。欲しかったら自分で取って来な」
何たる言い草。サイアスが呆れ顔でフェムアを見下ろす。
「ケチくせぇ女だな。どうせタダ飯のくせによ」
言われた彼女は、ムッとサイアスを睨み上げて言った。
「あのね、タダで食べられるからこそ戦争なんだよ。あたしみたいな貧乏人はこういうときに栄養つけとかないといけないんだからさ」
人の葬式でなにを言っているのやら。だが、サイアスには何となくこれが彼女なりの気遣いなのだろうと不思議と感じた。
「それじゃあ、あたしも何か取ってきます。サイアスさんは、何か要りますか?」
エーシュに訊かれたサイアスは、酒を、と適当に答えた。エーシュがその場を去って、サイアスはフェムアとふたりになる。それを見計らったようにフェムアが口を開いた。
「どうだい、この葬式。あんたの言った通りになったろう?」
「ああ、どうやらそうらしいな。無駄金を掛けたもんだ」
気持ち云々を言うよりも、フェムア相手には金銭的な見地でものを話す方がリアルだ。無駄金を掛けた、その言葉の本当の意味は、それこそあれこれと手配したフェムアの方が、傍目に見ているサイアスよりも身をもって理解しているだろう。
「まったく、バカな娘だよ。あんたがくれた金から自分の借金を返したら、残りは全部このお祭り騒ぎにつぎ込んじまったんだから」
半ば笑うように言って、フェムアが周囲の楽しげな『他人達』を見やった。
「だけどまあ、それがあの娘にとって一番のけじめだったんなら仕方ないわね」
「これが、けじめだと?」
サイアスが訊いた。フェムアにはサイアスが感じている疑問がよくわかる。
「あんたもおかしいって思うだろう? でもね、あの娘がしたかったのは、あんたから貰った金で自分の人生を買うことじゃないんだよ。そりゃあ、借金が消えて仕切り直しにはなったけどさ、エーシュは自分の道を選べる場所に戻ることに決めたんだ」
自分の道を選べる場所。つまりは今を思い出にして先へと進むことか。
「なるほどな。まあ、それもいいさ」
サイアスは静かに微笑んだ。そして自分が見た、奇妙な夢のことを思い出す。
―――――――― マルス、おまえの言ってたことも、どうやら本当になりそうだぜ。
自分の言葉が実現したように、おそらくマルスが『悔しい』と言った言葉もその通りになっていくのだろう。だが、それがエーシュ自身が生きて行くことであるのは間違いないし、彼女の心に永遠たり得る者が存在したとしても、それがマルスであったかどうかは彼が死んだ今となっては、誰にもわからないことなのだ。
それこそ選ぶのはエーシュ自身であり、それが彼女のためでもある。
「見かけによらず強い娘だよ。あたしなんか、とても真似できないね。乗り越えて行こうって腹を据えるにしても、こんなに早くは」
酒のボトルに直接 口を付けながらフェムアが寂しそうに笑った。彼女には、彼女なりに思うところがあったのだろうか。あるいは自分の人生と今回のエーシュのことが、どこかで重なって見えているのかも知れない。
「それはそうと、おまえさんには、もっとマシな服を買えと言ったはずだぜ」
フェムアの口振りはその事に触れて欲しいかのように、聞く者に思わせぶりだったが、サイアスはあえてそこを避けて話題を変えた。サイアスが自分のことに触れてこないと知って、フェムアはどことなく残念そうで、それで居てホッとしたような顔になる。
すぐにいつも通りの表情に立ち直って、彼女は胸を張るようにして言った。
「いいのさ。どんな格好だろうと、これが『あたし』なんだ。だからそれをあんたに、とやかく言われたくはないね」
当人がそれでいいのなら、それ以上なにも言う気は無いが、これが彼女か。たしかに裏町で女性がひとりで生きていくとなれば、それくらいのプライドは必要だろう。
傍から見ればどんなに屈辱的な人生だろうと、逃げずに真っ直ぐ。
まさにそれが自分なのだと胸を張る、それくらいの気持ちは必要だ。
「そいつがあんたか。そりゃまあ随分と薄っぺらで味気ねぇな」
サイアスが、わざとフェムアの服装と台詞を皮肉って言った。真面目なことを言ったぶんだけ、こうして返されたときの彼女の気恥ずかしさは声にならないものがある。
「バカっ! そういうことを言ってんじゃない。まったく言ってるこっちが恥ずかしい」
顔を紅くして、フェムアはこんなことなら真面目なことなど口にするんじゃなかったと後悔した。丁度そのとき、サイアスの分の酒と料理を持ったエーシュが戻ってくる。
「どうしたの、何の話し?」
サイアスに酒のボトルを差し出しながら、彼女はフェムアの紅い顔を覗き込んだ。
「こいつの人生は薄っぺらいって話しさ」
軽く言い流したサイアスに、エーシュはきょとんと彼を見つめ、フェムアは怒る。
「だから、そういう意味じゃないっ!」
いいからいいから、とサイアスは笑い飛ばして、酒を片手にふたりに背を向けた。
「あ、あの」
言い縋るエーシュを肩越しに見て、サイアスが立ち止まった。呼び止めたエーシュは続ける言葉に迷って視線を逸らす。
「えっと。もう帰るんですか? もう少しマルスさんのために居てあげても」
それが友人に対する気遣いであることは、サイアスにもすぐにわかった。だがサイアスは首を振って答える。
「いや、もう十分だ」
「でもまだ顔も見てないでしょ?」
マルスの遺体のことを言っているのだろうか。しかし彼にはそれも必要ない。
「おまえさんには悪いが、あいつはそんなに見れたツラじゃないぜ。それに、別れなんてもんはとっくに済んでるんでな」
死んだとき、それを知った時にすでに別れは終わっているのだ。
「いいか?」
行ってもいいか、とサイアスが確認する。それはエーシュの言葉を煩わしく感じたからではなく、彼女が本当に訊きたいことを尋ねられずにいるのを察したからだ。
サイアスの言葉に背を押されるように、エーシュは彼の眼を真っ直ぐに見つめ返して最後の質問を口にする。
「あなたから見て、どう見えますか。これで、よかったんでしょうか」
良い所なんてどこにもない。死んだ人間のために金を湯水の如く注ぎ込み、あげくは何の関係もない人間に宴会の席を用意する。それで残された者の気持ちが晴れるというのだろうが、決して賢い金の使い方だとは言えないだろう。
しかし、それもすべてエーシュ自身が選んだこと。彼女のけじめの付け方だ。
「まあ、悪くねぇさ」
サイアスはそれだけを手向けて、背中で手を振りながら立ち去る。言葉を反芻するように俯くエーシュの肩に、フェムアが優しく手を置いて言った。
「きっとあれが精一杯なんだよ」
サイアスからすれば人にやった金をそいつがどう使おうが、もう自分には関係ない。金の価値は使う人間によって決まると言ったマルスが正しいとすれば、エーシュ自身にとって価値のある使い方をしたのならそれでいいのだ。
なにをしてもマルスは生き返らない。それが真実なのだから、ようは残された者達の問題である。エーシュが自分の為に使ったのなら、それがどんな方法だろうとけじめが付くなら他人が口を挟むことではないのだ。
ボトルから酒を飲み下しながら、サイアスは周囲を見渡す。
どこまでも続く人々の笑いと嬉しそうな姿。おかしなものだ。いくら他人と言っても、ここまで無関係にタダ飯とタダ酒を煽ることが出来るものだろうか。
もしかすると、エーシュはこれが葬式だと周囲に伝えていないのではないかと思う。マルスを送り出すのは、彼を深く知る自分と、友人のフェムア、そしてサイアスの三人で十分だと考え、あとの者達にはただ楽しく過ごして貰おうとしたのではないだろうか。
マルスという存在が大きければそれだけ、別れ際を大切にするはずだ。だから彼女は自分たちだけで彼を弔い、そして手にした『必要』を越える金を手放したのだろう。
欲が絡まないはずがない。だから、葬儀の参列者集めとかこつけて金を捨てたのだ。
エーシュの個人的な愉悦だけで終始せぬように。
考えすぎかも知れない。しかし、そう考えるのが一番自然なことのようにサイアスは思った。一度手にしかけた愛を思い出の砂に埋めるために、彼女が自分の存在以外を切り離すためにはそれが一番楽な方法なのだから。
貯水槽を出たサイアスは、眼下に広がる宴会を見ながらボトルを持った手を掲げた。
「くそったれの街と、あの女どもに」
そう言って、ボトルを逆さにして酒を地に撒いた。
この味気ない行為だけが、彼のさよならの代わりだった。
アシュカが邸に戻ったのはサイアスが帰邸したのとほぼ同時だった。
サイアスから頼まれたとおりに、マリーアンは病院で搬送の手はずを済ませており、馬車と数名の医師が邸の外で待機していた。あとは時が来るのを待つだけである。
チェスカニーテも夫が病院に移れる状態になったことを喜び安心したが、幾ばくかの心細さは感じているようだった。
サイアスとアシュカはギュスタレイドの部屋を訪れ、チェスカニーテに席を外させてこれからの話しをようやく始める機会を得た。
ベッドの上で上半身だけを起こして、蒼白いギュスタレイドはふたりを迎える。
「無事で何よりだ」
アシュカが言うと、ギュスタレイドは乾いた唇で僅かに微笑んだ。
「また、くたばり損なったか。しぶとい野郎だぜ」
サイアスの悪態も、このときばかりは励ましに聞こえる。
「チェスカニーテに席を外させて、話しというのは?」
この質問に答えたのは、サイアスだった。
「俺とアシュカは、王都を出る」
部屋に来たときの雰囲気でなんとなく予想はついていたが、唐突に言われるとさすがに対応に戸惑う。
「いきなりだな。どうやら私の知らない事情がありそうだが、順を追って話してもらえないだろうか」
そう言ったギュスタレイドに状況を説明したのはアシュカだった。彼女はあの晩のことを丁寧にひとつずつ説明し、ギュスタレイドはそれをじっと聞いていた。
敵の目的が宝物庫の『鍵』と呼ばれる指輪にあったこと、サッシュが交戦中に失踪し、敵も急に退却したこと、そして敵の人数が五人かそれ以上であることなどだ。
話し終わった後、ギュスタレイドは大きく深呼吸して話しを整理するためにしばらく黙り込んだ。それから彼はまずアシュカを見て言う。
「それで、アシュカ様はエスメライトを捜しに赴かれる、ということですか」
アシュカが頷くと、ギュスタレイドは胸中 複雑な面持ちになった。
「サイアスひとりに任せるわけにはいかないのですね?」
これにも彼女は黙って頷いた。わかりきっていたことだが、彼には受け入れがたい。だが、ギュスタレイドがどう考えようとも、彼女はすでに決めてしまっていることだ。この決意が覆らないことも彼にはわかっていた。
「わかりました。しかし、御自分の立場を理解した上でのお言葉なら、それに見合うだけの『理由』というもので世間を納得させねばなりませんよ?」
ギュスタレイドの言い分は尤もだった。好きな男を捜しに行きたい、という純真な想いだけで周囲が納得してくれるほど、アシュカは普通の女性として扱ってもらえないのが現実だ。
その事に関しては、サイアスが代わりに答える。
「仮病の件も含めてアシュカのヤツが狙われてたからだってことで押し通せ。現にこうして怪我もしてんだし、てめぇを助けに来た医者連中もそれは確認済みだ。あとは身の安全のために『ヤフィア領』で匿うってことにしろ。そうすれば、面倒な『俺』が王都に戻った理由ってヤツも護衛の一言で筋が通る」
確かに通り一辺倒の言い訳は用意できるだろうが、それを通すのは至難の業だ。
「議会の融通の利かぬ石頭どもに、随分とつつかれることになるだろうな」
苦笑いして、ギュスタレイドは我が身の哀れさを思った。
「すまない。勝手を言って」
アシュカが頭を下げるが、ギュスタレイドは優しく首を振ってみせる。
「そのようなことを言っていただくために、口にしたのではございません。議員という己が立場をこのような形でアシュカ様のお役に立てられるのなら、本望です」
この言葉でアシュカの心は幾らかは救われた。
「しかし問題はその先です。エスメライトを捜すにせよ、敵の正体を突き止めるにせよ、どこから手を着けられるのですか。当て推量ではあまりに危険ですよ」
当然の疑問だ。突如襲撃を受け、ことの詳細もわからぬ状況で旅立とうというのだ。それなりに当たりがついて居なければ性急すぎると取られても仕方がない。
ギュスタレイドの疑問に口を出したのは、サイアスだった。
「そのことは俺が話す。アシュカ、悪いがおまえも席を外しちゃくれねぇか」
「え? でもこれからのことなら、私も知っておく必要が……」
言いかけた彼女にサイアスは、しっ、しっ、と追い払うように手を動かす。
「いいんだよ。どうせこれからの難しい話しは、おまえには理解できねぇんだから」
あまりと言えばあまりな言われようだ。むくれたアシュカは何か言い返そうとしたが、サイアスが昨晩ギュスタレイドの方が詳しいと言ったことを思い出し、自分がこの場に居ない方が話しやすいのではないかと察した。
「わかった。話しが終わったら呼んでくれ」
彼女は大人しく部屋を出た。足音が消えるのを確認して、サイアスはギュスタレイドを見る。ギュスタレイドは呆れたようにサイアスに言った。
「あの言い方は、さすがに失礼極まりないぞ」
見ているこっちが情けなくなってくる。だが、サイアスはそんな彼の気持ちなどお構いなしに話しを進めた。
「いいから気にするな。それより、おまえに確認してぇことがある」
「何だ?」
改まったサイアスの表情に、ギュスタレイドのそれも自然と緊張感を帯びた。
「ヤツらはアシュカを人質に取ろうとした。とすれば当然、何かの必要性があったってことだが、そのことについて俺やおまえは蚊帳の外にいたわけだよな」
ギュスタレイドは頷く。確かに自分はあの夜アルフォンソに殺されそうになったのだ。先ほどの話しでは、サイアスも別の場所で敵と遭遇した為に戦闘になったのである。
「アシュカ様を人質に取ろうとしたのは、たんに我々の行動を制限するためだったとは考えられないか?」
「いや、そいつはねぇな。もしそうなら、俺やおまえが動き出す前にアシュカを狙う。宝物庫を襲った連中は、すくなくとも別の計画で動いてたし、王宮警護隊を壊滅させたやつだって人質を取って言うことを聞かす以前に邪魔者は排除してやがるんだから、少なくともアシュカを盾にして戦いの優位に立とうとは考えてねぇ」
確かにそうだ。サイアス、ギュスタレイド、チェスカニーテ、マリーアン。その全員が殺されそうになっている。機会があったなら敵は迷わず彼らの命を取ったはずだ。
そう考えると、サッシュがどうであったかが問題になる。果たして彼も同様に生死のやり取りをしたのだろうか。
崩れた礼拝堂からは火の手が上がっていた。敵が礼拝堂に火を放ち、それを崩した、あるいは焼かれて崩れたと考えるには無理がある。
間違いなく、アルフォンソはギュスタレイドを殺すつもりであった。またジゴヴァやミシュアと言った宝物庫を襲撃した者達は、サイアスが現れたからこそ戦ったが、そうでなければ鍵とやらを手に入れた時点で早々に引き揚げていたはずだ。現に時間を優先しサイアスに止めを刺すところまで戦いを継続しようとしなかった。
つまり火の手をあげて異変を周囲に報せる必要など、どこにもないのだ。あの炎が無ければサイアスも気付くのがいくらか遅れたはずだし、アルフォンソにしてみてもマリーアンが事件を知らせに邸に飛び込んでこなければ、より確実にギュスタレイド達を仕留められたはずなのだ。
そしてアシュカに聞くところでは、マリーアンの知らせで邸から脱出した時は、まだ炎はあがっていなかったというではないか。
つまり、外部に知られない方が有利な奇襲を掛けておきながら、炎までつけるというのはどう考えてもおかしいのだ。
そしてマリーアンの証言ではサッシュを呼びに警護隊の男が来たと言うことだが、言うなればそれもおかしいのだ。敵は圧倒的な力で王宮警護隊を壊滅させている。それなのにもっとも有利であったはずの早期の段階、まだ襲撃が外部に知れていない段階で警護隊を始末せず、サッシュが駆けつけてから後始末のように処理しているのだ。
これはジュオンがあれだけの傷を負いながら、サイアスが駆けつけたときにまだ息があったことから推測できる。サッシュが到着した後で彼らはミシュアに襲われたのだ。
鍵と呼んでいた物だけが目当てなら、全員で強襲して奪取すれば何も難しいことはない。それをサッシュとサイアスが夜警に出る前の時間を狙いながら、わざと戦力を散らして、しかも伝達に走った若造を取り逃がしているというお粗末さ。
そこに作為を感じないほど、サイアスもギュスタレイドも愚鈍ではない。
「つまり、一見陽動にも見える行動は、実はエスメライトをおびき出すための罠だったと言いたいのか?」
ギュスタレイドが確認するように訊くと、サイアスは頷いた。
「そう考えるのが自然だろう。ところが、目当てのサッシュが思わぬ反撃に出たんで、撤収せざるを得なくなったって所だろう」
「思わぬ反撃?」
聞き返したギュスタレイドに、サイアスが意外そうに言う。
「わからねぇのか。あの礼拝堂の火、つけたのは十中八九 サッシュ本人だぜ」
「な、なんだと」
ギュスタレイドが声をあげた。自分の大声が傷口に響いて、顔をしかめる。
「だが、エスメライトがどうして」
「俺達に報せるためだ。さすがに庁舎から煙が出てりゃ、俺達じゃなくても誰かが気付いて応援を寄こすと踏んだんだろう。サッシュひとりを誘き出すには伝達係を見逃せば十分だし、火が出たのはあいつが庁舎に向かってからだしな」
言われてみれば、確かにその通りだ。さらにサイアスが続ける。
「それでだ。ここからは推測だが、サッシュの思わぬ抵抗ってのは、礼拝堂を崩落させることさ」
その言葉に、ギュスタレイドは自分の耳を疑った。
「エスメライトが自分で火をつけ、自分で崩したというのか?」
「ああ。敵の目的がてめぇにあるって気付いたなら、それが一番手っ取り早い。目的である自分を消しちまえば、目的は永久に達成されねぇからな。それに考えても見ろ。どうせ捨身になるなら敵と差し違えようとするのが当然だろう。火をつけたのがサッシュなら尚更な」
サッシュは自分の身が危険にさらされているだけなら、敵に背を向けてでも生き延びようとするはず。あいつが命を賭すとすれば、それはアシュカや彼の大切に想う人間が危機に瀕したときだけだ。
既にアシュカが人質に捕られていた場合は、手の届かぬところでサッシュが命がけで抵抗しても彼女を助けられる保証はない。つまりそんな抵抗は賭けでしかないのだ。
では、サッシュのせいでアシュカに危険が迫ると知ったならどうだろうか。
「それは十分に有り得るが。滅茶苦茶な話しだな」
確かに滅茶苦茶なのだが、どうもそのことを受け入れざるを得ない状況が出来上がっているように思える。
「だが、エスメライトの遺体は出ていないのだろう?」
「ああ。運よく助かったか、その後のたれ死にしたかだな」
半分冗談だったが、いまは笑いながら聞ける心境ではない。
「彼が生きているのならなぜ戻らない。単独でいるほうが危険だとわからぬはずもあるまい」
もっともな意見だった。のたれ死にでなければ戻るのが自然だ。サイアスの言った推理も敵の目的がサッシュにあるという仮定の上に成り立っている。さらに彼自身がそれを悟ったという可能性も高いのだ。ひとりで失踪していられる状況ではない。
「だが現に戻ってねぇんだ。戻れねぇ理由があんじゃねぇか」
「戻れぬ理由?」
「ああ、ここからがアシュカに訊かれたくねぇ話し。敵がサッシュを利用するとすれば何をだ? 顔も頭も悪くて背格好も普通。筋力も特別あるわけでもなけりゃ、てめぇの女のところで居候させて貰うほど経済力も生活力も欠けたあのハナ垂れを、だ。利用するとなれば、よっぽどの勇気か理由がいるだろう」
酷い言われようだ。さすがにサッシュを気の毒に思いながらもギュスタレイドはひとまず頷いた。さもないと話しが前に進まない。
「その理由で一番考えられることと言えば、もうわかるよな?」
「エスメライトの能力か……」
ギュスタレイドの表情が苦草をはんだように強ばった。
「その通り。あいつのリヴァイヴ能力ってヤツを利用するのが道理だ。それで何をするかまではわからねぇが、それ以外に利用価値なんてねぇもんな」
「だがそれが、どうしてアシュカ様に訊かれてはまずいんだ?」
いまいち理解できずに、ギュスタレイドが聞き返す。
「おいおい、問題は敵の連中がどこからそれを知ったかなんだよ。サッシュのやつは十年前の魔導師との戦い以降、あの力を公の場所じゃ晒してねぇし、異能を知られるとまずいってんで、あの能力のことは出来るだけ外部に漏れねぇようにしてきた」
それはギュスタレイドが誰よりも知っていた。その辺りの根回しは彼が動いたのだし、サザンクロス軍と共同で王都に攻め上ったときも、サッシュには出来るだけ人目に付かぬようにリヴァイヴを使えと指示もした。そのおかげで事件の事後調査でも、当時まだ十四才のサッシュがどうして一流の騎士と渡り合えたかは謎のままなのだ。
「今さら漏れるとしたら、べつの角度からだろうさ。たとえばあいつの能力を調べたアカデミーの学者どもとかな」
解体前のアカデミーでサッシュの能力は研究対象となった。そのためにリヴァイヴが過去のエネルギーを操る能力であることや、それがレスタスの聖石によってもたらされたこと、効果の特性についてもある程度のことまで解明されたのだ。つまりリヴァイヴについて知っているのは、サッシュ本人以外ならその学者達と言うことになる。
「だが彼らは事件のとき、その殆どが魔導師に報復を受けて殺されているぞ」
そうだ。アカデミーに怨恨をもつトゥエルヴの手に掛かって、眠れる城の事件で生き残った多くの学者が更に殺されたのである。
「殆どってことは、生きてるヤツもいるはずだろう?」
サイアスが訊いた。十年前に事件の調査に奔走したギュスタレイドの方が自分よりもその辺の事情には詳しいはずだ。当時を思い起こしながらギュスタレイドは言う。
「しかし生き残っている者も、自分がアカデミーに関わっていた事を口外して身を危険にさらすような真似をするとは思えない。人里から隔離されて半ば軟禁されているような状態だからな」
生き残った者達にも、非道を行った報いが枷として繋がれたのは言うまでもない。
極刑になった者も含め、トゥエルヴ以外の手によっても裁きは下された。
「……いや、だが待てよ」
ギュスタレイドの脳裏に、当時自分が感じた不自然さが甦る。
「ひとり、確認の取れなかった男が居る」
死亡証明の書巻が届いただけで、本人の遺体は確認が出来なかった研究員がいたことを思い出した。あれは確か、特殊な事情が絡んだ人物だったはずだ。
「誰だか思い出せるか?」
サイアスが身を乗り出すと、ギュスタレイドは必死に記憶の奥からその人物に関わる情報を取り出そうとする。
「当時、外国から招待されていた学者だ。神々の標本や魔導の研究には携わっていなかったので、それほど重要視はしていなかった。エスメライトの能力についての報告書を書き残して帰国したあと、事故死したということだったが」
送られてきた死亡証明には、確かにそのように記されていた。
「遺体の確認は取れていない」
アカデミーに関するあらゆる資料や研究は、ギュスタレイドを初めとするごく少数の人間の手によって抹消された。もちろんサッシュの能力についての論文や研究資料もすべてその対象になり、もう何ひとつとして残ってはいない。当時の研究者達も、生涯を護衛という名の監視のもとで管理されて生活することを余儀なくされているのだが、研究に携わった人間が目の届かぬ国外にいるとなると話しは変わってくる。
ギュスタレイドはその男の死亡証明に書かれていた内容を元に記憶を巻き戻す。
「招かれたのは時間に関する研究で有名な学者だ。アカデミーがどうのような理由で、そうした人材を必要としたかまではわからぬがな」
暴走したアカデミーは貪欲に知を食い荒らした。半ば強引に外国から学者を引き込み、研究の手伝いをさせようとしていたのだ。それがちょうど眠れる城での蜂起と重なったため、実質的には事件の終結からアカデミーの解体までの短い期間を王都の学院で過ごしただけであったが。
更に記憶の深い部分に光を当て、ギュスタレイドは何とか求める場所に到達した。
「……名前はたしか『ネシュナ・エラジュ・オードレーン』といったはずだ」
ミドルネームにある『エラジュ』という言葉に、サイアスはすぐに反応した。
「シェルサイドの人間か」
思った通りだ。エラジュとはシェルサイド語で『知識』を意味する言葉で、国に認められた科学者や哲学者に与えられる称号である。
そしてシェルサイドが関係するとなれば、間違いなく神々の標本と結びつく。
「ああ、だから遺体の確認を強く要求できなかったのだ。シェルサイドとは友好条約を結んでいる間柄なのでな。当時の議会は関係を悪化させるようなことは避けた」
国内の混乱で国際的な立場まで崩すわけにはいかない。そういう判断はいかにも事後処理を踏み台に権力を得たい議会の考えそうなことだ。
「それに先ほども言ったが、オードレーンはアカデミーの暗部には殆ど関わっていない人物だ。シェルサイドから送られてきた書巻も公式なものだったので、納得するしかなかった」
納得という言葉を使ったギュスタレイド本人が、一番それから遠い心境だったのは言うまでもない。
「しかし、厄介なことに生きてたと考えるのが自然だぜ」
サイアスが苦い顔になって腕を組んだ。
「生きていたとするなら、報告書には書かれていない何かしらの成果をシェルサイドに持ち帰ったと考えるべきだろうな。そうでなければシェルサイド政府が学者ひとりを虚偽の証書まで用意して匿いはしまい」
その通りだ。これはもはやシェルサイド自体が関与していると判断すべきだろう。
「オードレーンが国に帰るのを、止められなかったのか?」
サイアスの疑問に、ギュスタレイドは悔しそうな面持ちで答える。
「当時の状況を考えてもみろ。王都は混乱状態で、組織的な管理が行き届かない状況。それに加えてアカデミーは組織その物の解体が決定して学者たちはその罪を問われる立場になっていた。だが、招待された立場の人物をこちらの都合だけで裁きにかければ外交問題になる。研究の破棄を条件に国外退去させる以外に方法はなかったのさ」
当時は疑惑を色濃く残したまま、外交の壁に阻まれて諦めざるを得なかった。
彼の言葉の通り、あの混迷の時期を顧みればある意味では仕方のないことだったのかもしれない。しかし、そのことが今になってまるでタチの悪い傷跡のように時間をかけて化膿した結果が、確実に自分たちに跳ね返ってきているのだ。
深く溜息をつくように吐き出してサイアスが前髪を掻き上げた。
「事のずさんさに呆れてものも言えねぇが、これでひとつわかったな。シェルサイドと神々の標本を結びつけるのは、そのオードレーンってやつに間違いねぇ」
口にはしなかったが、ギュスタレイドの見解もまったく同じであった。
アルフォンソがシェルサイドで能力を振るったのは、ひとつは寄せ餌のように不穏な空気をばらまいて、いざ襲撃をかけるまでの下準備を整えるため。そしてもうひとつは、おそらくオードレーン本人あるいは彼の残したサッシュに関する研究成果をシェルサイド政府から手に入れるための脅迫。
叛乱軍に手を貸していたというのも、所在の知れぬ研究成果を入手するために政府と交渉する足がかりを得るためだったと考えるのが妥当だ。
「だが確認を取ることは不可能だぞ。いくらこちらから働きかけても、シェルサイド政府がそのことを認めるはずがない」
ギュスタレイドが言うと、サイアスは笑いながら首を振った。
「確認する必要なんざねぇさ。これだけ当たりがついてりゃ、あとはこっちからで向いて調べれば済む。当面の目的地はシェルサイドで決まりだな」
これで、アシュカに聞かせたくない話は終わった。
アカデミーやレスタスの聖石にまつわることまで、いまの彼女は知らないほうがいい。ただサッシュを案じて彼のために旅をするのだとしておいたほうが、彼女に余計な負荷を掛けずに済むからだ。何もかも同時に背負い込めるほど、アシュカの背中は広くはない。
「それとギュスター、おまえ法王庁の宝物庫に何が納められてたか知ってるか?」
思い出したように話題を切り替えたサイアスに、ギュスタレイドは思案するように視線を持ち上げた。
「大まかなことは。 なんだ?」
「庁舎を襲った連中が宝物庫から盗み出した指輪を『鍵』と呼んでいた。 心当たりねぇか?」
鍵、そのように例えられるものが宝物庫にあっただろうか。
「記憶にないな。 だが、宝物庫に納められた品はすべて台帳に記されている。 それを確認できれば……」
なるほど、台帳があるなら目を通すべきだ。
「その台帳ってのはどこにある」
「以前は法王庁の財務官が管理していたが、議会に財産を差し押さえられたときに移されたな」
「宝物庫は今も法王庁の管理だろう? なら魔法書庫にあるんじゃねぇのか」
正確にはアシュカ・クレスベルの管理、である。
「法王に品々が献上されなくなった今では不要なものだからな。 とはいえ宝物庫にある品々は歴史的に価値のあるものばかりだ。 アルティアの博物館が歴史研究のために保管しているはずだ」
アルティアといえば、ヤフィアに向かう途中にある街だ。
「ちょうどいい、ついでに寄るとするか」
「出発はいつだ?」
ギュスタレイドが尋ねると、サイアスは僅かに思案したように間をおいて答えた。
「今日の夕方には王都を離れる」
「明日まで待てないのか?」
なにもそこまで急ぐことはない、ギュスタレイドの眼はそう言っていたが、サイアスは首を振ってみせる。
「先に延ばしても、意味はねぇさ。なにかをするのに『いい時』なんてありゃしねぇ。時間をおいても、その分を無駄にするだけだ」
そう言いながらサイアスが立ち上がって、ギュスタレイドを見下ろした。
「まあ、おまえはしばらく病院に居ろよ。医者には面会謝絶にしろと言っておくから、議会の追求まである程度は時間稼ぎができる。その間にベッドの中でゆっくりと言い訳でも考えるんだな」
アシュカとサイアス、そしてサッシュという重大な人物が忽然と消えた後で、事件についての審問に出なければならぬ事を思い出したギュスタレイドは、どっと疲労が全身にのし掛かってくるのを感じた。
「できれば、このまま死んだことにでもしてもらいたいものだ」
タチの悪い冗談だったが半分は本音だったかも知れない。
「まあ、女房から解放されて骨休めするこった」
笑って受け流すサイアスにギュスタレイドはまじめな顔になって言った。
「こちらの始末がつき次第、私も貴様の後を追うぞ」
「だめだ」
決意を顕わにした彼にサイアスは即答した。見ればサイアスの表情もいつになく真剣みをおびたものになっている。彼はギュスタレイドをじっと見つめて静かに言った。
「おまえ、チェシーから聞いてるか?」
その言葉にギュスタレイドは、やはり、と思った。サイアスが自分にだめだと言った理由は、それしかないとわかっていたから。
「彼女からは聞いていないが、知っている。だが、こんな時にそのようなことを」
言っている場合ではない、と言おうとしたときサイアスがそれを遮って声をあげる。
「こんなときだからだ。てめぇにはわからねぇのか。いまのてめぇは国のゴタゴタ如きに関わってるほど暇じゃねぇだろうが」
サイアスの言葉にギュスタレイドは喉を詰まらせた。これほど重大なリンサイアの問題、いや自分たちの過去に関わる問題ですら、サイアスに言わせれば『如き』なのか。
それこそ暇な人間だけが関わろうとする、それ如きの話し。
事実サイアスはそう思っている。新しい命が産まれるのだ。ひとりの男が父親に、ひとりの女が母親になろうとしているのだ。これほど重大な人生の転機にあって過去の因縁などに縛られて、あるいはかこつけて余所見をすることなど愚行以外の何ものでもない。ギュスタレイドには未来に進むべき責任、彼が守るべき幸せと道があるのに、血なまぐさい世迷い言に付き合う必要などないのだ。
そんなことは、何も持たない自分に任せておけばいい。どうせ自分には他にやることもないのだ。だから、任せておけばいい。
言葉にはしないが、それが確かにサイアスの想いだった。
「なあギュスター、おまえはチェシーとガキの為に出来ることをやれ。国を救うだの、過去にケリをつけるだの、そんなことよりもっとデカイ仕事がおまえにはある」
思いがけず、温かみのあるサイアスの言葉。驚きと、少しの頷きがギュスタレイドのなかに生まれた。彼が納得しているのを見てサイアスはいつものように笑う。
「それに、てめぇが来ても足手まといだからな」
「ふっ、言ってくれる。だがサイアス、アシュカ様の事だけはくれぐれも頼むぞ」
自分の事は完結させて、ギュスタレイドは姫君のことを想った。
サイアスは自信たっぷりに胸を反らして答える。
「おいおい、俺を誰だと思ってやがる。あんな小娘ひとり、頼まれるまでもねぇ」
安心させるつもりか、それとも本音なのか。どちらにしても引き受けてくれたことに間違いはなさそうだ。
「では、病院へ向かおうか。すまんがまだ立てそうにないのだが」
ギュスタレイドが言うと、サイアスが頷いて言う。
「ああ、すぐに医者どもに担架で運ばせる」
部屋を出ようとする彼を、ギュスタレイドが呼び止めた。
「サイアス、ひとつ頼みがある」
「なんだ?」
ギュスタレイドが自分に頼みごととは。
「チェスカニーテを、しばらくマリーアンに預けられないだろうか。彼女がこちらの邸に留まることは難しいだろうが、私の雇っている家政婦を呼び戻すまでの間だけ、アシュカ様の邸に置いてやりたいのだ」
言いたいことは十分に理解できたし、予想し得る範囲の事だったが、ひとつだけサイアスには腑に落ちない事があった。
「あのな、そんなことは直接あの女に言えばいいだろう。なんでいちいち、俺の口から言わなきゃならねぇんだよ」
銀髪を掻きむしりながらサイアスが不機嫌に言う。サイアスが世話をするわけでないのだから、彼が許可を出したところでマリーアンが何というかはわからぬのに。
「そうか、そうだな。すまなかった」
話しが終わったのでサイアスは出て行った。謝りはしたが、ギュスタレイドにすればやはりサイアス伝いに彼女に頼むことが自然な成り行きに思えてしまうのだ。
ようやく出番の来た医者達がギュスタレイドを馬車に運び込んでいる間、サイアスはアシュカとマリーアンを呼び、チェスカニーテを交えてギュスタレイドに頼まれたことを話していた。アシュカもマリーアンも快く引き受け、チェスカニーテ自身も昼間は病院で夫に付き添うとしても、夜は邸にひとりで居るのは心細いらしく、荒らされた食堂が修繕され、カナベルという家政婦が戻るまでの間はアシュカの邸に行くことを了承した。
ひとまずチェスカニーテはギュスタレイドに付き添って病院行きの馬車へと乗り込んだ。彼女が戻るまでの間に、アシュカが代わりにチェスカニーテの荷造りをしておく事になり、マリーアンは一足先に邸へと戻ることになった。
アシュカはマリーアンが居なくなったのを見計らって、サイアスに訊く。
「ねぇ、今日のうちには王都を出るんでしょ?」
べつに先ほどのギュスタレイドとの会話を聞いていたわけではないが、なんとなくそんな気がしていた。案の定、サイアスは頷く。
「ああ。チェシーにも話しはつけたんだ。荷造りが終わったらそのまま消えるぜ」
「待って。まだやり残したことがあるんじゃない?」
アシュカの言葉に、サイアスは心当たりが無いわけではなかったが、あえてそれとは違うところを口にした。
「どうした。気になることがあるなら、置き手紙でもしておけばいいさ」
「そうじゃなくてサイアス、あなたのことよ。あるでしょう、やり残してること」
黄金の髪を揺らして、アシュカが彼の言葉を否定する。その眼にはサイアスがあえて外したことに釘を差すような気持ちが込められていた。
―――――――― おまえさんも、随分とお節介になったもんだ。
仕方なくサイアスは二度ほど軽く頷きながら言う。
「わかったよ。で、俺はどうすればいいんだ?」
聞くまでもなくわかっていた。だが、これは間違えてはいけないことのように思えた。万が一にも、勝手な思いこみだけで動いてはいけないことのように。
アシュカはサイアスがめずらしく人に意見を求めたのを見て、彼がこの問題についてそれなりに考えていたのだとわかって嬉しかった。
そして彼女なりの言葉を彼に渡す。
「とにかく、ちゃんと話しをしてあげて。何も言われないと彼女も辛いままだし、答えはわかっているだろうけど、自分ひとりの力じゃ受け入れられないと思うから」
アシュカの言葉は、もし自分なら、という曖昧な感情を前提にしたものではあったが、あながち的はずれでもないだろう。サイアスは困ったような顔で溜息まじりに呟く。
「俺のせいじゃ、ねぇんだがな」
言ったところでどうにもならない本音だ。それを聞いたアシュカがムッとして言う。
「なに言ってるの。十分あなたのせいなのよっ! 彼女と話しをすればそれがわかるわ」
アシュカに言わせれば鈍感、サイアスに言わせれば押しつけ。だが、彼女にとってはどうなのだろうか。その答えはやはり、面と向かって言葉を交わすしか無いのだろう。
「……仕方ねぇ。行って来るか」
「私は、ここで待ってるから。なんなら出発は明日にしてもいいのよ?」
この言葉に含まれている意図は、アシュカなりの複雑な心境を表していた。彼女にすれば選べない。サイアスの気持ちがどこへ向かうべきかなど、選べはしないのだ。
それを察してサイアスは苦笑いして見せる。
「バカ言ってんじゃねぇよ。さっさと片づけて戻ってくるさ」
言いながら、彼もひとつ思っていた。 今までになく面倒な事になったものだ、いつの間にこうなったのか。
サイアスにはわからないし思い当たる節もないのだが、自然とそういう方向へ流れてしまっていたのだろう。
そう考えると、自分には理解できない心境というものがあるのだろうと思えてきた。
邸を出て、サイアスは石畳を歩く。
目指すのは言うまでもなくアシュカの邸だ。
そこに出立の時が今日だと知らぬ『彼女』が待っている。チェスカニーテとアシュカ、そしてサイアスが邸に集うのだと信じている女性が。
午後の日差しの中に、噎せ返るような夏の匂いが漂っていた。
サイアスがアシュカの邸に戻ってきたとき、マリーアンは客間の掃除に勤しんでいた。チェスカニーテを迎え入れる準備をしていたのである。ほかにもアシュカやサイアスの部屋のシーツを洗濯したり、食堂に客用の椅子を用意したりと忙しく動き回っていた。
サイアスに気付いた彼女は、洗濯物のかごを抱えた状態で無理してお辞儀をする。
「あ、お帰りなさいませ。玄関には鍵を掛けていたと思いましたが」
呼び鈴が鳴らなかったので、彼女は少しおかしく思った。
「窓が開いてたんで、そのまま上がらせてもらった」
平然とサイアスが言う。マリーアンは換気のために玄関脇の窓を開けていたことを思い出したが、面倒くさがりのサイアスにも困ったものだ。
「サイアス様、今度からはお手数でも呼び鈴を鳴らして下さいましね」
ちょっとだけ怒った顔になって彼女が言った。だがサイアスは、はぐらかすように両肩を持ち上げてみせる。
「それより、話しがあるんだが。まず、その手に持ってるものを置いてこい」
言いかけたところで、サイアスはマリーアンが洗濯かごを抱えているのを気に掛けてひとまず用件を後回しにした。
「え? は、はい」
マリーアンは言われるままに頷いて洗濯場へと足を向ける。しばらくして、彼女は何の話しかと気なる面持ちでホールへと戻ってきた。
「あの、お話とはなんでしょう。よろしければ、紅茶でもおいれしましょうか?」
ありがたい心遣いだったが、サイアスは必要ないと断る。べつにダラダラと話し込むつもりはなかった。さっさと用件を伝えて、アシュカの所へ戻らねばならないのだ。
話し始める前のサイアスの顔を見て、マリーアンは嫌な予感を覚えた。
サイアスが息を吸った。彼女には彼の一挙一動が悲しみの前兆のように思える。
「あんたも知ってることだが、アシュカと俺は王都を出る。いや、リンサイアを出ると言ったほうが正しいか。それで……」
言いかけたところで深刻なマリーアンの表情が、ぱっと明るく切り替わった。
「やっぱり、紅茶をお入れしますわ。お客様に立ち話をさせるなんて、失礼ですもの。お話は居間のほうでゆっくりと」
自分の立場にかこつけて、まるで聞きたくない彼の言葉を遮るようにマリーアンは笑顔で再度紅茶を勧める。
「いいから聞け」
サイアスはそんな彼女に逃げられぬよう引き留めた。だがマリーアンは、どうしても彼の口から『その言葉』が出るのが怖くて、わざと話題を逸らそうとする。
「そうだ。サイアス様は、お昼はまだですよね? それに、今夜はチェスカニーテ様もいらっしゃいますし、ご馳走にしようと思います。なにかご要望があれば承っておきますけど」
「聞けっ!」
怒鳴るようなサイアスの声に、マリーアンはびくっと身を震わせて彼を見る。
その眼には真剣さがあった。いつもとは違う、真剣さだ。
「……」
張り詰めた緊張を溶かすようにマリーアンが静かに息を吐く。強ばった彼女の両肩が緩やかに下がっていくのを待って、サイアスが静かに話し始めた。
「今日のうちに、王都を出る。国境を越えるつもりだが、行きさきは知らねぇほうがあんたの身のためだ。アシュカはヤフィアに身を隠してるって事で議会と話をつけることになるはずだから、おまえさんも上手く口裏を合わせてやってくれ」
一応、伝えるべきことは言い終えた。これで彼女が納得するにせよ、しないにせよ、サイアスに言えるのはこのようになりました、という事実だけだ。
マリーアンが、じっと自分を見つめている。その瞳に震えるような潤みがあった。
「今日、ですか。今日、出て行ってしまうのですか?」
確認すると言うよりも彼女の口振りは否定したがっているようだ。
「どうして、今日なのです? ギュスタレイド様もお目覚めになられたばかりですし、チェスカニーテ様の安全のこともございます。せめてもうしばらく。いいえ、あと一日だけでも……」
「もう、決めたことだ」
縋るようなマリーアンの言葉を、サイアスが断ち切った。明らかに沈み込んだ彼女の顔から目を逸らさずに、彼は続ける。
「サッシュはここにはいねぇし、敵の正体をつきとめる方法もねぇ。俺には、これ以上ここにいる理由がねぇのさ。事を先延ばしにしても、何の解決にもならねぇよ」
ここにいる理由がない。その言葉が、マリーアンの心を棘のように痛めた。
今、はっきりと悟らされてしまったからだ。もう自分が何を言ってもサイアスは決めてしまっていることは覆らない。そして、自分は彼の決意を覆すだけの理由になれないのだ。
「チェスカニーテ様やアシュカ様のためにも、日を改めて頂くわけには行きませんか。急ぐお気持ちも重々わかりますが、だからこそ慎重に」
マリーアンの言葉を、サイアスはその通りには受け取らない。
「本当に、そう思ってんのか?」
どきりとした。マリーアンは見透かされたという後ろめたさよりも、チェスカニーテやアシュカをだしにしたことに痛みを覚えさせられる。しかし彼女には罪悪感を歯止めにして引き下がれない強い想いがあった。
「わたくしがどれだけ心配したとしても、思いとどまっては下さらないのでしょうね」
マリーアン自身、この台詞はあまりに寂しい。そして彼女はサイアスに鉛のように重たい質問を投げかける。
「それともサイアス様がわたくしの気持ちに応えてくださらないのは、わたくしが、オリヴィア様ではないからですか?」
今度はサイアスが、ぴくりと表情を変えた。
「なに寝言いってやがる」
煩わしそうに彼は言ったが、マリーアンは一歩も退かずにぶつかっていく。
「いいえ、これは寝言などではございません。この場にいるのがわたくしなどではなく、オリヴィア様であったなら、サイアス様の答えは違っているのではありませんか?」
「てめぇ、それ以上ぬかすとひっぱたくぞ」
彼の胸の奥で静かに怒りが煮えているのがわかる。そして彼には、自分の怒りが彼女ではなく不甲斐ない己に対するものであることも、同時に理解できていた。
気丈に、いつもならサイアスの機嫌を損ねることを怖がるマリーアンが気丈に、彼の目を見据えたまま唇を動かす。
「わたくしは、まだ答えを教えていただいておりません」
―――――――― マリーアンが、オリヴィアでは無いからか?
答えなくてはいけないのか。なぜ自分にそんな言葉を求めるのだ。答える義務も、義理さえもサイアスには無いのに。それをわかっていて、あえて訊こうというのか。
「そんなことを知ってどうする」
否定した。質問の内容をではなく、行為そのものを。
マリーアンが息苦しそうな顔になった。正直胸が詰まって呼吸が乱れているのを自覚している。それでも彼女はサイアスに精一杯 想いを伝えようと口を開いた。
「……ずっと。わたくしはずっとここにおりました。なにかのお役に立ちたくて、振り向いて欲しくてやり切れなかった。でも、わたくしは追うわけにはいかなかったのです! そして、ようやくこうして戻られたのに、再会できたのに」
だめだ。苦しくて堪らない。背中を丸め、手を胸の前で祈るように組んだ状態で押し当て、彼女は溢れそうになる涙を見せないように俯いた。
サイアスが悪いのではない。そんなことはわかっているのに、茨が胸を締め付ける。
「なのに、何のお役にも立てず、足手まといで。このうえ、サイアス様もアシュカ様もここを出ていってしまわれたら、わたくしにはいったい何が残るというのですかっ! ご一緒することも出来ず、ただ待っているだけのわたくしにはっ!」
待っているだけ。振り向いてはもらえず、共に歩くことさえできない自分。
悲しみと虚しさの言葉を、幾つも、幾つもサイアスにぶつけた。いつしかこぼれ落ちた涙が頬を伝い、喉は涙声になって震えだす。
「……もう、嫌なのです。誰かより、自分が選ばれるべきだと、心の隅で思い続けるのは」
沈んだ声で、マリーアンが呟いた。サイアスは、黙ってその気持ちを受け取った。
わがままだ。単なるわがまま。
嫌だと言っておきながら、やはり口に出すことでそれを認めて貰おうとしている。
でも、これが最後だ。最後にするために、サイアスに答えて貰いたい。
サイアスはマリーアンを見つめていた。こんなにか弱く、折れてしまいそうな彼女を見るのは、初めてのような気がする。あるいは、自分の心境が彼女をそう見せているだけなのか。
溜息をついた。軽蔑でも呆れでもなく、意を決める呼吸。
その言葉がサイアスの口から放たれる瞬間を、マリーアンはずっと待っていたのかもしれない。彼の帰りを待ちながら、気持ちの何処かにあった認めたくない真実。
彼女が自分自身にかけた呪縛が、解き放されようとしていた。
サイアスの唇が、静かに空気に意味を乗せる。
――――――― おまえさんの気持ちには、応えられねぇ。
じくりと生傷が痛むように、心の柔らかな部分が音を立てた。しかし、この痛みこそ自分の求めてきた答えなのだと、マリーアンは理解する。
一方、サイアスは押し黙って続く一言もなかった。
彼にしてみれば、必要のない答え、意味のない言葉を使っただけなのだ。
求めたものに傷つき、恨みこそすれ感謝はない。それが何かを求められるもの、いや、与えざるを得ない立場にされてしまった者の責任。
初めから、マリーアンがオリヴィアでないからとか、オリヴィアという女が深く心に焼き付けられているからなどという問題ではないのだ。
ただマリーアンを、なんというか、世間で言うそうした対象として感じないというだけの話し。至極単純で理由など必要とされない結論だ。当たり前の答えを聞くために、わざわざ自分を傷つけるような道を選んだ彼女の気持ちが、どうしてもわからない。
実は、サイアスにはもうひとつわからないことがあった。
それは自分がどうして、そんな当たりまえの答えを口にすることに、ここまで抵抗を感じたかと言うことだ。
恨みを買うのは慣れている。感謝など欲したことはない。
それなのに、どうしてだ。
サイアスが黙っている間に、マリーアンは彼女なりに気付かれないよう注意しながら涙を拭って顔を上げた。
いつもより、すこし口元の強ばった笑顔でサイアスに言う。
「うふふっ。サイアス様、そんなに深刻そうな顔をなさらないでください。初めから、わかっていたことですもの。ちっとも……」
後ろに行くに連れて、口元が強張って声が震える。
これは浅ましいことだろうか。見苦しいことだろうか。どう思われようと構わない。だからいまは、せめて今だけは強がりを言わせて欲しかった。
「では、わたくしはまだ仕事が残っておりますので、失礼させていただきます」
深く頭を下げて、マリーアンは足早に立ち去った。足が向かった先は彼女の部屋だ。扉が閉じられ、鍵のかかる音が聞こえた。
洗濯をしてる途中の彼女が、どうしていま部屋に戻る必要があるのか。サイアスには答えがわかっていた。わかっていたからこそ、階段の中程に腰を下ろして、ただ過ぎる時を待つ。
邸を静けさが包み込んだ。部屋に戻ったマリーアンは、身体をベッドに投げ出して、枕に顔を押しつけて声を殺して泣いた。
次から次へと、冷たさと熱さを合わせ持った滴が、嗚咽と共に胸の奥底から沸き起こり、枕とシーツを濡らしてゆく。
胸が裂けそうだ。想いをぶつけたくとも、口を開けばうめき声のようなものしか出てこない。頭の中では、サイアスの言葉がぐるぐると回り、狭い室内がまるで心の牢獄のように自分を押しつぶしてきそうに思える。
泣いた。これほどまでに心が叫びをあげたのは、両親の死を看取ったとき以来だ。
玄関ホールに残されたサイアスは、階段に座ったまま高い天井を眺めていた。窓から差し込んだ光の海に、ちらちらと星が躍っている。宙に舞った埃が光を反射させているだけなのだろうが、サイアスにはそれが得も言われぬ景色に思えた。
沈黙の邸内で、マリーアンの泣き声だけが遠い記憶のように耳に届く。
―――――――― なんで泣くんだ。
そう思いつつも揺さぶられた。彼女の声が、数日の思い出を呼び覚ます。
まるで木の葉が舞い散るように、断片的な情景が流れ浮かんだ。
『まあ! わたくしの手料理の方がいいだなんて、嬉しいですわサイアス様』
彼女なりの悪戯。
『オリヴィア様は、幸せなお方ですね』
哀しい本音。
『いくら愛用なさっているものでも、たまには手入れをしなくては、だめになってしまいますよ』
『サイアス様のおっしゃりようは、デキカシーが無さすぎます』
大切なことを、教えようとする優しさ。
『わたくしは、自分の性格が気に入ってますけれど』
『その女めは感謝の言葉が聞きとうございます』
笑顔とその向こう側にあった、彼女の求める心。
『誰もが、サイアス様のように強いわけではないんです。誰かが本当に苦しいときや辛いときは、誰だって支えたい、支えて欲しいと思うんですっ!』
彼女自身にも向けられた言葉。
『お帰りを、お待ちしております』
サイアスだけに向けられた想い。
涙を流す理由が、その気持ちがすこしだけ、わかった気がした。
それでも、やはり自分は涙を流す材料を持ち合わせてはいない。 これは哀しいことだろうか。
人は出逢い、別れるもの。時は流れすぎ、忘却の彼方へ消え去るもの。想いは時には熱にかわり、過ぎ去ったあとは凍てつくもの。それが心というものだ。
サイアスにとっては当たりまえのことが、彼女やそのほか大勢の人間には、どうやら生きていく上で非常に重大なことらしい。
ただ身を任せ、あるいは足掻き、人は自分の身に起こった出来事を否定しようとする。悪いのは誰かではないのに、あえて触れるべきではない棘に手を伸ばし、傷つこうとする。
なぜ泣くか。理由はない。そうすることで、自分を納得させようとするだけだ。
その涙を黙って見守ることが優しさならば、この世に残酷なことなどあるのだろうか。
「くだらねぇ」
吐き捨てるように言ったサイアスの眼に、いつものような冷たさはなかった。
そこにあったのは、思いやりと呼べるだけの憂いの色だった。
時の流れの中では人はみな平等に臆病で、光を求めて手を伸ばすことすら躊躇う。
マリーアンが部屋から出る決心をしたのは、日が西へと傾き始めた頃だった。
彼女が重たい瞼の下でホールを見渡すと、そこには階段からこちらを見下ろす男がいる。
「……サイアス様」
まだ、いてくれたのか。彼女の胸の中に感謝の思いが浮かび上がる。
彼はゆっくりと階段を下りて、自分の方へと歩み寄ってきた。
「もういいか?」
まるで小さな子供を見守る父親のような、優しい笑顔を見せてサイアスが訊いた。
こくりと頷いて、マリーアンは背筋を伸ばして微笑む。
「まだ少しだけ、いえ、とっても未練がありますけど」
彼女の素直さに、サイアスは苦笑いさせられた。
「なに、おまえさんもすぐに気付く」
「何をですか?」
わからず聞き返すマリーアンに、サイアスは背を向けて扉に向かいながら答える。
「おまえさんが選んだ道は、望んだ道よりもずっとまともだってことにさ」
望んだ道よりまとも。そう言われてマリーアンは困ったような顔をした。
「そうでしょうか。いまはとても、そうは思えません」
「すぐにわかる。おまえさんは、なんというか、放っちゃおかれねぇツラだからな」
誉められたのだろうか。マリーアンは一応そう受け止めることにした。
「でも、わたくしにそのつもりが無ければ、話しは別でしょう?」
彼女が悪戯心で尋ねたとき、サイアスは扉を開け放って外へと向かう。
「そこまで俺が責任持てるわけがねぇだろうが」
マリーアンもサイアスの後を追って外へと出た。
ほのかにオレンジがかった空が、心地よい微風を連れてふたりを迎え入れる。
大きく背伸びをするサイアスの後で、マリーアンは太陽をみて眼を細めた。
「じゃあ、ここまでだな。元気でやれよ、マリーアン」
この言葉に、彼女はこれまでにない喜びを感じた。
「嬉しいっ。初めて名前で呼んで下さいましたね!」
「そうだったか?」
今までを思い出すように、サイアスが顔をしかめる。
「そうですよ。いつもは『おまえ』とか『おい女』とか、そんな風にしか呼んで頂いておりませんもの」
「そいつは悪いことをしたな、女」
わざとやっているサイアスの顔に、マリーアンはちょっぴり頬を膨らませた。
最後の最後まで彼は自分の想いに素直に応じてはくれないらしい。
「まあ冗談はさておき。それじゃあ行って来るぜ」
割り切るように言って、サイアスがマリーアンを見る。
「え、ええ」
わかっていても、彼女はやはりその時が来たことに抵抗を感じざるを得なかった。
俯き掛けたマリーアンを見下ろして、サイアスが軽い調子で言う。
「おいおい、せっかくの門出ってヤツだ。さっきみてぇな笑顔で送り出してくれよ」
顔を上げると、口の端を持ち上げて自分を見下ろす彼がいた。
ふふっ、とマリーアンの表情に柔らかさが戻る。
「安心して下さい。お帰りをお待ちしておりますなんて、もう言いませんから」
どうしてわかったのか。そんな懸念をしたには、したのだが。
「そいつは助かる」
サイアスはそう言って、素直に認めて置くことにした。
「でも、わたくしはずっとここにおります。ですから、いつでもいらして下さいね」
陽の光を浴びてマリーアンの笑顔が輝きを増す。
「ああ。サッシュの野郎を見つけたら、一度は帰ってくる。そのときは世話になるぜ」
戻ってきて欲しい気持ちを受け止めて、サイアスが返した言葉がそれだった。これがマリーアンの願っている『戻る』とは、別の意味であることも知りながら。
頷いて返し、マリーアンは思いついたように言う。
「そうだ。サイアス様にひとつお願いがあるのですが」
「なんだ?」
面倒くさがりな自分がどういうわけか、無理な注文でなければ何でも引き受けようと思った。しかし、彼女の口から出たのは何の無茶でもない言葉。
「裏庭にあるイシアの樹は、そのままにさせて頂けないでしょうか」
「なに言ってんだ。あれはもともとあんたが世話をしてるんだろう? 俺がとやかく言うような筋じゃねぇよ」
しれっと答えられたマリーアンは、恥ずかしそうに乱れてもいない髪をいじりながらすこし落ち着きを無くして言う。
「そ、そうですよね。わたくしが決めればよいことでしたよね」
わかっている。彼女のお願いの意味するところは、サイアスにもわかっていた。
だが、あえて素知らぬ振りをして答えたのだ。彼女がそうしたいと願うなら。
「変ですよね。こんな事をわざわざお聞きするだなんて」
平静を取り繕うマリーアンの心に波が立った。だが彼女はその波に浚われないように必死に踏みとどまって笑顔を見せる。
「あの樹は、本当に良いものなのですよ。春には綺麗な花を咲かせますし、夏にはとても美味しい実を沢山つけてくれて。またお越しのさいには、今度はイシアの実で漬けたお酒を召し上がって頂こうと思いますが……」
言っているうちに、彼女の表情が曇り始めたのがわかった。声の端々に、時折 乱れが生じている。
「ああ、旨そうだ」
何もないようにサイアスが言った。気遣いは、かえって無駄に責めるだろう。
「ですから。ですからなにとぞ、無事にお戻り、くだ、さいませ」
もう涙は十分に流したはずなのに、胸を突き上げる熱いものが、彼女から喋る自由を奪い取った。サイアスは微動だにしない。慰めも同情も、彼からは伝わってこなかった。
至って普通に、それこそ何の変哲もなく言う。
「そのつもりだ。イシアの酒とやらには、興味があるからな」
笑って言われたその一言が、マリーアンの踏みとどまろうとする意志の壁を決壊させ、感情を溢れさせた。サイアスは何かを話していたが、彼の声はマリーアンの耳には届かない。これ以上、彼女には我慢することなど出来なかった。
「まあ、せいぜいおまえさんも元気で……」
サイアスが言いかけたとき、マリーアンは彼の胸に飛び込み、しがみつくように顔を埋める。いきなり抱きつかれたサイアスは、驚いたように彼女を見下ろす。
「お、おい」
なんのつもりだ、と引き離すより先に、彼女が胸の中で叫んだ。
「本当は、あの樹に託した想いが届いて欲しかったっ!」
帰りを待つひと。そんな名前を与えられた樹に、彼女が託した感情があった。それはとても大切で、掛け替えのないもの。
「無茶なことを言うんじゃねぇよ」
成すがままに彼女を抱き留める格好でサイアスが言った。彼はマリーアンを正視することが出来ずに視線を正面に流す。シャツが、熱く濡らされるのがわかった。
「サイアス様がいけないんですよっ? わたくしの想いを知っていながら、それでも、優しく微笑みかけて下さるから」
心の底からの声。マリーアンの純粋で、まっさらな気持ちがサイアスの心に刺さる。
「すまねぇな」
四日前に、王都に戻った晩に呟いたのと同じ気持ちで、サイアスがもう一度 口にした。
「謝らないでください。わたくしが勝手に、夢を見ていただけなんですから」
サイアスは黙っていた。黙って胸に縋るマリーアンの頭を撫でた。
夢を見ていただけ。夢にまで見たこの男との距離に、いま自分は立っている。
彼女が、ゆっくりと顔を上げた。潤んだ視線と、紅の瞳が交差する。
マリーアンは自分の中にあった壁のようなものが、消えていくのを感じた。
静かな笑みを浮かべたサイアスのいつも通りの顔が、そこに在る。
彼の瞳に吸い込まれるように、マリーアンはつま先立ちして顔を寄せた。もう自分ではどうすることもできない。
次の瞬間、彼女の両目が閉じられ、自分の唇と何かが交わるのをサイアスは感じた。
サイアスは一瞬、自分に起こった事態を理解できずに目を見開く。
胸の鼓動も、吐息の揺れまでもが彼女の唇を通して伝わってくる。
そしてマリーアンもまた、自分のしでかしたことに気付いて、慌てて目を開いた。
「あっ」
短く言って、彼女は肩を縮めて後ずさる。その後は、何を言っていいのかわからず、戸惑いの色を浮かべて俯くだけだ。
「申し訳ございません。わ、わたくしは何ということをっ!」
ようやく出てきた言葉がそれだった。感情に突き動かされて自分がしでかしたことは、選ばれていない人間は決して行ってはならない行為。
サイアスの顔を見ることが出来なかった。彼がどんな表情をしているにしろ、それを見たら自分が深く傷つくのがわかっていたから。
「申し訳ございません、申し訳ございません」
泣きじゃくるようにマリーアンは繰り返す。その声を遮ったのは、サイアスだ。
「ありがとよ」
投げかけられた感謝の言葉に耳を疑う。マリーアンは驚いたように彼を見た。
そこには自分がよく知っている、そのままのサイアスが立っている。彼は自分の唇を親指で擦ってみせ、そして彼女に言った。
「餞別、ありがたく貰っとくぜ」
笑った。つられて、マリーアンの顔も綻ぶ。
餞別。そうか、サイアスはそう言ってくれるのか。このとき初めて、ふたりは互いの正しい距離を理解したように思った。
おそらく、それでいいのだと感じながら、マリーアンの顔は明るく澄み渡る。
「その餞別の代わりに、と言っては変ですけれど、ひとつわたくしの我が儘をきいていただけないでしょうか」
「言ってみな」
この際だ、というおかしな動機で、サイアスは彼女の戯れ言に付き合う覚悟を決めた。マリーアンは恥ずかしそうに胸の前で両手の指をもじもじと動かしながら言う。
「あの、もう一度だけ、名前で呼んでいただけませんか?」
思わず、ふっと鼻を鳴らしてサイアスは眼を閉じた。
「そんなことか。おまえさんがそうして欲しいってんなら、いつだってそうしたさ、マリーアン」
癒される声だった。名前を呼ばれると言うことが、これほどまでに強い意味をもって感じられたのは今日が初めてかも知れない。
「ありがとうございます、サイアス様」
満面の笑みを浮かべて、彼女が礼をした。その様子に、サイアスは頭を掻いて言う。
「あのなぁ、俺もひとつ頼みてぇんだが」
「何でしょう?」
顔を上げたマリーアンは、きょとんと目を丸くさせた。
「その『サイアス様』ってのは無しにしようぜ。どうも俺のガラじゃねぇんでな」
「え、は、はい。わかりました。では、どうお呼びすればよろしいのですか?」
こんな奇妙な質問をされるとは思ってもみなかった。サイアスはすこしだけ呆れたように息を吐いて、真剣に返事を待っている彼女に答える。
「あのなぁ、俺の名前は『サイアス・クーガー』ってんだよ。だが、クーガーってのはやめてくれな。どうも無粋な響きでいけねぇや」
名字がダメで、様もダメとなると、もう残る選択肢はひとつしかない。
「そ、そんな風にお呼びしてよろしいのですか?」
どこか緊張した様子でマリーアンが言った。サイアスは気軽に頷き返す。
「ああ、言ってみろ」
「ほ、本当にお呼びいたしますよ!?」
しつこい。
マリーアンは呼吸を整えて、ひとつ咳払いしてから意を決してそれを口にした。
「サ、サイアスっ…さん」
ちょこんとと語尾に添えられた余分なものを除けば、上出来と言った所か。
「サイアスさん、ね。まあ、おまえさんらしいってことにしとくさ」
どこまでいってもバカ丁寧で参らされるものだ。
「なぁ? マリーアン」
「ええサイアスさん」
何を訊いたのか。何を納得したのか。そこに通じ合ったのは、おそらくふたりの気持ちの一部だったのだろう。
ふたりは声をあげて笑った。それこそ、腹の底から。
澱んだ空気は押し流され、サイアスとマリーアンの間にさわやかな風が吹き抜ける。
笑いが風に溶け、ふたりは口を噤んで見つめ合った。
先に声をあげたのは、サイアスだ。
「じゃあ、な」
「はい。行ってらっしゃいませ」
短いが、これでも随分と遠回りして辿り着いた別れの言葉だった。
見送る男の背中を見て、マリーアンは自分自身の姿を顧みる。
きっと自分は、彼に多くを望みすぎたのだ。深く交わろうと願いすぎたのだ。
旅立つその男は、自分で思っているほど身軽ではない。そんな背負いすぎている彼に、マリーアンという存在は余計な荷物だったのだろう。
彼は自分を傷つけない距離を保とうとしてくれていたのに、その距離を無理やり曲げようとしたのは結局自分だった。正しい立ち位置を見つけたいまは、もうそんなことを思い煩う必要はないのだ。
マリーアンは思う。きっと自分の気持ちは一生涯、変わることも色褪せることもないだろうと。彼がそれを聞いたら、無駄なことだと笑うだろうか。
今ならわかる。そのとき彼は、それもいいさと笑うのだ。
夏の訪れをしらせる永い陽の沈みゆくさまに、さよならは無言のままに交わされた。
明日からは、新しい日常が色を変えた太陽と共にやってくる。
マリーアンにもアシュカにも、ギュスタレイドやチェスカニーテ。そしてサイアスと彼の向かう先に待つ、運命の待ち人にも。
次章からは視点がオリヴィアに変わります。
十三年ぶりに執筆再開。
ジミィ君を終わらせるまでは、ポツポツとした更新になると思いますが、気長にお付き合いくだされば幸いです。