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リヴァイヴフリード  作者: 墨
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四章 夜の宴

 リンサイアの北に位置する険しい山岳地帯に、眠れる城と呼ばれた場所がある。

 二十五年前までは、アカデミーの研究施設だった建造物だ。

 正式名称『グロリア』。アカデミーが神々の標本と法術の謎を解き明かそうと研究を始めたとき最初に創られた。

 他の研究所に先駆けて人体実験を開始し、有史以来、最悪の非人道的な研究を行ったアカデミーの悪窟である。

 買い集められた被験体が運び込まれ、施設内では実験体を得るための交配と出産とが日常的に繰り返されていた。彼らに対する解剖や投薬、精神改造などの実験は入り口に過ぎず、外界から隔離された空間で更に残虐な行為が当たり前のように行われていたのだ。

 やがて生まれる異能者。そして異能者足り得なかった者達の処分。

 ちょうどそんな命の選別が行われ始めた頃だ。ひとりの青年がグロリアに堕ちたのは。

 青年の名は『イグマ・サン・エンデュミラ』。法王庁第一法姫レミリア・クレスベル・サンレスタールの世話係をしていた男だ。イグマとレミリアは忍び逢いの仲にあった。そのことが関係者に知れ、彼は二度とは戻れぬグロリアの監督者の任を命ぜられたのである。

 狂気の風雪が吹き荒れるグロリアにあって、イグマはアカデミーの研究者達ではなく被研体の味方だった。彼ひとりの権限で庇いきれる人数には限界があったが、イグマは無為に命を奪われそうな幼子を匿い、精神を病んだ者達の世話をした。

 そんな生活が数年続いたあるとき、彼は神々の標本のもつ真の意味を知ることとなる。それは法王庁の歴史の闇であり、リンサイアという国の抱えた原罪そのものでもあった。

 真実を知ったイグマは決意する。偽りの過去の上に成り立ち、なおも過ちを繰り返す法王庁を、いやリンサイア王国そのものを葬り去ろうと。誰かがやらなければならない。誰かが、封じられた罪を償わなければならいのだ。

 イグマは監督者の立場を利用して、密かに魔導研究に回された被研体との接触を続け、能力をもつ者達と計画を練り上げていった。

 そして二十五年前、グロリアを初めとする各研究施設で、一斉に被研体による暴動が起こった。法王庁は急遽騎士団を投入し、武力によってこれを鎮圧。

 だが、このときイグマを初めとする数名の能力者は逃げ延び、さらに闇の奥深くへと息を潜ませることになった。これが十五年の時を経て、後に大規模な叛乱を引き起こす魔導師集団トゥエルヴである。

 一方、法王庁は暴動鎮圧後、六ヶ所の研究施設のすべてを封鎖し、研究資料などの隠蔽工作を行った。これにはアカデミーと内通していたフォリエントによる研究施設の解体と、研究に携わった一部研究者の暗殺も含まれている。

 ただひとつ法王庁が犯した失態は、グロリアを解体できなかったことだ。

 禁じられた研究の隠蔽工作にあせった彼らはことが外部に漏洩することを恐れ、最大の規模をもつグロリアの解体を断念せざるを得なかった。 その理由としてもっとも大きいのは、グロリアが建設された場所である。その場所はリンサイア北部の極めて険しい山岳地帯であり、しかも山間にある洞穴から地中深くへと下った先にある、地下水湖の中州に資材を運び込んで創られたのがグロリアなのだ。他の研究施設も人の目から隠すように立てられていたが、規模もさることながら、これほど厳しい建築条件ではなかった。

 解体作業にはさらに大勢の人手が必要となり、それを行っただけ機密の保持は難しくなることは明白だった。そこで法王庁はグロリアへと通じる洞穴を爆破し、忌まわしい記憶ごと地下に封印したのである。

 それから月日が流れ、その場所はいつしか『眠れる城』と呼ばれるようになった。

 法王庁やアカデミー関係者らの中で、それが古い過去の記憶になり始めた頃、眠れる城は魔導師たちによって暴かれ、彼らの拠点となった。 存在自体を抹消されていたグロリアは、彼らにとっては格好の隠れ家であったことだろう。

 その魔導師集団トゥエルヴとの決着は、グロリアに乗り込んだサッシュやサイアス達の手によって着けられた。そして再び過ちの城は深い眠りについたはずだった。



 現在。燃え盛る礼拝堂でサッシュの前に立つ男は、どうして眠れる城のことを知り、その城を眠りから覚まそうとするのか。

「……あんた、いったい何者なんだ」

 サッシュは男に尋ねた。何かの偶然で神々の標本を手に入れ、その圧倒的な力を武器に革命を企てるような夢想家には思えない。男が口にした『古の秩序』という言葉が、すべての答えを握っているようにサッシュには思えた。

「自分が何者かと尋ねられ、即答できる者を私は知らない。 だが、あえて言葉で自分を形容するとすれば、私はこう答えよう」

 男の背後で大きな音を立てて天井の一部が焼け落ちた。舞い上がった火の粉が、蛍のように宙を漂う。

「私は、『イグマの子供』だ」

 サッシュのなかで何かが弾けた。男の口から『イグマ』の名が出たということは、間違いなく彼は十年前の亡霊だ。

 イグマは十年前に死んだ。 他の魔導師達も戦いの中で命を落としていった。だが彼らの死の中から生まれ、その意志を継ごうとしている者がいま自分の目の前に立っている。

 サッシュは目を見開き、頭の中で過去の記憶と今の情報がパズルのように組み上がるのを感じた。

 どうして今さら眠れる城にこだわるのか。なぜ男は自分と接触する必要があったのか。古の秩序とはなにか。すべてが一本の線となって理解できた。

 決して解いてはならない謎を、罪深くも解き明かしてしまったのだ。

「それじゃあ、やっぱり。いや、まさか……」

 サッシュは自分の言葉が震えているのに気付いた。男は頷いてみせる。

「自分の置かれた状況を、理解したようだな。そう、アカデミーが非道に用いた神々の標本。その五つを我々は手に入れた。そして引き裂かれた最後のパーツも手に入れる!」

 そうなのだ。各研究施設にひとつずつ割り当てられた神々の標本。二十五年前の暴動で、眼、牙、翼、左腕、右腕の五つは紛失したが、グロリアに残された六つ目は。

 六つ目の神の標本は、まだあの場所に眠ったままなのだ。

 男は明らかに冷静さを失っているサッシュに、ゆっくりと近づいた。

「イグマは、君に語らなかったか? 神々の標本の意味を。そして法王庁がなぜそれを保管していたかということを」

 あのとき。イグマとの眠れる城で対峙したあのとき、確かに彼は自分の知り得た真実をサッシュやアシュカに語った。それが今でも自分たちの胸に封印された秘密であり、アシュカを苦しめている重い鎖なのだ。

 そして自分にとっても、有り様を問われる重大な転機だった。

「ならわかるはずだ。君がするべきことは自分の『能力』の意味に気付くこと。それを正しく受け入れることだ」

 優しい声、慈しむような表情で、男がサッシュに手を差し伸べた。

 あの日、命を狙われたアシュカを連れて王都を逃れたとき、法王庁の宝物庫から持ち出したレスタスの聖石。その蒼き石から授かった力が、すべての答えを指し示した。

 過去が、サッシュの心の中で押し迫ってくる。それが真実であると知りつつも、気持ちのどこかでは、やはり否定していた感情が、いまはっきりと形となって沸き上がった。

「そう言われて俺が、素直に応じるとでも?」

 心の中に散った不安の種を、どうにか意識しないように努めながらサッシュは言う。

「べつに君がどう思おうと変わりはしない。我々は君の能力を使って六番目を手に入れる。そのことに変更はない」

 男が一歩、サッシュに近づいた。その唇で更なる言葉を投げかける。

「誰がおこなうかということなんだ、エスメライト君。なぜなら、君は……」

「黙れ!」

 続く言葉を掻き消すように、サッシュは拳を振るった。それは男の顔面を捉えることなく、見えない壁に阻まれて空気に衝撃だけを走らせる。

「君にも、もうわかっているはずだろう。 レスタスの聖石、いや、あの石が君に力を与えたそのわけが」

「黙れ! 俺は、俺はサッシュ・エスメライトだ! それ以外の何者でもない!」

 今まで当たり前だったことも、いまは大声で叫ばなければ不安になる。男が言った『自分の能力の意味に気付く』とは、サッシュにとってそういうことだった。

 繰り返し鞭打をくわえ、ダーツを投げ、拳を叩き込むが、そのすべては眼の能力の前に虚しく消えていく。男はサッシュの暴れる様を冷静に見つめながら言った。

「君は不思議だ。力を持ちながら、それを使うすべを知らぬかのように感情に流される」

 ゆっくりと男の右手がサッシュの目の前を通り過ぎた。

 空間を切り裂くように、紫のヘビがしなりながらサッシュの身体を横に薙ぎ払う。

 棍棒で脇腹を打たれたような衝撃と、骨にまで響く重量。

「かっ……」

 吐き気が込み上げるのを感じながら、サッシュの身体は大きく宙を舞って、硬い床に叩きつけられた。

「動けなくなるまでやるつもりか? 私にしてみれば、どちらでも構わないが」

 男の身体を、さらに巨大な紫の霧が包み込んだ。それはまるで無数の首をもつ竜のように枝分かれし、男の指図に合わせて炎の中を躍る。

「随分と軽く見られてるな、俺も」

 熱を帯びた床に手をついて膝を立て、よろめきながらも立ち上がる。両足が地に着いたとき、打たれた脇腹に砂利が混じるような違和感を覚えた。

 折れたか。

 手の甲で口から流れる一筋の血を拭ったサッシュは、圧倒的な力の差を感じていた。策略や洞察など無関係に純粋に力で押し負けている。だが何としてもこの窮地を打開しなければならないのだ。

 アシュカの寂しそうな横顔が瞳の奥に甦る。

「冗談じゃないぜ。どうしてあんなこと、言っちまったんだか」

 強く握りしめた左拳のなかで、体内を流れる熱い血脈を感じた。自分の口にした言葉の重さを今さらになって実感する。

 焼けた空気を一息吸い込むと、サッシュは苦痛に歪んだ表情に苦笑いを浮かべた。

「遅いな、サイアスのやつ。時間にルーズな男だとは知ってたが」

 貫かれた脇腹の傷を抑えながら、滲み出る血液に冷たさを感じる。

「もう、ぎりぎりだぜ」

 時間がないのはわかっていた。時間稼ぎも限界であると感じていた。

 だからこそ自分でやらなければ。いまは自分の力だけで切り抜けなければ。

 向き直り、サッシュは竜の群れの中へと飛び込んでいった。



 炎に呼ばれ、男は馬車でその場所に向かっていた。

 もはや猛り狂う炎は目と鼻の先に迫り、馬車は法王庁舎を取り囲む高い城壁の切れ間を目指して駆けている。

「ゾア、もうこの辺りでいい」

 少年の身を案じてか、客車の窓からサイアスが御者のエゾニアクに告げた。

「でも、門まであと少しですよ」

「いいから降ろせ。なかで何が起きてるかわからねぇんだ。これ以上近づくな」

 サイアスの口調には独特の険しさがあったが、少年にはそれが実感として伝わっては来なかった。これが歴戦の戦人と、戦争を知らぬ世代との最大の差だろう。

 エニーにとって病院と議事堂を併設した役場に過ぎないこの法王庁舎に火が放たれるということが、サイアスにしてみれば他のどこで起こる事件よりも重大だった。

「ゾア、もう一度だけ言うぞ。馬車を止めろ」

 サイアスが押し殺すように言ったとき、エニーの眼は夜空を見上げていた。

「ダンナ! あれなんですかね?」

 少年が指さす先には、大きな翼を広げた蝙蝠のような影が、ゆったりと夜空を旋回している。今までみたこともない形の翼だ。

 サイアスがその影に眼を凝らしたその時だった。大きく馬車の車体が揺れたと思った瞬間、馬車を引く二頭の馬ごと四輪が地を離れて放り出されたのだ。

 激しい衝撃を伴って、それは路上へと横転した。

「くそっ。なんだってんだ」

 サイアスは歪んだ客車の壁をぶち破って外へと飛び出す。そこで彼が目にしたものは法王庁舎を囲む城壁に穿たれた巨大な穴と、散乱した壁の破片。そして穴の向こう側に立つひとりの男であった。

 砂埃がおさまるにつれ、その姿ははっきりと照らし出される。大柄な、全身を筋肉の隆起で包み込んだような肉体。だが、その男の体型でもっとも目を引くのが、明らかに身体と釣り合っていない巨大な右腕だった。

 黒い毛に覆われたその腕は胴回り以上あるかと思われるほどに太く、その掌は巨大な蜘蛛のように指を広げている。

 サイアスのなかで男の右腕と馬車を吹き飛ばした力とが結びついた。シャドゥブランドの柄を握る手に力がこもる。彼が斬りかかろうと一歩まえに進み出たとき、右手の男は、ふっと息をもらして口の端を持ち上げた。厳つい顔が、低く唸るような声で呟く。

「グ・バネー」

 それだけ言うと男は向きを変えて法王庁舎のなかへと消えていった。サイアスはそれを南アドナス大陸に住む少数民族の言葉だったと記憶している。

 意味は確か。

 ―――――――― 外したか。

 その瞬間、サイアスの脳裏にある光景が浮かんだ。何とか最悪の光景を消し去ろうと、サイアスはバラバラに飛び散った馬車に向かって声をあげる。

「ゾア! ゾアぁぁあ」

 返事はなかった。赤い月夜にサイアスの声はただ飲み込まれていくだけだ。見れば胴体から真っ二つに分断された馬の臓物が、生き物のようにヒクヒクと脈打っている。血の海を踏んで、エニーが座っていたはずの場所へと足を進めた。千切れた手綱と、砕かれた車輪。衝撃で割れた石畳の破片。

 そこに、少年はいた。

 いや、それは少年だったものと言うべきか。右の胸には大きな空洞が真っ黒なシミのように口を開け、折れた腕はあらぬ方向へねじ曲がり、飛び散った内臓はもはや拾い集めようもないほどだ。

 おそらくは即死だ。 少年はどこかを真っ直ぐに見つめているようで、その濁った硝子玉のような瞳には、炎の照り返しが揺れている。

「……ゾア」

 呼びかけるが、返事が返ってくるはずもない。そっと顔に触れ、瞼を閉じさせた。

 死を目の当たりにするのは、もう慣れた。それが女、子供、老人であろうとも、もういやと言うほどに見てきた。なにも特別なことではない。

 エゾニアクと名付けられた肉塊を見下ろしながら、サイアスは拳を握り締めた。 負けた、これは敗北だ。

 千切れんばかりに拳を握りしめるサイアスの肩で、シャドゥブランドが重くなる。

 自分の内側から込み上げるドス黒い気配に、サイアスは身を震わせた。

 背後に、誰かの気配を感じる。 それはロックアートが死んだときに感じた気配だ。

「だから、近づくなって言ったじゃねぇか」

 笑っていた。何がおかしいのかは、きっと彼自身にもわからないだろう。

 サイアスは感傷も痛みもなく向きを変えてその場を去った。向かうさきは城壁に穿たれた狭間。右手の男を追うためにサイアスは歩を早め、やがて駆けだした。



 その頃、このような事態が起こっていようとは知らぬギュスタレイドの邸では、夕食がすっかり片づけられ、家主手製の焼き菓子が紅茶に添えられて食卓に並んでいた。

 紅茶の水面を漂うシャンデリアの明かりを見つめながら、アシュカはこれからのことをぼんやりと想っていた。緩やかな疲労と胸をすく紅茶の香りがが眠気を誘う。

 その隣では、彼女の二倍も食事を平らげたチェスカニーテが、これまたせっせと菓子に手を伸ばしている。その様子は、いささか心配なほどだ。

「チェシー、そんなに食べて大丈夫なのか?」

 アシュカが訊くと、彼女は両手に菓子を掴んだまま、膨らんだ頬でモゴモゴと言う。

「らぁって、おなははへっへ、りょーららいんらもん」

(訳:だって、おなかが減って、しょーがないんだもん)

 それにしても、この食べ方は普通ではない。ギュスタレイドも心配そうな視線を送る。

「あまり詰め込むと胃を壊す。どんなに空腹を感じていても、加減をしなくては」

 言いながら、ギュスタレイドは彼女の前に置かれた菓子の皿を自分の方へと下げた。むっとチェスカニーテの表情が変わる。一瞬、菓子を取り上げられたことに腹を立てたのかと思ったが、違っていた。

 顔色が青ざめ、チェスカニーテは口に手を当てて弾かれるように立ち上がった。

「どうしたっ。大丈夫か!?」

 ギュスタレイドが、妻の様子にただならぬ気配を感じて駆け寄る。

「うぅっ」

 背中を丸めて、チェスカニーテは手で口に蓋をしたまま走り出した。

「おいっ!」

 追いかけようとするが、彼をアシュカが制して言う。

「待って、私が見てくる」

 このとき彼女にはある予感があった。それは今日、チェスカニーテと会ったときから感じていたことだ。

 チェスカニーテの後を追って食堂を後にし廊下を少し行くと、開け放たれたままの扉が目に付いた。そっと中の様子を伺うと、洗面台を覗き込むように手を突いて、水を流しながら、チェスカニーテが嘔吐しているのが見える。

 アシュカが洗面所に足を踏み入れると、彼女の気配にチェスカニーテが顔を上げた。鏡越しにふたりの視線が交わる。

「えへへへ。 食べ過ぎて気持ち悪くなっちゃった」

 気恥ずかしそうな笑顔で言うが、アシュカは笑って返してやれなかった。

「チェシー、あなたもしかして……」

 言おうとしたとき、先にチェスカニーテがにっこり笑いながら言葉を続ける。

「でもしょうがないよね。こうなると、みんななるんだもん。麻疹みたいなものよね」

 彼女の口振りが強がっているようで、アシュカは近づいて優しく肩に手を回した。

「やっぱりそうなのね。ギュスターには、もう話したの?」

 訊くと、彼女は首を横に振った。

「まだ。ちょっと前にね、ほら、話したでしょ、カナベルって家政婦さんにモドしてるところを見られちゃって、そうなんじゃないかって言われたの」

「なら、どうして」

 言いかけたが、途中でやめた。チェスカニーテがどうしてギュスタレイドに言い出せないのか、そんなことは大きな問題ではないのだ。初めてのことに誰だって戸惑う。世間知らずで、ひとりでは道も歩けないような彼女のにすれば、自分の気持ちさえ落ち着いていないのに夫に話すなど不可能だ。

「私から、話してあげようか?」

 アシュカが気遣って尋ねたが、チェスカニーテはぶんぶんと首を振った。

「いい。ちゃんとあたしが言うから。そう、決めたから」

 チェスカニーテがいまどんな気持ちかは分からない。もちろん幸せだろうが、きっと不安も同じくらいあるに違いない。

「でも、ありがとう。 アシュカさん」

 ただひとつ確かなのは、彼女が強くなろうとしていることだ。

「さぁ! もっとちゃんと食べなくちゃ」

 明るく言って、チェスカニーテは慈しむように自分の腹部に手を当てた。

「ふたり分だもん」

 それを見て、アシュカは胸に暖かいものが沸き上がるのを感じる。

「そうよ。 あなたがしっかりしなくちゃ」

 アシュカはチェスカニーテを支えるように肩を抱いたまま、洗面所を後にした。

 食堂ではひとり残されているギュスタレイドが、ふたりが戻るのを落ち着かぬ様子で待っていた。妻の突然のことに、悪い予感が気持ちを乱してならない。

 そわそわと室内を行ったり来たりして何往復目だろうか。扉が開いてアシュカに連れられたチェスカニーテが姿を現した。

「チェスカニーテ!」

 すぐさま駆け寄って、妻の顔色が良くなっていることにまず安心する。

「申し訳ございませんアシュカ様、お手間を取らせました」

 アシュカからチェスカニーテを引き受け、ギュスタレイドは深々と頭を下げた。

「いったいどうしたというんだ。羊でもあるまいに、加減もせずに食べてこの有り様。さすがの私も顔から火が出る思いだぞ」

 安心したこともあって、ギュスタレイドは叱るような厳しい口調で妻に言った。その言葉にチェスカニーテは肩をすくめたが、アシュカが彼女を気遣って返す。

「そう言ってやるな。理由を聞けば、ギュスターは今以上に彼女を労りたくなるはずだ」

 ここまでお膳立てをして置いて、彼女は小さくなるチェスカニーテの顔を覗き込んだ。

「そうだよね、チェシー?」

 アシュカの眼は、打ち明けなさいよ、と言っていた。それでもチェスカニーテは踏ん切りがつかずに、組んだ手をもじもじと動かしながら上目遣いにギュスターを見る。

「あ、あのね……」

「なんだい? 何か事情があるなら言ってごらん」

 ギュスタレイドは優しく妻の顔を見つめた。アシュカが曰くありげな言い回しをしたので、これはただ事ではないと察したのだ。

「そのぉ、あなたがどう思うかわからないんだけど、あたしはすっごく嬉しかったのね。だからあなたにも、あの、喜んでもらいたくって……」

 訳が分からないが、ギュスタレイドは悪意を欠片も感じずに妻の言葉に頷いてみせる。そのことで気持ちがすこし落ち着いたのか、チェスカニーテは更に口を動かした。

「でも、あたし不安だったから、いままで言い出せなくって。ごめんなさい」

「謝らなくてもいい。ほら、ちゃんと言わなくてはわからないよ」

 目一杯の優しさでギュスタレイドはチェスカニーテの頬を撫でた。彼女の唇がきゅっと結ばれたあと、意を決したように口が開かれる。

「あのね! あたしお腹に……」

 言いかけたところで、水を差すように玄関の呼び鈴がけたたましく鳴った。そのせいでチェスカニーテは再び口ごもってしまう。

「すまない。ちょっと出てくるよ」

 ギュスタレイドがため息まじりに言うと、呼び鈴を鳴らし続けている訪問客を出迎えるために玄関へと足を向けた。

 チェスカニーテはアシュカの方を見る。彼女は苦笑いして、両肩をすくめて見せた。

 玄関の扉を開いたギュスタレイドの目に飛び込んできたのは、血相を変えて息を切らしている女性の姿。

「あなたは、アシュカ様のところの」

 マリーアンだった。どういうわけか、普段は落ち着いている彼女が、今は汗まみれで満身創痍だ。マリーアンは倒れ込むように邸の中へと入り、ギュスタレイドに寄りかかるようにして息を整える。

「どうしたのだ。そんなに慌てて」

 嫌な予感がした。マリーアンは切れ切れに言葉を吐き出す。

「お城で、事件が……! サ、イアスさ…まにお知らせ、しなくては!」

 咳き込んで、それ以上言葉が続かない。しかしギュスタレイドにはそれだけで充分だ。聞き覚えのある声に、何事かと食堂から顔を覗かせたアシュカが彼女の姿を見つけて思わず声をあげる。

「マリーアン!?」

 駆け寄ってきて、ふらふらの彼女に肩を貸した。

「どうしたのよ! 邸で、何かあったの?」

 ただ事ではない。ギュスタレイドがマリーアンに代わってアシュカに告げた。

「庁舎で、何かあったようです。ここも危険ですので、すぐに場所を移さなければ」

 昼間会ったとき、サイアスは今夜約束があると言っていた。彼が用事に出ている間に事が起こってしまったので、マリーアンはまず居場所の知れているこちらに伝えに来たのだろう。可能ならば、サイアスに使いを出したいが、ひとまずはこの場にいる者達の安全を確保することが先決だ。

「さあ、ひとまずは奥の間へ」

 アシュカとマリーアンを廊下の先へと促したとき、食堂の方で硝子が砕け散るような音が聞こえた。あそこには、チェスカニーテが残っているはずだ。

 ギュスタレイドは走って食堂へと駆け込む。

「チェスカニーテ!」

 叫んだ先に彼女は居た。見れば食堂の窓が突き破られ、床の上に何者かが蹲っている。チェスカニーテをすぐに自分の背後に庇って、ギュスタレイドは侵入者と向き合った。

「……おやおや、騎士殿のご登場か」

 むくりと立ち上がって、皮のローブに身を包んだ侵入者の影が伸び上がる。

「貴様、何者だ」

 慎重に距離を取りながら、ギュスタレイドが言った。

「獲物が捕食者の名を知ってどうする」

 ローブの隙間から、じっとりとした男の笑みが覗く。

「おまえは俺の牙に狩られる、哀れな兎だ」

 男の言葉に、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。絶対的な自信を感じさせる口調。そして無手であるにも関わらず、男の全身から放たれる威圧感。

「アルフォンソか」

 その名前を口にすると、男は身を包んでいるローブを自ら脱ぎ捨てた。闇を集めたような黒い衣服を纏った肉体が姿を現す。

「やっぱり俺を知ってるか。 まあ、どっちにしろここで狩られる運命だ」

 不気味な笑み。むき出された犬歯がアルフォンソの狂気を宿した瞳と混ざり合う。ギュスタレイドはじりっと足場を踏みしめた。いま切り込まれては背後に居るチェスカニーテが危険だ。だが、絶好の状況にありながらアルフォンソは両手を持ち上げて言い放つ。

「どうした? 待ってやってるんだから、逃げろよ」

 アルフォンソの眼は遊んでいた。目の前で起きている事を遊んでいる、虫や小動物を弄くりまわして楽しんでいる子供のような眼。

「随分と余裕を見せてくれるな」

 苦笑いしてギュスタレイドはアルフォンソの方を向いたまま、出口の方へと下がった。ここで急いては、背中に噛みつかれ無いとも限らないのだ。アルフォンソに聞こえないように小声で、彼は背後で不安と戸惑いに翻弄されている妻に囁く。

「チェスカニーテ、廊下へ出て、奥の間まで走るんだ。そこから裏門へ出られる……」

 夫の口振りに、彼女はギュスタレイドが取ろうとしている行動を敏感に察した。

「あなたは、あなたはどうするの?」

 ギュスタレイドの服の背中を、ギュッと掴んでチェスカニーテの眼が震えている。

「いいから行くんだ。アシュカ様とマリーアンを頼む」

「あなたっ!」

「言うとおりにするんだっ!」

 怒鳴った。決して忍耐を忘れたわけではない。突き放さなくては、きっと彼女は自分の傍に居続けるだろう。それだけは回避せねばならないのだ。

「あなた……」

 何かを言おうとしたが声にならず、潤んだ眼で一瞥してチェスカニーテは走り出した。できる限りの力で廊下を駆け抜け、奥の間と呼ばれる一室に入る。

 そこにはマリーアンと彼女を支えるようにして立つアシュカとが居た。

 鎧戸が閉められた薄暗い室内に入るやいなや、ふたりがチェスカニーテに詰め寄る。

「何が起こっているんだチェシー。ギュスターは?」

「チェスカニーテ様!」

 この突然の事態に戸惑うふたりの肩に手を置いて自分の目を見るように促しながら、チェスカニーテは一呼吸して話し出す。

「あの人は、いま戦ってる。あたしたちは、この隙にここから外に出て裏門から逃げるのよ。この部屋から裏門までは食堂と正反対になるから、見つからずに行けるわ!」

 ギュスタレイドはどうなるのだ、という疑問を無理に飲み込んで、アシュカは頷いた。ここで自分が何を言っても、そんなことは十分に理解したうえでギュスタレイドが決定したことは明白だったからだ。それよりもいま重要なのは。

「逃げて、どこへ行くの? マリーアンの話しだと、サッシュの方も大変なことになってるみたいだし」

 できることなら、アシュカはサッシュの元へと走りたかった。だが、チェスカニーテとマリーアンを思うと、戦うことのできないふたりを放ってはおけないのだ。

「とにかく、いまは外へ出ましょう。街中に逃げ込めばすぐに見つかったりはしない」

 まずは動き出すことだ、とチェスカニーテは考えた。 あとのことは、そのとき考えるしかない。必要なのは立ち止まらないこと。

「さあ、案内するから、早く出ましょうっ」

 チェスカニーテの表情が違っていた。彼女は先頭に立って、部屋の南側に面する窓を開いて外へ出る。夫が命を張って自分たちを逃がすという判断をしたのだ。そのことを無駄にしないために、いまはただ進むしかない。

 アシュカとマリーアンも彼女に続いた。垣根の中を素早く駆け抜けて裏門を目指す。

 彼女達が動き出したとき、食堂ではギュスタレイドとアルフォンソの睨み合いに変化が起きていた。

「そろそろ、兎狩りを始めるとするか」

 身を低くして両腕をだらりと垂らし、アルフォンソがギュスタレイドを見る。

「そう簡単に、貴様に狩られてやるつもりはない」

 彼は拳を突きだして構えた。こちらも無手だが騎士団時代に体術の心得がある。

「時間稼ぎか? まあせいぜい足掻いて、あの世で再会するまでの時間を引き延ばしな」

 割れた窓から吹き込む風に軽く髪を靡かせ、アルフォンソが嗅ぐように鼻を啜る。

「ほかの四人が動き始めたな。囮になるつもりなんだろうが、軽率だったな騎士殿」

 これはギュスタレイドにとって予想外だった。姿は見えず物音もなかったはずなのに、さも当然のことかのように言い切ったアルフォンソの言葉が理解できない。

 アルフォンソはニタリと笑って、窓から飛び出そうと一躍する。その瞬間ギュスタレイドは彼の間合いの中へと踏み込み、床に散らばっている硝子の破片を手に取ると、素早くアルフォンソめがけて投げつけた。

 どうしてこの男に、人数の当たりや動き出したタイミングがわかるのかということはこの際関係ない。ギュスタレイドにとって大事なのは、この男を行かせないことだ。

 矢のように風を切って飛んだ破片が、アルフォンソの右肩に突き刺さる。

 不用意に踏み込んだギュスタレイドに対してアルフォンソは瞬時に拳を振るったが、その反撃は身を屈めた彼の頭上を通り過ぎた。

 深追いせずに、一旦ギュスタレイドは後へ飛び退く。

 その手には退く間際に拾った長さ三○センチほどの細長い硝子の破片が握られていた。服の袖を裂き、破片の丸く欠けた片端に柄のように巻き付けながら言う。

「敵地に踏み込んでなお、その甘い考えは感心しないな」

 そしてギュスタレイドはアルフォンソを正面から睨んで言った。

「私は囮などではない。貴様を倒すためにここにいる」

 硝子の剣を構えその切先を向けると、アルフォンソの眼の色が不気味に変化した。彼の黄金色の瞳に無機質な鉛の色が宿る。 ゆっくりと窓の縁にかけた足を降ろして、再びギュスタレイドの前に立った。アルフォンソは肩に刺さった破片を抜き取りながら言う。

「いいだろう、そこまで言うんじゃ仕方ねぇ。てめぇから狩り殺してやる」

 静かだが、肌に刺さるほどの殺気を感じた。ギュスタレイドは、以前にもこの感じを味わったことがある。これは、そう。あの男が『キレた』ときの感じに似ているのだ。どんなに口振りが静かであろうとも、いま自分が手にしている硝子の刃のように隠せない剥き出しの闘志と殺気。

 あのサイアス・クーガーの『ヒトならざる時』に似た気配を感じる。

「安心しな。あとの四人はきっちり後を追わせてやるからよ」

 笑っていた。指に付いた自分の血液を舐めながら、アルフォンソが笑っていた。

「貴様はさっきから、四人、四人というが、どうしてわかる」

 なにか根拠があるのなら、あるいはこの邸が監視されていたという可能性が生まれる。そうならば、裏門から出たであろう三人に危険が及ぶかも知れないのだ。

「なに抜けたこと言ってやがるんだ騎士殿。どんな生き物でも、それこそ塵虫みてぇなやつだって、大好きな餌の臭いにゃ敏感なもんだろう?」

 臭いでわかったというのか。ギュスタレイドは、さきほどアルフォンソが鼻を啜っていたのを思い出した。あのとき風に混じってアルフォンソには微かな体臭が感じとれたとでもいうのか。しかし、いくら体臭が感じられたからといって、それがこの邸から外へ出た人間のものかどうかまで、判断するなど人間にできることではない。

「だが、貴様は人数も満足に当てられていないぞ」

 惑わされるな。はったりに決まっている。わざと異能を有している風を装い、格の違いを見せつけ戦意を削ぐような言葉の駆け引きは闘いの常套手段ではないか。

 アルフォンソは単純なカマを掛けたのだ。当てずっぽうで彼女たちが動いたと言い、こちらの出方を伺った。

 迂闊だったのは自分のほうだ。万が一の危険を摘むために急いた結果、アルフォンソに彼女たちを逃がそうとしているのを悟られたのだから。だが、アルフォンソは人数を把握していない。状況から当たりを付けたに過ぎないのだ。

 しかし、ギュスタレイドの読みは無惨にも打ち砕かれることとなる。はったりの種を見破られても、アルフォンソはまったく動じた様子もなく、むしろ哀れむように言った。

「寝ぼけた事を言ってくれるなよ騎士殿。 平和ボケでおつむが膿んじまったか?」

 また、彼の鼻が空気を探ってヒクヒクと動く。

「最後の晩餐はずいぶんと楽しんだみてぇだな。それにしてもテインバラのスープに、ピナレイオムのパイとハヌマル。どれも旨そうだ。女どもには少々、香料がきついが」

 すでに跡形もなく片づけられている夕食の献立が、どうしてこの男にはわかるのか。

「それから紅茶。ヴェムロアのロイヤルリーフとは贅沢だ。 逃げた四人のうちの二人が飲んだな? どこに逃げても、ここまでプンプン匂ってきやがる」

 じっとりと、額に汗が浮かぶのがわかった。そんなギュスタレイドを見てさらに。

「おい、へんな汗をかくなよ。これからおいしく頂く獲物が汗臭くっちゃかなわねぇ」

 なにもかも異常だ。この男は臭いだけでこちらの気配から状態まで察知するだろう。

「……これに加えて、神々の標本とは」

 苦く言って、ギュスタレイドは硝子を持つ手に力を込める。

 それを見ながら、アルフォンソはまるで中毒患者のように全身が震えるのを感じた。

「質問は終わりだ。こっちはもう待ちきれねぇんだよ。てめぇの血の味が欲しくてな」

 理性が薄れ、餓えた獣のようにアルフォンソは叫んで、歯を剥き出して飛びかかった。



 アルフォンソがギュスタレイド邸に侵入した頃、法王庁舎内では、礼拝堂周辺で繰り広げられていた王宮警護隊と紫の人型の戦闘が、ひとつの決着に向かって流れていた。

 火の周りが早く、通路にいる彼らも後退せざるを得ない状況となっていたのだ。

 副長スタービーは未だ礼拝堂から帰還しない隊長エスメライトのことを思っていた。しかし、自分の周囲にいる部下達も多数の負傷者がおり、前線に立って敵の侵攻を食い止めている者達にも疲労の色が濃くのし掛かっていた。

「副長、どうしますか!? このままでは、炎と煙で退路が断たれます!」

 ひとりの兵士から突如投げかけられた選択。サッシュの帰還を待たずしてこの場を放棄するか。それとも踏みとどまるか。 礼拝堂へと続く扉はすでに敵陣の彼方へと遠ざかってしまっている。だからといってこの場を放棄すればそれは敵陣に隊長ひとりを取り残すということに繋がるのだ。

 スタービーに重大な選択の時が来た。頭を駆けめぐるのは、打算、公算。すべてを飲み干した彼の口から出た言葉は。

「一時退却だ。負傷者を一旦、中庭に搬送しろ!」

 場がどよめいた。ひとりの青年が駆け寄ってきて、スタービーに食ってかかる。

「しかし、まだ中に隊長が!」

 ジュオンだった。スタービーは彼の襟首を掴んで、引き寄せながら言った。

「なら、貴様が飛び込んで助けるか! 炎の中に身を投じれば、死んで勲章のひとつも手に出来よう。だが、この中で隊長が生きている確証もなければ、天井が崩れるまでに脱出できる保障もない」

 それは事実だった。炎は壁を這い天井を伝って燃え広がっていたのだ。

「ここにいる全員を犠牲にするつもりか。この状況でそれだけのことをして、ひとりを助ける意味があるのか!?」

 ジュオンに言葉はなかった。それを測れるほど、彼は何の権限も無かったからだ。

「いいか。すぐに負傷者を中庭に搬送し、離脱の準備をしろ。これは命令だ」

 命令という言葉が、いまだけは嫌だった。ようやくその言葉の重みを知った気分だ。

「この場の責任は、すべて私がとる!」

 自分の決断が正しいかどうか。その答えは時間が教えてくれるだろう。しかし、副長として自分が果たすべき事は、いま行動することなのだ。

『何も出来ないやつに限って、明確に言葉にしたがらないものだ』

 行動することを恐れて、踏みとどまって何になる。無力な自分を庇って言い訳をして何かが変わるのか。いや、今の自分にできることと言ったら、せいぜい尻拭いの紙になることぐらいなものだ。

「なにをしている、急げ!」

 スタービーの一喝で撤退が始まった。扉の向こうにサッシュを残し、彼らは次々に負傷者を抱えて走り出す。どれほど不本意であかなど、言葉にする必要もなく。

 通路を抜け、ホールを横切り、中庭へと続く外廊下に差し掛かった。月明かりの中で、火の粉が暖かな雪のように舞い散っているのが見えた。

 目をやられた友が、ジュオンに肩を貸されながら言った。

「どうして退却する。俺達は王宮警護隊だぞ」

 何も言えなかった。ただ歯を食いしばるだけだ。

 訓練をし、毎日毎日。この日のために、こんな時のために強くなったはずなのに。

 いいや、強くなろうとしたはずの自分たちができることは、慌てふためき、戸惑い、そして逃げることだけとは。

 無言で続く者達を振り返ったジュオンは彼らの顔に悔し涙を見た。誰もが一様に無力故の痛みと敗北感に打ちのめされていたのだ。

 中庭へと辿り着いた彼らは、なだれ込むようにして膝から崩れおち、芝生の上に手をついた。そのまま倒れ込む者もいた。

 ぜいぜいと息を吸い、肺に溜まった煙を追い出そうとする。

 そのとき顔を上げたジュオンはそこに人影を見た。

 女だった。

 月を背負い、中庭中央にある噴水の縁石に立っている。 彼女の髪はもえたつ若草のような緑色をしており、顔には入れ墨と長い睫毛に縁取られた瞳が輝き、その右手にある流線型の巨大な盾のようなものが鈍い金属の表面に自分たちの姿を映していた。

 左は二の腕が半分ほどしかなかった。いや、その先に異様なものを見る。 手荒く縫い合わせたような継ぎ接ぎの先に、長く大きな緑色の腕が生えていたのだ。

 それは人の腕のようでありながらも、指の間に水掻きを持ち、所々にヒレのようなものがはためいている。

 明らかに人ならざる生物の腕だった。彼女はその腕の長い爪で自分の紅に塗られた唇をなぞりながら、妖艶な視線をジュオンに向けて言った。

「セメシュ・ディヴーヌア・エト・リュビアクマニ?」

 耳慣れない言葉だった。彼がそれを解さないとみると、彼女は辿々しくリンサイアの言葉で言い直す。

「お宝もの、あるは、どこか。いい子、教えて?」

 それまでは、まるで夢のなかの生き物でも見ているような気分だった彼らだが、ここへきてようやく目の前の女が敵であると悟った。

 彼女は訊いているのだ。宝物庫はどこかと。それがあの紫の眼をもつ男と無関係であるはずがない。

 ジュオンが腰に携えた剣に手をかけたとき、女の姿が消えた。

 彼女は彼の背後に立ち、周りの仲間達が恐怖と驚愕の入り交じった表情で彼女を見ている。ゆっくりと掲げられた彼女の左手が黒く染まっていた。

 それが自分の血液であることを知るのは一瞬だった。ジュオンは自分の脇腹から腿の半ばまで根こそぎ剔られているのを見たからだ。

 痛みはなかったが、辺りを染めるほどの血が吹き上がったのに驚く。自分の身体から熱が奪われていくのが判った。

「いい子、教えて?」

 もう一度、女がそう言って笑った。きゃはははっと、オモチャを目の前にした子供のように。甲高いその声が、やがて仲間達の悲鳴と混じり合って不協和音を奏でたのは、ジュオンが力を失って地面に倒れ込んですぐのことだ。

 彼は見ていた。地に伏して身体には力が入らなかったが、目だけは見開いていた。

 躍るように女が宙を舞い、まるでダンスの相手をつとめるように、仲間の胴体や腕が彼女の手招きによって舞い上がる。

 雨が降った。生臭くて、吐き気のするような雨が。

 ジュオンのかすみ始める目に、飴玉がひとつ見えた。傷を負わされたときに、懐からこぼれ落ちたのだろう。昨日サイアスから受け取り、まるでお守りのように懐に収めたあのハッカの飴玉だ。

 手を伸ばそうとするが、痙攣するばかりで腕は上がらなかった。

 どれくらい、雨に打たれていただろう。いつしか惨劇の不協和音は消え、静寂が辺りを包んでいる。空からは火の粉がたいまつを灯すように降り注いでいた。

 落ちては消える火雪の中で、ジュオンは誰かの声を聞いたような気がした。



 サイアスが法王庁舎に踏み込んだとき、敷地内はは騒然としていた。病院からは避難する者達の海ができており、議事堂の方からは風に混じって悲鳴が聞こえてくる。

 その叫びを聞いたときサイアスは背後にまだあの気配があるのを感じた。

 振り返りはしない。振り向いたそこには誰もいないと判っている。 気配の正体は、自分の中から湧き上がってくるある感情なのだ。

 怒りや憎しみではなく、もっと人の心を捕らえて放さない感情。本能といってもいいかもしれない。

 もう何年も味わうことはなかったが、いま自分の中で確かにそれは芽生えているたようだ。

 ひときわ大きく、悲痛な叫びがサイアスの耳へと届いた。

 ―――――――― ほら、おまえを呼んでるぜ。

 背中を押された気がした。サイアスは人の海を掻き分けて悲鳴を辿って走り出す。門を抜け、城を迂回して目指したのは中庭だ。今日の昼間まで若者達が剣の訓練をしていたその場所は、いまはまるで腑分け場のようだった。

 足を踏み入れた途端に鼻をつく異臭。黒ずんだ塊が散乱し、そこに生物がいたという痕跡が至るところに撒き散らされている。

 血液と汚物でぬめった芝の上を歩きながら辺りを見渡すサイアスは、噴水の影に形を留めた人間を発見した。ただそれも無惨に半身を剔られて、辛うじてというレベルではあったが。近づくにつれてそれが昨日会った、あの青年であることに気付く。

「ジュオン……」

 サイアスは、血溜まりの中から彼の身体を抱き起こして呼びかけた。

 薄く開かれた彼の瞳が、震えながらサイアスの姿を捉える。

「サ、イアス、さん」

 声を出した途端に、ジュオンの目から涙が溢れた。緊張の糸が切れて充満していた恐怖心がどっとあふれ出したのだろう。ぱくぱくと空気を含みながら、ジュオンの口は込み上げる血液を押し出しながら言葉を吐く。

「すみ、ません。約束…まもれ、ませんでした。すみません」

 彼の傍らに落ちている飴玉がサイアスの目にとまった。

 おふくろさんに心配かけるな。そう言ったのは確かに自分で、泣いたりしませんよと言い返したのはジュオンで。

「い、やだ……。いやだよ母さん。まだ、まだ死にたくない」

 蒼白のジュオンは、うわごとのように呟いた。サイアスには、どうすることもできないのはわかりきっていた。だから、何かをしてやりたいとも思わなかった。

 ただ黙って、見ていてやることしかできない。

「母さん!」

 それきり動かなくなった。痙攣もおさまり、そこに血の抜け落ちた肉だけが残った。

 また、背中のシャドゥブランドが重くなる。

 ジュオンの遺体を芝生の上に横たえ、サイアスは立ち上がった。

 ―――――――― なあ、懐かしい匂いがするじゃないか。

 耳元で、誰かが囁く声がする。それは現実のものではなく、彼の心の奥底から聞こえてくる血の呼びかけ。ここへ来る前に、自分の背中を押したあの声だ。

 サイアスは昔から、そう、ずっと昔からその声を聞いて生きてきた。 それは彼自身のなかにあり、いつでも彼のすぐ後ろを歩いてくる影の声。

 ―――――――― 何をぼんやりしてる。 面白いのはこれからだろう。

 自分の後ろに誰かいる。背後に立つ気配を感じる。 それはサイアスと同じ声で、甘くどこか嘲るような口調で囁くのだ。

「黙れ。 おまえには関係ない」

 他人には聞こえぬ声で話し、自分にしか見ることのできない『そいつ』に、サイアスは切り捨てるように言い放った。そいつはすり寄るようにサイアスの肩に手を回す。

 ―――――――― つれないことを言うなよリジーデイ。俺とおまえの仲だろう?

「俺を、その名前で呼ぶんじゃねぇ」

 炎を吹き出すように、サイアスが怒りの声で突き放した。

『リジーデイ』。

 リンサイア東部地方の方言で、親の言いつけを守らない子供に付けられるあだ名だ。『聞き分けのない子』や『やんちゃ坊主』といったニュアンスである。

 だがそれ以上に、サイアスには意味のある言葉だった。

 義姉アメリオはサイアスを叱るとき以外は、幾つになっても彼をリジーデイと呼んでいた。彼女にしてみれば、手は掛かるが可愛い義弟だったのだろう。

 血のつながりは無くとも、そんな言葉に込められていたのは姉弟の絆なのだ。

 だからこそ、彼の背中に張り付いて離れないそいつにだけは口にされたくなかった。

 ―――――――― なにを怒ってるんだリジーデイ。もっと楽しくやろうじゃないか。

 サイアスの感情を、奥底に眠っている感情を揺さぶる、そいつの声。

「おまえの出る幕じゃない。これは、俺の問題だ」

 言い放った。うっすらと、そいつの気配が影を潜めるのがわかった。

 深呼吸をして、サイアスは走り出す。向かう先は血の足跡の向く場所。廊下を抜け、通路を幾つも曲がり、それは宝物庫へと続いていた。

 分厚い扉に閉ざされているはずの宝物庫。その扉が根本から破られ、ぼろ布のように床の上に放り出されていた。間違いない。こんな真似ができるのは、城壁を突き破って馬車を砕いた、あの右手の男だ。

 サイアスがシャドゥブランドを抜き放って宝物庫の中へと足を踏み入れると、闇の中からひとつの塊が突っ込んできた。

 それをシャドゥブランドで防いだサイアスは大きく後方へ押し戻される。突進を防がれた影は反動で大きく飛び上がり、宝物庫の屋根の上へ着地した。

「アイハァ。ロダ・イーヘッベ・トルムクィーニカ」

(ほう、よく防いだものだな)

 アドナスの民俗語。間違いなくヤツだ。 サイアスは体勢を立て直し、シャドゥブランドを低く構えて屋根を見上げる。オブジェのように鎮座していたのはあの男だった。

「ディオク・フィテ・ロジュムク・カァス」

(てめぇ、覚悟はできてんだろうな)

 サイアスが相手の言語で言い返すと、男はすこし驚いたように眉を上げた。

「私の民族の言葉を解するとはな」

 そう言うと、男は飛び降りてきて、サイアスの数メートル先に着地した。

「けっ。ミルサ族の血の気の多さにはうんざりするぜ」

 サイアスは毒づいた。ミルサ族は武術に長け、かつては侵略によってその規模を拡大してきた一族だ。しかし体術よりも兵器の進化の方が先行した現在にあっては、傭兵のなかにその出身者を稀にみるだけの少数民族となっている。

「貴様がサイアス・クーガーだな」

 右手の男は、サイアスの手に握られたシャドゥブランドを一瞥し、不敵に笑った。

「俺の事なんざどうでもいい。あのガキどもを殺ったのはてめぇか?」

 この答えがどうであれ、煮えたぎった感情をぶつける相手には違いない。

「戦いに身を置く者がふたり。そこに言葉など不要だろう!」

 巨体が飛び上がり、右手の男は膝を突きだして落ちてくる。サイアスはその一撃を横へ飛んでそれをかわすが、砕かれて舞い上がった砂煙を破り右手が後を追った。

 右手はサイアスの喉を捕らえ、その指が万力のような力で彼の喉に食い込んでくる。

「くおっ」

 気道を塞がれたサイアスは、短く唸って手にしたシャドゥブランドを振り上げた。

 振り下ろされた刃が肉に達するより早く、砂煙の中から男の本体が姿を現し、固定されたサイアスの頭部めがけて右の肘が放たれた。

 それは彼の米神を強打し、激しい稲光がサイアスの脳裏を駆けめぐる。

「潰れろ」

 後ろへ仰け反ったサイアスの身体を、男は全体重を乗せて硬い地面に後頭部から叩き落とす。強烈な一撃に床石の破片が散開し、サイアスの頭の後半分が地面にめり込んだ。

 反動で浮き上がった身体が重力に負けて地面に落ち、サイアスは大の字になる。

 右手の男は地面に埋まった手を引きずり出し、横たわる彼を見下ろして言った。

「……他愛ない。これが伝説の男とは」

 立ち去ろうと背を向けたとき、サイアスの上半身がゆっくりと持ち上がる。

「なら、その伝説ってやつが眉唾なんだろ」

 その声に振り向かされた右手の男の顔にある表情は、驚きとわずかな期待感であった。サイアスを地面に叩き込んだとき、確かに手応えはあった。それも、普通の人間ならば絶命してなければおかしいほどの手応え。それが何の苦もなく立ち上がろうとしている。サイアスは、まるで道ばたで転びでもしたかのように服に付いた塵を払い、まっすぐに立っていた。

「身体の頑丈さだけは、誉めよう」

 右手の男は笑んだ。久しく感じられなかった血のたぎりが全身の毛穴から吹き上がる。

 腰をかがめて、サイアスは地面に落ちたシャドゥブランドを取った。

「ミルサの柔術には風変わりな技があると聞いてたが」

 ずしりと重量感のあるシャドゥブランドを引きずりあげ、右手の男を紅の瞳が睨む。

「俺を獲るには、まだ甘ぇ」

 それはまさに獣の眼だった。交わした言葉は少なく対するも初めてだが、この瞬間サイアスの伝説たる由縁を知ったように思う。

「面白い。ならばこの『ライザンド・ジゴヴァ』が、全力をもって相手をしよう!」

 右腕を掲げて男は名乗った。それがミルサ族の慣わしか男の矜持によるものなのかはわからないが、サイアスは右手を振るうに価すると認められたのだ。

「なんだ。けっこう熱いじゃねぇか」

 ジゴヴァと言ったその男の口振りに、サイアスが口元を緩ませて言う。

「まあ、すぐに冷たくなるがな」

 そう続けたサイアスの瞳から熱が引いていく。冷徹に、紅の輝きだけが闇を突く。

「行くぜ!」

 サイアスが地を割るほどの力で踏み切り、疾走する。

 彼の巨躯な体格が加速して、空気の壁を切り裂くように一直線にジゴヴァに向かった。

 ジゴヴァは冷静にサイアスの動きを追い、彼が剣を振り上げたのを見計らって、軸となる右の脇に高速の左拳を連続で数発叩き込む。それは、決して生ぬるい打撃では無かったが、サイアスの突進は止まらず、何度打たれてもその足は衰えない。

「チマチマやってんじゃねぇっ!!」

 吼えて、サイアスがシャドゥブランドを振り下ろした。紙一重でジゴヴァは後へ飛び退き、刃は地面を大きく剔って深々と埋没する。

「退かずか。猛る獣のようだ!」

 サイアスの突進をそう評し、ジゴヴァは着地と同時に一躍してサイアスの懐へと飛び込む。渾身の力で打ち込んだサイアスの身体は、まだ惰性に引かれてバランスを崩していたが、ジゴヴァが向かい来るのを察知すると、彼は力任せに軸足を捻って左脚を乱暴に振り回した。

「おおぉっ」

 この大振りな回し蹴りをジゴヴァは身を引いて避け、開いた胸に右手の一撃を放った。

 鉄杭を打ち込まれたような衝撃が、サイアスの胸から背中まで貫く。右脚がわずかに地を離れて浮き、持ち上がった彼の身体は前屈みになる。その隙を逃さずサイアスの腕を掴むと、ジゴヴァは振り戻した右腕の肘で彼の鳩尾を下から突き上げた。

 胸骨を電流が巡り、肺の空気が鮮血まじりに口から絞り出される。

 ジゴヴァは宙にあるサイアスの身体を、そのまま腕を振り下ろすようにして再び地面に叩きつけた。背中を強打したにもかかわらず、サイアスはその反動を利用して大きく宙返りすると剣を構え直して、上空から全力で打ち下ろす。

 風を纏って迫るシャドゥブランドに対し、ジゴヴァの右腕が蔦のように立ちのぼり、サイアスのコートの裾を掴んで一気に引きずり降ろした。サイアスは地上に墜とされた瞬間に膝を折って両足で踏ん張る。上から押しつける重圧で靴の底が床石に食い込んだ。すぐさまその重圧をはね除けて、サイアスは腰を落とした体勢からシャドゥブランドを目の前のジゴヴァに向かって斬り上げた。

 しかし、そこにあったジゴヴァの姿は剣風で掻き消され、シャドゥブランドは虚しく宙を切り裂く。この一撃を左側に回り込んでかわしたジゴヴァは、強靱な脚力をバネにサイアスの脇腹に肩骨を打ち込んだ。

 筋肉の隙間が剔られるような激痛を感じながら、サイアスは密着するジゴヴァの身体を払いのけるように、シャドゥブランドを横に薙ぎ払う。だが、立て続けにダメージを受けた彼の肉体では超重量の剣を十分に振るえず、その一閃は飛び退いたジゴヴァを捕らえることはできなかった。

 間合いの外に出てしまったジゴヴァは、構えを正して呼吸を整えにかかる。

 一方、明らかに手数で押されているサイアスは、ようやく縮んだ肺に酸素を送り込む。穴の空いた袋に空気を吹き込むような乱れた呼吸が、彼の肩から背中までを痺れさせた。

「呼吸もままならぬ状態で、これほどの動きをみせようとは。面白い!」

 これまで拳と拳、あるいは剣を交えた相手のなかに、サイアスほど屈強なものは居なかった。ジゴヴァの内に秘められた闘争本能が、血液を沸騰させていく。

「どうした。これで終わりか」

 荒く呼吸をしながら、サイアスが掠れた声で吼えた。ジゴヴァはこの男の放つ闘気に威圧されているのを自覚した。ひと目には明らかに有利であるはずの彼が、サイアスの間合いに踏み込む機を伺っている。サイアスが挑発するように人差し指を動かした。

「かかって来いよ、おい。さっきの威勢はどこいったんだ。あぁ?」

 シャドゥブランドを引きずりながら、背中を屈めたサイアスが進み出る。ジゴヴァは打って出る隙間を探していた。あの剣は恐ろしくない。重すぎて太刀筋が限られるので注意さえすれば難なく避けられる。

 恐ろしいのは、急所に打ち込まれようが投げられようが、微動だにせずに突っ込んでくるサイアスの突進力だ。相手のペースに強引に引き込まれては危ない。

 一歩、サイアスが前に出た。それに合わせてジゴヴァは退く。

「間合いなんぞ計ってんじゃねぇ!」

 サイアスが両手でシャドゥブランドを振りかぶった。だが、完全に射程外だ。

 彼の行動を見て理解できなかったジゴヴァは、想像を行動へと移すのが遅れた。

 シャドゥブランドの刀身が、赤みを帯びた黒へと変色する。サイアスは渦巻く大気を吸い上げる刃を、ジゴヴァめがけて打ち出した。

 その刹那、ジゴヴァはようやくサイアスの行動の意味を理解する。目一杯に上半身を捻って避けようとするが、シャドゥブランドの刃から放たれた漆黒の衝撃波は彼の胸と腹を掠め、背後にあった宝物庫の強固な外壁を粉々に粉砕した。

 衝撃波はジゴヴァの身体をわずかに掠めただけであったにもかかわらず、彼の身体は爆風に巻き込まれるように宙へと投げ出され、骨の髄まで軋んだ。

「仕込みかっ!」

 己が不覚を吐き、ジゴヴァは空中で体勢を立て直そうと重心をずらした。そのとき、目の前に飛び上がった影によって、視界が月明かりから闇夜へと墜ちた。

 白いコートの暗闇の中に、紅い眼だけが光っていた。

「獲った」

 呟き、サイアスの拳がまずジゴヴァの腹部を捉える。それは分厚い筋肉の壁をものともせず、彼の内臓を直撃した。続く二発目が顔面に叩き込まれて、ジゴヴァの視界には星が散る。

「むぉっ!」

 激しい振動に脳が白んだ霧をかけ、遠のくように景色が歪んだ。濁った意識のなかでジゴヴァは分厚い刃が自分めがけて振り下ろされるのを見る。彼は咄嗟に右手で頭部を庇い、右腕の肉深くに走った焼け付くような痛覚によって意識が覚醒された。

 剣の柄を握るサイアスの手には、骨まで達するほどの手応えは感じられなかったが、構わずジゴヴァの巨体をそのまま地上へと叩きつける。

 超重量のシャドウブランドに、おそらくそれ以上の重量があろうジゴヴァの身体は加速をかけられ、床石を剔って背中からめり込んだ。

 ジゴヴァの耳の奥で鐘をついたようにわんわんと何かが鳴り響いている。 耐久力は人並み以上であるはずの彼の肉体をもってしても、この一撃は重く肉体の内側まで突き抜けるほどだった。

 自分を見下ろすサイアスの眼をジゴヴァは見る。それは血の色をしていた。

 ジゴヴァは飛び起きようとするが、全身を縛っている痛みのためせいで力が入らず、右腕を踏みつけるサイアスの足をはね除けられない。

 サイアスが夜空に掲げたシャドゥブランドが、再び漆黒の障気を纏いはじめる。

 彼の心の中にはエゾニアクとジュオン、そして屍の山があった。

「言ったよな? すぐに冷たくなると」

 打ち込もうとしたとき、神の右腕が蜃気楼のように妖しく揺らめいた。

「あまり舐めるな」

 言い切るが早いか、踏みつけられていたはずの右腕が煙の如く霧散し、剛力なる掌がサイアスの頭部を鷲掴みにすると、今度はサイアスが矢のように投げ飛ばされる。

 一直線に石壁に激突し、彼は壁を突き破って向こう側まで抜けた。

 拘束を解かれたジゴヴァはゆらりと立ち上がって、首筋に手を当てて関節を鳴らす。

「気を放つとは風変わりな剣だ。だが奇襲にしては使いどころを誤ったな」

 奥の手は、最後まで見せないものだ。それは息を殺して潜み、確実に相手を仕留める瞬間にだけ放たれる雷光。

 ここで右手の『能力』を使ったジゴヴァには、今度こそ確実な手応えがあった。

 砕け散った壁の穴へと近づく彼の目に、壁の向こう側に蠢く人影が見えた。

「奇襲だと? 寝ぼけてんじゃねぇよ」

 そう言って、壁の向こう側の闇からふたつの紅い眼が、鈍く輝く剣を携えて駆ける。

「せこい駆け引き打とうっていう、てめぇの目を覚ましてやっただけだ」

 横一閃、薙ぎ払った剣をジゴヴァは地を蹴って飛び越え、サイアスの背後に回った。

「剣線が鈍っているぞ。さすがにダメージが蓄積しはじめたか」

「へっ。酒が回ってきたのさ」

 額から血を垂れ流し、唇が切れていても、サイアスの強気の姿勢は崩れない。

 背後に向かって身体を半回転させ、遠心力を付けて剣を振る。

「それが甘いと言っている」

 ジゴヴァの右腕がシャドゥブランドの刀身を通り抜けて直接サイアスの身体を掴んだ。シャドゥブランドはまるでジゴヴァの右腕と一体化してしまったかのように、ピクリとも動かない。ジゴヴァはサイアスを引き上げ、振り子のように勢いを付けて投げ飛ばす。

 ―――――――― まただ。 また通り抜けやがった。

 肩から地上に落ちて数メートルを滑ると、サイアスは手を突いて起き上がった。

「見切る力は本物だな」

 ミルサ族流の柔術が、攻めと返しを中心として組み立てられていることは身をもって理解した。それに右腕の剛力と物体を透過する能力が加わり、完成されている。

 ジゴヴァは、右腕に深々と付けられた傷口を見つめて言った。

「貴様は実に興味深い。できることなら今しばらく闘いを楽しみたいところだが、どうやらそうもいかぬようだ」

 気配を感じた。サイアスが振り返ったときには、すでに遅い。

 背後に立っていたのは女だった。若草のような髪が揺れ、入れ墨された顔には笑みがある。流線型の盾が真っ直ぐにこちらに向けられ、その盾に装飾された穴から、無数の矢が飛び出した。

 その矢はサイアスの身体に容赦なく突き刺さった。脚、胸、腕と幾つも枝をはやし、続けざまに女の異形の左腕が伸び、握りしめた拳の甲がサイアスの顔面を捉える。

 サイアスも無理やり脚を踏ん張って剣を振るが、アクロバットのように舞い上がった彼女の身体を捉えることはできず、女はサイアスの肩を踏み台にしてもう一段飛んだ。

 ひらりジゴヴァの傍らへと舞い降り、彼女は片言のミルサ言葉で言う。

「ジゴヴァ、遅い、こっちは済んだ」

 そう言って広げた彼女の左手に、指輪のようなものが握られていた。ジゴヴァはその指輪を受け取り、今度は女の国の言葉で言う。

「ホルミドゥイア・カラーリュイクス・ド・アルフビ・レニュイ。ミシュア」

(ミシュア、約束の時間だ。礼拝堂へ向かうぞ)

 その言葉を耳にしたサイアスは、ミシュアと呼ばれた緑髪の女がイジェニアの出身だと察した。それと同時に、ゴラの見た怪物がこの女の左腕であることも理解する。

 サイアスは背中で笑っていた。振り返り、ミシュアの顔を嘲るような笑みで見つめる。

「ギュル・ジュオフォドクリテ・イージュナ・サンドロッサイクボルテゥ・アガー」

(顔に似合わず、エグいもんぶら下げてるじゃねぇか、小娘)

 ミシュアの髪が逆立つ。ジゴヴァが彼女の気持ちを察して諭すように言った。

「やめておけ。『鍵』は手に入れたのだ。 我々の目的は果たした、いまは合流するのが先だ」

 だがミシュアはその言葉をまったく聞くようすもなく、舌なめずりをして言う。

「フフゥ。ジュスペイサ・クールガリオ・オヴァ・ドクミュツリヲ」

(へぇ。英雄さん、あなた口の効き方も知らないのね)

 サイアスの挑発であることは百も承知だ。それでも負けるはずがない喧嘩なら買う。少しでも自分を虚仮にするような輩には、身をもって思い知らせるのが彼女の流儀だ。

 一方サイアスにも、どうしてもこの挑発に相手を乗らせたい理由があった。

 ミシュアから左の裏拳を受けた瞬間、サイアスは匂いを嗅いだのだ。ジュオンとその同胞達が朽ちていたあの場所に漂っていたのと同じ血の匂いを。

 彼らを殺したのは右腕の男ではなく、この左腕の女なのだ。まとめて借りを返すとなれば、冷静さを保つ術をしるジゴヴァよりも、突つけば火の出るミシュアのほうを挑発したほうが効果がある。片方が残れば他方も付き合わざるを得まい。

 そしてミシュアは、その挑発に乗った。

「ジゴヴァ。イシュ・タカーギル・ディゾビアクロム・アディ」

(力を試すには、いい的じゃない。ジゴヴァ)

 そしてこう続ける。

「アンデュ・フォクドマーニ・アラビエンサ・ドィビ」

(やっぱり普通の人間相手じゃ、物足りないからさ)

 にやりと笑って、サイアスの眼がミシュアの視線と交わった。

「なら、試してみるか?」

「え?」

「てめぇら御自慢の『ヒト以上の力』ってヤツが、『ヒト以外』に通じるかどうか」

 この言葉に、ジゴヴァとミシュアは鳥肌が立った。 熱気、吹き上がるほどの圧倒的な熱気を感じたのだ。

 サイアスの中で、力が滾る。筋肉が隆起し、無尽蔵の闘志が生まれる。それこそが、彼の内に流れる血の証だ。

 知るものがこの場にいれば、今のサイアスはガイア・ハモンドに生き写しだろう。

「来いよ。てめぇらの力ってヤツを見せてみろ」

 一声を合図に、ミシュアが動いた。 右手の盾が重いのだろう。軽装な衣服とは裏腹に、その走りは敏捷さを欠いている。

 合わせて走り出したサイアスの拳がミシュアに向かった瞬間、ミシュアは両足の踵でブレーキをかけ、盾の後に身を隠す。拳打は盾に阻まれ、表面の滑らかな丸みに流された。

 そのときだ。盾の両側が開き、内部に収められていた円盤状の鋸歯が姿を現す。金属のアームに支えられたその鋸歯が挟み込むようにサイアスに襲いかかる。

 脇腹を切り裂く円盤をものともせずに、サイアスはミシュアの身体を掴みにかかった。盾で打撃を受け流せても、身体を掴んでしまえばこっちのものだ。

 しかし、その手が彼女に届くより早く、体勢を低くしたジゴヴァが背後から迫る。

 背中から伸び上り、ジゴヴァの右腕が突き出された。 サイアスは腰を捻って反転し、ジゴヴァの突きに対して左の拳をボディめがけて繰り出す。

「甘ぇんだよ!」

 わずかな差で、ジゴヴァは痛烈なボディブロウを喰らわされて宙を舞った。そのままの勢いで、サイアスはミシュアに向かって次なる一撃を放つ。

「あなたも甘いわ」

 薄ら笑うミシュアの盾から、別の仕掛けが飛び出した。それは十字を切るような四枚の刃。受け止めたサイアスの腕を四方から突き立てる。

「もうひとつあげるわ!」

 その言葉と同時に、彼女の手に仕込まれていた鋼の糸が、音もなくサイアスの首筋に巻き付いた。糸の片端を左腕が支え、絞るようにして喉へと食い込んでくる。

 鋼糸は見る間に皮を裂き、肉へと食い込んでいく。首を切断されかねないほどの力で締め上げられているにもかかわらず、サイアスの顔に浮かんでいたのは焦りでも混乱でもなく、笑みだった。

「……捕らえたつもりか?」

 発せられた言葉に、ミシュアは背筋に寒いものを感じた。サイアスの両脇には鋸歯が数センチも食い込んでおり、右腕は固定するようにがっちりと四本の刃が突き立てられ、首は鋼糸に獲られて満足に左腕を振るうこともできまい。

 しかし、ミシュアはこの男と初めて戦ったのだ。思考の巡りに、彼女の計算の範疇にサイアスのような『ヒト以外』の存在の何たるかが含まれていないのは当たり前。

 彼女もジゴヴァも、サイアス・クーガーという男を見誤っていた。

「てめぇが捕まってんだよ、小娘」

 片腕で、刃の突き立った右腕一本の力だけで、ミシュアの両足は地から離れて軽々と持ち上げられてしまった。刃が更に腕の肉を食い破るが、そんなことはお構いなしだ。

 このときミシュアは、ようやく自分が両腕を塞がれているということに気付かされる。慌てて盾の仕掛けを解除しようとするが、もう遅い。

 サイアスはミシュアの頭部めがけて左脚を振り上げた。それは彼女の米神を直撃し、額を覆っているヘッドギアにヒビを走らせる。

「くぅっ!」

 一瞬にして脳天からつま先までを痺れさせる刺痛と吐き気。ミシュアの盾の仕掛けが解除され、サイアスに食い込んでいた鋸歯と鎌形の刃とが盾の内部へと戻った。

 地面に落ちたミシュアは受け身をとりながら後方へと転がって距離を離し、痛みを堪えてすぐに立ち上がる。

 壁際まで飛ばされていたジゴヴァも、サイアスの傍まで間合いを詰めてきていた。

 コートは血に染まり、脇腹、頭部、唇、右腕に激しい裂傷を持ちながら、サイアスはシャドゥブランドを肩口に立て掛けるようにして構え、ふたりの顔を交互に見やる。

「神々の力だか何だか知らねぇが、要するに人間超えてんのは『腕』だけなんだろう? 何のことはねぇ生身の部分は所詮『人間並み』だ」

 身体に突き刺さった矢を引き抜きながら、サイアスが言った。ジゴヴァとミシュアは、ヒト以外と自称した男の正体を見せつけられる思いだ。

「っ」

 刺さっていた矢を投げ捨てたサイアスの口元が歪み、眉間にしわが寄る。

 その様子を見たミシュアの眼光が、豹のように鋭くなった。

「なめるんじゃないよ、鈍いだけのバカが。 その矢がただの飛び道具だとでも思ったのかい」

「けっ、毒矢とはおもしれえじゃねぇか」

 サイアスはギリッと奥歯をならして笑う。 明らかな苦痛の表情が浮かんでいるが、むしろ気圧されているのはミシュアのほうだった。 あの毒は像一頭が死ぬほど強力なものだ。それを無数に受けて、まだ生きているどころか、あれだけの攻撃を繰り出してきたのだ。

「いいから、さっさとくたばんなよ」

 左腕が脈打っていた。緑色の腕に、所々 紫の斑点が浮かび始める。

 ジゴヴァの右腕も、再び大気のように揺らめいた。両者とも能力解放というわけだ。このときジゴヴァはあることに気付いていた。サイアス・クーガーは、ただ単にタフさを武器に突っ込んでいるわけではない。現にいま背後から攻撃を仕掛けたとき、初めは通じたタイミングであったにも関わらず、今度はこちらが手痛い反撃を受けたのだ。

 確実に、こちらの攻撃パターンを吸収し始めている。ミシュアの盾の仕込みも、一度見せてしまったからには、次からどれほど通じることか。

「悪いが、もう終わりにしよう。貴様と長くは付き合えぬのでな!」

 構えながらジゴヴァが言った。討ち取らねば、長引けばそれだけこちらが振りになる。

 ミシュアも尖った視線を送りながら、舌なめずりした。

「引き裂いて、あのガキどもみてぇに腑引きずり出してやるよっ!」

 左と右、挟まれて立つサイアスは、両腕を開き、肩幅に脚を広げて横目で睨んで叫ぶ。

「来な」

 ジゴヴァとミシュアが、同時に地面を蹴った。先に間合いに入ったのは、やや身軽なミシュアだ。サイアスの剣が、横薙ぎにミシュアへと向かう。彼女は盾でその剣を受け止め、金属の激しいぶつかり合いに火花が生じた。

 その火花に混じって、盾の中央の穴から業烈な炎が吹き出す。

「ちっ!」

 激しい炎に全身をまかれて、サイアスの視界が一瞬 歪んだ。

 その隙を突いてミシュアは彼の懐へと潜り込む。

「はっ」

 かけ声と共に、左手の爪がサイアスの頬を引き裂くように振るわれる。まるで強い酸を含んでいるかのように、爪は彼の頬を切り爛れさせた。 すぐさま右腕の盾が体重を乗せて打ち上げられる。まるで火薬でも使って打ち出されているかのようなその一撃は、サイアスの胸骨に深くめり込んだ。

 左手が奇妙な光を宿す。それは水掻きの張った掌の上で球状になり、ミシュアは仰け反っているサイアスの腹部めがけて渾身の力でそれを打ち込む。強靱な肉体を貫いて、光はサイアスの内臓そのものを強打した。

「ぐっ」

 まるで喉の辺りまで臓器が押し上げられるような感覚。痛みより灼熱感が全身を襲う。

「飛び散りなっ」

 ミシュアの左腕全体が光を放ち、ヒレが広がって輝く粒子を放出する。はち切れんばかりに膨らんだ筋肉に押され、彼女は目にも留まらぬ速さで空間を切り裂き駆け抜けた。

 左手がサイアスの腹部を突き抜けた瞬間、視界が雷に打たれたように白く染まった。四肢が異なった方向へと歪み、内臓が捩れる。

 四度の攻撃すべてがもう一度体内で爆発するような痛苦が、傷口から吹き出した。

 ――――――― おいおい、こいつぁ小娘の筋力じゃねぇぜ。

「おおぉ!」

 猛り、飛び散りそうな意識を押し留め、濁る視界に向かって一杯に剣を振る。その切先が、攻撃の惰性に引かれるミシュアを射程に捕らえた。

 慌ててミシュアは右手を返して盾で受け止めるが、今度は垂直に刃が立てられた為に威いを受け流せず、彼女は弾かれて大きく飛ばされる。 びきり、と骨の折れるような音がして盾に亀裂が走った。

「逃したか」

 不自然な手応えに、仕留められなかったことを悟ったサイアスが吐き捨てた。だが、この一撃に悔しさを覚えたのは、むしろミシュアの方であろう。

「どこまで鈍いんだ、こいつはっ!」

 空中で体勢を立て直し、着地したミシュアがサイアスの背中を睨む。

 理解できなかった。自分の左腕を使った四連攻撃をまともに受けておいて、それでも返す一撃のこの威力。まさか砲弾さえ受け流すこの盾に傷をつくられることになろうとは、どこからこれだけの力が湧いて来るというのだ。

「いや、それもここまでだ」

 ジゴヴァだった。

 白んだサイアスの脳が正常に状態を把握するのとほぼ同時に、次なる衝撃が彼を襲う。

「一瞬だが、この男の動きを止める。それだけで十分だ、ミシュア」

 背後からの右腕の一撃が、サイアスの背骨から肋骨までを激震させる。

「ぐおっ」

 視界が、歪む。分裂する。

「どれほど強靱な肉体を持とうとも」

 叫んだジゴヴァの腕がサイアスの後頭部を掴んだ。そのまま倒すように引き寄せられ、サイアスの頭部には右肘という強烈な杭が打ち込まれる。

 みしり、と耳の奥に鈍い音が聞こえた。

「それでも人間が、我々の力の上を行くことはない」

 右腕が弧を描いてサイアスの鳩尾にめり込んだ。一瞬遅れて、身体が衝撃で吹き飛ぶ。

 猛スピードで宝物庫の壁に飛び込み、サイアスの上に組石が轟音と共に崩れて落ちた。

 砂煙がおこり、風に吹かれて塵が薄い幕を下ろす。

 サイアスの姿は、崩れ落ちた宝物庫の下に完全に飲み込まれていた。

「ミシュア、行くぞ。『鍵』は手に入れた」

 静かに向きを変えて、ジゴヴァが歩き出す。しかしミシュアは瓦礫と化したその場所を睨みつけたままだ。

 彼女の表情から胸中を察し、ジゴヴァは彼女の肩に手を置く。

「放っておけ、あれだけやれば充分だろう。 毒が回ればいずれ死ぬ」

 彼の手を払いのけて、ミシュアは鋭い視線をジゴヴァに向けた。

「うるさいっ! あんたが殺っちまったから気が治まらないんだよ。たとえ死体でも、あの野郎はあたしの手で八つ裂きにしてやる」

 激しやすい気性であることは理解しているが、ジゴヴァは彼女の目に怒り以外の感情が混じっているのにも気付いた。おそらく、その感情がミシュアをここまでいきり立たせているのだろう。そして、自分の目にもそれと同じものが浮かんでいるはずだ。

「ヤツは死んだ。いまは他の者達と合流するのが先だ」

 自分で口にしながらジゴヴァは、この状況をいち早く立ち去るための理由にしているとは思いたくなかった。

 ミシュアが剥き出しの感情を鞘に収めかけたとき、瓦礫の上から小石が転がり落ちた。

 その音に、ふたりは振り返らざるを得ない。

 瓦礫が、震えていた。

 それは間違いなく、ジゴヴァとミシュアの予想を飛び越えた光景であった。

 突然、折り重なった瓦礫が粉砕するようにして飛び散った。

 緊張が場を支配し、瓦礫の中からその男の姿が現れた。ぐったりと項垂れ、背を丸めてはいるが、両の脚で地面に立ち、シャドゥブランドを引きずるようにして一歩ずつ、こちらへと向かってくる。

 血がこびり付いて乱れた前髪が顔を隠し、落ちた影の中で紅い眼がしっかりと正面のふたりを見据えていた。

「……てめぇら」

 うまく口が動かない。喋るたびに唇を伝って血が滴り落ちる。

「どこに行くつもりだ、あぁ?」

 肺が圧迫されるような違和感。喉を空気が通過するたびに、硝子窓を引っ掻くような不快な音が立った。

 それでもサイアスは進む。前へ。

「野郎っ!」

 ミシュアが飛びかかろうとしたが、それを制したのはジゴヴァだった。

「何を」

 言いかけたとき、ジゴヴァが顎でサイアスのほうを指す。ミシュアが視線を戻すとそこには前のめりに倒れたサイアスの姿があった。

 どれほど人並みはずれた肉体、体力を持っていようとも、無限に続くわけではない。必ず限界はある。ひとが限界を向かえたとき訪れるのは敗北か死だ。

 地に伏したサイアスの意識は、漆黒の中に漂っていた。

 また聞こえてくる。自分に囁き続けるあの声が。

 ――――――― どうした、リジーデイ。もう終わりかよ、情けねえヤツだな。

 “黙れ”

 ――――――― なあ、そろそろ『俺』にも遊ばせてくれよ。いいだろう?

 “何度も言わせるんじゃねぇ。てめぇの出る幕じゃねぇんだ”

 ―――――――おいおい、そんなこと言ってる場合か? ヤツら逃げちまうぜ。 なあリジーデイ、おまえは休んでていいからよ、ちょっとだけ俺を『外』に出してくれ。 ちょっとだけでいいんだよ。そうすりゃあ、一瞬でガキどもの仇は伐ってやるからさぁ。

 “仇を伐って、それからどうするつもりだ。ガイア・ハモンドの二の舞か? ふざけるな”

 ――――――― どうせあと一押しでおまえの意識は切れる。 ヤツらがこじ開けるならそれでもいいさ。

 意識の中の葛藤が続いているあいだに、ミシュアがサイアスを言葉どおり八つ裂きにしようと近づいていた。一方ジゴヴァはぴくりとも動かないサイアスを、険しい表情で見つめている。

 ミシュアの左手の爪が妖しげな輝きを放った。それが振り下ろされようとしたとき、ジゴヴァが再び彼女を制する。

「待て!」

 またもやおあずけを喰らったミシュアが、怒り心頭にジゴヴァに怒鳴った。

「今度はなんだっ! いい加減にしないと、あんたからバラすよ!」

 だが、ジゴヴァの表情を見て、彼女もただ事でないと悟った。

 ジゴヴァが睨んでいたのは地に倒れたサイアスの姿。いや、その直前に彼の背後に立っていた何者かの気配を彼は感じていたのだ。

「これ以上、この男を追いつめるな」

「なに言ってんの? こいつは敵よ、今のうちに始末しとくに限るわ」

 ミシュアは感じないが、サイアスを包み込むオーラがより巨大なものへと変化した。

「だめだ、これ以上は手を出すな。この男、何かがやばいっ!」

 うまく言葉にできないが、命のやり取りのなかで生き続けてきた彼の全身の細胞がやめろといっている。これまでにないほどに警鐘を鳴らしているのだ。

「いずれにせよ、合流の時間が迫っている。ここまでだ」

 そう言って、彼は半ば強引にミシュアの腕を引いてその場を立ち去る。

 今まで感じたことのない悪寒。ジゴヴァの直感に誤りはなかった。その時サイアスの意識内では今まさに表に出ようとする『そいつ』と、押し留めようとするサイアスの鬩ぎ合いが、激しさを増していたのだから。

 ―――――――おいおい行っちまいやがった。 あと一発ドカンと食らわせてくれたら、俺の出番が回ってきたってのによ。 なあリジーデイ。

 “気安く呼ぶんじゃねぇ。これは俺の喧嘩だ。勝ちも負けも俺が背負う”

 ――――――― 格好つけんじゃねぇよ。なにひとつ背負えねぇくせしやがって。

 サイアスが頑なに心を閉ざすが、そいつは強引に彼の意識に食い込んでくる。

 ―――――――そうだろう? いままで俺が何度おまえを助けてやった? おまえは結局、ひとりじゃ何もできやしねぇんだよ。

 “てめぇに助けられた覚えはねぇ”

 ―――――――なあリジーデイ、もう痛ぇのは嫌だろう? 苦しいのも嫌だろう? 俺に代われよ。俺がおまえを護ってやるから。

 “失せろ。俺にはてめぇの力なんぞ必要ねぇんだ”

 ―――――――リジーデイ。おまえはいつもそう言うが、いまのこの様はなんだ。 それにあの時はどうなった? おまえの大好きだった『おねぇちゃん』のときはよぉ。

 心臓に、無数の釘を刺されるような痛みが走った。

 十年前の光景が、稲光のように連続して網膜の奥に甦る。

 ―――――――クククッ。見ものだったよなぁ、おまえは何にもできなかったんだから。いまも同じだ。おまえには何にもできてねぇ。

 心が、割れる。そいつが心を食い破る。

 ―――――――いいじゃねぇか、リジーデイ。おまえだけが苦しまなくても。 これからは俺が代わってやるから、おまえの苦しみを引き受けてやるから、おまえは休めよ。 俺がおまえのしたかったようにしてやる。

 優しく、まるで家族を労るように、そいつは言葉を吐き出した。サイアスの意識に、ますますそいつが溶け込んでくるのがわかった。

 ――――――― なあ、もう休めリジーデイ。おまえは、十分にやったんだ。 目を閉じて、少し眠れ。

 そいつが背後からサイアスの身体を抱き寄せ優しく彼の額に手を当てる。その手が彼の瞼を閉じさせようと、ゆっくり彼の顔を撫で下ろす。

 瞼を閉じかけたとき、胸の奥で懐かしい声がした。 ハッと、サイアスは目を開く。

 気を確かに持ち直して、サイアスは自分の意識の中からそいつを強引に押し出した。

 “俺が死ぬまでは、てめぇの好きにはさせねぇ”

 ――――――― ああそうかい。じゃあ、このままくたばっちまえよ。

 追い出されたそいつは舌打ちをするように吐き捨てて、記憶の闇へと消えていった。

 解放されたサイアスは、黒いタールの海に沈むように意識が薄れていくのを感じた。

 意識の糸が途切れる間際にサイアスは義姉のアメリオの顔を思い出していた。 そして自分を引きすりあげてくれた言葉を。

 喧嘩やもめ事を起こすたびに彼女は決まって自分を椅子に座らせて、叱咤するでもなく静かな声で言っていた言葉がある。

 ――――――― 強い人間になりなさい。 力におぼれるのは、臆病だからよ。

 あの日泣いていた姉の姿が今は優しく微笑んでいるように思えた。



 サイアスとふたりの侵略者との決着がついたとき、礼拝堂のなかのサッシュは選択を迫られていた。

 業火が礼拝堂の中のあらゆる装飾を飲み込み、いまや炎の壁が取り囲むのみ。 対峙する『眼の男』の周りを取り囲む紫の触手の群れは未だにその勢力が衰えない。

 すでに鞭は幾たびかの攻撃を防いだ事によりズタズタで、ブーメランは拉げ、ダーツの矢は尽き、自分の能力を制御する力にも限界が近づいていた。

 加えて受けた傷は深く、流れる血に無情に体力を奪われる。

「あんたらが俺の能力を必要としてるんだったら、まさか殺しはしねぇよな?」

 自分への皮肉として、サッシュは目の前に立つ男に訊いた。

「生きて能力を提供するのならそれもよし。さもなくば命の保障はない。それに、君はいずれにしても我々に協力せざるを得ないさ」

 そう口にしたとき、礼拝堂の扉が砕ける音を聞いた。吹き込む空気と共に、ふたりの人物が中に入ってくる。

「遅かったな、ジゴヴァ、ミシュア。『鍵』は手に入ったのか?」

 それを聞いて、サッシュは男が言っていた『同志』というのがこの二人だと理解する。炎の向こう側に異様な腕を持った彼らが見えた。男がサッシュに語りかける。

「エスメライト君。目的のひとつは達した。そして間もなく、もうひとつも手に入る」

「俺が、そう易々と引き受けるとでも?」

 強がりではなく、殺されてでも強力すまいという決意はあった。男は笑って言う。

「引き受けるさ。愛しい姫君の命と引き替えとあれば、やらせてくださいと君の方から頼んでくるに違いない」

 全身の血液が逆流するのを感じた。

「て、めぇっ!!」

「保険だよ。いま残りの同志が『彼女』を迎えに行っている。いくら紫緋のギュスターと言えど、自分の妻と主君とを天秤に掛けられたなら、どう出るだろうな?」

 男にもサッシュにも、ギュスタレイドがどう出るかなどということはわかっている。しかし彼の洞察がある一線を越えなければ、それは敵の思惑に填ることを意味するのだ。

「ギュスターはふたりとも逃がすさ。あんたらの狙いがどうあれ、あいつは彼女たちを戦いの場に居残らせたりはしない」

「そうだろうな。だが、仮に逃げられていても問題はない。そのための『もう一人』だ」

 行動とはいわばギュスタレイドの必然だ。どういう経緯を経ても、彼は必ずそういう結論に達する男だと理解していれば、自ずと答えは見えてくる。

 これにもう一枚網が張られていたら、もはや回避することができない。あとは相手の思うつぼ、絡め取られて動けなくなるだけだ。

「どうやら、今回は完全にこっちの手落ちだったみたいだな」

 相手の計画が綿密だったわけではない。ただ、隙間を埋めるようにして流れを引き寄せただけだ。事態を急転させる急所を相手に握られていた。

「無駄なことはやめにしよう、エスメライト君。我々は君に協力を願い出ているのだよ。それを受けてくれさえすれば、君に不利なようにはしない」

 たとえそれが嘘でなくともアシュカの安全は保障されない。どちらにしても、選択の余地は残されていなかった。それにかけられる時間もあとわずかだ。

 腹を据えた。気持ちの中で重くのし掛かっていたものが軽くなったように感じる。

「俺が、それでも断ると言ったら、どうする?」

 くだらない質問だったが、サッシュは笑いながらそれを口にした。

 これを聞いた左腕に妙なものを付けた女が、薄ら笑いながら異国の言葉で返す。

「ジュゼイ・ボジュクルスミア・アークロイム・ディーヴサス」

 一言一句 正確にとまではいかないが、あいつらのように殺してやる、といった言い回しだったはずだ。それが誰を指すのかすぐに察しは付く。

 言葉を阻んで、右腕から獣を生やした男が、聞いたこともない言葉で言う。

「グンデュ・アガラ・サーリオエン・ドマ・サイアス」

 最後の一句、サイアスという言葉にサッシュは嫌なものを見た。眼の男がその言葉を通訳してサッシュに伝える。

「君の頼みの綱だったサイアス・クーガーもすでに倒したそうだ。君はもう逃げることはできない。愛しい者達のために、ここは自分を曲げることが賢い人間の選択だ」

 どこまでもサッシュを誘うが、すでに彼の胸の内では別の選択が成されていた。

 そして今、女が言った一言でそれを実行するための躊躇いのようなものも消えた。殺されたのは王宮警護隊の部下達だろう。いつのまに剣音が聞こえてこなくなったのを、そういうことだと理解する。彼らは戦い、そして敗れたのだ。

 サッシュは後悔を感じていた。同時に彼ひとりでは支えきれぬほどの怒りを。

 迷う必要はない。自分はやるべき事を成す。迷って進まなければ、選択するのが遅くなれば、それは敗北の傷口を化膿させるだけだ。

 部下が殺された。死者が少数だとしても、これは自分の部下が命を賭した戦い。

 やらなくてどうする。自分は隊長だ。まがりなりにも、あの者達の長なのだ。

「できれば、土のしたがよかったぜ」

 ボソリとサッシュが呟いた。男が、片方の眉を持ち上げて言う。

「何のことかね」

「いいや、こっちの話しさ。ところであんた、誰かを利用しようとしたときの、一番のリスクは何か知ってるか?」

 突然の質問に、男は答えを探った。

「……君のように、頑なに拒まれること。さもなくば、その誰かが期待はずれなことだ」

 的はずれではなかったが、それは結果であってリスクではない。

「違うな。 一番のリスクは利用しようとした相手が『消えちまう』ことさっ!」

 声をあげて、サッシュは自分の傍らにある石柱を全力で蹴飛ばした。燃え立つ天井が揺らぎ、壁が軋む。この行動によって、男はサッシュの言葉の意味を察した。

「崩そうというのかっ!」

「二百年を越える石造建築だ。柱が抜ければ堤も落ちる」

 男が紫のヘビを突いてサッシュを止めようとするが、すでに間に合わなかった。石柱の太い腹に巻き付けられた鞭を引くと、ずれた石柱の継ぎ目がふたつに割れる。

 焼けて脆くなった梁が重さに負けて折れ、壁面をつなぐ間柱にも亀裂が走った。

 天井が、落ちる。組み上げられた幾百もの壁石が支えを失って崩れだす。

 男はサッシュから視線を外して天井を見上げた。眼の能力を全開にして石から自分を護る。ジゴヴァとミシュアは、サッシュを捉えようと腕を伸ばしたが、落下した巨石によって道筋は閉ざされた。

 飾り硝子が砕け、雪崩れる壁が炎とその中にあるものを飲み込んでいく。

「ヴィ・ロガァ!!」

(退くぞ!)

 叫んで、ジゴヴァはミシュアを押して礼拝堂から転がり出た。

「これで、てめぇらの『二つ目』は無くなる」

 石降る下で、サッシュは自分の選んだ運命を受け入れて、天を仰ぐように眼を閉じる。ふたりは逃がしたが、眼の男は道連れだ。ブーメランで傷を付けられたように、肉体は生身の人間。生き埋めにされては呼吸が続くまい。

 これでいい。自分がいなくなれば、やつらがアシュカを狙う意味もなくなる。鍵とやらも、自分の能力を利用できねば大した意味を持たないだろう。

 閉ざされていく視界の中に、サッシュは蒼白い炎の揺らめきを見た。

 それが暗闇に消える間際、暖かな一陣の風が肉体を通過していくように感じる。

 すまない、アシュカ。もうおまえを迎えには行けない。



 チェスカニーテが、アシュカとマリーアンを連れて邸を出たのは、ちょうどサッシュが礼拝堂と運命を共にすることを決意したときだった。

 御屋敷街を繁華街方面に向かう。 とにかく今は大通りへ。人混みに身を紛らせることが一番であると判断したからだ。

 人の往来がない御屋敷街の塀の迷路を、周囲を伺いつつ路地を縫って進む。

「大丈夫よ、はやくっ!」

 アシュカが安全を確認して、チェスカニーテとマリーアンを手招きした。ここへきて、先頭はチェスカニーテから戦いの経験を持つアシュカに移っていたが、彼女がふたりを守り抜こうと覚悟を決められたのは、チェスカニーテの強さを見たためである。

 ふたりが自分の後に追いつくと、アシュカはひとまず息を付いた。緊張に息を殺していたせいで、マリーアンもチェスカニーテもかなり呼吸が乱れている。

「おかしいわね。絶対に見張りが付いてると思ったけど」

 こうまで静かだと、逆に疑わしくて堪らない。

「あたし、たちは、走っていった方がいいんじゃ、ないのぉ?」

 チェスカニーテが唾を飲み込みながら、切れ切れに言った。確かにここまで敵が現れないのなら、大通りまで走り抜けてしまった方が事態の進展が早いかもしれない。

 しかし、戦いとはそういうものではないのだ。十重二十重に仕掛けを打ってこそ戦う足場を固められる。だとすれば、ここで何事も起こらぬはずがない。

 そして何よりアシュカの全身を指すような巨大な気配。物陰、木枝の間、路地の隙間、自分を取り巻くすべての闇から見張られているような緊張感。

「何か変だ。この、嫌な感じ」

 十年前に魔導師と戦った時に感じた、この未知の恐怖。ぬらぬらと掴み取れない影の正体を探るような当て所のないイメージだけが膨らんでいく。

「アシュカ様、どうなされたのですか?」

 マリーアンが尋ねたがアシュカの耳には届いていなかった。彼女は感覚を研ぎ澄まし、空気を感じ取る。違和感がある一点へと収束してアシュカの視線を空へと導いた。

「上っ!?」

 見上げた夜空にかがる月。その白い柔光の中に浮かぶ翼の影が目に入った。ゆっくりと羽ばたきながら、速度を増して下降してくる。

「いけないっ! ふたりとも下がって!」

 アシュカは声を張り上げ、マリーアンとチェスカニーテが意味も分からぬまま咄嗟に身を屈めると、彼女は全神経を両手に集中し、その掌を空へと向かって突き上げた。

「光の鼓動に移ろわざる息吹っ!!」

 アシュカが唱えると同時に空中に半透明な壁が現れ、急降下した翼の影とぶつかって激しく閃光を散らした。衝撃は壁の表面で受け流されて大気に溶け、彼女には届かない。

 翼は大きく羽ばたいて舞い上がり、中空で静止した。

 月明かりに照らされて、羽ばたく四枚の翼が揺れていた。その翼を操るのは、すらりと細身の体格をしたひとりの青年。それが刺すような視線の正体だった。おそらく邸をあとにした時点から、アシュカ達を空から見張っていたのだろう。

 マリーアンは、青年の姿に悪魔を見た。蝙蝠のような翼の形状がそう思わせたわけではなく、どんな翼を持ったとしても、その男はとても天使を連想することなどできない邪悪な気配に満ちていたからだ。

 青年の視線がアシュカを見据えたまま、ヒューっと口笛を吹いた。

「イードゥ・ガジュクッピェラ・ボーヴォアンデ」

(おやおや、魔法使いとは面白いね)

 この言語はアイスウェッド。北の果てにある山脈の国にある古い言葉だ。

 アシュカは過去に学んだ幾つかの言語の記憶から、アイスウェッドに共通する言葉を拾い集めて言い返す。

「エダ・ガジュクッピェラ・バー・フォリエンティス」

(魔法使いじゃない。法術よ)

 言葉が通じたことに両手を持ち上げて感心し、空の男はとぼけたように言った。

「ベェフィ・クーミュッイェ・ツァーノー。アンヴォウクル・ベーゲッラッリェ」

(すると、あんたがお姫様かい。助かったよ、美人が三人もいたんじゃ、どれだか迷う)

 私を捜していたのか。そうだとすると話しは早い。

「なに? なんなのあの人、ねえアシュカさん!!」

 取り乱した様子でチェスカニーテがアシュカの肩を揺すった。

「落ち着いてチェスカニーテ。こいつの狙いは私だ。だからあなた達は私が引き付けている内に逃げるのよ」

 背後の彼女に、アシュカが言った。そしてマリーアンを肩越しに見る。

「マリーアンも急いでサイアスを捜して。いいわね?」

 チェスカニーテは頷くが、マリーアンは不安に胸が張り裂けそうな思いでアシュカを見つめたままだった。今までアシュカのために尽くしてきた彼女にしてみれば、たとえどんな状況だろうとアシュカを見捨てて行くなど考えられない。

「いいわねっ! さもないと、三人ともお終いよ」

 マリーアンの思いを察してアシュカが強い口調で言った。

 今の一撃で力の差は歴然とした。防御結界を張ってまずは凌いだが、勝つのは難しい。相手の狙いが自分にあるなら、少しでも生き残りの公算が高い方に賭けるしかないのだ。

 翼の男が高く飛翔して、再び急降下して突っ込んでくる。アシュカも気を集中して、もう一度 光の障壁を創り出した。またも進撃が阻まれたことに怒り、男は拳打を重ねる。二度、三度と連続して攻撃が加えられるに連れ、壁の濃度が薄くなっていくのが見えた。

「早く行って! ここにいても、あなた達は足手まといよ!」

 アシュカは庇うふたりを、怒鳴り声と一緒に突き放す。彼女たちはその一言で悟った。

 自分たちが足踏みしていることが、アシュカを危険に晒すことだということを。

「わかった。でも、すぐに戻るから!」

 チェスカニーテが辛そうな顔を見せまいと、アシュカに背を向けて走り出す。

 マリーアンは無言でひとつ礼を取り、チェスカニーテに続いた。チェスカニーテ以上に苦しく、身を切る思いであっただろう。

「ようやく動けるっ!」

 ふたりが去ったのを確認したアシュカが横に飛び退いたのと同時に、消えかけていた結界が音を立てて砕け散り、突進した男の蹴りが空を掻く。

「身のこなしが軽いね、お姫さん」

 空振った右脚を深々と地面に潜り込ませた体勢で、翼の男が流暢なリンサイアの言葉で言った。苦笑いして、男を睨みながらアシュカが返す。

「あなた、話せたのにわざと」

 自分がマリーアンやチェスカニーテに言った台詞も、すべて聞き取れていたはずだ。

 男は足を引き抜いて、ふわりと宙に浮かびながら答える。

「殺生は嫌いなタチでね。彼女たちを逃がすにしても、行き先を喋ると敵にばれるって状態じゃ、指示するにも気を遣うだろう?」

 そういうことか。あくまでも標的はひとり。ほかのふたりには見向きもしない。

「さもないと三人とも終わり、と言っていたけど、打開する秘策でもあんのかい?」

 アシュカは何も答えない。言葉を使って有利になる状況ではないからだ。男は彼女が無言でいるのを見て、ポンッと掌を片手で叩いて思いついたように言う。

「ああ、そうかっ! この悪い魔物を退治しに、白馬に乗ったナイトか白い髪の獣が助けに来るんだなぁ? いやいや、お姫様もやることエグイね。もうだめだわって顔してしっかり俺を潰す気だぁ!!」

 大げさな身振りが、神経を逆なでするがここで平静を乱しては負けだ。

「どうとでも言うがいい。あれが来ればおまえは終わりだ」

 アシュカがわざと余裕の表情を見せて言う。この言葉に、男の顔が熱と陽気さを失い無機質な冷徹さを放つものへと変貌した。さきほどまでとは違った、淡々とした口調に歪んだ笑みを浮かべて言う。

「あれってぇのは、サイアス・クーガーのことかい? でも呼びに行かせた彼女、気の毒に無駄足だよ。あの男はもうやられちまった。今頃は夢の中かあの世か」

 この言葉を信じる根拠は何もない。しかし、嘘でないという不思議な説得力がある。男が空を指さした。その方角には、赤々と燃える法王庁舎の建物が見えた。

「それからお姫様の家来……、いや愛しのナイト様と言ったほうがいいのか? あっちの若いにいちゃんは、うちの総大将と何やらお取り込み中だからな」

「貴様たち、法王庁の建物に火をかけたのかっ!」

 十年前の大火も辛うじて免れたと言うのに、ここへきて何と言うことか。だが、男はもとのとぼけた表情に戻って、胸の前で手を振って見せた。

「いやいや、勘違いするなよ。あれは、お姫さんの大好きなエスメライト隊長殿が乱心された結果だ。そこまでこっちのせいにされちゃ堪らねぇや」

 サッシュが火を。まさか、この事態を火事を起こすことで報せようというつもりか。すでにサイアスが庁舎に行ったことを考えるなら間違いなさそうだ。冷静になれば強襲をかけてくるような敵が、そんなに目立つ行動をする利点は何もない。

「わかったかい? どんなに待っても、お姫さんに助けは来ねぇんだよ。手荒なことはしたくない。この魔物に大人しく浚われてくれ」

 聞いていれば随分とふざけたことを言う男だ。

「翼の。私がそういわれて、素直に応ずるとでも思うかっ!」

「かぁ~、翼の、ときたか。可愛いツラして随分と古風だな。痒くなるからよ、一応は名前で呼んでくれ。俺は『エーヴェン・ブラウ』だ。以後お見知り置きを」

 そういって、男は空中で腕を身体の前で振って腰を屈めて礼を取った。エーヴェンが顔を上げたと思った瞬間、その姿は残像を残して消え去り、本体は高速でアシュカへと向かって突っ込んだ。

 アシュカはみたび光の結界を創り出すが、今度はエーヴェンの両翼が結界に触れると同時に、弾けるような音を立てて、いとも容易く結界が砕かれてしまった。

「おらよっ!!」

 大きく伸ばされたエーヴェンの腕がアシュカに迫る。瞬時の判断で、アシュカは両膝を落として地に伏せた。

 エーヴェンの鋭く払われた腕が、アシュカの背後にあった邸の鉄柵を掠めて、支柱を真っ二つに断ち切った。この隙を見逃さず、アシュカは膝を伸ばす反動をつけて右拳を下から全力で振り上げる。それは真っ直ぐにエーヴェンの顎を捉え、首が後へと押し流された。続けざまにアシュカは拳を繰り出し、喉を刺し、曲げた肘で腹部を突く。

 この三連撃によろけたエーヴェンめがけて、後足で土を蹴るように踵を振り上げた。

 最後の蹴りが届くより早く、エーヴェンは翼を目一杯に広げて空へと逃れたが、その唇はわずかに切れて血が垂れている。

「いやいや、箱入り娘と思いきや、なかなかどうしてじゃじゃ馬だね」

 唇を伝う血を親指で拭い、エーヴェンがにやりと笑んだ。

「こう見えても、死線というやつをくぐり抜けて来た身だからな」

 そう返して、アシュカは背後にある断ち切られた鉄柵の支柱を引き抜き、自分の胸までの長さがある鉄の棒を、両手でしっかりと構える。

 多少曲がっているが、こんな武器でも無いよりはましだ。

「可愛い声でイヤイヤしながら助けを求めるような、そんなお姫様を期待してたんだが」

 残念そうに言って、エーヴェンが四枚の翼をすべて広げる。

「お伽話みたいには行かないさ」

 アシュカの台詞に二度 頷いてから、旋風を巻き起こしてエーヴェンの身体が躍った。

「まあそういうものだよなぁ」

 右の翼を殴るように動かしてアシュカを払うが、彼女はその一撃を鉄棒で逸らして、反動でエーヴェンの背後に回り込む。

「せやっ!!」

 気を込めて鉄棒を突き出すが、今度はエーヴェンが空中で宙返りしてこれをかわす。その動きを見切っていたアシュカは、法術の念を込めた右手を彼に向けた。

「光を紡ぎて、ここへっ!」

 唱えた声と共に、彼女の右手からは輝く光の糸束のようなものが発し、鋭く飛襲してエーヴェンの足首に巻き付いた。

「うおっと?」

 足を取られ、空中でバランスを崩した彼は、真下で待ち受けていたアシュカの鉄棒に脇腹を深く突かれて、そのまま地面に下降する。

 墜落寸前で何とか地面に手をつき、エーヴェンは足首に絡まった光の糸を右手の爪で切り裂くと、アシュカの振り下ろした追撃の下をくぐって再び空へと逃れた。

「いやいや。 あんたのホージュツだけは気をつけねぇと」

 内出血した脇腹を片手でさすりながら、エーヴェンは余裕の笑みを浮かべる。それと対照的に、アシュカの顔は苦い表情に染まっていた。

 これで二度、掴んだチャンスをものにできなかったのだ。自分の動きや攻撃の筋などはかなり相手に伝わってしまったはず。ここから先はさらにチャンスを掴めなくなるという予感にアシュカは追い込まれていた。

 両足を踏ん張ってアシュカは身構える。静かに呼吸を整え、法術に必要とされる気を練り始めていた。大気中のフォースを体内に集束し、自身に内在する意思のフォースと混ぜることで力に意味を与えるための行為。

 一方、エーヴェンは圧倒的に有利な上空から、どの切り口で攻め込むかを図り始めた。見上げるアシュカは、時間があまり残されていないように思えた。

 その戦いを後に、彼女と別れたふたりは迂回して別の通りへと達していた。

 マリーアンは真っ直ぐに繁華街を目指そうと走っていたが、途中でチェスカニーテが立ち止まったのに自分も足を止めて彼女を向いた。

「チェスカニーテ様?」

 なぜ立ち止まるのかと不思議に思うが、聞かれたチェスカニーテはもと来た道の方を向いたままだ。そしてマリーアンを見ずに言う。

「マリーアンさん、あたし戻るわ」

 理解できない言葉だった。ここまできて、なにを言い出すのか。

「なにを仰られるんですか! わたくしどもが戻っても、なにもしては差し上げられません。それより今はサイアス様を……」

「わかってる。でも、それはマリーアンさんの仕事よ」

 ようやくこちらを向いたチェスカニーテの顔には、落ち着きがあった。いまの彼女は一時の気の迷いで言っているのではない。

「あのひとね、あたし達を逃がすために必死で、剣も持ってないのに戦ってるの」

 彼女が言った『あのひと』とはギュスタレイドのことだろう。

「警護隊を引退したからって、物置にしまい込んじゃったんだ。だから行かなくちゃ。あのひと、きっとをいまは必要としてるだろうから!」

 無手で敵と対峙するのも初めてのことではない。それでも、身を挺してでも護りたいと思ったからこそ、ギュスタレイドはあの場で逃げろと言ったのだ。

 それはわかっているつもりだった。だが勝つことの困難な戦いに身を投じている夫のために、自分は何もできない、いや、してやらなかったとあっては後悔だけが残る。

 アシュカとマリーアンの逃がす、という彼から託された指示はもう通じない。状況は変わり、いまは彼女たちを助けるために動くときなのだ。

「心配しないで。あのひと強いから、もうやっつけちゃってるかもしれないし!」

 嘘だ。チェスカニーテがどれほど世間知らずで、ギュスタレイドのことがヒーローに見えていたとしても、彼女のマリーアンに向けている笑顔は強がりなのは間違いない。

 危険な場所へと戻る不安、身を挺した夫の優しさを、不意にするかも知れないという不安。それらを押し殺してチェスカニーテは言っている。心配しないで、と。

「わかりました、それではお気をつけて」

 マリーアンは頭を下げた。いまの彼女に何を言っても、引き留めることはできないだろう。自分は自分の出来ることをするべきだ。

 ふたりは別の道を走り始めた。マリーアンは繁華街へ、チェスカニーテは邸へ。



 リンサイア王国騎士団聖士隊の修行を収めてから十五年。王宮警護隊隊長の座を退いて十年。ギュスタレイド・フォン・ドミニアスの身体に染み込んだ戦闘者としての本能が、アルフォンソを前にして甦りつつあった。

 ただ、ギュスタレイドは対峙する男とのぶつかり合いの中で、妙な違和感を感じ続けていた。神々の標本を持つはずの男、そのアルフォンソと硝子の剣しか持たぬ自分が、拮抗しているという現状にだ。

「ボサッとするなよ」

 アルフォンソがギュスタレイドに右拳を振り下ろすが、あまりに単調なその動きは冷静に見据えたまま難なく避けられる。ギュスタレイドは相手の外側に回り込んで手にした硝子の刃を横一線に振るうが、アルフォンソは一歩身を退いてこれをかわした。

 ギュスタレイドは追撃が来ない内に飛び退いて、再び距離を離す。

「慎重だな。 逃げ回ってるだけじゃ勝ち目はねぇぜ?」

 かかってこいと言わんばかりに両手で招き、アルフォンソが挑発的な口調で言った。

「相手の『隠し種』も見ないうちから、切り込むわけにも行くまい?」

 そうだ。間違いなくアルフォンソは神々の標本を持っている。それがいかなる能力を有しているか、その鱗片すら伺い知れぬ状況で踏み込むのはあまりに危険だ。

 ギュスタレイドの言葉に、アルフォンソは嫌らしい笑みを浮かべたまま、さらに手招きをしながら言う。

「ならもう一歩、こっちへ来いよ。 見せてやるから、なあ、こっちへ来いよ」

 ギュスタレイドは踏み出しはしない。この誘いがただの挑発でないことは判りきっている。となれば、相手の能力の間合いがおよそ今ある両者の距離、2メートルにも達しないという予測も成り立つ。

 だが、仮に相手の能力範囲が2メートルだとしても、接近戦を仕掛けるにはあまりに自分のもつ硝子の剣ではリーチが足りない。よほどの不意を突かなければ、深手を負わせるのは困難だ。

「また考え事かい。騎士殿よ、いくら考えても無駄だぜ」

 後先も考えず強引に、アルフォンソがギュスタレイドの間合いに踏み込んでくる。

「てめぇは、狩られる兎だ」

 喉元めがけて左腕を伸ばすが、ギュスタレイドには難なく避けられる程度の動きだ。今度は紙一重でこれをやり過ごす。

「踏み込みが浅いっ!」

 がら空きになったアルフォンソの腹に攻撃を叩き込もうとしたその瞬間、彼の左腕の皮膚を切り裂いて無数の刃が突きだした。紙一重で避けたつもりでいたギュスタレイドは、当然この事態に対応するだけの有余は無かった。

「浅いのは、てめぇの読みだよ。騎士殿」

 あざ笑うようなアルフォンソの声が聞こえたのと同時に、ギュスタレイドの胸や頬を腕から生えた刃が撫でつけた。一瞬にして、幾本もの赤い筋が浮き上がる。

「くっ!」

 咄嗟に逃れようと身を返すが、先回りしていたアルフォンソの蹴りが彼の膝を捉え、重心を崩されて前のめりに押し出されてしまった。

 この隙を見逃さず、アルフォンソは右腕に鋭い太刀のような刃を生やして、背中からギュスタレイドを貫こうとする。その切先が背後に迫ったとき、ギュスタレイドは意識を集中して全身に気を巡らせた。

「風の海に靡く鼓動っ!」

 法術だった。突風に煽られたように、ギュスタレイドの身体が重力から解き放たれる。

 フォリエントとして聖士隊時代に法術を身につけたギュスタレイドは、ほんの一瞬で全身を浮遊させるという大術を成すだけの実力を持っているのだ。

「ブラウのガキ以外にも飛べるヤツがいたとはな」

 アルフォンソは曲芸でも見るように好奇な視線で見上げた。

 飛翔した彼は天井を蹴ってアルフォンソの頭上から剣を構えて降下する。

「おおおぉぉおおっ!」

 アルフォンソが背を丸めて筋肉を強ばらせた。彼もまた能力を全身に集中したのだ。黒革の上着を引き裂き、屈んだ背中や肩から剣山のように埋め尽くすほどの刃が現れる。このまま落ちれば、ギュスタレイドは串刺しを免れない。

「光を紡ぎて成すっ!」

 瞬時に気を練って法術を放ち、ギュスタレイドは左手から光の糸束を出現させると、それを四方に張り巡らせ自分の身体を宙吊りにして落下を食い止めた。

「サーカスかよ、ますます楽しいじゃねぇか!」

 堪らずに笑い声まであげ、アルフォンソは山嵐のようになった刃を体内に引っ込め、飛び上がって掴みかかろうとする。すぐさまギュスタレイドは左手から糸を切り離して天井を手で押すようにして斜めに身体を落下させた。わずかの差でアルフォンソの腕から伸びた刃が天井の装飾板を突き通す。

 着地したギュスタレイドが見上げると、今度はアルフォンソが宙吊りになっていた。だらりと脱力し、突き刺さった刃だけに身を任せて、こちらを見下ろしている。

「よく逃げる兎だな。 久々だ、こんなに楽しい狩りは久々だ」

 何かに酔いしれるように虚ろな眼。このときになって、ギュスタレイドは斬り付けられた傷口に痛みを覚えた。そして気づくのを待っていたかのように出血が始まる。

「こちらの、かわすタイミングを測っていたとはな」

 痛みに耐えて立ち上がり、ギュスタレイドは硝子の剣を握りしめた。これまで感じていた違和感の正体がようやく理解できる。力は決して拮抗していたのではない。こちらの底を測っていたに過ぎないのだ。目が慣れ、攻撃を欲して紙一重でかわすその瞬間を待っていたのだ。

 間違いなく相手のペースで進んでいる。このままでは勝ち目はない。

 するりと刃を手の中に収め、アルフォンソは軽く床に着地した。ゆっくり足を進めながら、ギュスタレイドを見つめて微笑む。

「ようやくいい匂いがしてきた。あんたの血は、甘い匂いがする」

 ゆっくりと、間合いを詰めてくる。

「旨そうな、甘い匂いだ」

 狂っている。なんの躊躇いもなく、ギュスタレイドはそう思った。

 せめてまともな剣が欲しい。硝子の破片などでは、相手の攻撃を受けただけで諸共切断されるのは目に見えている。

 改めて腰に剣が携えられていない自分を恨んだ。 戦闘用の大剣は物置部屋に置かれ、儀礼的な意味合いを持つ飾り刀は食事の席に無粋であると自室で外してきてしまった。いつなんどき、どのような事態が起こるかわからぬ状況であると知りながら、アシュカを招いた席に『無粋』だなどという理由で剣を持たずにいた自分の愚かさを悟った。

 鈍ってしまっていたのだ。いつの間にか、平和なぬるま湯に慣れきってしまった。

「あの男が知ったら、一生 私は笑い者だな」

 苦笑いしながら、ギュスタレイドは言った。ゆらりとアルフォンソの影が揺れる。

 次はどう来る。 読み違えれば、あの牙の能力で細切れにされてしまうのだ。

 相手は遙か遠く間合いの外にあり、こちらはひとたび掴まれたら最期という状況。

 神経を研ぎ澄ませ、アルフォンソの呼吸にすら注意を払う。

「また汗をかいてるな、騎士殿。あまり血の匂いを濁してくれるなよ?」

 にたりと笑って、アルフォンソの足が床を蹴って一躍した。

 右だ。咄嗟の判断で、右に飛ぶギュスタレイド。着地と同時に、アルフォンソの腕が素早く伸びて彼の服の袖を掴んだ。

 しまったっ! そう思ったときはすでに遅かった。引き寄せられ、身動きがとれない。

「王手だぜ、兎ちゃんよ」

 避けきれなかった。いや、アルフォンソは自分に飛距離を見誤らせるために、わざと大きな身振りで飛んだのだ。

 ギュスタレイドは死を覚悟したが、アルフォンソの行動は常軌を逸していた。

「まずは一口……」

 そう言って、アルフォンソはギュスタレイドの首筋に吸血鬼のように噛みついたのだ。皮膚とわずかな肉を噛みちぎられ、彼の首筋からは血液が溢れ出す。

「ぐおおぉっ」

 今まで味わったことのない苦痛にギュスタレイドは声をあげた。自分を掴む腕の力がわずかに緩んだのを感じ、彼は振り払って硝子の刃を斜めから突き立てるように降ろす。

 その腕を軽々と受け止め、アルフォンソは握った掌の中に刃を創り出した。掴まれているギュスタレイドの手首に、幾十もの鋭い棘が食い込む。

 襲い来る激しい痛みに握力が奪われ、ギュスタレイドの手から硝子の剣がこぼれ落ちた。剣は床とぶつかり、鮮やかに砕け散る。

 続けざまにアルフォンソは残った片手に刃を生やして、ギュスタレイドの太股を斬りつけた。吹き上がった鮮血と共に両足の力が抜け、彼は腕に吊られた状態で膝を折る。

「うぅっ」

 敗北感と屈辱の混ざり合った感情が、ギュスタレイドの心を砕いた。このまま弄ばれ、じわじわ嬲り殺されるなど、聖彩の騎士『紫緋のフォン・ギュスター』として、とても受け入れられる末路ではない。斬られる痛み以上に、自尊心の傷の方が何倍も苦痛に感じられた。

 にちゃにちゃと音を立てて、アルフォンソは自分の血塗れの口に指を突っ込み、濡れた指でギュスタレイドの肉片をつまみ出すと、彼の眼前に晒しながら言う。

「思った通り、綺麗な肉をしてやがる。てめぇの筋肉や血管も女の髪みてぇに、さぞやそそる艶をもってやがるんだろうなぁ」

 狂気の男の台詞だった。肉片をうっとりと見つめるその男を前に、ギュスタレイドは逃れる手段を求めて思考を巡らせる。

「おい、もっと抵抗しろよ。諦められちまったら、つまらねぇからな」

 ギュスタレイドの頬を平手で打って、アルフォンソが彼の顔を覗き込んだ。

「…せん」

「あ?」

 呟きが、切れた唇から流れ出す。アルフォンソは更に顔を近づけて聞き返した。

「諦めなどせんっ!」

 ギュスタレイドの首が大きく反り、凄まじい勢いでアルフォンソの顔面めがけて振り戻された。額と眉間が、石をぶつけ合ったような鈍い音を立てて弾ける。

「っ!」

 一瞬、アルフォンソの視界に星が散った。足下がよろけるのを見て、ギュスタレイドは下腹部に拳を叩き込み、掴まれている右手を針の群れの中から無理やり引き抜いて、アルフォンソの手を逃れた。その代償として、右手は手首から掌にかけて、見るも無惨な多重裂傷を負うに至ったが。

 たじろいだアルフォンソだったが、顔に手を当てて首を振り、ちらつく火花を払ってすぐに足を固めて立ち直った。

「頭突きかい。女面して、随分と手荒なことをしてくれるぜ」

 眉間の皮膚が裂け、アルフォンソの顔面を血が伝った。

「ふっ。貴様のようなヤツでも、血だけは赤い」

 言いながら、ギュスタレイドは未だ深刻な事態を脱していないと理解する。

 深く斬られた膝には力が入らず、唯一の刃物は砕け、自分の右腕は肉が引き裂かれて、ぼろ布のように垂れ下がっている。多量な出血のために立っているだけで息が上がり、視界は水面を覗き込んでいるかのように薄暗く歪んで見えた。

 どうするか。全身に傷口の燃えるような痛みが巡り、思考の線が定まらない。法術を練るだけの集中力も残っていないのだ。せめて、剣があれば。

「もうすこし遊んでもよかったんだが、そいつはてめぇが死体になってからにしよう」

 両腕と指先から幾つもの刃を延ばしながら、アルフォンソが近づいてくる。

 彼は何かに気付き、間合いに入る手前で立ち止まって、空気を嗅ぎながら窓を見た。

「ああ、ちょうどいい。ふたり戻ってきたな」

 その言葉を信じたくなかった。アシュカか、マリーアンか。できればチェスカニーテであって欲しくない。この状況で、彼女たちが戻ってきては最悪だ。

「仲良くバラしてやるからよ、最期ぐらいは楽しくやれ」

 愉快そうにアルフォンソが笑った。

「悪いが、とても愉快になれる気分ではないのでね」

 何のために、身体を張って逃がしたのか。だがそれも、我が身の不甲斐なさ故だ。

 そのとき、扉が開け放たれてチェスカニーテが姿を現す。

「あなたっ!」

 自分を呼ぶ声に、ギュスタレイドは肩越しに彼女を振り返って怒鳴った。

「なぜ戻った! 私は逃げろと言ったはずだぞっ!」

 逃げろと明言はしなかった。ただ、裏門へ抜けろと言っただけだ。しかし彼の思いは、初めからアシュカやマリーアンを逃がすこと以上にチェスカニーテの身の安全に注がれていたのである。

「でも、これを……」

 そう言って彼女が差し出したのは、物置部屋に眠っていたはずのギュスタレイドの剣だった。いま、彼が欲して止まないそれを見ても、妻の危険と引き替えではとても喜ぶ気にはなれない。我が身を顧みず自分のもとへと舞い戻ったチェスカニーテの想いには言葉もないが、それを回避できなかった己の非力さには身を裂く想いだ。

 彼女を見てアルフォンソが手を叩いた。腕から生えた刃がぶつかり合って、がちゃがちゃと喧しく音を立てる。

「いいね、いいねぇ。 健気な女じゃねぇか。ほら、剣を取りなよ。もっと俺と遊ぼうぜ」

 傍へと駆け寄ったチェスカニーテの手から剣を取り、鞘を抜き捨てて左手に構えた。そして背後に庇うようにして、彼女に問う。

「……チェスカニーテ、おまえひとりか? 誰かと一緒ではないのか」

 妻が首を振ったのを見て疑問が浮かび上がった。アルフォンソは、ふたり戻ったと言った。だが、実際には彼女ひとり。

 初めもアルフォンソは逃げたのは四人と言っていたが、その言葉の意味するところは何であるのか。それは同時にアルフォンソ自身の疑問でもあった。

 アルフォンソが鼻を啜った。周囲を嗅ぐようにしながら徐々にギュスタレイド達の方へと躙り寄って来る。そしてこの行動は、ひとつの解答に辿り着いたことで止まった。

「なるほどねぇ。ひとり分にゃあ匂いが足りねぇと思ったが、そういうことか」

 醜く笑って、アルフォンソがチェスカニーテを見つめる。彼女は身を震わせ、慌てて扉に向かって走るが、アルフォンソの伸ばした刃が、ギュスタレイドの首筋を掠めて、チェスカニーテの行く手を阻むように突き立てられた。前髪が刃に触れ、尻餅をついた彼女の眼前をはらりと落ちる。恐怖が、彼女の下半身から力を奪った。狂気の男が妻に興味を持ったのを見たギュスタレイドは、すぐさま彼女を前に割り込んで背後に庇う。

「妻には手を出すな。貴様の相手は私だっ!」

「気が変わった。てめぇとの遊びはあとまわしだっ!」

 彼を追い払おうとアルフォンソが両腕の刃を振った。対するギュスタレイドは巧みに攻撃を受け流しながら、怯えて尻餅を付いたまま動けないチェスカニーテに言う。

「逃げるんだチェスカニーテ!」

 絞り出した声に混じって、血の味が口に込み上げる。

 左腕一本で大剣を操り、敵の攻撃を受けとめ続けるのは、それだけでかなりの負荷を傷ついた肉体にもたらすのだ。

「おら、どうした騎士殿っ! 膝が震えてるじゃねぇかっ!!」

 踏みつけるように、アルフォンソの踵が腿の傷口を剔った。

「がっ」

 筋肉が強ばるほどの痛みが吐き気を伴ってギュスタレイドの胃を押し上げる。背を曲げて踏みとどまる彼に、アルフォンソの指先から生えた十本の刃が、交差するように切り下ろされた。

 ギュスタレイドは腹部に力を込め、剣を横に切り上げてそれを受け止めるが、片腕では力が足りずに握力の失われた右腕をつっかい棒のように剣の横縁に当てて押し上げる。

 その瞬間、彼の傷口からは新たな血液がどっと噴き出し、それを見たアルフォンソの表情が昂った。

「まだ立つかい。ゾクゾクしちまう」

「貴様ごときに屈しはせんっ」

 必死に押しとどめようとするギュスタレイドとは対照的に、アルフォンソは血塗れの舌をちらつかせながら、チェスカニーテを欲情した獣のような眼で追った。

 腰を抜かして立ち上がれない彼女は、両手で這って扉へ逃げようとする。

「こっちに来なよ、お嬢ちゃんっ! あんたが腹のなかで飼ってるガキの面ぁ、俺にも拝ませてくれよ!」

 ギュスタレイドは目を見開き息を呑んだ。彼の脳裏に、夕食後の光景が駆け抜ける。そうか、そうだったのだ。あのときの彼女の暴食の意味するところはそれだった。

『平和すぎておつむが膿んじまったか?』

 確かにその通りかも知れぬ。この期に至らねば、気付いてやれないとは。

「なあ、いいだろう? まだ頭も出来ちゃいねぇだろうが、親父に似ていい匂いがするんだろうなぁ。ああ、考えただけでも勃っちまうぜぇ」

 吼え狂うようにアルフォンソが涎を撒き散らして叫ぶ。血走った眼、抑えきれぬほどに煮えたぎった筋力に押され、ギュスタレイドは力任せに上から潰される。

「いい加減にどけ、死にぞこないっ!」

 上半身を固められたまま、右膝で腹部を強打され、ついにギュスタレイドは吐瀉して地に墜ちた。倒れた彼をアルフォンソは奇声をあげながら尚も蹴り続ける。

「てめぇとは後で遊んでやるって言ってんだろうがっ! 大人しく女房の腹からガキが出てくるのを見てやがれっ!」

 全身を痛みと酸欠に痺れさせながら、ギュスタレイドはアルフォンソを睨む。

「……なんだその眼は? そんなにこの雌が大事ならよ、何でてめぇはこんなに弱ぇんだ。おい、言ってみろよ。あぁ!?」

 キレている。耳や唇など柔らかい部分を狙い拳を振るう。 一瞬でギュスタレイドの顔面は血に染まった。

 さらに両手の刃を扇ぐように振る。風切り音とともに削げた皮膚が、衣服と混じって空中に酷い花吹雪を散らした。

 気の済むまで執拗に攻撃を加え、アルフォンソは荒く息をしながら汗を拭う。

「はぁ、はぁ。 ったく、大概にしねぇとてめえも一物切り取って女にしちまうぞ」

 歪んだギュスタレイドの顔に唾を吐きかけ、自分の顔面に跳ねた彼の血液を舐める。

「さあ、お嬢ちゃん。俺を満足させてくれ」

 縮まって動けないチェスカニーテの前に、血塗れのアルフォンソが立った。

「い、や…。いやぁっ!」

 涙を浮かべる彼女の叫び声も、アルフォンソの快楽を刺激するだけだ。腕の刃を短く整えて、アルフォンソは犬のように舌を出して息をする。

 眼球が飛び出んばかりに眼が見開かれ、ギュスタレイドの血で紅く染まった唾液が、ぼたぼたとこぼれ落ちていた。

「へへへ…。けきぃひひひひひぁぁぁぁ!」

 動物の鳴き声のような奇声を発したアルフォンソの眼には、もはや人間的な理性の欠片も残されてはいない。チェスカニーテは待ち受ける結末に声も出ぬほど恐怖し、腕で自分を抱きしめるようにして目をつむった。

 弾みをつけて、アルフォンソが彼女に飛びかかろうとしたとき、その足首が何かに絡まる。一気に興奮が冷め、アルフォンソが足下を睨んだ。

 ギュスタレイドだった。肉が裂けて骨が割れるほどに打ち据え、四肢がもげるほどに切り刻んだというのに、この兎は闘志を失っていない。

「妻には、手を…だすな」

 ゆっくりと、ギュスタレイドが立ち上がる。どこからその力が沸き上がってくるのか。アルフォンソは頭に理性が戻るのを感じて首を振った。

「シラけさせてくれるじゃねぇか。せっかく気持ちよくなってきたのによぉ……」

 血が熱を引き、アルフォンソの中に殺意だけがくっきりと浮かんだ。

「貴…様ごと…きに、誰…が」

 大剣を、中指の折れ曲がった左手で持ち上げようとするが、その腕を軽く払いのけてアルフォンソが手招きしてみせる。

「ああそうかい。なら、もう一歩こっちへ来いよ。それとも、立ってるのがやっとか?おい、こっちへもう一歩来いよ」

 無理やり、地面を擦ってギュスタレイドの足が前へと進み出た。虚ろに、一歩前へ。

「立ってるだけが精一杯の木偶がっ!」

 ギュスタレイドの肩口めがけて、アルフォンソが刃を突き出す。もはや彼には向かい来る刃をかわす余力も残されてはおらず、それは深々と刺さって背中側へと貫いた。

 衝撃にギュスタレイドの表情は歪んだが、痛みは感じない。

「二度と立てねぇように、挽肉にしてやる」

 それは、一瞬の出来事だった。アルフォンソが刃に力を込めると、ギュスタレイドに突き刺さった刃が枝分かれし、無数の棘となって彼の体内から胸や脇の肉を食い破って外まで飛び出したのだ。

 痛みに代わり、鼻で水を吸ったような苦しさが全身の神経を逆なでする。

「げふっ!」

 喉の奥が泡立ち、ギュスタレイドは大量の血を吐き出した。それはチェスカニーテの顔にも血しぶきの斑点をつける。

 意識が遠のく。血が足りないのだ。 ギュスタレイドは自分の血管に空気が流れているのではないかという錯覚を覚えるほどに、大量の血液を床に散乱させている。

 ずっしりと重く黒い影が、彼の両肩にのし掛かった。身を任せてしまいたい欲求が、睡魔と共に襲いかかってくる。

 こもって聞き取りにくいギュスタレイドの耳に、遠く誰かの叫び声が届く。濁った視界の隅で、血に濡れたチェスカニーテが、自分の両手を凝視して泣き叫んでいた。

 視線が流れ、アルフォンソを捉える。

 笑っている。奥歯まで覗けるほどに口を開け、天井を仰いで奴は笑っている。

 声は聞こえない。ただ、姿を遠くに感じるだけ。聞こえるのは、妻の嗚咽と叫びだ。

 泣くな。なあチェスカニーテ、泣く必要なんて無いさ。

 言葉にならない想いが、静かにギュスタレイドの胸に浮かんで消えていった。



 幾度になるだろう。弧を描いて襲い来るエーヴェン・ブラウの攻撃をかわしながら、アシュカは反撃を繰り返すが掠りもせず、ただただ彼女の体力が奪われていくだけだ。

 重力に縛られているアシュカと、それを凌駕した翼の使い手とには、文字通り天と地ほどの開きがあった。

 アシュカは息が上がり、唯一の武器である鉄棒を握る手にも痺れがきている。それに対してエーヴェンは宙に逃れるたびに息を整え、本体にはまるで疲労の色がなかった。

「まるで、雲を掴むようだ」

 苦笑いして、アシュカが言った。相手は空間すべてがフィールドだが、自分はあくまでも地面を軸にしてしか行動がとれないのである。

「お姫さん、いい加減に大人しくしてくれよ。いい子にしてりゃあ怪我はさせない」

 エーヴェンから見れば、彼女は聞き分けのない子供と同じだった。

「あなたには悪いが、私は昔からいい子じゃないのでな」

 言い放ってアシュカは気を練る。出来るだけ集中し、フォースを取り込み始めた。

「まぁたホージュツかい? 大道芸は嫌いじゃないけどさぁ」

 後頭部を掻きながら、エーヴェンが言った。そしてアシュカが気を練り上げる前に、彼は翼をたたんで急下降する。

「いい加減、飽きてくるっ!」

 アシュカは彼の右脚の一撃を鉄棒で受け止め、続く左手の爪を右腕で払い、回り込んで肘鉄を脇から打ち出すが、エーヴェンはこれを左脚を斜めに蹴り上げて弾くと、翼を広げて左翼の爪を高速で水平に振り回した。アシュカは上体を反らして爪を逃れるが、切り裂かれた空気の刃が彼女の頬を横に薙いだ。

 アシュカはそのままの体勢から正面に蹴りを打ち出し、エーヴェンの身体を突き放す。咄嗟に身をよじって直撃をさけたエーヴェンは再び空へ。

「いやいや、あの『壁』か『糸』が来ると思ったんだが、外れたなぁ」

 ここを耐え抜いたおかげで、アシュカの体内には、かなりのフォースが蓄積された。エーヴェンは笑った顔から真顔になって言う。

「それとも、まだ奥の手があるのかな?」

 読まれている。その顔を一目見れば誰でもそう思うだろう。

 生ぬるい風が、ふたりの狭間を吹き抜けた。そのとき法王庁舎の空を染めていた紅い光が俄に揺らいで掻き消される。

 突然、エーヴェンが左耳の後に手を当てて、法王庁舎の方角を向いた。

 彼の耳はアルフォンソ同様に、神々の標本を身につけた影響から人間には得られない聴覚情報を集められるのだ。そしていま吹いた風にのって来たのは、あの男の末路。

「あ~らら、マジにやっちまったのね?」

 そして、意味も分からぬアシュカのほうを横目に見下ろし、こう言い放った。

「残念だったな、お姫様。あんたのナイトは瓦礫に生き埋めだ」

 エーヴェンの言ったナイトが、サッシュを指しているのは明白だ。一瞬、アシュカは自分の頭が真っ白になるのを感じる。

 サッシュが、生き埋め?

「嘘だっ!」

 反射的にアシュカは声をあげた。信じる根拠も嘘だと一蹴する根拠も無かったが、彼女はその言葉を信じることが出来なかった。

「邪を打ち砕く聖なる雷っ!」

 アシュカはエーヴェンに向かって、集めたフォースを一気に解き放った。彼の頭上に巨大な重力を帯びた渦が巻き、その中から刃のような閃光が地上めがけて迸る。

「ぐっ、あぁああっ!」

 反応の遅れたエーヴェンは両腕で直撃を避けたが、刃の吹き出す凄まじい圧力に押されて地上へと叩き落とされた。その隙をついてアシュカが全力で打つ。

「逃がさんっ!!」

 彼女の一撃が、エーヴェンの首筋を捉えた。急いで羽ばたこうとするが、肺の裏側を強烈に突いてそれを許さない。地面を横転して何とか更なる追撃をかわすが、アシュカはエーヴェンに追いついて上から彼に数発の拳を見舞う。

「調子づくんじゃねぇっ!」

 エーヴェンが声を荒げて、両腕を軸にして水平下段に足払いを放つ。拳を振り上げていたアシュカは足首を後から掬われ、重心を崩して片膝をつく。

 すぐさま起き上がったエーヴェンは、低空を飛んでアシュカに掴みかかろうとするが、彼女はそれを残ったフォースを絞り出し、小規模の結界を張って食い止めると、鉄棒でエーヴェンの喉を突き、反転して鳩尾に肘鉄を打ち込んだ。

 だが、彼の身体が空中にあったことで威力が半減し、よろけつつも放たれた膝蹴りがアシュカの顎を捉える。脳が揺さぶられ、ぐにゃりと景色が歪んだ。

 すかさずエーヴェンの殴打が腹部を捉え、さらに斜め上段から振りかぶられた蹴りが彼女の顔面を身体ごと吹き飛ばした。

 硬い石畳に打ち付けられ、アシュカは転がりながら何とか手を突いて止まると、ぐらつく頭を片手で支えながら身を起こす。そこにはエーヴェンがもと通りのとぼけた顔で立っていた。

「いやいや、こいつぁすまんね、顔をやっちまった。だがお姫さんがいけないんだぜ? 俺の言うことを聞いてくれねぇからさ」

 そして再び、冷酷な表情。

「いやぁ、やっぱり生きたままってのは難しい」

 どこまでが本心なのか、どこからが狂言なのかがわからない。

 アシュカが地面に吸い込まれるような脱力感に襲われながらも立つと、エーヴェンはまた耳を澄ませるように手を当て、溜息をついた。

「まあ、ここまでかな。エスメライトのやつがいないんじゃ、あんたを生け捕りにする理由がねぇし、だいいち俺は殺生が嫌いだ」

 ふわりとエーヴェンの足が地を離れる。

「ま、待てっ!!」

 アシュカは捕まえようと手を伸ばしたが、エーヴェンは無視して高く空の上まで昇る。これ以上の余力など残されていないことは、彼女自身にもわかっていたが、彼女なりの意地と、サッシュの事を確かめたいという気持ちがそうさせたのだ。

「安心しな。他の連中にも手はださないさ、『俺は』な。それに」

 もう一度 法王庁舎の方を見る。この高さからなら、その光景がよく見えた。庁舎内の宮殿一角が見事に潰れてしまっているのが。そこから聞こえる『声』に耳を傾けた。

「『あいつ』が来る前に、牙の大将を向かえに行かねぇと」

 呟くように言って、エーヴェンはギュスタレイドの邸に向かって飛び去る。

 あいつ、というのが誰のことかはわからない。サイアスかもしれないし、もっと他の人物のことかも知れない。

 アシュカはドミニアス邸と法王庁舎とを、交互に振り向いた。どちらに行くべきか。感情だけでものを言うなら、今すぐサッシュの安否を確かめに行きたいのだ。

 しかし、エーヴェンの言い残した『俺は』他の者に手を出さない、という意味ありげな言葉が胸の奥に引っかかる。『牙の大将』というのがアルフォンソのことだとすれば、ギュスタレイドが危機的状況にあるかも知れないのだ。

 意を決し、後ろ髪を引かれる思いでアシュカは邸への道を走り出す。

 サッシュの無事な姿を一刻も早くみたい。だが、無事であるはずの彼よりも、いまはギュスタレイドのほうを心配するべきだろう。

 そう。アシュカに言わせれば、サッシュは『無事なはず』なのだから。

 走りながら、なぜか胸が張り裂けそうだった。言葉には成らず、声にも出せない苦しさが溢れるほどに込み上げ、涙が視界を曇らせる。

 今日の夕暮れ。サッシュの御する馬のうしろで、アシュカはどうしても不安な気持ちを拭えなかった。そんな彼女に、サッシュは『大丈夫』と言ったのだ。そして必ず向かえに来るからと約束した。

 アシュカはそれを信じる。いや、彼女は疑うことを知らなかった。だからこそ、いま自分の頬を伝う涙や、胸を剔るような痛みの正体がわからないのである。

 サッシュ、サッシュ……。 心のなかで何度も繰り返し、彼女は違う道を走りぬけた。

 やがてギュスタレイドの邸が姿を現す。静けさが辺りを包んでいることが、なぜだか奇妙に感じられた。



 エーヴェン・ブラウが耳にした法王庁舎の出来事。その詳細はこうだ。

 崩れ落ちた神々の宮。その残骸と燻る炎の中で、ジゴヴァとミシュアは石柱や材木を砕きながら瓦礫の下を掘り返していた。

「ほんっと、無茶するわねあの男っ!」

 苛立った様子で、ミシュアが手元の石を左手で砕いた。

「しかし」

 やがて空洞化した石山の中から紫色の障気が沸き立ち、あの眼の能力者が姿を現す。身体を眼の防御能力で覆い尽くしていたおかげで、下敷きになっていたにも関わらず、石が触れていなかったのだ。だが呼吸だけはままならぬので、彼は外へ出たいま深く息を吸い込んで肺に溜まった煙を吐き出す。

「無事だったか」

 ジゴヴァが言うと、彼は頷いて見せてから周囲の有り様に目をやって言った。

「自らを断つ、か。私のこうもあっさり決断を下すとはな」

 そして足下の石を拾い上げて、眺めながら続ける。

「しかし、まだ息があるやもしれん」

 この言葉に、ミシュアは再び足下を掘り返し始めた。ジゴヴァも同様に、サッシュが立っていた当たりの瓦礫を退かす。

 そのとき、眼の男が渡り廊下へと続く暗闇を凝視した。ジゴヴァもその気配を察知し、振り返って身構える。ミシュアがふたりの様子にただならぬものを感じて立ち止まった。

 闇の中から、ローブの裾を引きずって人影が現れる。

「来たか……」

 眼の男が奥歯に苦虫を噛み殺すように言った。

 神々の標本を有する彼らの表情に、刺すほどの緊張が走る。

 ローブの人物は三人の手前数メートルのところで立ち止まると、透き通った落ち着きのある声を唇に乗せて、リンサイア語で言う。

「そこまでだな、『イグマの子供達』よ」

 三人をそう呼んで、その男は息を吐いて笑ったようだった。眼の男が返す。

「もう追いつくとは。そこまで我々を阻止したいか」

 そう言われたローブの男は意外そうに、わずかに声のトーンをあげて言い返した。

「貴様たちが何を企んでいようとも、私には興味のないことだ。私がここへ来たのは、エスメライトという青年に用があってのこと。向かう先に貴様たちという雑草が生えていただけだ」

 三人の神々の能力者をまえに、その男は絶対的な自信と余裕に満ちていた。

「雑草扱いとは。して、エスメライトに『あなたほどの男』が何用か」

「貴様の知るところではない」

 片言のリンサイア語しか理解できないミシュアは、ただ警戒心だけを体中から発散させているが、ジゴヴァはやり取りを解して口を挟んだ。

「だが残念だったな。エスメライトは死んだぞ」

 ローブの男は顔に落ちた影から、ほんの少しだけ月明かりに鼻先を晒して彼を見る。

「かまわんさ。死体があれば十分だ」

 一歩、静かに男が歩き出した。三人は見えない壁に押されるかの如く後ずさりする。

「ジューゲラッカ。ヴォサミニュア・リフトリモスっ!」

 ミシュアが何か叫んだが、男は彼女を一瞥するだけで何も言い返さない。眼の男が、彼女に手を差し出して言った。

「やめておけミシュア。ここで戦っても、我々には何の利益もない」

 先ほどは無視したイジェニア語だが、今度はローブの男が反応をみせる。

「戦いを望むなら相手をしよう。だが身の程を知っているなら、この場は退くことだ」

 ミシュアは自分が眼中にもないと知って激するが、目の前の男に飛びかかる瞬間を、どうしてもイメージすることが出来ない。そしてそれは、彼女の隣りにいるジゴヴァも同じであった。

 膠着した場をうち崩すように、ローブの男が進み出る。

「そこの二人。 先ほど敵の情けで拾ったばかりの命だ、ここで捨てることもあるまい」

 男がジゴヴァとミシュアを指差した。

「やはり、あのサイアスという男は……」

 何かを悟ったように、ジゴヴァがつぶやく。

「失せろ。貴様たちの幕は引いた」

 その言葉には、得体の知れない威圧感があった。一歩一歩近づくにつれ、男の姿が何倍もいや何十倍も巨大に思えてくる。

 ジゴヴァは口のなかが渇くのを感じた。先ほど倒れたサイアスを見たときに覚えたあの感覚に似ているが、ローブの男から立ちのぼる雰囲気には剥き出しの殺気はなく、危機感の代わりに絶対的な敗北感が見る者の心を支配する。

「行くぞ、撤退だ」

 吐き出すように、眼の男が言う。この言葉を合図に、それぞれの慙愧を残したまま三人は風の如くその場を去った。戦わずして負けたという気持ちが、くっきりと三人の胸に刻み込まれる。

 そして鎌首をもたげる思い。ジゴヴァとミシュアには不完全燃焼の闘志、眼の男には疑問。あの男にとってのエスメライトの価値とはなにか。あれの真の目的はいったい何なのか。 自分達が手に入れた鍵を欲しがっているわけではないようだ。では何故。

「運命とは強固なものだ。思うように動いてくれぬ」

 攻め込んだときまでは勝利は我が手にあった。しかしいまは無惨なる敗走者としての背中で、冷たい月光を受けている。

 無念を抑え込みミシュアが、誰にでもなく言った。

「アルフォンソはどうするの」

 答えたのはジゴヴァだ。

「我々が回収する必要はないだろう。この場の会話はブラウが『聴いている』はずだ。合流地点に向かえばそれでいい」

 その言葉通り、エーヴェンの耳にはすべてが届いていた。作戦達成後の合流地点に敗走していくということだけが心残りだ。

 三人は庁舎の城壁を突き破り、ひと気の少ない北側の水路へ向かう。

 これで終わりではないという確信が、彼らの両肩にまとわりついていた。



 四人の神々の能力者が撤退へ動き始めた時、血の華が乱れ咲くドミニアス邸の食堂で、ギュスタレイドは奇妙な樹木のように折れ曲がった姿をさらしていた。

 肉の樹に実った紅く歪んだ果実をアルフォンソが覗き込むと、その果実の表面が割れ、唇から言葉がこぼれ落ちる。

「あま、り…私を、怒らせるな……」

「けっ! まぁだ言ってやがるか、この糞虫が」

 片腕を突き刺したまま、アルフォンソは彼の首を切り落とそうと刃を掲げた。

「ま、胴体から離れちまえば、その減らず口も動かなくなる」

 けたたましく笑うアルフォンソの声が、チェスカニーテの心を締め上げる。まるで、心臓に歯を立てられたような痛みが、混乱する彼女を激しくかき乱した。

「やめてっ! お願いだから、お願いよ!」

 手を伸ばし、彼女はすがり付くように涙を溢れさせる。この悲痛な叫びに揺さぶられ、ギュスタレイドの虚ろな眼にわずかに光が宿った。

 チェスカニーテの悲鳴に、アルフォンソは心地よさそうに耳を傾ける。

「いいねぇ。ゾクゾクくらぁ」

 愉悦に浸る彼の視線が宙に泳いだとき、ギュスタレイドは辛うじて左手の中にあった大剣の柄をかたく握り直すと、残された力を絞り尽くしてそれを振るった。

「敵地にあって、甘いっ!」

 もろとも貫くように、ギュスタレイドの大剣が背中側からアルフォンソに襲いかかる。ぐじゅりっと濡れた音がして、肉にめり込む鈍い手応えがあった。

 これがギュスタレイドの最期の意地。甘んじて死を受け入れるとしても、妻に危険を残したまま逝くわけにはいかない。アルフォンソの眼が、苛立ちと驚きの入り交じって彼を凝視した。

「……塵がっ」

 動く。アルフォンソは刃を掲げた腕を背後に回し、突き立った剣を乱暴に引き抜く。ギュスタレイドの意地は、アルフォンソの脇腹から、我が身のそれを刺し貫くに留まり共倒れには至らなかったのだ。

 私は最後の最期で、この程度なのか。

 仕留める最後のチャンスを失ったギュスタレイドは覚悟を決めた。もう、自力で立つ力すら残されていない。

「痛ぇじゃねえかよ、とち狂いやがって」

 自分の身体から出た血を眺め、満足げにアルフォンソがギュスタレイドを見た。

 その眼は、チェスカニーテに襲いかかろうとしていた時と同じく、理性の崩れ去った狂気の染みが色濃く浮かんでいる。

「だが、楽しませてくれた礼に、首は持ち帰ってやる」

 討ち取るための刃を振り上げたとき、窓の外から突風が吹き込んだ。羽ばたく翼音と共にひとりの青年が窓の枠に舞い降りて声をあげる。

「大将、撤収しますよっ!」

 またも水を差されたアルフォンソは、その青年に牙を剥きだして怒鳴った。

「ブラウっ! てめぇ俺の楽しみを邪魔するんじゃねぇ!」

 だが、ブラウと呼ばれた彼はアルフォンソの振り上げた腕を掴んで、ギュスタレイドから引き離すようにして言う。

「そいつは放っといても死にますよ。 いいから、急がねぇと面倒なことになるっ!」

「面倒? サイアス・クーガーか。あいつはそっちで食い止めるはずだろうが!」

「クーガーは宝物庫の前でぶっ倒れてるよ。そうじゃなくて『あいつ』が来ちまったんだ!」

 目の前のやりとりは、チェスカニーテには理解できないが、アルフォンソが『あいつ』という言葉を聞いた瞬間に、激昂した気持ちが冷やされたのだけは見て取れた。

 わずかに迷った様子を見せたあと、アルフォンソはそれを払って言う。

「だが、こいつを殺るのに二秒とかからねぇっ!」

 ふたたび獣が半死のギュスタレイドに牙を剥くが、エーヴェンは室内に踏み込むと、その脇を抱えて引き離した。

「無意味な殺生するってんなら俺、大将を運びませんよ! とにかく今はとんずらするのが先、愚痴ならあとで聞きますって!」

 ギュスタレイドを捕らえていた棘の群が引き抜かれ、彼の身体はがくりと地に落ちた。アルフォンソはまとわりつくエーヴェンを振り払って言う。

「鬱陶しい、放せ!」

 そして怯えるチェスカニーテを見、次に墜ちたギュスタレイドを睨んだ。

 アルフォンソの脳裏に、『あいつ』と呼ばれる男の事が駆けめぐった。

 選ぶのは目先の快楽と後の後悔。本能に流されている時なら別だろうが、今の冷えた頭で考えたとき、彼は後者を選択する。

「ちっ。お楽しみは終わりか。だが、てめぇらは俺が必ず狩ってやる。それまで、せいぜい腹のガキを可愛がってやるんだな兎ども」

 吐き捨てたアルフォンソが窓を飛び越えてエーヴェンの足首を掴む。エーヴェンは翼を広げて宙に舞った。

「いやいや、うちの大将もやることエグイね」

 室内の様子と残された夫婦の姿を見て、彼は不快そうに首を振ると、目にも留まらぬスピードで窓の向こう側へと飛び去る。

 突然の出来事に呆気にとられていたチェスカニーテは、すぐに我に返ってギュスタレイドのもとへと這い寄った。

「あなた……。ねぇ、あなたっ!」

 揺するが反応がない。触れる彼の肉体が、どんどん体温を失っていくように感じる。スカートを破いて、包帯代わりに脇腹と左半身に巻き付けるが、それはすぐに真っ赤に染められてしまった。

「どうしよう、血が止まらない。それに、なんでこんなに……」

 唇も肌の色も、石灰を塗り込めたように蒼白だった。

「どうしよう! どうすればいいの!?」

 混乱し、子供のように泣きじゃくる。もう彼女は何をすればよいのか、それを冷静に考えられる状態ではなかった。アカデミーで学んだ医学の知識も見よう見まねの治癒法術も、まったく無力だ。

「いやだよぉ。しんじゃいやだぁああ……!」

 涙で瞼が重く、鼻水で息が詰まる。しゃくりながら、彼女は両腕でギュスタレイドを強く抱きしめ、顔を伏せて声をあげることしかできない。

 ぽたぽたと伝って落ちる涙の滴が、ギュスタレイドの顔を濡らす。

「あ゛ぁぁぁぁあ゛あ゛あ゛ぁぁ!!」

 彼女がひときわ大声で泣くと、彼女の想いが天に伝わったかのように、開け放たれた扉からアシュカが駆け込んできたではないか。

「チェスカニーテっ!?」

 彼女を呼んだアシュカは部屋に入るなり、その有りさまにうっと息を詰まらせて口を片手で覆った。

「アジュガざぁんっ! この人が、あのひとにぃ…!!」

 泣きわめいているチェスカニーテの言葉は、意味がわからなかった。どうして彼女がここにいるのかも理解できないが、涙と鼻水にぐしゃぐしゃになった顔を見れば、何が起きたかは容易に想像できる。

「とにかく、すぐにギュスターの手当をしないと」

 疲労し軋む身体にむち打って、アシュカは気を練り始めた。応急処置ていどだが、彼女は治癒法術も心得ている。それで癒せるの範囲などたかが知れているが、方法を選んでいる余裕はないのだ。

 ギュスタレイドの傷口に当てたアシュカの手が柔らかな光を放ち、すこしだけ出血が弱まったように見える。フォースを与え続け、アシュカがチェスカニーテに言った。

「いいチェスカニーテ、よく聞いて。このままじゃギュスターは危ないわ。法王庁舎、いえ、病院まで走って法術の使える医者を呼んで来てっ!」

「おい、しゃ、さまぁ?」

 途切れとぎれに彼女が聞き返した。アシュカは強く頷いて繰り返す。

「そう、お医者様。いいわね、出来るだけの人数を集めてちょうだい!」

 チェスカニーテは顔を手の甲で拭い、壁に手をついて何とか立ち上がると、チェスカニーテは背を丸めておぼつかない足取りで歩き出す。

 扉際で一度振り返って、ギュスタレイドを見つめたあと、彼女は唇を噛みしめて走りだした。アシュカは彼女を見送り、腕の中にある傷ついた騎士に目を落とす。

 ギュスタレイドの顔に、サッシュのそれが重なって見え、アシュカは首を振った。

「大丈夫。大丈夫よ」

 自分に言い聞かせるように呟き、彼女は更に大きく息を吸って気を放ち始めた。



 気が付くとギュスタレイドは、暗く、身動きの出来ない場所に立っていた。どうして自分がこの場所にいるのか、またどこから来たのかもわからない。

 周囲を見渡し、闇の中に微かな光の点を見つた彼は、ふと両足が軽くなるのを感じて歩き出す。景色も道もない世界を真っ直ぐに歩いた。

 自分自身では、どこかべつの場所へ帰らねばという気持ちがあるのだが、どうしてもそれがどこなのか思い出せない。それより今は、光に向かって歩くことの方が心地よく、他のことなど忘れてしまうほどなのだ。

 まるで灯りに吸い寄せられる虫のように、ギュスタレイドは茫然と歩き続ける。

 次第に彼の身体は花びらを散らすように皮膚が剥げ、肉がそげ落ち、小さく、小さくなっていく。解き放たれた肉体は、少年時代の姿まで戻ったのだ。

 灯りの先に、邸が見えた。自分の生家、ドミニアス領の丘にある古い邸だ。

 緑青のふいた屋根の装飾像や蔦の絡まる壁、すべてが懐かしく暖かい。

 片手で門を押すと、それは羽のように軽く開いてギュスタレイドを受け入れた。

 思わず走り出し、彼は玄関を通り抜けて二階へ続く階段を駆け昇る。

 踊り場を蹴って二階まで上がり、右に曲がって廊下を奥まで走ると、そこにはいつも閉ざされた扉がある。広い邸内にあって唯一 立ち入りが制限されているこの場所には、ギュスタレイドの掛け替えのないものがあるのだ。

 扉を優しくノックして、中に呼びかける。

 一日に一度だけ、この扉を叩くことが許されていた。ただ、一度だけだ。

「母上、起きていらっしゃいますか母上」

 呼びかけて返事のない時は、入ることは出来ない。その日は母の姿を見ることはない。

「ギュスタレイドですか。お入りなさい……」

 か弱い声だったが、返事が返ってきた。母の声が聞こえると、少年の顔は喜びに満ち、その胸は踊り出したくなる気持ちで一杯になるのだ。

「はい、失礼します」

 気持ちを抑えながらノブを回して中へとはいる。日差しを避けて重くカーテンの引かれた窓は温もりすら伝えず、ひんやりとした室内に燭台の明かりだけが揺れていた。

 母はベッドの上にいて、消えてしまいそうなほど痩せた身体にガウンを纏った姿で我が子を迎える。

 病気だった。物心ついた頃から、記憶にあるのはこの薄暗い部屋のなかの母。

「お体の具合はいかがですか母上」

「今日はね、とてもいいのですよ」

 入り口の所に立ち、心配そうに自分を見つめるギュスタレイドに、彼女は手招きしながら言った。

「さあ、そんなところにいないで、もっと傍へ」

 ベッドの脇には彼のような訪問者を座らせる小さな椅子があるのだ。だが、その椅子に座ることがあるのは、家政婦と、医者と、ギュスタレイドだけであった。

「母上、今夜はなにが食べたいですか? 牛飼いのウィルムに乳を分けて貰ったので、シチューにしましょうか」

 そう訊いたギュスタレイドの頭を撫でながら、母はそっと呟く。

「何も要りません。それより、あなたにはしなければ成らないことがあるでしょう?」

「ですが母上、母上はいつも私の作るものを、喜んで食べて下さったではありませんか」

 子供心に、悪意のない言葉も棘に思える。ギュスタレイドにすれば、一日の内で母親と接することの出来るわずかな時間に自分の手料理を食べさせ、喜ぶ母の顔を見るのが何よりも幸福だった。

 しかし自分を寂しげに見つめる少年に、母は首を静かに横に振る。

「あなたの気持ちは、とても嬉しいですよ。でも、いまは私に構っているときではないでしょう? あなたを必要としている人が他にも沢山いるのですから」

 自分の手をそっと握る母の気持ちも、少年は受け入れ難かった。突き放されたように感じられて成らない。

「いやだっ! 私はこれからも母上のお傍におりますっ!」

 聞き分けなく乱暴に首を振った我が子を見て、母は説き聞かすように言った。

「いつまでも、そうしては居られないのですよギュスタレイド。あなたはもう私を追い越して先へ行ったのです。だから、振り向いてはだめ……」

 少年には、母親の言葉の意味するところがわからなかった。彼は眼に涙を溜めながら、それをこぼさぬように身を強ばらせて声を押し出す。

「父上にも、そう言って送り出したのですか?」

 ある日邸を出て、父は戻らなかった。少年のギュスタレイドにとって、この世の中はもはや母と自分だけの世界になってしまっていた。そして今、その母の口から居場所を取り上げるような言葉が綴られている。

「……父上は、どうして私と母上を置いて行かれたのですかっ。母上まで、私をひとりにしようというのですかっ?」

「違うのよ、ギュスタレイド……っ」

 堪らずに母は少年を抱きしめた。少年もまた手放されぬように、強く母にしがみつく。

 だが、彼女の口から自分の望む言葉は語られなかった。

「ギュスタレイド、あなたはまだここへ戻ってきてはいけないの。あなたが愛するひと、あなたを愛する人達が、帰りを待っているのだから」

 気がつけば、ギュスタレイドは少年ではなく、もとの青年期の終わりを向かえた身体になっている。母にただひと目 見せたかった、成長した自分の姿だ。

「母上……」

 腕を放して顔を見つめると、母は涙を滲ませた眼で頷いた。

「ギュスタレイド。 立派に、成りましたね」

 微笑む。

「お行きなさい。あなたには、もう自分の家族がいるのですから……」

 ギュスタレイドは静かに頷いた。窓のすぐ外から、聞き慣れた声がする。

 ―――――――― あなた、あなたぁ。

 自分を呼ぶ、チェスカニーテの無邪気な声。

 ―――――――― ギュスター、そっち側に行くのは、まだ早いだろう。

 忠誠を誓った姫君の声だ。

 ―――――――― なあ、俺に大役押しつけて議員になったんだろう? なら諦めるのは、何かをやってからにしてくれよ。

 エスメライトか。あれに説教をされるようでは形無しだな。

 そして聞こえてくる、ぶっきらぼうな奴の声。

 ―――――――― おい、いつまで甘えてんだ。 お袋なんざ、てめぇの素の肉だろう。

 おまえはべつの言い方が出来ないのか。

 だが、悪くない気分だ。なにか、埋まらなかった部分が満たされるような。

「ねぇギュスタレイド、太陽が見たいわ。 もう、ずっと見ていないから」

 母親が窓辺に立った息子に言う。彼女の病気には強い日差しは毒だった。しかし、ギュスタレイドは彼女の気持ちに応えてカーテンに手をかける。

 もう、病気のことを気にする必要など無い。母はそういう世界の住人なのだから。

「また、いつかお会いしましょう、母上……」

 二度目の別れの言葉。しゃっと音を立て、彼はカーテンを開け放った。目の眩むような陽の洪水が室内に流れ込んでくる。

 母は窓を見つめていた。その眩い光に、それまで見せたことの無いほどの笑顔で。

「……ああ本当に、なんてすばらしい暖かさ」

 感慨深く言った母の声が、陽の光に溶け込むギュスタレイドの耳に届いた。

 その暖かさに全身を包まれながら、ギュスタレイドはそっと眼を閉じて流れに身を任せる。思い出せなかった帰るべき場所は、きっとすぐ近くにあるだろう。

 この不可思議な夢から覚め、ギュスタレイドが自宅のベッドで意識を取り戻したのは、事件の晩から二日目のことであった。



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