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リヴァイヴフリード  作者: 墨
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三章 足跡

 サイアスとシャドゥブランドについて語るまえに、まず『彼ら』について語る必要がある。


 アカデミーが法術の研究に着手して数年、フォースの物理的な利用法を模索する実験が実を結びつつあった。およそ三十二年前のことだ。

 研究者達は大気中や物質に宿るフォースを抽出して、べつのものに利用するという試みに挑戦していたが、生みだされたのはシャドゥブランドのような、とても常人には扱えないような欠陥を抱えたものばかり。 フォースの人為的な制御は不可能のように思われた。

 そのころ医療科学の分野では、研究者『トマス・フューリー』がフォースを吸収し変異させる物質の合成に成功していた。

 彼は法術の中に傷や病を治療する術が存在することから、外界のフォースを自然に吸収し、飽和後に放出する性質をもった微粒子を血管を通して体内に注入することによって、人間の持つ治癒能力を向上させることが出来ると考え長年研究を続けてきたのだ。

 つまり、体内にあらかじめ治癒法術の素のようなものを入れておき、それが自動的にフォースを吸収しては、治癒法術の形でそのフォースを吐き出す。 これを繰り返させていれば、たとえ怪我や病に犯されたとしても、常に体内の粒子によって飛躍的なスピードで癒されるという試みだ。

 また、この法術の素となる微粒子の性質を変えることで、どのような効果を発揮するかを制御し、身体能力の向上や、失われた感覚の代替効果などが見込めると考えたのである。

 そして完成したのが、後に『狂気の杯』と呼ばれる物質『エンチャンスメント』。

 初期段階から合わせて、六人の幼児を発狂死させていたトマスの研究班は、その原因が幼児の未成熟な身体では、エンチャンスメント注入後の体質の変化に順応できないからだと考え、七番目と八番目の被研体には肉体的に優れた成人男性を選んだ。

 それが後にサイアスの父親となる『レイジス・クーガー』と、どこまでも血塗られた因果を辿ることになる『ガイア・ハモンド』であった。

 貧しかったレイジスは投薬実験の報酬のために、ガイアは肉体の強化実験という言葉に惹かれて研究に参加した志願者である。

 完成したエンチャンスメント注入後、ふたりには劇的な変異が起こった。 トマス達の予想を裏切り、体内に入ったエンチャンスメントは外界ではなく、被研体の体内から生命力の源であるフォースを搾り取り変異させて放出し始めたのだ。

 治癒効果だけに制限していたはずのエンチャンスメントの効力が、あらぬ方向に対して効果を発揮してしまったのである。 その結果、治癒能力の向上のほかに発現した効果は、異常なまでの筋力の上昇、色素異常、戦闘的人格変貌、妄想、幻聴などだった。

 南アドナス大陸出身で、褐色の肌に黒髪であったレイジスとガイアは、次第に身体が蒼白く変色し、髪は色素を失って銀髪となり、黒かった瞳も色あせて赤目になっていった。

 筋力は際限なく強化され、皮膚や骨格もそれに比例して強度をましたが、そのことが逆に内臓などのやわらかな組織を破壊しかねないほどだった。

 そして外見的な症状が進むに連れて、ふたりの間に対照的な精神の異常が認められた。レイジスが幻覚や幻聴に耐えながら、正気を保とうと苦しんでいるのに対して、明らかに凶暴性を増したガイアのほうは、得体の知れないその変化に快楽を感じていたのだ。

 エンチャンスメントによる肉体の変化が、ある種の興奮作用を引き起こしたのだろうと推測されるが、ガイアはその感覚に酔い、うちから沸き起こる破壊衝動に身を任せるようになった。

 実験が失敗であることは誰の目にも明らかであったが、これを成功と捉える者達がいた。 先のフォース利用型兵器の開発者達である。

 フォースによって常人に扱えない兵器が産まれるなら、超人を創り出せばよい。安直な発想ではあるが、これは双方にとって利害の一致する発想であった。 度重なる失敗にプロジェクト凍結の危機にあったトマス・フューリーに選択の余地はなかった。エンチャンスメントの研究を続行するために、彼は隔離していたレイジスとガイアのふたりを兵器開発部門に引き渡したのである。

 そこでふたりは精神崩壊を防ぐ治療が施される傍ら、戦闘員としての訓練が行われた。 周囲は常人を遙かに上回る身体能力を持つふたりに、研究者達は単独行動型の特殊潜伏員としての未来を嘱望したが、それは叶わぬ夢となる。

 レイジスとガイアがエンチャンスメントを注入されてから一年後の、息吹の月第一週木曜。 ふたりはそれぞれ『シャドゥブランド』と『ヴァイツァオンアーグリー』という二振りの剣を与えられ、性能テストを兼ねた演習が行われた。

 拘束を解かれるやいなや、ガイア・ハモンドは監視員や同席していた研究員に襲いかかり、ヴァイツァオンアーグリーを手に逃亡をはかった。 正気を失っている彼が逃げ出せば先々で惨劇が起こることは目に見えていた。 この瞬間まで破壊衝動に捕らわれることなく強靭な精神力で自分を保っていたレイジスは、シャドゥブランドを頼りにガイア・ハモンドの捕獲に向かったが、取り逃がしてしまう。

 結局この失態が致命傷となり、兵器開発もエンチャンスメントの研究も凍結が決定。残されたレイジスは処分保留のまま一時トマス・フューリーが身柄を引き受ける事となった。

 アカデミー上層部はレイジス・クーガーの体内にあるエンチャンスメントを除去し、その異常な能力を抑制する手段が見つからない場合は即刻処分せよとの決定を下しており、トマスがそれに従うなら彼に生き残る道は残されていなかった。 レイジスの体に注入されたエンチャンスメントは、彼の身体からフォースを引き出して消費するという役割を果たす内にすでに変異し、体組織と融合して肉体の一部となってしまっていたからだ。

 研究が凍結されてもなおエンチャンスメント完成の夢を捨てきれずにいたトマスは、すべての研究資料が奪われたうえにレイジスという残された被研体まで失うわけにはいかず、ひとつの可能性に賭けることにした。

 レイジスの肉体が、注入されたエンチャンスメントと同化したというなら、彼の体内で生産される精子にもその性質が受け継がれるかもしれないと考えたのだ。

 上層部からの決定通知を受け取っていたトマスに、真偽を確かめる時間はなかった。そして同時に上層部にことが知れることも恐れた彼は、当時二十歳になったばかりの自分の娘コーネリアにレイジスの子を宿らせることにしたのである。

 娘は、研究に生涯を捧げていた父親に従った。 しかしレイジスが事情を知ればコーネリアを受け入れはしない。そこでトマスはレイジスを研究所の地下室に幽閉し、世話係として娘を近づけた。レイジスが献身的で美しい彼女に心を惹かれるまでにさほど時間はかからなかったが、トマスにすればレイジスの処分を命ぜられた手前、しかたなく回りくどい方法をとったのであろう。

 曰くつきの逢瀬が始まり半年が過ぎた頃、コーネリアには若い研究者ロックアートとの縁談が持ち上がっていた。彼はトマスと同じく凍結されてしまった兵器開発部では異彩を放っていた男で、浅からずフューリーの家とは交流があった人物である。

 ロックアートは知らないことだったが、この縁談にはコーネリアがレイジスの子を懐妊したときの、目隠しの役割もあったのだ。

 そして、さらにひと月後、コーネリアは懐妊した。被研体レイジス・クーガーの子を。

 直後、コーネリアはロックアートと結婚。レイジスは処分されることとなった。

 レイジスとコーネリアとの間に、どのような会話や交わりがあったのかサッシュは知らない。だが、懐妊の事実が明らかになったあとレイジスが処分されるまでの間、コーネリアが研究所の地下室を訪れることが無かったのは事実である。

 結婚後のロックアートとコーネリアとの生活は決して不幸なものではなく、父親の研究で財を失ったフューリー家の生活とはうってかわって、もとが貴族のロックアートの家は贅を尽くしてあまりある物質に溢れていた。 ただひとつ残念だとすれば、結婚後数週後に父トマス・フューリーが心臓の病で急逝したことだ。

 日々は何事もなく流れ四ヶ月が過ぎた頃、コーネリアは安静にすごすために訪れた地方の都市で臨月を迎えた。通常は早すぎる出産だが、レイジスの血を引く胎児は驚くほど急成長をみせた。あたかも妊娠中に母胎が天敵に襲われる危険を回避しようとする、野生の本能を思わせるほどに。

 別荘で御産を向かえたコーネリア。しかし、産婆から夫のロックアートには死産だと伝えられた。ロックアートは早産だったのだから仕方ないと、肩を落としつつも妻を慰めた。そして妻は、そんな夫を長年に渡って偽り続けることになる。

 死産ではなかった。 確かにその夜、そこに命が生まれ落ちていたのだ。

 実父のレイジスが後天的とはいえ色素異常だったのだから、多少は色白な子どもが生まれても仕方がない。自分も夫のロックアートも白肌に金髪、そして蒼い瞳と全体的に色素は薄い方なので多少のことは大丈夫だろう、と思っていたコーネリアは我が子を見て愕然とした。

 生まれ落ちた子は蒼白すぎたのだ。 銀髪に紅の瞳、そして病的な白さをもつ肌。

 先天的な色素欠乏だと、医学的な見地からものを言うのは簡単だ。 しかし共同研究という形でトマスからレイジスを引き継いだことのあるロックアートがこの子を見たら。

 夫は自分がレイジスの世話をしていたことも知っているのだ。

 コーネリアの中で、最悪な事態と醜悪な想像が嵐のように渦巻いた。

 妊娠から四ヶ月しか経っていないと言うのに、身体的にはあまりに正常で、かつ白いこの子を見たら、夫はいったい誰を思い起こすだろうか。そう考えるだけで、コーネリアの心は凍り付くのだった。

 研究のために家族を犠牲にし続けた父親の亡霊が、ようやく手にした豊かな生活と、自分の幸せを握りつぶしていくように、彼女には思えたのだろう。

 彼女は産婆に金を握らせて夫には死産だったと告げさせた。 そして生まれたばかりの赤子は下水へと流された。ただひとつ罪悪感からか、母親は彼に本当の父親の姓を交えたクーガーという名だけは伝えたのだという。

 このときのやり取りは、サイアスが記憶していたものをサッシュに語ったのだ。 彼は胎内にいたときから、生まれ落ち、そして下水へと落とされるまでの事もすべて記憶しているのだという。普通なら眼も開かぬときに、すでに彼は周囲の世界を認識していたのだ。にわかには信じがたいことであるが、それは、確かに父親から超人の血を受け継いだ証でもあった。

 それがサイアス自身にとって、どれほど呪われた血であったとしても。

 一月も経たぬうちに、夫婦はもといた街へと帰っていった。

 ひとり残されたサイアスには、およそ六年のあいだ獣のような生活が待っていた。言葉もなく、光を嫌って水路の奥底に潜んでカエルや虫を食べ、夜になると這い出してごみを漁りながら街をうろついた。リンサイアの地方都市に今も残る怪人の噂などは自分がモデルかもしれないと、あとでサイアスはそう言って笑っていた。

 不衛生な生活環境の中で、彼は病に冒された。 エンチャンスメントの血も、栄養失調と劣悪な環境に長年蝕まれた身体を癒し続けることはできなかったのだ。

 激しい嘔吐と、倦怠感。発熱。些細な切り傷も化膿し、肉が落ちた。このまま死んでゆくのだと覚悟したが、気がつくと人家のベッドの上にいた。 そこでサイアスは初めて同じ人間の生活というものにふれた。

 その家は教会の司祭の家だった。父母と娘の三人家族。彼らは懸命に手負いの獣の看病をしてくれた。口に食べ物を運び、下の世話をし、傷口を洗って布を巻いてくれた。

 滋養がつくにつれてサイアスは回復していった。もともと常人成らざる回復力をもつ彼は、死の淵から急速に立ち返ったのだ。

 やがて熱に浮かされた意識がはっきりし、人間に助けられたのだと気付いた頃には、その家の家族は身よりのない彼を引き取る決意をしていた。サイアス曰く、勝手に。

 はじめのうちは警戒心と怯えから、文字通り噛みついてばかりいた。人間の身に纏う衣服というものも煩わしく、テーブルや椅子、皿、スプーン、フォークというものにも意味があるようには思えなかった。そんな彼を家族は温かく見守り、育ててくれた。

 一年も経たぬうちに、サイアスは言葉を発するようになった。 初めて口にしたのは、どういうわけか『ありがとう』だった。それから母親の最後の記憶で耳にしたクーガーという音が、自分の名前であるということを認識するのに時間はかからなかった。

 十歳を過ぎたころ、サイアスは荒れた少年だった。 成長期を迎えた肉体に比例して破壊的な感情が芽生え、手の着けられないところがあったのだ。

 仕方なく、家族はサイアスをリンサイア王都の教会に預けることにした。一家の父親が師と仰ぐ人物の教会に預けることで、少しでも正しい道へと導びこうと考えたのだ。 これには娘の、サイアスからすれば義姉の『アメリオ』が付き添った。

 こうして王都を訪れたサイアスは、預けられた教会で生活をする傍ら、有無を言わさず戎士隊に入隊させられた。粗暴な彼を囲い込むための苦渋の策であったが、それでも十三歳で街を飛び出すまでのあいだ彼は、どんな教師も、辣腕の警備隊ですら頭を悩ます荒くれ者として名を響かせることになる。

 そのころのサイアスについては、サッシュよりも当時から面識のあるギュスタレイドやチェスカニーテのほうが、詳しいかも知れない。少女時代のマリーアンですら彼の悪評を耳にしていたほどなのだから。

 この頃、唯一サイアスを抑えることが出来たのは、義姉のアメリオだけだった。どういうわけか、サイアスは彼女にだけは頭が上がらなかった。静かに彼の顔を見つめて名前を呼ぶだけで、どんなに逆上していたとしても、熱が引くように大人しくなるのだ。

 都会での生活に馴れ始めた頃、ある悲報がサイアスとアメリオのもとに届いた。 賞金首として手配されている男の手によって故郷の街が壊滅させられたというのだ。

 幸い、ふたりの両親は近隣の街へと逃れて無事だったが、隣人達には多くの犠牲者があった。両親から届いた手紙には、落ち着いたら王都へ上ると記されていた。

 それから二ヶ月あまりが過ぎた頃だ。両親が行方不明になったのは。

 王都に向かう途中で事故にあったのかもしれないし、何か事情が変わってで来られなくなったのかもしれない。真実はわからないが、忽然と両親は消息を絶った。

 サイアスはふたりを探すのだと言って王都を飛び出した。もはや、家族が彼だけになってしまったアメリオは泣きながらサイアスを引き留めようとしたが、無理だった。

 マルスから餞別にと渡された、ひと振りの剣を手に、サイアスは長く続く旅の第一歩を歩みだした。

 賞金稼ぎのまねごとをしながら国中をまわるうちに、彼の名前はその世界で知られるようになった。わざわざ仕事を依頼しに来る人間まで現れた。

 そんなとき、ひとりの男の手配書がサイアスのもとに廻されてきた。アカデミーから爆発物を大量に盗んで逃亡中の元研究員の手配書だった。

 男の名はヘルゼイ・ロックアートといった。皮肉にも、コーネリアの夫である。

 サイアスがリンサイア西部の街でロックアートを捕らえたとき、彼は懐かしい友に再会したかのようにサイアスに言った。

『やはり、同じ眼をしているな。 だが随分と強がりだ』と。

 そしてサイアスは、ロックアートからすべてを聞かされるのである。

 ロックアートは十四年目にして真実を知った。 妻はレイジスとロックアート双方に対する罪悪感に苛まれ、精神バランスを崩して病に陥っていた。

 その妻の口から聞いたのだ。すべてを。

 結局ふたりの間には子どもはなかった。妻がそれを拒否していたからだ。

 ロックアートは初子が死産に終わったことの心の傷がそうさせているのだろうと思っていたが、実際は違ったのだ。

 コーネリアはレイジスを愛していた。 自分でも、他の誰でもなく、実験のためにと父親に引き逢わされた男を、心から愛するようになっていたのだ。しかし、父親が死にレイジスも処分されたと聞かされた彼女は、自分の豊かな生活が失われることに恐怖し、赤子を打ち捨てた。 その過ちが、無限の苦しみとして彼女の心を締め付けていたのだ。

 自業自得、因果応報。そんな言葉はロックアートの口からは決して出なかった。彼もまた心から妻を想い、愛していたのだから。

 そして彼はレイジス・クーガーに逢った。処分されたといわれていた彼は、研究所の地下室で、拘束されたまま生かされていたのだ。銃殺、毒殺、絞殺、あらゆる方法を試みたが、彼の異常な再生能力と身体能力のまえでは、どれもうまく行かず、最後には隔離状態で放置し、餓死させるという手段が取られたのである。

 その時点で彼は処分されたことになった。しかし、レイジスの血は彼を十四年間、無理やりに生かし続けたのである。事実を知ったロックアートが研究所の地下室を訪れたとき、扉の小窓から真っ暗な部屋のなかで、かすかに蠢くレイジスの姿を見た。

 もはやそれは、ひとの形すらしていなかった。骨格はねじ曲がり、皮膚はひび割れてところどころが剥げ、ただ暗闇の中で紅い瞳だけが燃えていた。

『レイジス、私だ』と呼びかけると、彼はすぐにかすかに微笑んだように『ああ学者さんか。随分と、久しぶりだな』と掠れた声で返した。そしてすぐに『コーネリアは、元気にしているだろうか。もう、逢うこともないだろうが』と。

 会話をした。 被研体として見ていた頃、ロックアートはレイジスを人として認識したことはなかったが、レイジスは弱々しく消え入るような声ではあっても、親しみを込めて自分に言葉をかけてくれた。

『彼女は、いまは私の……』

『ああ知ってる。最後にあった日に、彼女が言ってたんだ』

『腹が立たないのか?』

『いや、彼女が幸せならそれでいいさ』

『君から彼女を奪ったのは、私なんだぞ。君が愛していたのは君だったのに、それに気付かずに』

 乾いた声で、レイジスが笑った。嘲りではなく、温もりがある。

『学者さんが、なにを悔やむ。 謝るなら俺だよ。知らなかったとは言え、婚約者のいる彼女に、俺は……』

『それは、仕方がなかったんだ。それに、彼女もそれを望んだはず』

『優しいな、学者さんは』

 呟くように言って、レイジスは深く息を吸い込んだ。

『彼女は、俺のことを知ってるのか』

『いや。死んだと聞かされたきりだ。私がここに来ることも、言ってはいない』

『そうか。よかった…』

 そして笑ったように見えた。

『俺がこんな事を言える人間じゃないのはわかってるが、彼女を頼む。 俺は死んで、それでいい。彼女は、あんたと幸せになるべきだ』

 俺は死んで、それでいい。 そこまでレイジスが彼女を愛していたのだと知った。

『君は悔しくはないのか。このまま、もし彼女が君を忘れるとして、それで耐えられるのか?』

 それが訊きたかった。もちろん自分のコーネリアへの愛は誰かに劣るものではない。しかし、それはレイジスも同じだと思えた。

 闇の中で紅い瞳がかすかに揺れ、レイジスの答えが返ってくる。

 ――――――― 俺は、過去さ。

 それほどまでに。レイジスはそれほど彼女とロックアートとの『今』を護ろうとしてくれたのだ。涙が溢れそうになるのを堪え、ロックアートは真実を彼に告げた。

『コーネリアは子どもを生んだ。君の子だった』

 これは、言うべきかどうか迷ったすえに、口から出た言葉だった。レイジスは黙って、それからただ一言、すまないと呟いた。

 彼女がその子どもを捨てたことは、どうしても言葉に出来なかった。代わりに、レイジスが口を開き『もし、その子が真実を知ったなら、俺をかばうようなことは絶対に言わないでやってくれ』そしてこう続けた。

 ――――――― せめて母親を憎まぬために。

 会話はそれで終わりだった。レイジスは眠り、ロックアートはその場を去った。

 涙と、後悔と、感謝だけが残った。病に落ちた妻を見てロックアートは思う。彼女が床に伏せているのは、自分の愛情が、彼女に疑われていたことも原因のひとつなのだと。

 真実を受け入れてくれないと思ったから、彼女は赤子を捨てたのだ。

 病状が悪化し、コーネリアが病院に収容されると、ロックアートに襲いかかってくるのは過去という重圧。

 コーネリアのために、レイジスのために、自分は何が出来たのだろう。なにひとつとして達成することなく幻想の中で、ただ朽ちていっただけだ。

 そんなとき、リンサイアの地方都市をまるごと破壊した男の噂が耳に届いた。

 その男『ガイア・ハモンド』。異例の五十億リオの賞金を懸けられながら、誰ひとり、いや、軍隊を率いても捕らえることの出来ない男だった。

 かつて自分が創った兵器『ヴァイツァオンアーグリー』を手に、研究の凍結とレイジスの処分決定に繋がる叛乱を起こした男。

 あの事件さえなければ、運命は変わっていたかも知れない。いや、運命が最悪の方向に流れてしまったのには自分にも責任がある。 シャドゥブランドとヴァイツァオンアーグリーの基礎設計をしたのは、誰でもないロックアート自身なのだから。

 せめて自分の生みだした兵器に魅せられた亡霊は、自分の手で決着をつけるべきだ。

 決意したロックアートは、アカデミーからシャドゥブランドを盗みだした。

 そしてフォース利用型兵器の開発、すなわち法術研究の事実が外部に漏洩することを恐れたアカデミー上層部は、法王庁には大量の爆薬が盗み出されたと説明し、ロックアートに賞金を懸けたのである。

 常人のロックアートには、到底ガイアを倒すだけの力はない。しかし馬車を使わねば持ち運ぶことすら出来ぬほどにフォースを溜め込んだシャドゥブランドを爆破させれば、蓄積されたエネルギーが一気に解放されガイアもろとも消し去ることができる。

 ロックアートは、差し違える覚悟でガイアを追っていたのだ。

 すべての経緯を聞いたあと、サイアスは冷静だった。実の両親がどのように出逢い、別れ、アカデミーの研究者達の探求心に振り回され、その熱の中で道を踏み外し。

 だがサイアスは、それを知ってなお。

 ――――――― ああ、そうか。

 そう思うだけだった。他には何の感情もなく、ただそれだけ。

 だが興味だけはあった。ロックアートという男の覚悟と、ガイア・ハモンドという未だ見ぬ猛者に。純粋に戦いの勝利者たることを求める傾向が、若いサイアスの心には芽生えていたのだろう。

 サイアスは、ロックアートと共にガイアを追うことを決意する。それが失われた育ての親の消息を知る最短の道であることも、彼にはわかっていた。

 巡り会ったのは、砂漠の国サザンクロスにほど近いヴェルセの砂漠。男は長い銀髪を獅子の鬣のように靡かせ、血塗られた紅い眼に笑みを浮かべていた。まるで自分達が来るのを待っていたかのように。

 ガイアと対峙した瞬間、サイアスは直感的に自分を育ててくれた二人の家族が、すでにこの世にいないと悟った。理由など無かったが、疑いようのない確信を感じたのだ。

 同じ血を持つ男とサイアスは戦い、ロックアートはその影でシャドゥブランド爆破の機会を伺っていた。しかし、その瞬間が訪れるより先にガイアの手によって爆破装置は破壊され、ロックアートはサイアスを庇って斬殺される。初めて戦場で味わう敗北は、サイアスに怒りと恐怖とを深く刻み込んだ。

 もうやめろ、これ以上あの男を追えば死ぬだけだ、という理性の呼びかける声があり、同時に沸き起こった、血にまみれるまで追いかけろ、おまえの力を見せてやれ、という本能の叫びとに彼は激しく揺さぶられた。

 感情の渦に飲まれかけたサイアスは、死の淵にあるロックアートに尋ねたという。

 ――――――― どうすればいい、どうすれば許される。 俺は、どうするべきか教えてくれ。

 これが、誰かの死に後悔を感じた最初だった。そして誰かに生き方を尋ねた最後だろう。

 興味本位に動き、敗北し、そして今ひとが一人、彼の目の前で息絶えようとしている。自分の無力さに直面したとき、初めて誰かに頼りたいと感じた。

 ロックアートは苦痛と脱力感に苛まれながらも、サイアスを叱るように言った。

 ――――――― 甘ったれるな。それでもおまえは生きている。おまえ自身が選んだ道だ。

 それは、父親に成りそこねた男の、せめてもの厳しさだったのかだろうか。ロックアートは朦朧と微笑み、サイアスの髪を撫でた。そして一言、妻の名を呼んで息絶えた。

 サイアスは、そのときようやく自分の頬を伝う涙に気が付いた。十四年の歳月の中で、このときまで誰かが死ぬことを悲しいと思ったことは無かった。

 賞金を稼ぎながらの旅は、少年であったサイアスの手を血に染めていたが、そのことに彼が何かの意味を感じたことは唯の一度もなかったのだ。

 だがそのとき自分というものが、その歩んできた道筋までも遡って突きつけられる。

 どうして、己が在るのかということ。

 サイアスはロックアートの遺体を砂の上で火葬した。人は土より出て、また土に還る。だがせめて、血と肉は灰にしてやりたかった。

 サイアスに残されたのは、己が過去に没した男の遺骨とシャドゥブランドという剣。かつてレイジスがそれを手にし、同じくガイアに敗れたときに使用していた武器だ。

 あのときレイジスにガイアを止めることが出来たなら、サイアスの人生は変わっていたのだろうか。ロックアートや、コーネリアの人生はなにか変わっていただろうか。疑問だけが虚しく浮かんでは消えた。ただその答えは自分が探さねば成らぬような気がした。背負わなければならない過去と、自分自身に対しての答えを、必ず見つけなければならない。そんな想いだけが確かにそこに在った。

 ガイアに対してサイアスは憎しみは感じていなかった。あったのは鏡に映る自分を見つめるような、無機質な幻想感。ある意味ではサイアスも彼と同じ道を歩んでいる。

 人を殺して生き延びるということ。過去と向き合って歩くということ。その先にあるべつの生と、誰かの死。それら全ての意味を探す血塗られた放浪者の道だ。

 気配を感じた。背後に、自分の内なる何かが立っている。

 ――――――― 何を悔やむ。 やりたいように、やればいい。

 サイアスには答えられなかった。 この感情に身を委ねれば自分は自由になれる。 だが、それは衝動に身を委ねるガイアと同じだ。 いままでの、自分のままだ。

 ――――――― どうした、おまえの強さを、正しさを証明しろ。

 なおも語りかけるそれを、サイアスは胸の奥底に沈めた。 それでは駄目だ、それだけは教わった。

 サイアスは決してレイジスを父とは思わないだろう。コーネリアを母と慕うこともないはずだ。ロックアートに同情することも、ガイア・ハモンドを憎むこともない。自分を拾い育てた家族、残されたアメリオに、感謝以上の感情を持つこともないだろう。

 独り。ここから先は独りで立つ。不自由で頼りない足取りを独りで歩み、泣くならば独りで泣く。それがシャドゥブランドを手にしたサイアス・クーガーの覚悟だった。

 そして燃え立つヴェルセ砂漠の夜。 滅びた村でオリヴィアとの出逢い、集う仲間と長い沈黙。

 あれから十六年。現在に至るまで、サイアスは答えを見つけてはいない。

 繰り返される出会いと別れ。それを遠くから見つめていただけだ。

 彼と共に歩むシャドゥブランドだけが唯一、現世との接点のように背中に圧し掛かっている。



 すべてを話し終えたとき、サッシュは良心が痛むのを感じた。やはり、話すべきでは無かったのかもしれないと、そう思えならない。

 マリーアンは深く息をつき静かに目元をこすった。涙のにじんだその目で彼女はなにを見ていたのだろう。想いのすれ違ったコーネリアとふたりのことか。それとも、過去を背負うことで、口には出せぬ痛みを背負ったであろう、サイアスの数奇な運命か。

「だから、サイアス様は、誰ともふれ合おうとはなさらないのですね」

 人と交わったときに生じる歪み。それがもたらす結末をサイアスは見せつけられた。そして彼自身もその歪みのうちより生まれ落ちたのだ。

 彼にとっては集団であることよりも、孤立していることのほうが自然なのだろう。

「でもそれは、とても哀しいことではないでしょうか」

 胸を詰まらせるようにマリーアンの声が震えた。たしかに彼女の言うとおりかも知れない。だが、ずれた場所に立ち、違うものを見つめて生きる者がいることも事実だ。

「サイアスはきっと、俺たちみたいな周りを取り囲む人間に哀しまれるのが嫌だから、自分のことは語らないんじゃないかな」

 あえて、マリーアンにとは言わなかった。サッシュの買いかぶりかも知れないが、彼はサイアスという男をそう理解している。

「でも……」

 マリーアンが、心に小さな棘が刺さったような気分で口を開いたとき、食堂のドアが開け放たれてサイアスが姿を現した。

「おい、俺のコートに入ってた飴玉どうした? ベルトのチェーンもねぇんだが」

 入るやいなや、コートのポケットを探るようにしながらマリーアンに訊く。彼女は、あっと口に手を当てた。

「あら、あの飴玉まだ召し上がるんでしたの? 包み紙が変色していましたので、もう食べられないと思って、千切れたチェーンと一緒に……」

「捨てちまったのか?」

 頭を掻きながらサイアスが言った。それを見たサッシュは、やれやれと苦笑いする。

 幾らもしないものに対する執着は、がらくたを大事にする子どものようだ。

「いえ、まだ洗濯かごの脇にどけてありますので、すぐに集めて参ります」

 マリーアンが申し訳なさそうな顔で言い、急いで立ち上がろうとするが、サイアスがそれを軽く掌で制した。

「いや、あるならいいさ。あとで自分でやるからよ」

 差し出されたサイアスのコートの袖を見たマリーアンは、なにかを感じてさっとその端を指で摘んだ。やはり、彼女の直感は的中した。

「サイアス様! まだ生乾きじゃありませんか!!」

 いやに湿った匂いがすると思えば。サイアスは彼女の腕を引き離して言った。

「いいんだよ少しくらい」

 ひどく面倒くさそうな彼に、マリーアンは気丈な態度で言い返す。

「いけません! きちんと乾いてからでなくては皺になります!」

 サイアスは、そういうことをまったく考えていないのだろう。マリーアンが仕方なく彼からコートを取り上げようとするが、今度は先ほどのようには行かなかった。

「かまわねぇよ。着てりゃあそのうち乾く」

 無理強いできずにマリーアンは手を離した。ふたりの様子を見ていたサッシュはサイアスのいつになく普通な態度と、普通であろうと振る舞うマリーアンにほっとした。

 きっと彼女なら大丈夫だ。この男はこれでいい、そう理解できるはず。

 思えばオリヴィアとマリーアン、性格はまったく違っているふだりだが、どこか同じ匂いがする。

「それじゃ俺は部屋に戻るよ。アシュカの世話で疲れたからね」

 その場を仕切り直すようにサッシュは立ち上がった。ふと、サイアスと目が合う。彼の眼には、やれやれ、というか、しょうがねぇな、といった感情が浮かんでいた。

 サッシュはサイアスの前に立つと、ちょっとだけすまなさそうな表情で言う。

「やっぱり、悪いことしたかな」

 ばつが悪そうに言うサッシュの額を、サイアスが人差し指で軽く弾いた。

「どうしようもねぇお人好しだよ、てめぇは」

 そう言って、サイアスはため息まじりに笑った。苦笑いして、サッシュが食堂を去る。

 ふたたび、マリーアンとサイアス。ドアの方を見つめたままでサイアスが後頭部を掻きながら言った。

「昨日とは、立場が逆になっちまったな」

 この言葉で、マリーアンは今のサッシュとサイアスのやり取りの意味を悟った。おそらくドアの向こうで自分の生い立ちが語られているのを聞いていたのだろう。

 妙な雰囲気になったこの場に入るタイミングが今まで無かったのだ。

「ご自分で話してくだされば、そんなことにはなりませんでしたのよ」

 くすっと笑って、マリーアンがサイアスに言った。サイアスが振り向きマリーアンを見る。しかし、彼はぶっきらぼうに言い捨てた。

「こんなつまらねぇ話し、俺の口からできるわけねぇだろう。 いらねぇ気を遣わせるのも面白くねぇしな」

 どうやら、いま口にしたことの後半部分が本音のようだ。

「でもわたくしは、もっと早くにこのお話を伺いたかったです。そうしたらきっと」

 きっと、いま以上に優しい想いをサイアスに向けられただろう。彼は想われることを疎んじるのではないか、マリーアンにはそんな不安があった。しかしサイアスが人と深く関わらないのは、自分で決めて背負い込んだものがあるからだと知っていたなら、彼女の一方的な思いこみなど無くなっていたはずだから。

 そう言った彼女の瞳には、ただ純粋な想いだけが宿っていた。その瞳に応えることのできないサイアスは、顔をそむけて呆れたように言う。

「おまえさん物好きだよ、ほんと」

 言われたマリーアンの方は、にっこりと笑って明るく言った。

「そうでしょうか。わたくしは、自分の性格が気に入ってますけれど」

 なんだか幸せそうな口振り。そういうところが物好きなんだ、とサイアスは思ったが、あえてそれを口には出さない。ただ目を閉じて、ふっと笑うだけだ。

 ――――――― まあ、それもいいさ。

「そんじゃ、俺も部屋に戻るからよ。迎えが来たら呼んでくれ」

 サイアスは気分を切り替えてドアの方へと足を進めた。ドアの前まで来たとき彼は振り返る。どうしても言っておくべき事があったからだ。

「なにも、おまえさんが泣くこたぁねえんだぜ? あいつらは自分自身で選んだことに結末をつけただけだ。だから……」

 そこまででやめた。 それ以上を口に出すのは説教くさくて気に入らない。それに言わずともマリーアンにはわかるはずだ。

 ――――――― だから何があったとしても、それがそいつの選んだ道なんだ。

 などということは。

 過ちは、過去という足跡を追ってくる。誰もそれから逃れることはできない。そしてひとは誰でも少ない選択肢の中から、過ちに立ち向かうための手段を選ばされる。どれだけ頼りない自分であったとしても、それが唯一の武器なのだから。

 サイアスはドアノブに手をかけ、部屋をあとにする。立ち去り際に振り向かず。

「だがまあ、ありがとよ。そんなヤツらのためにも、涙を流してやってくれて」

 これがサイアスの本音であったのか、気休めだったのか、それを知る由はなかった。

 ドアが閉まると、マリーアンひとり。鼓動が不思議な振動と共に全身の血液を熱くさせているのがわかった。胸に手を当てて、小さく息を吐く。

 彼女にはわかったことがある。サイアスの背中を見てなぜだか不意に抱きしめたくなるのは、彼が周りを置き去りにして、どこかへ向かおうとしているからだと。

 それは、彼が独りでいることを当たり前にしすぎてしまったからだろう。

 事実を知ったマリーアンは、彼が行くのなら自分も同じ場所へ行きたいと、強く願うのだった。



 サイアスは扉を開けた。 薄暗い室内に蝋燭の灯り。その家の主であるマルスが、彼の姿をみて微笑みを浮かべた。

「よう、来ると思ってたぜ。あのことだろう?」

 ――――――― あのこと。なんだったか。

「おいおいどうした? サッシュ・エスメライト。久々のでかいヤマじゃねぇか」

 マルスに言われてハッと我に返った。サイアスは室内を進み、マルスの正面に椅子を置いて腰を下ろす。

「しかしスラム出身のガキひとりが、法王庁のお姫さんを誘拐できるなんざ、随分と平和な世の中になったもんだよな」

 皮肉めいた笑いを浮かべて、マルスはもう一本 蝋燭に灯をともす。

 そうだ。 自分は法王庁から直に第二法姫アシュカ・クレスベル・サンレスタールの誘拐事件の解決を依頼されて王都に戻ったのだ。

「だが、あのハナ垂れ坊主がいまじゃ天下にきこえしベイオグリフのお頭様だもんな」

 マルスが大げさではない評価を口にする。

「アホどもが勝手に集まっただけだ。 俺は他人の尻拭いなんざまっぴらだってのによ」

 サイアスは気分悪く言った。慕われたところで与えられるものなど何もない。

「そういうところは昔から変わらんな。 まあ、すぐに手のひら返す法王庁に比べれば、おまえのほうがずっと上等だがよ」

 マルスが肩を軽く持ち上げてみせる。

「シャドゥブランドを持ち歩いてるってんで、おまえの首に賞金をかけやがったくせに、今度は助けろと来たもんだ」

 そう。サイアスはロックアートの盗み出したシャドゥブランドを所持していたために、彼の共犯として手配されたのである。しかも、ガイア・ハモンドの存在を隠蔽するためにガイアの犯した罪までも被せられたのだ。

「しかたねぇだろう。バカに付ける薬はねぇよ」

 サイアスは軽く受け流した。マルスは彼の顔を覗き込むように言う。

「それで? 受けたのか、法王庁の依頼」

「バカ言え。まあ、利用だけはさせてもらうが、使われてやるつもりはねぇよ。てめぇで動いた方が金になるってのに、なんで御上のいうことに従う」

 だろうな、とマルスが身を引いた。たしかに、幾らかの報酬を決められた依頼を受けるよりも、アシュカ姫を奪還したあとで引き渡し交渉をした方がよっぽど得だ。

「だが、恨み買うぜ。いま以上によ」

 頭の後ろで手を組んで、マルスが大きく椅子に背もたれた。

「はっ。いまに始まったことじゃねぇよ。それより、ネタがあるんだろう?」

 催促するように、サイアスが人差し指を手前に動かす。

「わかったわかった」

 両手を軽く持ち上げ、マルスは上着の内ポケットから紙切れを取り出した。

「え~。サッシュ・エスメライト。歳は十三で、スラムの第二区画の出身だな。両親はすでに他界。友人関係はそんなに広くなく、近所での評判はまずまず。とくに同年代の女の子に人気があるってのが羨ましいな。そして、一週間前の月曜日に、アシュカ姫を誘拐して現在は逃走中……と」

「おい、なんか関係ねぇ話しが多いんじゃねぇか?」

 サイアスが言うと、マルスはもう1枚の紙切れを取り出してヒラヒラさせた。

「関係あるのは別料金だ。どうする?」

「金取るのかよ」

 嫌な顔をするサイアスに、マルスは口端を持ち上げて言う。

「当たり前だろう。これでメシ喰ってんだ」

「しょうがねぇな」

 ポケットから紙幣をまとめて掴むと、サイアスはテーブルに投げ捨てた。

「ほらよ。サッシュ・エスメライトが向かった場所が書いてある」

 マルスが紙切れを差し出すと、サイアスはそれを奪うように取る。

「じゃあな、何かあればまた来るぜ」

 そう言って彼が立ち去ろうとすると、マルスが引き留めて言った。

「まてよ、サイアス」

 振り向くと、マルスはグラスと酒瓶を掲げて見せた。

「つりだ。一杯つきあえ」

「ありがたく、受け取らせてもらうか」

 少しだけ笑って、サイアスが席に腰を落とした。琥珀色の液体がグラスに注がれて、サイアスとマルスの前に置かれる。

 乾杯などしない。ただ目を合わせたあと、口を付けるだけだ。ふと思い出したように、マルスがズボンのポケットから何かを取り出して、放り投げてよこす。

「ほら、プレゼントだ」

 受けとめると、それは小さな真鍮の鍵だった。

「あの扉の向こうに、おまえの知らない真実ってヤツがある。覗くかどうかは、おまえの自由だけどよ」

 そう言って、マルスは親指で肩越しに背後を指した。そこには、黒塗りの扉がぼんやりと蝋燭の灯りに照らし出されていた。

 マルスの部屋にあのような扉があっただろうか。いや、ついさっきまですら、あんな扉があった気がしない。奇妙な違和感の中でサイアスは眉を寄せた。

「あんたから物もらって、ろくな目にあったためしがねぇからな。だいいち、あんたが俺にプレゼントなんて、どういう風の吹き回しだ?」

 怪訝そうに、サイアスは真鍮の鍵を指先で弄くりまわしながら言った。マルスは笑う。

「本当に、素直じゃないよなおまえは」

 そしてマルスは、落ち着いた声と表情になってサイアスを見た。グラスを握りしめて、彼は揺れる液面を見つめながら言う。

「……サイアス、ありがとうな」

 消え入るような声で告げられる感謝の言葉。サイアスは意味がわからずに言った。

「おいおい、気持ちわりぃな。なんだよいきなり」

 顔を上げたマルスの眼に、どこか寂しげな影が揺れている。

「彼女のことさ。おまえに迷惑をかけたな」

 誰のことだろうか。色恋沙汰には関心のないサイアスが、女とマルスの為になにかをしたという記憶は全くない。表情を曇らせているとマルスが微笑んで呟いた。

「エーシュだよ」

 サイアスの心臓が不気味な音を立てた。時間の壁が砂のように音もなく崩れ去る。ここは、いったいどこなのだ。目の前の男は、十年前の姿で『現在』を語っている。

 その現在もすでに、彼の見ることのできない場所であるというのに。

「そんな顔するなよサイアス。俺はさ、本当に感謝してるんだぜ。きっと彼女は、あの仕事を辞めて幸せを見つけるだろう。そのきっかけを作ってくれて、ありがとうな」

 すこし照れたように、マルスは笑っていた。サイアスは首を振って言う。

「俺は、なにも。だけどよ、あんたはいいのか。綺麗さっぱり諦められるのか?」

 なにを言っても後の祭りだ。それでも本心が確かめたい。 マルスは、すこし考えるように頭を掻いた。

「最後くらいは本音を言っちまってもいいか。おまえには、みっともねぇところも見られてるわけだしな」

 みっともないとは、おそらく死の間際に口走った言葉の数々だろう。

 マルスは一枚の硬貨を取り出すと、握った親指の上に乗せながら言った。

「けどよ、諦めるも何も俺はもう違う場所に要るんだぜ。あとは願うだけじゃねぇか。残された人間の幸せってヤツをさ」

 ピンッと涼しい音を立てて、親指に弾かれた硬貨が宙を舞う。サイアスの視線はそれを追って天井へと導かれた。見上げるサイアスの耳にマルスの寂しそうな声が届く。

 ――――――― ただ、そのとき隣にいるのが俺じゃねぇってのは、正直悔しいけどな。

 硬貨が引力に引かれ、マルスのグラスに落ちる。そのとき、すでにサイアスの目の前に座っていたはずの男の姿は跡形もなく消えていた。蝋燭の炎だけが、囁くように揺れて。

 グラスの中で鈍い輝きを放つリオ硬貨には、リンサイアの海辺に咲くテムレティナの花が彫絵されている。花言葉は確か『良き旅を祈る』だったか。

 サイアスは自分の手の中に残った真鍮の鍵に目を落とした。顔を上げると、あの黒い扉が空間にあいた穴のようにこちらを見つめている。

 嫌な予感がした。扉の向こうに待つものは真実。それを垣間見ることで、サイアスは自分の知らない世界に引き込まれてしまうような、そんな気配だけを感じた。

 だが、サイアスは息をついて微笑んだ。

「言ったよな。貧乏くじは、俺が代わりに引くってよ」

 なにがあったとしても受け止めるだけの覚悟はできている。ゆっくりと進み、彼はノブの下にある鍵穴に真鍮の鍵を差し込んで回した。

 金属の擦れる音がして、閂が外れる。ドアノブを捻ると、冷たい空気がドアの隙間から流れ出してきた。

 思い切って扉を開け放つ。その瞬間、マルスの部屋が消えた。いや、部屋だけではなく扉も消え失せて、サイアスは別の場所へと飛ばされたことに気付く。

 闇に閉ざされた何もない空間だった。斬りつけるほどに冷たい空気に満たされ、金属の壁に囲まれた部屋。 唯一の光は壁に細長く開いた小窓だけ。おそらくそこに扉があるのだ。

 声が聞こえた。囁きと啜り泣く声が耳の奥に染み渡ってくる。漆黒のなかにさらに黒い影が蠢いているのが見えた。小窓の脇に座り込む、人影のようなもの。

「……泣かないでくれ。俺はもうその涙を拭ってはあげられない」

 囁いたのは人影。その声は疲れ切った男のものだった。小窓からかすかに射す光に男の髪が照らされる。透き通るような銀髪だ。

「あなたに、どうして謝ればいいのか。わからなくて……それで」

 時折しゃくりながら女の声が聞こえる。扉の向こうから投げかけられているようだ。

 小窓から、細くやわらかな指先が差し出された。男にふれようと、その精一杯に小さな隙間に指を差し込んでいるのだろう。

 だが男はその指から逃れるように身を引いた。

「いけないよ、コーネリア。君はべつの道を歩かなきゃならない。だから、これ以上互いに何かを残そうとするのは、やめよう」

 男の言葉に、コーネリアと呼ばれた女性の指がより強く彼を求めるように動いた。

「そんなこと言わないでレイジス! 私は、私には誰よりも、あなただけだから!!」

 レイジスと呼ばれた男は、扉に背を向けてもたれ掛かり、歯を食いしばっていた。

「だめなんだ。これから先は別々だ。君と俺は、もう二度と会うべきじゃない」

 力なく彼女が手を戻した。せめて男の姿だけは捉えようと小窓を懸命に覗き込む。そのブルーの瞳に、涙の粒が輝いていた。

「レイジス! 私は、あなたを裏切っていた。嘘をついて、あなたに好かれようとして、なにひとつ本当の自分は見せずに。でも、いまになって気付いたの……」

 悲痛な感情の叫びは、しだいにか弱くなっていく。涙が溢れ、扉を叩く音がする。

「あなたを、愛してる。 愛して、いるのよ」

 苦しみの中から絞り出すような声だった。レイジスが目を見開く。紅く燃えるような瞳がふたつ、闇の中に浮かび上がる。

「知ってるさ、俺もそうだから。でも俺の前にいた君に、ひとつも嘘なんてなかった。俺のところへ食事を運び、着物を洗い、身体を拭いてくれた君は、どれもありのまま、素晴らしい君だった」

 慰めではなく、それがレイジスの感じていたコーネリアの真の姿だったのだろう。

 暗い部屋の隅に立って、この光景を見つめながら、サイアスは思った。

 ――――――― ああそうか。この男がレイジス・クーガー。

 その名前、その存在。サイアスにとってそれは所詮。

 ――――――― 俺の、名字か。

 扉の向こう側では、コーネリアの嗚咽が響いていた。ひとつの言葉をただ繰り返す。

「レイジス。レイジス!」

 サイアスにはそれが、あの日自分を下水に捨てた人間とは思えなかった。あのときのコーネリアは、まるで腐った動物の死骸でも見るかのような眼で自分を見下ろし、言ったのだ。

 『私のために、消えてちょうだい……』と。

 時が彼女を変えたのか、それとも一瞬の気の迷いだったのかはわからない。だが確かにサイアスの記憶に焼きついている女と、この散りゆく百合のような弱々しい女性とが、同一人物であることは確かなのだ。どちらが本物かなど関係ない。どちらも彼女だ。

 ――――――― 俺は、その股から落ちただけ。

 いまとなっては、どうでも良いことだ。目の前で繰り広げられているのは、自分とはあまりに関係ない人間ふたりの思い出に過ぎない。

 だがどういうわけだろう。このふたりの存在が、心の中で静かに場所を占めていく。

「レイジス。私、あなたにどうしても謝らなくちゃいけないわ」

 涙をぬぐって、コーネリアが顔を上げた。まだ瞳の震えは止まっていない。

「私、結婚するの。相手は、父の決めたひと」

 その言葉に、レイジスがはっと目を見開いた。しかし、それもすぐに消え去る。

「そうか。よかった」

「よくなんてない! 私が愛しているのはあなたなの、あなただけなのに!! それなのに。ごめんなさい、ごめんなさいレイジス!!」

 ふたたび感情が溢れ出す。傷つくことや、責めること。不器用にしか自分を表せない。

「謝る必要なんてないさ、それでいい。君はそのひとに愛されて、そして愛すればいい。君はひとりで生きていく必要なんて無いんだから」

「本当のことを言ってよレイジス! 私や、そのひとが憎くはないの!?」

 憎くはないのか。どう考えても答えは決まっている。サイアスも、同じことを訊かれれば、きっと同じように応えるだろう。それがレイジスの血なのだから。

「どうして憎む。言ったじゃないか俺は君を愛していると。誰かを憎むことで、何かが変わるならそうするかも知れない。憎しみでひとが強くなるなら、俺はこの分厚い扉を叩き破って、君の元へ行くだけの力がほしい。でも、それは無理なんだよ」

 当たり前だ。感情がひとを押し上げるのは限界までだ。ただそれぞれの限界が違だけのこと。それを超えることなど、絶対にあり得ない。

 エンチャンスメントを注入され、超人となったレイジスでも、それは不可能だ。

 コーネリアに言葉はなかった。優しい声で告げられたレイジスの言葉、そのどれもが彼の本心であることは疑いようもない。憎しみはなく、愛だけが確かにあり、暗がりで朽ちることは無念であってもそこから逃れる術はない。故に耐えなければならぬ痛みがあることを知った。止まった時間を溶かすようにレイジスが口を開いた。

「さあ、もう行くんだ。このさき俺を思い出すようなことがあっても、決して振り向いてはいけないよ。立ち止まってしまわないように、前だけを向いて行くんだ」

 背中を押すようなレイジスの言葉。コーネリアはよろめきながら立ち上がった。

「……これで、私たちは」

 彼女は確認するように言葉を紡いだ。レイジスは深く息を吸い込む。

「ああ、さよならだ」

 それがコーネリアが否定したがっている言葉であると知りつつも、彼は自分の口から別れを告げることが、自分の最後の役目だとわかっていた。

「お願い。もう一度だけ、あなたに触れさせて。もう一度だけ、その手に……」

 懇願するように、最後と心に決めてコーネリアが言った。

 ふたたび彼女の指が、分厚い鉄の扉の向こう側から差し伸べられる。レイジスの手が一瞬もちあがったが、彼はすぐにその手を扉に張り付けた。

 レイジスにもコーネリアと同じ想いがあったのかも知れない。たが、小窓から互いに視線を合わせることだけで気持ちを押し留め、彼は言う。

「それはできない。君の手に触れてしまえば、俺も君を忘れられなくなってしまうから」

 言ったのだ。これ以上、互いに何かを残そうとするのはやめよう。そう言ったのだ。

「だけど、伝わるよ。この扉越しにも、君の温もりは」

 最後の最後。感情を抑えずに吐き出した。扉の内と外で、ふたりは互いの手のひらを合わせていたのだろう。だが現実や物質を飛び越えることができるのは想いだけだ。ふたりの肉体が寄り添うことは、もう絶対にあり得ない。

 俯く彼の頬を伝って涙が落ちた。コーネリアの眼にも止め処なく滴が溢れる。

「あなたに『ありがとう』と言わせて。何もできないけれど、これだけは」

 精一杯、という笑顔だった。ありがとうの言葉だけで、レイジスは全てが報われた。すくなくとも、彼はそう感じたに違いない。

 ふたりは別れた。コーネリアの足音が遠ざかり、レイジスは闇の中で壁を背にして、じっと天井を見上げていた。

 残されたのは思い出の残骸と、それより出し傍観者。

 ――――――― サ…ア……。

 遠くから小さな声が聞こえたが、サイアスはその呼びかけに振り向きはしなかった。

 一歩を踏み出してレイジスに近づく。このとき初めて彼の気配に気付いたのだろうか、レイジスの紅い瞳が静かに、来訪者の姿を捉えた。だが、決して動揺することなく。

「どうした。そんな遠くに居なくても、べつに取って喰いはしないぞ」

 まるでサイアスが来ることがわかっていたような口振りだ。言っておいて苦笑いする。

「ふっ。そうもいかないか」

 ――――――― サイ…ス。

 より近くから、呼びかけられたように思った。しかし、まだ振り向くときではない。

「よかったのか」

 サイアスが訊いた。返答がどうであろうと関係ない。ただ訊きたかっただけだ。

 レイジスの瞳が揺れた。同じ眼を持つサイアスを見つめて、小さく呟く。

「いけないと感じたなら、おまえはべつの方法を選べばいい」

 それだけだ。これ以上に言葉は要らず、あり得ない。

 ――――――― サイアス様。

「ほら、もう帰る時間だ」

 そう言ったレイジスは、かすかに微笑んだように見えた。

 サイアスは目の前にしゃがみ込んだ男の姿をもう一度、その目に焼き付けると、何もかも断ち切るかのように振り返る。

 視界に、一瞬の閃光。白い世界が溶け広がるように夕闇に包まれた部屋を炙り出す。

 そこはアシュカ邸の客間だった。サイアスは椅子に腰掛け腕組みをしたままだ。

 扉の向こうから、ノックする音と声が聞こえる。

「サイアス様、お迎えの方がお見えになりましたよ。サイアス様」

 自分を現実へと連れ戻したマリーアンの声。微睡んだうちに、ずいぶんと気まぐれな夢を見たものだ。

 もう何年も、過去の記憶ではない夢を見た憶えがない。もしかすると非現実な幻想を夢に見たのは初めてかもしれなかった。

 胸が息で満たされるまで吸い込み、サイアスは背伸びしながら立ち上がる。

 充満した空気を吐き出すと、彼は自分の手のひらに目を落とす。そこには夢のなかで握った真鍮の鍵の感触が、やけに現実味をおびて残っていた。

「祭りの夜まではまだひと月もあるってのに、せっかちな死人どもだ」

 どういうわけか、そんな戯れ言を吐いてみたかった。

 気を取り直してベッドに投げ出されているコートに手を伸ばした。

 そのとき、サイアスは自分のコートの裏地や袖に、真新しい縫い目を見つける。洗濯場から持ち出したときには気付かなかったが、どうやらコートを洗う前に、世話好きな誰かさんが裁縫したようだ。

 首を振りながらコートの袖に腕を通し、サイアスは部屋を出た。

「あ。サイアス様、おやすみになられていたのですか?」

 扉の前に立っていたマリーアンが、脇へと下がりながら言った。

「ああ、どうやらそうらしい。それより、おまえさん俺のコートに……」

 言いかけたとき、マリーアンが心配そうな顔になる。

「なにか不手際がございましたでしょうか。あら、裾に皺が」

 コートの裾を手で撫でて彼女が困ったような表情を浮かべた。

「サイアス様、きちんと棚に架けましたか。脱いだままにしていたんじゃありません? いけませんよ、生乾きのままで放っておかれては」

 そう言って掌でさすって皺を伸ばそうとする。

「気にするなよ、神経質な女だな」

 これがマリーアンの性格なのだから仕方がない。彼女は当たり前のように、サイアスのコートの傷を縫い、皺のことを気にしている。だが、彼の言葉には不満を感じた。

「あら、そんなことを仰るなら、もうサイアス様の身の回りのことは知りませんよ」

 決して怒ったわけではない。すこしだけ、拗ねたことを言いたかっただけだ。

「べつに困りはしねぇが、わかったよ」

 サイアスは素直にマリーアンの親切を受け入れることにした。それを聞いた彼女は、ぱっと表情を明るくして、片手に提げた芦のかごをサイアスに差し出す。

「よろしいです。コートに入っていた小物類は、全部このなかにいれておきましたので。あ、もちろん飴玉とチェーンもですよ」

 受け取ったサイアスは、なかの物を適当に掴んではポケットに収めた。飴玉を手にしたときに違和感を覚えたのは、その包みが真新しくになっていたからだろう。だからといって、中身が新しい物に取り替えられた様子はない。包んでいる蝋紙だけが変わっているのだ。

 しげしげとそれを眺めるサイアスに、マリーアンがすこし気が引けるように言った。

「あの、勝手なこととは思ったんですけれど、包み紙だけは取り替えさせていただきました。やっぱり食べ物ですから、衛生的で美味しそうなほうがいいと思いまして」

 彼女の行為には、見返りを求めるような気持ちは微塵もなく。

「おまえ」

 言いかけて、サイアスは彼女にかける言葉が自分のなかには無いことに気がついた。

 けなげ、という言葉を彼は知らないのだ。単語そのものではなく、実感として。

「ありがとよ」

 何に感謝したのかはわからないが、サイアスに言われてマリーアンのなかで何かが満たされたことは確かだ。

「さぁ、お迎えの方がホールで待っておいでですよ」

 にこやかにマリーアンが言った。サイアスは頷いて芦のかごを彼女に返すと、廊下を歩き出した。吹き抜けになった一階のホールから、昨日聞いたあの御者の声が聞こえる。

「ダンナぁ! お迎えに上がりましたよ!!」

 見下ろすと、彼は両手を左右に大きく振っていた。こういうところは、まだ少年だ。

 ホールに下ると、少年は帽子を両手でギュッと握って頭を下げる。サイアスの隣では、それに応えるようにマリーアンが礼を取った。

「じゃあ、行って来る。サッシュのやつが夜警に出るまでには、帰るからよ」

「はい。お帰りをお待ちしております」

 今夜から始まる夜間の特別警備。その交代の時間までは、サッシュがこの邸を護る。サイアスにしてみれば、安心して任せられる、とまで行かないことが心残りだった。

 だが、この件を一刻もはやく解決することが最優先なのだと割り切る。

「サイアス様、お食事の方はどうなさいます?」

 マリーアンがなにも普段と変わらぬ態度で訊いた。

「出先ですませる。だから、俺のことは気にするな」

 サイアスはこの状況をある程度理解している女性がここまで落ち着いていられることに強さを感じた。そして彼女を気遣う自分が、不自然に思えてならない。

 彼女に言わせるなら、そうすることが冷静さを失わぬ秘訣であり、周囲に心配をかけないための彼女にできるただひとつのことなのだが。

「では、お気をつけて」

 彼女はサイアスに頭を下げた。彼は御者の少年を連れて邸を出る。

「ダンナ、失礼ですけどあの女の人、ダンナのこれですかい?」

 邸を出るなり、少年が声をひそめて小指を立ててみせてきた。黙ったまま、サイアスは少年の頭に軽くげんこつを振り下ろす。

「いてっ」

「おまえ、あ~。名前は?」

 呼ぼうとして名前を聞いていないことに気付く。少年は頭をさすりながら応えた。

「エゾニアクです。みんなはエニーって」

 サイアスは軽く息をついて、少年の頭をぐしゃぐしゃにかき回す。

「あのなぁ『ゾア』。ませたガキってのは、かわいげがねぇぜ」

「エニーですって。気持ちの悪い略しかたしないでくださいや」

 頭におかれたサイアスの手を押しのけようと踏ん張りながら、エニーが言った。

「ところで、今日はどこに行くんだ?」

 少年の言葉など無視してサイアスが訊いた。食事をしてくるとは言ったものの、場所が酒場や食事所でなければ当てが外れる。

「大丈夫ですよ。ちゃんとダンナの好きそうな酒場にご案内しやすから」

 手の甲をさすりながら、エニーがサイアスをにやにやと見上げる。

「やめろ鬱陶しい。おまえさんのスケベなしゃべり方はなんとかならねぇのか?」

「血ですからね。いまさらどうもなりませんや」

 ――――――― 血ね。

「なんにしても、メシの味だけは保障します。なんせ、このエゾニアクの贔屓にしてる店なんですからね」

 そう言って、エニーはサイアスの先にまわって門を開いた。門の向こう側には馬車が待機している。サイアスは客車に乗り込み、エニーは座席について手綱を取った。

「ゾア、おまえその歳で酒の味がわかるのか」

 サイアスが訊いたのと同時に、馬車がゆるりと動き出した。

「まさか。酒は嗜みませんや。メシですよ、純粋にメシが旨いんでさぁ」

 楽しそうに語るエニーの背中に、やはり若さが滲み出ていた。

「まぁ、楽しみにさせてもらうか」

 サイアスがどっと深く背をもたれる。馬車がわずかに軋んだのは、おそらくシャドゥブランドのせいだろう。いつでも、彼の傍らにはそれがある。

 ついさっき見た夢が網膜の奥で朧気に浮かんでは消えていった。

「ダンナ、さっきの話しなんですがね」

 エニーが肩越しに声をあげた。サイアスは耳をほじりながら煩わしそうに言う。

「なんだ。くだらねぇ話しなら聞きたかねぇぞ」

 だが、エニーの口調は先ほどまでとは違って、浮ついた調子が消えている。

「いやね。さっきのあの綺麗な女のひと、ダンナの恋人さんかなぁと思ったんですが、どうやらとんだ勘違いだったみたいですね」

 サイアスの態度を見ればある程度はわかることだが、エニーの口振りには確信めいたものが感じられる。興味をひかれたサイアスが尋ねた。

「なぜ、そう思う」

 エニーは言われるまで、自分でもその根拠がわからなかったように、顎に手を当てる。

「う~ん。べつに特別な理由はないんですがね、ダンナはちょっと違うかなって」

 山勘、というには迷いもなく断言した。ただ感じたままを口にしただけなので、理由を問われると返答に困ってしまう。

「あえて言うなら、昨日お乗せしたときから、ダンナは俺なんかたぁまったく違う場所を見てるような、そんな感じがしてたんですよ」

 自分でも何を言っているのか混乱してきたのか、エニーは言い終わると同時に笑った。

 馬鹿馬鹿しいと笑われる前に、自分で笑っておこうと思ったのだ。

 だが、サイアスの反応は彼の予想とは違っていた。

「まったくおまえさんは、かわいげがねぇな」

 彼はそう言って目を伏せるのだった。笑い飛ばすのでも冷笑するのでもなく、彼はじっと黙ったまま口を開かない。怒っているわけでも、呆れているわけでもなさそうだ。

 エニーはサイアスがいま、何を考えているのか見当もつかなかった。

 そして自分が幼くして御者をし、多くの人間とふれ合うことで身につけた、人の本質を感じ取る才能についても気付かないまま。

 馬車は繁華街へと走る。石畳を弾く蹄が、真っ直ぐに夜の澱を切り裂いていった。



 ギュスタレイド・フォン・ドミニアス邸。御屋敷街のすみ、アシュカの邸から馬車で十数分の場所に建つ、他と比べれば新しい建物だ。

 この家主であるギュスタレイドは、十年前の事件が終結したあと、故郷ドミニアス領を離れて王都に移り住んだ。書類上は別荘扱いだが、実質この邸が彼の住まいである。

 いま、この邸には珍しくも来賓があった。チェスカニーテとの結婚後、故意に知人を招くことを避けていたこともあり、いつも邸にはドミニアス夫妻だけであったが、今夜はひとりの女性がやむにやまれぬ事情があって招かれていた。

 ギュスタレイドの敬いし、アシュカ・クレスベル・サンレスタール第二法姫である。

 彼女は久々の来客に興奮するチェスカニーテの相手をしていた。アシュカとチェスカニーテは同い年であり、幼い頃から面識があることもあって、それなりに気の合う仲だ。

 ふたりはいま、チェスカニーテの部屋でとりとめのない会話をしている。

「だからアシュカさんも、もう少しおめかししたりとか」

 どうやら、話題はアシュカの飾り気のない身なりについてのようだ。

「そうは言うけれど、私は議会の指示で動くとき以外は外出もあまりしないし、あまり服装に気をつかっても仕方がないんだ」

 苦笑しながらアシュカが言ったが、チェスカニーテは彼女の意見などお構いなしに、衣装棚から自分の服をあれやこれやと持ち出して言う。

「これなんかいいんじゃないかしら! あ、こっちも似合うかも!!」

 なんだかひとりで楽しそうだ。ベッドの上に、次々に色とりどりの衣装が放り出され花を咲かせる。

「チェスカニーテは、けっこう服装に気をつけてるのね」

 衣装の量から見ると、毎日 違うものを身につけたとしても、数ヶ月かかりそうだ。

「え? だって、いろんな格好ができると、楽しくなるじゃない」

 子どものような笑顔で、チェスカニーテが答えた。そして手にした服に目を落とす。淡いピンクで飾り気の少ないワンピースだった。

「……むぅ。これはお気に入りなんだけど、アシュカさんのためだったら!!」

 そう言って、えいっ、とでも言うように勢いを付けてアシュカの眼前に突き出す。

「な、なに?」

 対応に困って、アシュカが調子外れな声をあげた。

「なにって、試着ですよ試着! ぴったりだったらこの服、プレゼントしちゃう!!」

 楽しいイベントを催しているかのような言い方。しかし当のアシュカにしてみれば、プレゼントしちゃう、と言われても正直 微妙なのであった。

「でも、チェスカニーテのお気に入りなんでしょ、だったら無理しなくても……」

 回りくどく断ろうと思ったが裏目に出た。ワンピースの向こうで、チェスカニーテの顔がぷくっと腫れる。

「えぇ~。着てみてよぉ。ねぇ、いっぺんでいいからぁ~」

 駄々っ子だ。間違いなく駄々っ子だ。アシュカはずいずいと迫ってくる彼女に圧倒されて、身じろぎながら頷いた。

「わかったよ、わかったから!!」

 承諾しているのに、チェスカニーテの突進は止まらず、そのままバランスを崩して、ふたりはベッドの上へ倒れ込んだ。

 互いの顔を見合わせると、わけのわからない笑いが込み上げる。

 笑い声のなかで、チェスカニーテが強引にアシュカの上着に手をかけた。

「さぁ! このワンピースを着るのだぁ!!」

 アシュカは上着の胸を抑えながらもんどり打った。

「ちょ、やめてって! ねえ、くすぐったいから、やめ…きゃ!」

 問答無用で脇腹をくすぐられて、全身から力が抜け落ちた。

 下の階では厨房に立って夕食の支度をするギュスタレイドが、天井を見上げながら首を捻っていた。やけに二階が騒がしい。バタバタと床を叩くような音が聞こえる。

 チェスカニーテが、なにか粗相をしていなければよいが。不安が彼の頭をよぎった。

 数分後。着替えを済ませたアシュカは恐る恐る、衣装鏡のまえに立つ。

 そこに映っていたのは、桜の花びらのような女性の姿だった。艶めく金髪に彩られた硝子の瞳に、乳白色の肌が光を放ち、それを包み込む淡いピンク。

 無理やりにとは言え、唇には薄く紅が引かれ、頬にも少しだけ粉をまかれた。彼女があまり経験したことのない化粧というものが目の前の女性を完成させている。

 自分であることを確かめるようにアシュカはそっと自分の肌に触れた。鏡のなかの女性が同じ動きをすることに、ほっとする。

「似合うじゃない! やっぱりあたしってばセンスいぃ~!!」

 アシュカの後ろでチェスカニーテは大はしゃぎだ。彼女は背中から抱きつくようにして、アシュカの腰まわりやら胸元やらに手を滑らせた。

「う~ん。でもちょっと胸は余ってるかなぁ。サイズ直さなくちゃね」

 ゆとりのある胸元をぶかぶかと引っ張りながら、チェスカニーテが言った。

「……あのね」

 ちょっぴりムッとしながら、アシュカがチェスカニーテをふりほどいた。だが彼女は悪気も悪意もなく、アシュカの腕をつつきながら言う。

「でも、それ以外はかんぺき! サッシュくんが羨ましいぞ、この、この!!」

「ちょっと、やめてよ。なんで突っつくんだ」

 その手から逃れるように、アシュカが手を出した。妙に馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。

「いいじゃない! ほら、やめてほしければ素直に嬉しいと言えぇ!!」

 喜劇の悪役のような声で言い、チェスカニーテがアシュカの背中におぶさった。

「おも、お~も~い~~。わかったから、どいて!」

 前に倒れそうになりながら、アシュカが息苦しそうに背後の女に言った。

「あたし、おもくないもん!」

 じゃれ合うふたりの姿が鏡に映っていた。アシュカはその中の自分をもう一度見て、ふっと笑顔になる。サッシュが見たら、何と言うだろう。

 とすっと床におりて、チェスカニーテは優しくアシュカの両肩に手を置いた。

「見て。これがあなたの可能性。こんなに素敵なんだもの、もっと自分を磨かなきゃ」

 そういって、鏡ごしに微笑んでみせる。アシュカはじっと自分を見つめた。

 この姿を見たらマリーアンは涙を流して喜ぶだろう。ギュスタレイドは相変わらず、堅苦しい誉め言葉をいうのだろうか。サイアスはきっと、嫌みのひとつも吐くはずだ。

 サッシュは、サッシュはいまの自分を見たらどんな顔をするだろう。

 そして、どんな言葉を口にするだろうか。

 さまざまな想いを胸に抱くアシュカを余所に、チェスカニーテは駆けだした。

「さぁて、ダーリン呼んできちゃおっと!」

 ダーリンとは、おそらくギュスタレイドのことだ。アシュカは急に現実へと引き戻されて、慌ててチェスカニーテの服の裾を掴んだ。

「やめて、恥ずかしい!」

「いいじゃない。せっかくアシュカさんがおめかししてるんだからぁ!」

 服が伸びてしまうのも構わずに、力任せにチェスカニーテはアシュカの手を逃れようと踏ん張った。アシュカも逃すまいと思い切り引っ張る。

 そのとき、チェスカニーテが突然 きゃっ、とあられもない悲鳴を上げた。

「なに? どうしたの!?」

 何かまずいことが起きたのかと一瞬 アシュカの手がゆるんだ隙に彼女は逃げ出す。

「ふふん! 甘いわよアシュカさん」

 入り口の向こうで、チェスカニーテが人差し指を揺らした。

「あ! こら、待ちなさい!!」

 いたずらっ子を追いかけるようにアシュカが走るが、すでに遅かった。目にも留まらぬ速さでチェスカニーテは階段を駆け下り、厨房へと走り去る。

 アシュカは仕方なく部屋に残ってギュスタレイドを待ちかまえることにした。

 だが数十秒後に、妻に無理やり連れられた炊事姿のギュスタレイドが眼にしたものは、もとの服装に戻って何事もなかったようにくつろぐ姫君の姿であった。

 ギュスタレイドが腕を振るった晩餐が用意されたのは、それから二刻ほどあとのことだった。三人はテーブルを囲み並べられた料理に舌鼓を打つ。

 その晩の献立は『クアト海風ルメドサラダ』『テインバラ風トマトスープ』『ピナレイオムのパイ包み焼き』『ハヌマルの網焼き』であった。

 気付けば昼食を口にしていなかったアシュカは、隣り向かいに座るチェスカニーテの倍の量は食べている。正面に座るギュスタレイドにしてみれば、自分の手料理を主君においしいと食べてもらえればそれに勝る栄誉はなかった。

 中央に置かれたサラダを自分の皿に取り分け、アシュカはギュスタレイドを見る。

「ギュスターは、本当に料理が上手だな。わたしも見習わなければ」

 はっきり言ってアシュカは料理が下手である。経験が浅いと言うことを考慮してもあまりあるほどに、原型を留めない物体が生みだされるのだ。

 そういう意味ではどうやらチェスカニーテと通じるものがある。

「たいへんありがたきお言葉。しかし私如きが言わせていただけるのでしたら、料理というものは何よりも慣れるが必要です。一流の料理人を目指すのならセンスも必要となりましょうが、家庭で料理を嗜むのであれば慣れることが一番」

 そうは言うが、ギュスタレイドの料理はマリーアンの物と並んで、そこらの料理店では太刀打ちできそうもない出来映えなのだった。

「むぅ~。んははひ、あらはのつゆうたろうりらりりばび」

(訳:う~ん。やっぱり、あなたの作った料理が一番)

 頬に手を当て、チェスカニーテが満面の笑みで言った。くち一杯にハヌマルの赤身を頬張っているせいで、その言葉はもごもごと聞き取りにくい。

「口にものを入れて話してはいけない。ほら、ソースが付いているぞ」

 そう言って、ギュスタレイドはハンカチを取り出して、彼女の口元を拭いた。

「んっ。ごめんなはい」

 ナイフとフォークを置き、背を伸ばしてチェスカニーテは口を彼の方に向ける。

 その様子を見ていたアシュカは、俯いたまま呟いた。

「ホントに、仲がいいのよねぇ」

 言いながら、自分の皿の上のパイ包み焼きを弄くりまわして皮を剥ぎ取る。中から青いまでに真っ白な魚の切り身が姿を現した。

 ギュスタレイドは、さっとハンカチを持つ手を引っ込めて椅子に腰掛け直す。

 気まずそうに彼はひとつ咳払いしてアシュカに言った。

「お食事中に慌ただしく、大変 失礼をいたしました」

「べつにいいのよ。気にしないで」

 笑顔を取り繕ってアシュカが手を振った。そういう意味で言ったのではない。

「もう、あなたは本当に鈍んだから。アシュカさんは、サッシュくんのことを考えたの!」

 決めつけるようにチェスカニーテが言った。

 あながち外れていないので、アシュカはびくっと身を震わせ、ギュスタレイドはどうして自分が、すこし叱られたような物言いをされたのかが理解できない。

「ね?」

 にっこりと、チェスカニーテがアシュカの顔を覗き込んだ。そこにあったのは、自分のこれから浮かべる表情に迷う少女の顔だった。ギュスタレイドもそんなアシュカを見つめ、思う。このお方は本当にお優しくなられた、と。

 アシュカはふたりが自分に注目しているのに居たたまれなくなり、顔を上げた。

「そ、それよりギュスター。コックやお手伝いを雇う気はないのか?」

 この邸には普段はドミニアス夫妻ふたりきりだった。王都に住み始めた頃は、チェスカニーテがそうしてほしいと懇願したのが理由で、使用人は一切 雇っていなかった。

 ギュスタレイドは炊事をするのを苦と思わない男であるし、チェスカニーテは洗濯や掃除をしながら、あれこれと考え事をするのが好きだった。ただし、ギュスタレイドが卓越した料理の才をもっていのは対照的に、チェスカニーテの掃除洗濯はお世辞にも手際がいいと呼べるものではなかったが。

「やはり掃除と洗濯はチェスカニーテひとりでは大変なので家政婦を頼むことにしました。私が夕時まで戻れないので、それまでにすべての仕事を終えて、彼女の昼食を用意するところまでは任せております」

「へぇ、そうなのか。じゃあ私が来たのは、その人を帰した後だったのだな」

 邸の中にふたりだったことを見れば、そう考えるしかない。

 思いやりと必要に迫られての、おそらく両方だろう。

 おかげでチェスカニーテは好きなショッピングや夢想をする時間ができた。その代償は料理修行の時間の喪失と、心配性の悪化であったことは言うまでもない。

「もうちょっと早く来たら会えたのにね」

 チェスカニーテが、聞いてとばかりに会話に割り込む。

「カナベルっていうオバさんなんだけど、すっごく面白い人なんだよ。でもね、今日からしばらく旅行に行くって言ってたから、アシュカさんウチにいる間に会えないかも。ダーリン優しいから、お休みをあげたんだって」

 チェスカニーテは少し残念そうに俯く。よほどその家政婦を気に入っているのだろう。ギュスタレイドは口に出さなかったが、自宅療養中のアシュカ姫がこの邸に来ているのを悟られてはまずいので、家政婦には骨休めにと駄賃としばらくの休暇を与えたのだ。

「すぐにまた会える。子どもではないのだから、我慢しなさい」

 父親のような口振りでギュスタレイドがチェスカニーテを窘めた。その言葉とは違い彼の目には温かな思いやりと愛情が感じられる。

「うん。あたし、あなたがいれば寂しくないもの」

 すべてを明け渡したようなチェスカニーテの笑顔。おそらく、アシュカがどんなにそうしようと努めても、彼女ほど人前で素直に感情をさらせないだろう。

 他の者なら、はしたないと言われたり気品を損なう言動であったとしても、チェスカニーテの人柄がそれを素直さとして見る側に印象づけるのだ。

 そういうところを正直アシュカは羨ましく思うこともある。

 ギュスタレイドが笑顔を見せた。これは珍しいことだとアシュカは思った。

「さあ、落ち着いておあがり。いまは食事が優先だ」

 チェスカニーテに向けられた彼の笑顔は、確かに心がそこで結びあっている証。

 食事は続く。思いで話や世間話に花を咲かせながら、暖かな灯りの前で。

 アシュカはいつか、自分も愛するものと絆を築きたいと思った。

 たとえ困難なことであっても、それを乗り越えてゆきたい。いや、あの男とならば必ず乗り越えていけるはずだ。現実も、過去も、そのいわれのない柵を。



 その酒場『塩の花亭』は沸き立っていた。毎晩、仕事帰りの御者連中が集まっては酒を酌み交わしているこの場所に、今夜は特別なゲストが訪れているのだ。

 カウンターの真ん中の席に腰掛けるその男サイアス・クーガーは、琥珀色の蒸留酒をあおりながら、周囲の男たちの昂揚した声を聞き流していた。

 脇に目をやると、彼を連れてきた若いエニーが同年代と思われる少女とカウンター越しに話しているのが見えた。ちらちらとサイアスの方を伺っては、なにやら説明するように身振り手振りをつけている。

 おおかた、昨日自分を馬車に乗せたことや、行き先がアシュカ邸だったことなどを、さぞ饒舌に語っているのだろう。少女のほうは、あめ色の髪を揺らしながら笑ったり茶色の眼を見開いて頷いたり、驚いたように手にしたお盆を抱きしめたりと、はたから見ていても飽きぬほど表情豊かにエニーの話しに聞き入っている。

 ―――――――― 贔屓にしてるのは、料理の味より華のほうだな。

 少し笑うように口の端を持ち上げてサイアスはカウンターを背にもたれた。

 料理の味も決して悪くはないが、酒を呑まない人間にはひと味足りなく感じるようなメニューばかりだった。

「サイアスさん! あのときの話し、聞かせちゃくれませんかね」

 彼の隣で小太りの男がサイアスのグラスに酒をつぎながら言った。サイアスはそのグラスを受け取りながら、軽く手を持ち上げて言う。

「あのときってなんだよ」

 それを聞いた男は大声でげらげらと笑ってから、自分のグラスを飲み干した。

「十年前のことですよぉ。あっしは聞いたんですが、あのときサイアスさんは叛乱軍の部隊とぶつかって、ひとりで五十人を倒したって言うじゃないですか!」

 小太り男の声を聞きつけて、高い鼻と口ひげをたくわえた男がその肩を叩いて言う。

「バカ言うでねぇよモンス。このひとを誰だと思ってやがんだい! 五十人じゃあねぇ俺は八十人だって聞いたぜ」

 赤く染まった鼻をつきだして、男はサイアスに顔を近づけた。

「だよなぁ英雄さん?」

 酒臭い息を払いのけるようにサイアスが手を振り、モンスと呼ばれた小太りの男がサイアスのかわりに目の前の酔っぱらいを押しのける。

「やめねぇかロジカ。酒くせぇ息を吹きかけるんじゃねぇや!」

「んだと、おめぇ偉そうに指図すんじゃねっ! 俺は英雄さんに話してるんでい!」

 酔っぱらい同士がもめ始めたのを見て、すかさずエニー少年が椅子の谷を飛び越えてふたりの間に入った。

「まぁった、待った待った。そこまでにしなよモンスもロジカも」

 両者を引き離して、エニーは手でサイアスを指した。

「このお方は俺がお連れしたんだぜ。聞きたいことがあるんなら、俺が聞くのが筋ってもんじゃないのかねぇ」

 どういう筋だかは別として、面倒くさいことになる前に割って入るのは感心だ。一瞬そう思ったサイアスだったが、エニーの顔を見てあっさりその考えを撤回する。

「で、サイアスさん。本当のところはどうなんです?」

 彼は興味津々に目を輝かしていたからだ。

 当事者達だけでなく、いつしか周囲一帯が聞き耳を立てるなか、サイアスはふぅっと溜息をついて首を振る。

「騒ぐんじゃねぇ。たかだか二百とちょいだ」

 その瞬間に、どっと店内の温度が上がった。男たちの熱い歓声と自分に捧げられる乾杯の杯。どうやらここに集まっている者の多くは、まるで自分たちの乗り越えた戦争を語る男たちのように、十年前に人と街が受けた傷をある意味で勲章としているようだ。

 不謹慎でも、こうして笑い飛ばす強さが、リンサイアの今を作り上げてきたのは確かだろう。

 王都へ戻って初めてサイアスは、自分たちを記憶している人間と会った気がした。

 久々に悪くない気分だった。サイアスはロジカの差し出す酒をグラスに受け、周囲がわいわいと自分の前に群がるのも拒む気にはならい。

 慕われ、ともに酒を呑み、喧騒のなかにあって、なお独り。それはサイアスにとって本当に悪くない気分だった。

 かつてベイオグリフを率いていた頃も、ずっとこんな気持ちでいたことを思い出す。

 ただ、サイアスが人々の温もりのなかに身を置いているとき、彼の後をつきまとって離れない運命までもが、その灯火に惹かれてやってくる。だから、サイアスはひとつ所に留まることを許されない。背中を押されるがままに、突き動かす衝動のままに、彼は立って独りで歩く。旅路の先に待つ運命の最果てへと。

 一瞬だけだが、手にしたグラスの水面にオリヴィアの顔を見た気がした。

 サイアスは口にしたアルコール入りの液体を飲み下したあと、周囲を見渡しながら誰にでもなく言う。

「ちょっといいか? 今夜はな、俺の仕事のことで情報が必要だったんで、ゾアにわざわざお膳立てを頼んだんだ」

 そろそろ本題に入るべきだ。あまり時間が無いといえばその通りなのだから。

  横目でエニーを見ると、大人達に頬をつねられたり鼻を突かれたりしている。

「ゾアだってよ。よかったな、男らしい呼び方してもらえてよ」

  少年は理不尽な大人達の言葉に、真っ向から抗議の姿勢を見せた。自分に心配そうな眼差しを送っている看板娘の手前、いいようにされるわけにはいかない。

「酔っぱらいに気安く触られるのはごめんだな。こっちはサイアスさんのたっての希望で人集めしたんだ。これからは『ジーパルニアのゾア』と呼んでくれ」

  ジーパルニアとはリンサイアの古い言葉で、高貴な人間に付く用聞きのことである。

  子供らしい可愛げのある抵抗のしかただったが、所詮はトラの威をかるなんとやらだ。

  エニーの言葉を受けて、彼のとなりにいたロジカがグラスを高々と掲げた。

「ジーパルニアのゾアに!!」

  これが冷やかしであることは百も承知だが、エニーはあえて何も言わずに堂々と胸を張って見せた。次々に周囲のもの達のグラスが柱を立てる。

「ゾアに!!」

  合唱がおきて大きな笑いの渦が場の空気を震わせた。

  また宴会の流れに押されたその場を、サイアスが掌を上下に動かして静める。

「悪ふざけはそこまでだ。ひとまずグラスをおいて、俺の話しを聞いてくれ」

「そうだぜ。失礼だと思わないのかい!」

  事の一端を担ったはずのエニーも口を尖らせる。

「それで、何が聞きたいんですか英雄さん」

  奥の席から声がした。サイアスはその男の方を見据えながら言う。

「ここ数ヶ月のあいだに、妙な客を見たり、噂を聞いたってヤツはいねぇか? どんなことでもいい。心当たりがあれば教えてくれ」

  漠然とした質問になった。目の前の男達が考えるように、天井や床へと視線を流し、互いの顔を見たりしている。

「ありすぎて、何から話せばいいかわからね。もうちっとでいいんで、条件を出してもらえりゃあ楽になるんだけんど」

  モンスにそう言われて、サイアスがひとつ条件を付け加えることにした。

「特に聞きてぇのは外国人についてだ。呪い師や異教徒みてぇな、王都にとってありがたくねぇ連中のことならなおさらいい」

  的の絞りかたは間違いでないはずだ。神々の標本の所有者がリンサイア人である可能性は低いし、もしそうであったとしても表立って行動している可能性は更に低い。

  十年前の異邦人事件ではリンサイア人のしかも議員という役職を持つ者が魔導師であったが、もしも今回のことにそうしたリンサイア内部の権力者が絡んでいるとすれば、わざわざそれとわかる方法でマルスを始末する必要などない。権力を行使して握り潰せばそれで済むからだ。

  思うに、やつらは注意を引こうとしている。おそらくは材料を与えることでこちらの出方を伺うつもりだろう。たとえ警戒されることになっても、反応して動きを見せれば、人数やその戦力の規模を大凡把握することが出来る。ましてや相手は人を超えた力を身につけているのだ。よほどの猛者以外は物の数ではないだろう。

  警戒すべきは注意が相手の望む形に逸らされてしまうことだ。だが、マルスの言った『法王庁に気を付けろ』という言葉。それがサイアスに見つめるべき先を照らす灯火となった。

  あとは仕掛けられる前に捕ればよい。そのためには相手の隠れ蓑を剥ぐことだ。

  条件が示されたことで、街の眼である御者達の意識は記憶を集束させた。外国人、噂、呪いのキーワードがあらゆる情報網を稲光の如く走る。

「そういやぁ、しばらくまえにサザンクロスから来たっていう、みょうな男の客を乗せたことがありやすよ。なんでも、絵画の取り引きがどうとか言ってましたがねぇ」

  これは関係ないだろう。やつらがわざわざ馬車を利用して、他人の記憶に残るまねをするとは思えないし、たとえ嘘でも自分の職業や目的を語るとは思えない。

「俺は裏町の権力争いで、どっかの幹部が殺されたって話しを聞きましたよ。北のほうから別勢力が入り込んでるって話しですぜ」

  いささか興味がある。建国以来、裏町のような暗部を潔癖なまでに排除してきた王都にあって、この十年はまさに快楽侵食の時代。新たな利権を求めて介入してくる組織があったとしても不思議ではないし、そうした流れに紛れてやつらが入り込む隙も生じようというものだ。

「いつごろからかわかるか?」

  シェルサイドからアルフォンソが消えた時期と重なれば、可能性があるというものだ。

「もう三月以上まえの話しですよ」

  三ヶ月。時期としては符合する。つぎにロジカがサイアスの前に進み出た。

「あっしもつい先日、下水道に住んでるモグラ達に変な話しを聞きやしたよ」

  モグラとは、地下水道やカタコンベをねぐらにする浮浪者のことである。十年前にはさほどみられないこうした者達も大火で焼けだされたあと急増し、特別な援助も受けられぬまま、時の流れとともに定着してしまったのだ。

「何でも最近、真夜中に地下水道を這いずりまわる影がいるらしくてね」

「影?」

「ええ。まあ宿無しって言っても、モグラにも一応縄張りってやつがあるんで、勝手に入り込むヤツを放っちゃおかねぇんですよ。それで正体を確かめようと後を追ったら、五、六人あっさりと行方不明になっちまったらしくて。モグラ達のあいだじゃ、魔物が住み着いたんだって、ちょっとした怪談話になってやす」

  地下をうごめく影。こんな状況でなければ、サイアスはそこにかつての自分を重ねて思ったかもしれない。

「もう少し、詳しくわからねぇか?」

  サイアスがそうきくと、ロジカは親指でこめかみの辺りを掻きながら言った。

「あっしの知ってるのはその程度でさぁ。ただ話しを聞いてるかぎりじゃ、どうもその影ってヤツは一匹じゃねぇみたいですがね」

  彼が言いおわるか終わらないかのうちに、周りの数名から声があがった。

「その話しなら俺も聞いたことがあるぜ。なんでも薄汚いローブを全身に纏った大男で、外衣の切れ目から覗いた右腕は獣の腕だったそうだ。獣人だって言うやつもいる」

「いや、私の聞いた話しじゃ、地下水道を伝って来た魚人だって噂でしたけど」

「馬鹿いえ。バケモンが人間の言葉を話すと思うか? ヴェルセなまりのイジェニア語を話してたんだとよ」

「おまえの方こそ馬鹿じゃねぇのか。モグラにイジェニア語かどうかわかるはずねぇだろう。あいつら俺達の言葉だって外国語っていうぜ?」

  なにやら話しが、不毛な言い合いへと転化したが、これで異形なる者の目撃例がひとつでないことはわかった。あと重要なのは。

「又聞きした話しよりも、その影とやらを直接見たやつはいねぇのか?」

  そう。重要なのは具体的な内容だ。ここまで噂が表に流れ出しているなら、直接的に関った人間がいてもおかしくはない。

  サイアスの言葉にひとりの青年が手を挙げながら言った。

「それならゴラ爺が知ってる。おい、爺さんいるか?」

  それに応えて、男が人だかりの中からゴラと呼ばれるひとりの老人を連れ出した。

「何じゃい。騒々しいの」

  酒瓶を片手に背の曲がった白髪の老人がとろんと垂れた視線を周囲に向ける。彼を呼んだ青年が確認するような口調で言う。

「なあゴラ爺、あんた二週間くらい前に、リオターレ橋のあたりで変なやつを見たって言ってたよな? あれ、話してくれないか」

  そんな言葉が耳に届いているかどうか。ゴラは酒で喉をならしたあとで毒づく。

「なんじゃ、前に話した時は笑い飛ばしおったくせに、いまさら話すことがあるかい」

  どんないきさつがあるかは知らないが、機嫌を悪くしていることだけは見て取れた。青年は頭を掻きながらサイアスに言う。

「すんません。酒さえ入ってなけりゃ気のいい爺さんなんだが」

  エニーがすかさずゴラの前に飛び出すと、その手から酒瓶を取り上げた。

「ゴラ爺さん、協力する気が無いなら何しにきたんだよ。ただ酒にありつこうたって、そうはいかねぇぜ」

「ふんっ! 若造が何を偉そうに。わしはただ、この男の面を見にきたんじゃ!」

  そう言って、ゴラはサイアスの顔を勢いをつけて指差した。

「爺さんに焦がれられても、嬉しかねぇな」

  サイアスが苦笑いしてそうこぼすと、ゴラはむっと皺だらけの顔をしかめる。

「そうやってあんたはいつも調子のいいことを言うが、あんたにはきっちり言っておく。わしゃあんたを英雄だなどと思っとらん。だいいち、十年前にあんたらがもっと早く駆けつけておれば、街に火がかけられることも、犠牲者が出ることも防げたはずじゃ!」

  十年前の光景が、鮮烈な血の色を伴って蘇る。古いことをいまさら、などとは思わずサイアスは黙っていた。ゴラの隣の男が彼の肩を掴んで声を上げる。

「爺さん、あんたそれ言い過ぎだ。酔っ払った勢いにもほどがあるぜ」

  その場をフォローしようとしたが空気は重く動かない。サイアスがふっと息をついた。

「孫の足のことは気の毒だったな、ラジゴラ」

  サイアスの言葉に、そこに居合わせた全員が息をのんだ。ここにいる誰よりも驚いたのは、おそらく本名を呼ばれた老人ゴラであっただろう。

「あ、あんた、まさか」

  声が震えていた。まさか孫娘のことや自分のことを覚えているはずなど。

  周囲の眼差しを受けながら、サイアスはゴラを見つめて言った。

「忘れると思うか?」

  多くの者はそうかもしれない。だが、サイアスは違うのだ。自分の目で見たものは、すべて脳裏に焼き付いて消えることはない。燃え上がる民家と瓦礫に片足を挟まれた少女。その傍らで助けを求める父親。サイアスとベイオグリフの部下数名がその現場に駆けつけ彼女は炎と瓦礫から助けだされたが、その右足は膝から下の力を一生涯失うこととなった。

  それがサイアスとゴラを結び付けている過去。ゴラは英雄と祭り上げられる男が、この十年を経てどれほど調子付いているかを確かめに来たのだ。正直、会って恨み言のひとつも言ってやろうと思っていたが、サイアスが自分と娘について、さも覚えていることが当然であるかのように口にしたことで、ゴラの感情は行くあてを失った。

  サイアスは持ち上げられて庶民を蔑むどころか、まさに自分達とおなじ場所に立っているかのように、隔てなく接しているではないか。

「じゃが、どうして」

  彼が孫娘のことを覚えていなければ、数々の悪態が口をついて出ただろう。しかし、いざサイアスが記憶に留めているとわかると、孫娘にとっては人生の転機であったこの一事が無関係な男にとって胸にしまいこんでおくほど重要だったということのほうが信じがたい。

  サイアスは少し息を吐き出した。話すのが面倒くさい、という本音は喉の奥でつぶす。そしてこの老人の惑いに答えを与えることが、この場に足労を願った側の報いるべきところかもしれないと納得することにした。

「なに、おまえさんに似ず、かわいい嬢ちゃんだったんでな」

 どこまで本心なのだろうか。ゴラにはその判断をつけるだけの材料がなかった。

「くっ。こんな誠実さの欠けらもない男に、感謝の言葉など」

 老人は口の中で孫娘に言われた言葉を噛み殺す。彼女はこの十年、何に怒りをぶつけることはなかった。それは一般人を巻き込んでの市街戦を回避できなかった、サザンクロス軍やベイオグリフも例外ではなく、むしろ感謝の言葉すら口にしているほどなのだ。それは自分を救ってくれたベイオグリフの男達には何にもまして。

 今日も家を出る時に彼女は祖父に言ったのだ。『あの方には、ありがとうございましたと、くれぐれも伝えてね』と。だが老人にはそれがすでに気に食わない。

 ゴラにしてみれば、息子夫婦と共に護り育ててきた孫娘の純粋さは、余計にサイアス達に対する敵愾心を煽るものであったのだ。

「あんたが何を言おうと、わしゃあんたに協力する気はない!」

 言いながら本当は、あんた、ではなく、孫娘が、であることもゴラにはわかっていた。

 ますますへそを曲げる老人に、サイアスは苦笑せずにはいられなかった。

「なぁ爺さんよ。ここはひとまず昔話はやめにしようや。おまえさんの知ってることを、快く教えちゃくれねぇもんか」

 サイアスにしては誉めるに値するほど紳士的な態度だったといえるだろう。だが彼とはまったく違った基準を持ち、また彼のことがもとより気に食わないゴラから見れば、それは都合のよい勝手な言い分でしかない。

「なにを言う。大方、昔のように賞金を追ってきたんじゃろうが。あのときは金目当ての結果に、たまたま運良く国を救うなどという大義名分がくっついたおかげで英雄などを気取っておれるが、あんたも結局はそこらの薄汚い輩と変わりゃあせん。金を掴むために人の命も利用する」

「おいゴラ爺! そいつはいくらなんでも聞き捨てならねぇ!」

 エニーが老人の胸ぐらに飛び付こうとしたところをサイアスにとめられた。少年は肩を鷲づかみにされた状態で、サイアスの顔を睨みあげる。

「止めねぇでくださいよ! 言わせたままにしてられない!!」

「いいんだ」

 剥き出しになった少年の激情をサイアスが静かな言葉で窘めた。彼はゴラの眼を正面から見つめる。そこには自分に対する友好は欠けらも浮かんではいなかった。

「爺さんよ、あんたが俺をどう思ってるか。そいつは俺にとっちゃどうでもいい。だが、それを理由に持ってる情報を隠されたんじゃ、ちいとばかり困るんだよ」

 サイアスの言葉を、ゴラは鼻をひとつ鳴らして聞き流す。

「ふんっ。あんたの仕事なんぞ、わしの知った事ではない」

「そう言われて引き下がれねぇんだよ」

 エニーを軽く退けて、サイアスが一歩ゴラに近づいた。

「金がかかっておるからじゃろう?」

 すべてを否定するように、ゴラは顔を背ける。

「いや。人の命がかかってる」

 サイアスの言葉がゴラの心を突き通した。背けた視線を、再びサイアスに向ける。

「大袈裟なことを」

 そう口にして、ゴラはすぐに自分の言葉の通りでないことを悟った。自分の前にある男の眼が、それが間違いであることを嫌でもゴラに突きつける。

「なあ爺さん、しみったれた話しは無しにしようや」

 このときサイアスは死んだ友を思っていた。その光景、まだ鼻腔の奥に残る血の臭い。もし、この老人が何かを知っているなら、友の命を奪った敵へ辿り着く可能性がわずかでもあるのなら、自分は見過ごすわけにはいかないのだ。

 ゴラはサイアスの雰囲気に圧倒された。物静かに構えてはいるが、この男の内側からは得体の知れぬ威圧が放たれている。

「そこまで言われて、これ以上 断り続ければ、わしひとりが悪者か。仕方ないのぉ」

 ことの成り行きを見守る周囲に眼を流してから、ゴラはしぶしぶと言った。それから彼はカウンターの一席に腰をおろして、誰のものかわからない酒のグラスを手に取ると、残っている酒に口をつけながら話しだす。

「二週間、正確には十六日まえのことじゃがな、リオターレ橋の辺りでモグラをひとり拾ったんじゃ。やけに脅えた様子で、金もないくせに飛び乗るように馬車に転がり込んできおってな。言わずとも知っているじゃろうが、あの橋の周辺は昔から厄介な連中の緩衝地帯。大方、やくざ者のもめ事に巻き込まれて逃げて来たんじゃろうと、その時はそう思った」

 それが妥当な線だろう。無数の組織の縄張りが絡み合うことから必然的に設けられた緩衝地帯、といってもそれはあくまでゴラの言うやくざ者同士の話しなのであって、モグラのような連中が縄張りを侵せば報復は必死である。

「じゃがモグラを追っておったのは、わしの考えているような連中ではなかった」

「どうしてわかる?」

 サイアスが身を乗りだして訊いた。その質問には、確信を求める感情が隠されていた。ゴラはまた一口グラスのものを飲み込んで言う。

「モグラがな、言ったんじゃよ。『安全な場所へ連れていってくれ』とな。勿論、わしは断った。面倒ごとに巻き込まれるのも、金のない客を乗せるのも御免じゃったからな。わしが客車を振り返って、降りてくれと言おうとしたとき、モグラはそこにはもうおらなんだ。諦めて降りたのだと思ったんじゃが」

 そこまで言って、ゴラは言いづらそうに顔をしかめた。

「わしは見たんじゃよ。緑色の細長い腕が、後部座席から滑り出して行くのを。あれはちょうどカエルか何かのように、水掻きが付いておってな。わしは慌てて馬車を降りて辺りを確認したんじゃが、そこにはもう誰の姿もなかった」

 そのときは怪奇話しと一笑に伏されたゴラの体験談が、いまはサイアスの中で確かな意味を持って浮かび上がった。地下道の影。馬車に逃げ込んだモグラは見たのだろう、暗躍する異形者の正体を。

「それだけか。他に何か見たり聞いたりしなかったか?」

 サイアスの表情に僅かだが険しさが宿ったように見えた。ゴラは少し身を引いて言う。

「いや、他にもある。空耳かもしれんが、風に混じって女の囁き声を聞いた」

 思い出すように、ゴラは天井を見上げる。あのとき、馬車からトカゲの尻尾のように、異形の腕が滑り出していき、人の影が客車の内壁に映っていた。そして動揺する自分の耳に静かな囁きが、耳なれぬ響きとともに聞こえたように思う。

 あの声はたしか、こう呟いた。

「ごろめ・せろすぁ・どれろがもじれ」

 思い出せるかぎりでは、こんな撥音の言葉だったはずだ。それを聞いたサイアスは、滑らかに舌を動かして言い直す。

「グローメセ・ロシャ・ドレロガモージェ。方言混じりだが、イジェニア語だな」

「どういう意味なんです?」

 エニーがサイアスの後ろから尋ねた。聞かれて、男は少年を横目に捉えて答える。

「……また殺すのか、めんどくせぇ」

 場の空気が一瞬にして冷気を帯びた。そこに居合わせた全員が、深く関ってはならないということを直感的に悟る。周囲の気持ちが退いたのを感じ取り、サイアスが言った。

「なぁに。おまえさんらには関係のねぇ話しさ。それに、カタつける為に俺が来たんだ」

 気休めかもしれないが、それが本心だった。集まった者の中には、今夜この場に来たことを後悔しはじめた者もいるかもしれない。

 サイアスが、カウンターの上におかれた酒瓶を取り、軽く喉を潤してから周りを見る。

「しらけさせちまったな。もう野暮な話しはやめだ。好きにやってくれ」

 そう言って、サイアスは隣で不安そうにうつむくエニーの背中を叩いた。我に返ったようにサイアスを見上げ、苦笑いを浮かべる少年のそばに、いつしか店の看板娘が心配した面持ちで立っている。笑顔を取り戻し、エニーは彼女を見つめた。

 その若者のまっすぐさが、見る者の心に染み込む。

「おら、どうした?  俺のおごりだ、呑み溜めしとかねぇと損するぜ?」

 カウンターに座るゴラの手にあるグラスに、サイアスは自分が口をつけたボトルから、直接酒を注ぎいれながら言った。

「な、なにをするか!」

 慌ててグラスを退けようとするが、間に合わなかった。グラスの中ではサイアスが注ぎいれた酒と、残っていた果実酒とが混ざり合い怪しげな色合いをつくりだす。

「いいじゃねぇかよ。どうせ胃袋に入っちまえば同じだ。おまえらも、いつまで案山子みてぇに突っ立ってるつもりだよ」

 呆れたように笑って彼は他の男達に言った。その言葉のおかげか、誰からともなく他愛のない会話が始まり、グラスのぶつかる音が響き、もと通りに喧騒が熱気を帯びて停滞した空気を押し流していく。

 サイアスはコートの襟を但して席を立った。そろそろサッシュが夜警にでる時間だ。ここの勘定を大目に支払って邸に戻るべきだろう。

「店主、閉店までで幾らになる?」

 彼がカウンター越しに店主にきくと、店主は首を振りながら答えた。

「ツケときますよ。いまからこの調子じゃ、閉店までに片付くかわかりませんからね」

 この男達と長く付き合ってきた店主の方が、彼らのことを良く理解している。それとサイアスへの気遣いもあっての言葉なのだろう。サイアスは店主の厚意をありがたく受け取ることにした。

「すまねぇな」

「いえ。支払いはまたエニーのやつに取りに行かせますから。それより、もう戻られるんでしょう? エニー、おしゃべりをやめてこっちに来い。サイアスさんのお帰りだ」

 店主は娘と話し込んでいるエニーを呼びつけようとしたが、それを遮ったのは楽しいひとときを邪魔されたくない少年達の言葉ではなく、なんとサイアスだった。

「いや、歩くさ。ちょっと風に当りてぇんでな」

 送迎を頼まぬ理由が、彼の言葉のとおりであったのか店主にはわからない。ただ店主にとって夢中で語らっている我が子と幼馴染みの少年が並んでいる姿は、微笑ましいものであったことは事実だ。

 店主が視線を英雄と呼ばれる男に戻した時、そこに彼の姿を見ることはできなかった。

 あったのは酒に賑わう店内を飛び交う笑い声と、人々のうねり。つながった輪の中からすり抜けるように、サイアスは誰にも気取られることなく出ていったのだ。

 あの横顔、燃え立つような瞳。今にしてみれば彼は本当にここに居たのだろうか。焼けるほどの存在感。だが立ち去るときには残り香も残さない。優しくも物悲しい雨と、気紛れにたゆたう風とを吸い込んだ、まるで雨雲のような男だと店主は思った。

 塩の花亭の扉を隔て、陽の沈んだ街は街灯の淡い光の中。わずかに酒の廻った身体に夜風が心地好く思えた。

 このまま邸を目指せば時間的には問題ないが、どこか静かな場所で独りで呑みなおしたいという欲求も確かにあった。あの気の良い御者連中と酒を酌み交わすことは悪くない。だが、それがどれほど意味のある時間であったとしても、サイアスは確認せずにはいられなくなるのだ。自分がまだ確かに独りであるということを。

 古い仲間達と呑むときも、誰かの側にいるときも、他人と触れ合うときサイアスには言い知れぬ違和感がある。その気持ちがある限り、彼の心が満ち足りることはない。

 仕方のないことだ。孤立していることが、彼にとって自分の人生を歩んでいるという唯一の証しなのだから。

 もし、自分がその孤独を捨てるとしても、その代わりに得るものは、ひとつでいい。

 たったひとつ。それさえあれば、過去、現在、自分のすべてを否定してもかまわない。

 足の向くままに、サイアスは人波静まらぬ道を歩きながら、何気なく空を仰いだ。

 星の粒と、浅い霞に歪んだ月明かりに、なぜか胸騒ぎを覚える。

 それはすぐさま胸騒ぎから、ある直感へと結び付く。危機という直感。

 周囲に気を配るが、当たり前に道を行き交う人の群れがあるだけだ。誰かが自分をつけている様子もない。ではこの異様な緊張感は何だ。

 言葉に出来ない黒い影が、ずしりとのし掛かってくるような感覚。全身の神経が研ぎ澄まされ、雑音が思考から消える。そして飛び込んできたのは、不穏なるものの気配。

 熱、微かな苦い臭い、血の淀み。

 なにかに気付いたように、サイアスはハッと眼を開いて西の空を見た。紺色の夜空にオレンジの波が揺れていた。彼に遅れて、街道を行く人々にも、足をとめて空を指差す者が現れはじめる。しかし、それが何であるかを悟っているのはサイアスひとりだろう。

 最悪だ。まさかこれほど早いとは。 サイアスは弾かれたように走り出した。あの空の下には法王庁舎がある。それをオレンジに染めているのが渦巻くような炎であることは容易に想像できた。

 通りの十字路に辿りついた時、サイアスにはふたつの選択肢が用意されていた。

 ひとつは西へ向かう道、もうひとつは東にあるアシュカ邸へと戻る道。

 まだサッシュは交代に出ていないだろうが、彼も火の手に気付いて邸を飛び出している可能性も十分にある。もしそうだったなら、アシュカをギュスタレイドの元へ非難させたいま、状況が急変したにも関らずマリーアンをあの邸に留めておくなどという危険をあえて冒す理由は何ひとつ無いのだから、彼女にはサッシュが避難するように命じるだろう。

 だが、邸の二人がこの事態に気付いておらず、敵の狙いがアシュカや法王庁に対する報復であるとすれば、邸が奇襲を受ける可能性は高い。あの火はこちらの戦力を分断し、注意を引き付ける為のおとりであるとも考えられるのだ。そして逆に敵の狙いは全くべつの場所にあり、法王庁舎で一刻を争うような事態が勃発しているとも考えられる。

 どちらへ向かうべきか。突きつけられたのは、感情と使命との両天秤。

 数時間前まで目の前に居たマリーアンの一挙一動が、瞳の水面に浮いては消える。

 心の中に、迷いという濁りを感じた。だが、サイアスはすぐにその濁りを振り払う。

 自分が向かうべきは西だ。マルスは言った『法王庁に気を付けろ』と。法王一族でも議会でもアシュカ姫でもなく、法王庁と言ったのだ。かつての宮殿は議事堂と名を変え、法王家は王都を離れて散りじりになっている。あの元法王庁舎のなかで、法王庁という言葉がいまも生きているのはあの法王庁舎の書庫、宝物庫、礼拝堂、そして王宮警護隊。そのすべてが法王庁舎の敷地の中にある。ここはマルスの言葉がそこを指し示しているのだと信じて、前へ突き進むべきだ。

 ―――――――― ここは無駄な感情を捨てて、理を取れ。

 枝分かれする可能性の中から、より確率の高いものを選ぶ。その為には私情など不要だ。 サイアスは西へと続く道を選んだ。感情に流され見知った者に降り懸かるわずかな火の粉を気にしていては、本当に必要な事を見落としかねない。心の中で微かに蘇るあのイシアの香りも、彼の足を東へ向かわせることは出来なかった。

 決意を握り締めて走りながらも、彼の頭には悔恨の念が次々と芽を吹く。

 ―――――――― 甘かった。俺もずいぶんと呆けたもんだ。

 マルスを殺すのに、アルフォンソの力を使ったのは何故か。それとわかる方法を使い、サイアス達の注意を引き付け、出方を伺うため。自分はそう考えた。だから均衡状態のうちに場を固め、先手を取ればそれで勝ちだと考えたのだ。

 ―――――――― それで勝ちだと? なにを寝ぼけてやがる。俺がここにいるからこそ、そんなやり方に意味があるんじゃねぇか。『俺』がいるからこそ。

 そうだ。神々の標本を知るものは数少ない。 その存在とシェルサイドの動乱に身を投じていたアルフォンソを結び付けて考えられる人間となれば、惨状を目の当たりにしてきたサイアスひとりではないか。

 ギュスタレイド、サッシュ、アシュカには監視がついていると警戒し、訪都のバレていない自分が動くべきだという判断、アシュカをギュスタレイドに預け王宮には特別警備を敷くという守りに入った。これがすでに負けの発想だったのだ。

 自分の訪都がばれていないという確信はなかった。こちらを牽制し、出方を伺う為にその力を誇示したのだという考え方。仮にそれが正しいのなら、自分の訪都は当然ばれている。そうでなければマルスを惨殺しても牽制にはならない。秘密を嗅ぎつけた人間を抹殺するとしても、もっと大人しい手段を選ぶだろう。力を行使するのは周囲に対してそうすべき意味がある時だけだ。

 なら、自分の訪都が相手に知られていたとすればどうか。それは自分がアルフォンソを追ってシェルサイドに渡ったときにすでに始まっていたのかもしれない。撒かれた種に誘き寄せられた自分は、危険を感じてリンサイアへと戻った。そしてマルスが死に、自分は守りに入る。相手の狙いは初めからそこにあったのだ。警戒させてこちらの動きを封じる。誰が、何故、どのように、という情報を集めることが、敵の正体にたどり着く最短の方法であるという錯覚に陥らせ肝心な、いつ、ということは疎かになった。

 いつでも迎え撃てるという気構えができたことで、それがいつであるかに重きを置かなくなってしまったのだ。

  こちらが警戒していれば相手は動きが取り難くなるはず、均衡状態になっているはず、という安易な思い込みが、最大にして最悪の隙を生んだのである。

 均衡とは、互いの力が拮抗しているときにのみ発生するものだ。自分は神々の標本と渡り合えるという自信がそう思わせた。そんな身勝手な自信ならば相手も当然もっている。力が拮抗しているのなら息を潜めて不意を討つのは当たり前だ。

 その機会をあえて捨てたのは、こちらの出方や戦力を知る必要などなく、純粋な力のぶつかり合いならば間違いなく勝つという確信の現れではないか。

 勝ちへの道筋が見えたと感じた時こそ、人は謙虚で慎重であらねばならない。そこを見誤っていたのでは、他者を出し抜くことなど出来ようはずもない。

 ――――――― なにが仕掛けられる前に捕るだ。 平和ぼけもいい加減にしやがれ! 単に、こっちの仕掛けるチャンスを潰されただけじゃねぇか。

 形振りかまわず王宮警護隊を動かし、一昼夜をかけてこの王都中を捜索していれば、今頃先手をとっていたのはこちらだったかもしれない。それを、神々の標本にまつわる秘密や権威の失墜したフォリエントの立場などといった状勢に気をとられてこの様だ。

 顔を顰めて走る大男を驚きの目でみる者達、夜空を見上げる者の顔が通り過ぎてゆく。

 そのとき背後から、蹄と車輪の歯ぎしりが地を蹴って少年の声が彼の耳へと届いた。

「ダンナぁあああ!!」

 見れば、人波をかき分けながら走り来る一台の馬車があった。その手綱を握るのは、あのエニー少年である。彼はサイアスの前に馬車で割り込み彼の足をとめて言った。

「やっと見つけましたよダンナ。さっき王宮警護隊の人が来て、ダンナを庁舎に連れてこいって。なんでも事件だとか!」

 ――――――― 事件。それだけしか説明されていないのか。

「乗って下さい。すぐに庁舎まで飛ばしますんで!」

 片手で後部の客車を指差すエニーに、サイアスはきっぱりと言い切った。

「だめだ。おまえは酒場に戻れ。ほかの連中に足を頼む」

 少年を危険な庁舎へと付き合わせるわけにはいかない。しかしエニーは表情を引き締めてサイアスを見つめた。

「ほかの連中も、手分けしてダンナを探しにいってます。それにそんなことを言ってられる余裕はないんでしょ?」

 サイアスの表情からか、西の空を見たからか。少年も尋常でない事態が起きていることは察知していた。不本意ではあるが、サイアスはエニーの言葉通りだと納得せずにはいられなかった。走って行くなどという悠長なことはしていられないし、ほかの馬車を探すにしても停車場まではまだ距離があるのだ。

「しょうがねぇな。だが、門のそばまでだぜ」

 サイアスの言葉にエニーは両眉を持ち上げて答えた。客車の手すりに手をかけると、馬車は手綱を打って走り出す。

 街にはどよめきがあった。西の空はますます赤く、火の粉が舞いはじめている。ここへきて多くの市民が異変に気付きはじめたのだ。

 馬車はその人の群れを割って進んだ。サイアスの視線の先に待つ運命を知らぬまま。



 時は少し遡ることになるが、サイアスが出かけたあとアシュカ邸には、マリーアンとサッシュのふたりが残されていた。いつものように、マリーアンは夕食の準備に忙しく駆け回っている。今夜の献立は『フィ・ドマ』というパン生地に下ごしらえした具材を散りばめてオーブンで焼いた、イジェニアの伝統的な家庭料理だ。

 丁度、ここ数日の料理に使用した食材が細々と残してあったのと、小麦粉が安く手に入ったこともあり、あまり経験のないフィ・ドマを造ることに決めたのである。

 また、この料理は食べる側の腹具合で量を加減できるので、もしもサイアスが小腹を空かせて帰ってきた時に、出来立てを食べさせることが出来るというのも、マリーアンがこの料理を選んだ理由のひとつだった。

 彼に食事は外で済ませるから必要ない、と言われたから気を遣わなくてよくなるほど、彼女にとって客人という存在は粗雑ではない。そして何よりサイアスという存在は。

 気遣ったり、心配したり、何を食べて頂こうかと考えたり、そうしている時が彼女にとって至福なのだから仕方がない。

「さあ、あとはオーブンに入れて待つだけね」

 微笑みながら言って、彼女は調理台の上にならべられた料理を満足そうに眺めた。

 幾つ食べるかサッシュに確認しようとマリーアンが厨房のドアを開いたとき、玄関ホールにたたずむ彼の姿が眼にとまった。

 サッシュは蝋燭の灯りの下で、じっと床を見つめている。歩み寄ってマリーアンは彼にそっと声をかけた。

「どうなされたんですか、サッシュ様」

 その声に、サッシュは現実に引き戻された。マリーアンを肩越しに振り向いて小さな笑みを浮かべたあと、再び視線を床へと落として言う。

「……この絨毯さ」

 彼の見つめる先には、マリーアンにうるさく言われ続けている絨毯が敷かれていた。

「何度かこいつを汚して、あんたにどやされたよな」

 そんなことを思い出していたのか。マリーアンはくすっと笑った。

「ええ、でもあれはサッシュ様がいけないんですよ。靴の泥をそのままになさるから」

 意地悪な言い方をしたが、彼女の口調と表情は優しい。サッシュは苦笑いして、その場にしゃがむと、汚れを拭き取った跡を指でなぞった。

「覚えてるかい? 俺が初めてこの邸に来たとき、この絨毯を酷く汚しちまって、怒鳴られたんだ。そのとき、アシュカのやつが拭き取るのを手伝ってくれてさ」

 サッシュはあえて儀礼的な言葉遣いをしなかった。アシュカ、と名指しで彼女を呼ぶ。そのことが彼の心情を表しているのだとマリーアンは思った。

「もちろん覚えていますとも。わたくしが止めるのも聞かずに、アシュカ様は床に伏しておられたんですからね」

 結局あのときは、見るに見かねて自分が代わりに後始末をしたのだ。それが腹立たしかったわけでも嫌な思いがあるわけでもなく、ただサッシュの為に当たり前のように手を貸すアシュカの態度に驚いた。サッシュがそのことを、大事な思い出のように語ることにも、例えようのない不思議な感覚をおぼえる。

「心配なんですね、アシュカ様のことが」

 彼の胸中を察するかのように、マリーアンが言った。サッシュは立ち上がって、吹き抜けになった高い天井を見上げて言う。

「サイアスが聞いたら笑うよ。ひとり居ないだけでこれじゃあね」

 それは違う、とマリーアンは思い、寂しげに微笑むサッシュを見た。

「どこにいるか知っていても、居なくなってしまったようにお感じですか?」

 暖かく、自分の心に空いた穴を労るような彼女の言葉にサッシュは静かに頷く。

「ああ、たぶんね」

 いま感じているこの喪失感は、あれが掛け替えのないひとりだから。

「なら、大丈夫ですよ。サイアス様は、もっと寂しい想いをしておいでですから」

 笑顔をつくって口にする自分の言葉が痛い。わかっているのだ。もう、彼女には。

「さあ、御夕飯に致しましょう」

 勢いをつけて、マリーアンは自分のなかのわだかまりを振りほどくように言った。

 そのときだ。何者かが戸口に立って、扉を叩きながら呼ぶ声が響く。

「隊長! エスメライト隊長に火急の知らせです!」

 扉の向こうにある声は、焦りと戸惑いに満ち、叫ぶようでもあった。一瞬にして緊張が走り、サッシュは扉の閂を外しながら言う。

「その声は、マイルズか」

 サッシュの手によって扉が開け放たれると、そこには案の定、青年兵が立っていた。

「マイルズ、貴様は夜警に配備されていたはずではなかったのか!?」

 嫌な予感を胸に秘めサッシュが声を荒くして聞いた。マイルズと呼ばれた青年兵は、わずかに視線を泳がせながら、自分が任務を離れた理由を口にする。

「いま、法王庁舎に敵襲が! その、ダリクとティザーの隊が王宮内で応戦していますが、相手は紫色の光のようなものを……、そこから次々に新手が!!」

 言葉に詰まり、動揺しながらも、マイルズは出来るだけ早く状況を伝えようとしているため、要領を得ない。サッシュは混乱する青年の頬をひとつ張り倒した。

「落ち着けっ! 庁舎が攻撃されているんだな!?」

 両方をつかんで揺すると、マイルズは震えながら首を縦に振った。

「相手は複数か、単独か!?」

「あの、ひとりです。ですが、紫色の光を。そこから『ヤツら』が!」

 わからない。だが、それが未知の力を目の当たりにした混乱であることは理解できた。サッシュ自身も、自分にリヴァイヴが目覚めたときや、十年前に魔導師と闘ったときに同じように混乱し、恐怖をおぼえたのだから。

「マイルズ、相手はひとりだが、力を使うんだな? そうだな!?」

 再び問うと、彼は何度も首を縦に動かした。力という言葉以外に、マイルズは自分が見たものを表現する手段を知らぬことは、サッシュには容易に想像がついたのだ。

 問題は、この状況を受けて自分がどう動くかだ。王宮警護隊隊長として、自分はすぐ現場へと向かわねばならない。だが、マリーアンがひとり残されることになる。

 サイアスが戻ってくるのを待っている余裕はないが、もし相手が複数であった場合、ひとりが法王庁舎を襲い、残りが法姫であるアシュカを狙って邸へ来ないとも限らない。

 数秒間 考えを巡らせた結果、サッシュはひとつの決断を下した。

「マイルズ、貴様は彼女を連れて安全な場所に退避しろ。マリーアンさん、サイアスが戻ったときのために、扉に貼り紙をしておいてくれ」

 言われたふたりが、ほぼ同時に言葉を返す。

「自分も戻ります!」

「サッシュ様、わたくしのことより、今はもっと別の事を優先してくださいませ!」

 マリーアンの言葉は、彼女なりの覚悟なのだろうと思ったが、あえてそれに異を唱えるつもりもなく、サッシュはマイルズを睨み潰して言う。

「事態の報告も満足にできんヤツに、何が務まると言うんだ!」

「ですが隊長!」

 なおも食い下がるマイルズの胸倉をつかんで、サッシュは声を殺して言葉を刻む。

「いいから、貴様は彼女と退避しろ!」

「ア、アシュカ様は」

 迫力に押されながら、マイルズは何とかその名前を吐き出した。

 彼はアシュカがギュスタレイドの邸に行ったことなど知る由もない。ただ体調を崩していると聞かされているだけなのだ。サッシュも、そのことは充分承知である。ここでアシュカを避難させないなど考えられない。彼女がこの邸に居るのなら、当然 最優先で護衛と避難とを行うべきなのだ。この邸に、居るのなら。

 サッシュはマイルズの眼を真正面に見返して言った。

「アシュカ様は、俺が責任をもって避難させる。貴様はいま、すぐに、彼女を連れて出ていくんだ!」

 嘘だった。しかしこの場でマイルズに事情を説明したところで、らちがあかない。いまは一刻も早く行動を起こさせる事だけを考えるべきだ。

「行け!」

 強く一声を浴びせると、マイルズはようやく自分の置かれた立場を理解した。命令を受け、それを実行する事が部下である自分の使命ではないか。

「は、はい!」

 手を放すと、マイルズは反射的に敬礼をした。サッシュはすぐさまマリーアンを向く。

「あんたはこいつと一緒に避難するんだ。いいか、絶対に勝手な行動はとるなよ」

 いつもと全く違うサッシュの口調に、マリーアンは事態の重さを予感した。しかし、ことが重大であればそれだけ自分などに構っていてはいけないと思うのが彼女なのだ。

「サッシュ様、わたくしのことなど気になさらずに」

 言いかけたところで、マイルズに片手を引かれた。

「さあ、行きますよ! 隊長、あとを頼みます」

 マリーアンはしきりに何かを言おうとしたが、声にならないまま扉の向こう側へと消えていく。サッシュはそれを見送ったあと駆け出して馬屋へと走った。

 柵を開き、綱を外してその背に跨ると、サッシュは馬の脇腹を蹴って走り出す。邸の大門をすり抜け、石畳を食い破らんばかりに地を蹴って走る。

 やがて見える街路上には有事など知らぬ人々の日常が日暮れを彩っていたが、その空気を切り裂いて英雄を乗せた馬は風の如く駆けた。

 急げ、急げ。遅れればそれだけ、アシュカにことが及ぶ危険がある。

 立場がなければ、いますぐにでもギュスタレイドの邸に駆けつけたい。しかし、今は彼女を預かったギュスタレイドを信じて任せるしかないのだ。

 先ほどアシュカを馬でドミニアス邸に連れていったときのことが、頭の中に閃光のように蘇る。彼女は馬車に乗った後で自分の眼を見つめていったのだ。

 『大丈夫だよね』と。

 そんな彼女に自分は、大丈夫だ何も心配する事はないさ、と肩を叩いて微笑んだ。自分の言葉を信じるように彼女もぎこちなく笑った。

 十年前、命を狙われ、その結果あらゆるものを失った。そんなアシュカにしてみれば、いまになって尚もアカデミーや歴代法王庁の亡霊に苛まれるのは、不安と苦しみに胸を裂かれる想いであっただろう。

 そのうえサッシュは彼女の傍についている事ができないのだ。それが本当に大丈夫なのか。笑いながら、そう言い切ってしまった自分は、保証するだけの力があるのか。

「……心配するな。大丈夫さ」

 自分に言い聞かせるように、サッシュは改めて口の中で呟いた。

 しかし、その表情は険しく緊張に満たされている。

 敵が動くとしても、まだ先だろうとたかを括っていた自分が情けなく、恨めしい。

 歯を食いしばってサッシュは走った。自分の向かうべき戦場へ。

 一方、マイルズの走らせる馬の後ろでは、マリーアンが心配そうな瞳を潤ませていた。

「いったん、街のはずれまで行きます。それから、街壁の守備をしている門番の詰め所にご案内しますので!」

 蹄の音で聞き取りづらいので、後ろに乗っている彼女にマイルズが大きな声で言った。それを聞いたマリーアンは何かを決意したように、顔にかかる髪を撫でつけながら言う。

「あの、すみませんが降ろしてくださいませんか?」

「ええ? なんですって?」

 はっきりと聞き取れなかったのか、それとも、彼女の台詞が信じられなかったのか、マイルズは聞き返した。マリーアンは、一生懸命に大きな声でもう一度言い直す。

「降ろしてください! わたくしは逃げるわけにはまいりません!」

 今度は正確に耳に届いたが、マイルズにはやはりその言葉が理解できなかった。

「ちょ、困りますよ! あなたを避難させろと命令を受けてます。それに、残ってなにをなさるおつもりですか!?」

 マイルズが困惑しながらきくと、マリーアンは即座に答える。

「サイアス様に、この事を御知らせしなければ!」

 名前を聞いたとき、マイルズは昨日 訓練を見に来たあの男であるとすぐにわかった。

 彼ならば何とかしてくれる。そんな確信めいた想いがマリーアンにはあった。

「それなら、自分があなたを詰め所に送り届けたあとで探しに行きますよ! だいいち、あの方の居場所はわかっているんですか!?」

「いえ。でも、時間がないんじゃありませんか」

 確かに彼女の言う通りだった、だが命令を受けたものとして、また警護という使命を担うものとして、彼女の言葉をそのままは受け入れられない。

「無茶ですよ! それよりもいまは、あなたの安全を確保する事の方が大事です!」

 彼の立場なら当然の事だ。それはマリーアンにもわかっていた。しかし、自分が次の『行動』をとるまえに、マイルズにその意志があるかを確認したかったのである。

 疾走する馬の背から、マリーアンは地面を見下ろした。石畳の継ぎ目が、視界の中で溶けて不可思議な縞模様を作り出している。

 これから自分がやろうとしている事に、恐怖をおぼえて唾を飲み込んだ。ゆっくりと、それは華奢な彼女の喉を下って鳩尾のあたりでつかえる。

  自分を避難させようとしているマイルズを気遣って、マリーアンは一言囁いた。

「ごめんなさい」

「え?」

 異変を感じたマイルズが、背後のマリーアンを振り向く。

 それと同時に、彼女は思い切って馬から飛び降りた。宙を舞う風の抵抗、徐々に引力に吸い寄せられ近づく地面。衝撃への恐怖に、彼女は堪らず眼を閉じる。

 着地の瞬間、彼女の足は一瞬 地面を捕えたが、その直後 慣性の力に背中を押され、前のめりに倒れこんだ。反射的に両手を出して頭部を庇うが、彼女の身体は硬い石畳の上を二度、三度と弾かれたあと、地を滑りながらようやく止まる。

 彼女の絹のような柔肌はごつごつとした地面によって傷つけられ、その掌には無数の血の筋が浮かび上がった。肘や膝も同様に、纏った服も裾が裂け、砂埃の染みがつく。

 全身に刺すような痛みを覚えつつも、マリーアンは自分の右肩を抱くようにして堪えながら、よろめき立ち上がった。マイルズは数メートル走った時点で慌てて馬を止め、彼女のほうに向きを変えて引き返そうとするが、それを阻んだのはマリーアンの声。

「来ないでください! わたくしはサイアス様を探しに参ります。どうか、あなたも手分けしてあの方をお探し下さい!」

 マイルズは戸惑った。彼女の言葉通りに動くことは、隊長であるエスメライトの命に背くことになる。しかしこの非常事態にあって、サイアス・クーガーに助力を頼むのは、事態の解決という意味で賢い選択かもしれない。

 マイルズの脳裏には、自分が法王庁舎で見た光景が蘇った。

 宵闇の中に潜む人影と、地面から立ち上る紫色の光。王宮警護体はその光のなかから産み出される異形の生物との戦闘に突入し、圧倒されたのだ。人知を遥かに越えた力を目の前に、副長のスタービー・イェンデは防衛線を展開。歳が若く、実戦経験の少ないマイルズが隊長サッシュ・エスメライトへの報告を命ぜられたのだ。

 あの、人ならざる力を目の当たりにしたマイルズは、サッシュへの信頼はありつつも彼ひとりの力が加わったところで事態が好転するか、という懸念も感じざるを得ない。

 青年の頭の中で責任と感情が入り交じり、答えを導きだそうと駆け巡った。

「わかりました。でも、けっして無茶はしないでください!」

 彼の口から出た返答は彼自身の決意をも伴って力強く感じられた。マリーアンは大きく礼をして向きを変えて道を駆けてゆく。マイルズも街壁の守備隊から人手を集めるために、マリーアンとは正反対の方向へと馬を走らせた。

 こうして、王宮警護隊員一名、街壁守備隊員八名、民間人一名による捜索がなされた。サイアスが立ち去った直後に、塩の花亭にマイルズが駆け込み、集まっていた御者のひとり、エゾニアクがサイアスと接触を果たしたのは、およそ半刻後のことである。

  マリーアンとマイルズがサイアスの捜索を始めた頃、サッシュは法王庁舎へと辿りつき、現場の指揮をとる副長スタービーと合流していた。幾層にも展開されていた防衛線は、すでに半分以上が突破されており、あとには大量の負傷者が残されていた。

 後退を続ける王宮警護隊は、宮殿の西側通路まで追い込まれ、サッシュが駆けつけたときには兵員は半数まで落ち込んでいたのだ。

 スタービーは指揮をサッシュに委ね、それまでの経過を説明した後で付け加える。

「隊長、敵はどうやら礼拝堂が狙いのようです。他の区画には目もくれずに、最短距離でこちらへ向かってきています」

 十才以上も歳の離れた男の話しを聞き、サッシュは頷いた。相手の力が相当なものであることは予想していたが、真正面から来るのは自信の現れか、それともべつの意図があるのか。それにしても様々な金品が納められている宝物庫や、法術の指南書が保管されている魔法書庫ならいざしらず、聖騎士達の礼拝用に残されているだけの礼拝堂にいったい何があるというのか。これなら病院である大聖堂の方が、まだ何かありそうだ。

 実の疑問はさておき、サッシュはスタービーに確認しておきたいことがあった。

「俺のところへ使いをよこしたのはいいが、サイアスやギュスターには出したのか?」

 サッシュの思惑とは裏腹に、スタービーの返答は意外なものだった。

「出しておりません。これは我々 王宮警護隊が処理すべき問題です。ですから私の責任で、議員や部外者に助力を求めるべきではないと判断しました」

 呆れた。見当違いな王宮警護隊の名誉のためとも取れるその発言は、現状の深刻さを理解していないように思えてならなかった。さらに言うのなら、隊長のサッシュが加わることで、はたして事態が好転するのか、相手に打ち勝つ決定打になり得るのか、ということまで熟考した上での判断であるとは到底思えない。

「スタービー、ひとつ教えてやる。勝つだけの力を持たないヤツが吐く意地や見栄など、戯言に過ぎない。何も出来ないやつに限って、明確に言葉にしたがらないものだ」

 言葉を使わなければ恥じはかかない。聞く側にも己の程度を知られずに済む。しかし、自分の能力の低さにも気付かず幻想を抱き続けるため、いざ急を要する事態に直面したとき、何の役にも立たない。

 当たり前だ。成長もせず自分をごまかし続けてきたのだから。

「貴様は、この状況を現に打開できていない。そんな貴様の口にする判断に、どれだけの意味が有るというのだ。そして判断が最悪の結果を招いたとき、貴様は責任をとれるのか? おまえの果たすべきは、この事態を解決するために手を尽くし、勝つために何をするかを考えることのはずだ。部外者、関係者、そんな隔ては果たすべき責任を自分が背負えるだけの器量があってこそ意味がある。それが出来ないなら、意地や見栄を張ったところで無駄に事態を悪化させるだけだ」

「……申し訳、ございません」

  スタービーは自分の愚かさを悟って謝罪を口にしたが、これで彼が王宮警護隊の幻想を捨てて謙虚になるかは疑問であった。

 いまサッシュが率いているのは、十年前に『法王庁の名誉』を背負って戦った一部の熟練者と、戦場を経験したことのない若造ばかり。十四歳にして幾つもの死線に直面してきたサッシュの眼には、あまりに頼りなく、現実を夢想している者達ばかりにみえる。

 苛立ちを感じながらも、これ以上それを口にしたところで始まらない。ため息を胸の内だけに留めたとき、ひとりの兵士から声があがった。

「来ました! ヤツです!」

 サッシュは顔を挙げた。通路の奥に広がる闇の中に、ぼんやりと漂う紫の光がひとつ。それは徐々に月明かりや松明の揺らめきの中で人型をまとい、男の姿を浮き彫りにする。

 兵士達に緊張が走ったのがわかった。空気が、変わる。

 男は水に溶かしたような薄紫色の髪を揺らしながら、落ち着きのある口調を響かせた。

「遅かったじゃないか。サッシュ・エスメライト君」

 名前を呼ばれたことには驚かなかった。自分は顔も名前も広く知られている。ただ男があまりに親しげに、優しく言葉を口にしたことに少し驚いた。

 男はその黄金の瞳でサッシュを見据え、微笑みながら続ける。

「君が来るまではと、我慢していた。気の毒だと思ってね」

 笑みが、醜悪な形へと変わっていく。サッシュはベルトに結わえた革鞭に手をかけた。

 一歩一歩と近づく男に、サッシュは強ばった笑みを返して言う。

「そいつはどうも。すると、あんたの狙いは俺達、王宮警護隊ってわけか?」

 男との距離が縮まるに連れて、たとえ難い威圧感が高まる。男の右眼が、濁るように色を変異させはじめた。それは紫色の光を帯びて、徐々に眼球内に満ちていく。

「それは少し違うな、エスメライト君。気の毒だと思ったのは君のほうだ。わけもわからぬまま部下を失ったのでは、やり切れまい」

 男の眼が完全に紫を宿した。その瞳が見開かれたとき、彼の周囲の地面に四本の光の円が現れる。それはまるで別の世界と通じる穴のように深くなり、やがて動物の呻き声のようなものが聞こえはじめた。それを耳にしたとき、スタービーは恐怖に表情を染めて退きながら、かれた声でサッシュに告げる。

「隊長! 来ますよ、ヤツらが!」

 言い終わった途端、彼らの前に光の穴から這いだすようにして、無数の人型のものが現れた。植物と鉱物が融合したようなその集団は、うめき、糸吊り人形のように弛緩したまま、見えざる力に操られるようにゆっくりと歩いてくる。

 サッシュの表情が鋭さをました。

「こいつは、なかなか素敵なお友達をお持ちで」

 一筋縄ではいかない。十年前に渡り合った魔導師を彷彿とさせる驚異の力だ。

 だが、臆することはない。自分はそれと戦うだけの力を持っている。

「いくぞ、援護しろ!!」

 飛び出しながら、サッシュは鞭を解き放つ。空気が震え、筋肉の尾が宙を裂いた。

 横一閃、人型は脆い音を立てて崩れ落ち、それを合図にするように彼の背後に詰めていた兵士たちが続く。恐怖心を押しのける雄叫びとともに、彼らは一斉に剣をかざして飛び掛かった。次から次へと産み出される人型は、打ち倒されてもすぐに立ち上がり、ゆるりとした動きではあるが、そこから振り降ろされる拳打は石の壁を割るほどの重さを持っている。

 サッシュは、人型の波を打ち、さばき、かき分けながら男の元へと走った。その周りでは、剣と盾とを使った兵士と人型との一進一退の攻防が展開している。

「おまえたち、この場は何とか食い止めろ。俺はこの妖術の本体を叩く!」

 そう言った彼の視線の先には、この怪異の元凶である男があった。

 男は目の前に広がる光景に笑みを浮かべ、サッシュの動きに注意を払いながら通路を廻りこむと、巨大な両開きの扉を押して中へ滑り込んだ。

 この礼拝堂へと続く扉の向こうへ消える直前、男はサッシュと視線を交わした。その眼は挑戦的であり、また誘うようでもあった。

 何を企んでいるかは知らないが、サッシュは男の挑戦を受けて礼拝堂へと急ぐ。数名の部下に援護されながら、彼は扉へと辿りつき、それを開いて中へと踏み込んだ。

 扉が閉まると、外の音は分厚い木製の飾り扉一枚に阻まれ、礼拝堂には静寂な空気が満ちているのがわかる。

 そして、サッシュの見据える先にある男は、丁度こちらを背にして祭壇のほうを向き、正面の飾り硝子に描かれた天地信教のシンボルである太陽と双振りの剣との絵を見上げて立っていた。サッシュの気配に気付くと、男は見上げたまま言う。

「あまつちの理を支配する者達の領域か。 面白いとは思わないかエスメライト君?」

 聞きながら、男は振り返ってサッシュを見据えた。

「火を操るも神、水を降らせるも神だ。だが、それを司る最高神は天にありて地になし。人は地にあるものを統べ、産み出す力を手にしているというのに、その領域は不可侵だと信じて疑わない者達もいる」

 天地信教のことを言っているのだ。大界神レスタスを最高神とし二十数の神からなるリンサイア国教の多神教。その教理を言っているのだ。

「人に侵される神の領域とは何だ? 火の神フィリス、水の神ウォーリェンを創りだしたとされる最高神レスタスに、火を操り水を降らせる力が無いのは何故だ。 万能でないものから、それを越える力を持つ神が生まれるものか? そしてレスタスが万能ならば、他の神々など必要ではないだろう」

 どういう意図があるのかサッシュにはわからなかった。男は自分の右眼を指差して言う。

「この『力』を手に入れて、わかったことがある。『神々』などいはしないのだ」

 言っているうちに、彼の右眼が光りを放つ。

「神々の標本を手に入れてなお、私は人だ」

 男の身体を、紫色のオーラが包み込んだ。サッシュは鞭の柄を握り締める。

「法王庁の転覆が狙いなら十年前に済んでる。今さら復讐もないだろう。何が目的だ?」

 男は笑っていた。その唇が冷たい響きをもった言葉を紡ぐ。

「なにも終わってはいないさ、エスメライト君。誰も真実を贖っていないんだから」

 終わっていないという言葉が、サッシュを戦慄させる。そして、真実を贖うとは。

「なら今度は何だ、天地神教を滅ぼすつもりか」

 天地神教の布教の陰で、異端として迫害されたもの達がいる。 それは歴史の証明するところであり、異邦人達の中にもそうした理由で法王庁に敵意を抱いたものがいた。

「多神教も一神教も真理を示さない。 だから私は古の秩序を築くのだ。この腐り落ちた地上に」

 言葉の意味を理解することは不可能だった。だが、その秩序を築くために、現行のものを破壊しようとしていることは、容易に察しがつく。

「悪いが、いまある秩序を護るのが俺の役目だ」

 言い放ち、サッシュは一躍して男に鞭を打ち込んだ。しかし、その鞭の尾は男を取り巻く紫のオーラに弾かれ、肉まで至らない。

「無駄だよ。『眼』の能力の前では、通常の武器は無力だ」

 嘲笑うように、男を取り巻く紫のオーラが勢いを増した。彼が右腕を持ち上げると、オーラはヘビのような形へと変化して腕に巻き付く。オーラが一点に集束したのを見たサッシュは、ベルトの金具に吊ってあるブーメランを手にとり全力で投げ放った。

 くの字の飛爪は弧を描いて宙を踊ったが、男の喉に届く一歩手前で、腕に巻き付いたヘビによって地に叩き落とされた。続けざまに、サッシュは間合いを詰めて鞭を振るう。

 鞭はうねりながら男に向かって伸びるが、男はまるでそれが我が身に届くことがないと思っているかのように微動だにしない。

 鞭は男の身体に幾重にも巻き付き完全に捕えかに見えたが、サッシュが次なる一撃を加えようとした瞬間 ばらりと音を立てて地に落ちた。

 何故だ。一打目を阻んだオーラは今は右腕にしかない。隙間のあいた部分を狙えば、捕えられると判断し、ブーメランを囮にしたのに、どうして巻き付いた鞭が外される。

 完全に標的を捕えたと思い込んでいたサッシュは驚き、状況判断が一瞬遅れた。男は右腕を振り上げると、サッシュに向かって突き出す。

 しまった。後ろへ飛び退くがすでに遅い。右腕から伸びたヘビは稲妻のごとき速さでサッシュの左腹部を突き、背中側へと抜けた。鋭利な刃で切り付けられたような焼ける痛みが彼の脳を刺し貫いた。

「ぐっ!」

 着地の反動が激痛を伴い、足がもつれたサッシュはそのまま倒れこんだ。

「言い忘れていたが、この『紫の霧』は武器だ。身を護るだけの盾ではない。もっとも、相手の攻撃を受け止めることなど造作もないがね」

 そう言って血に染まったヘビを引き戻した男は、腕をひと振りして纏わりついた血を払うと、脇腹を押さえながら何とか身を起こそうとするサッシュを見下ろす。

 サッシュが暗闇の中で眼を凝らすと、男を包む透明な空気の膜のようなものが見えた。彼の鞭を阻んだのは男が紫の霧と呼んだオーラではなく、この見えざる鎧だったのだ。サッシュは踏ん張って立ち上がり、痛みを堪えながら笑みを浮かべる。

「俺も、随分と鈍くなったぜ。こんな単純な手に引っ掛かるなんてよ」

 男の身体全体をオーラが包んでいたときに攻撃を仕掛け、それが弾かれたのを見て、あのオーラだけが防御手段だと思い込んだのである。これが甘さ、油断でなくて何だ。

「なかなか食えねぇな、あんた」

「辛そうにしながら良く喋る。さすがに、実戦仕込みは違うといったところかな?」

 男が笑って返した。確かにサッシュの脇腹からは、鮮やかな紅が滴り落ちていたが、それは致命傷には至らない。貫かれる刹那、身体をひねって臓を守ったのだ。

「……あんたも、その『眼』とやらを、よく使いこなしてるじゃないか」

 男は自分の身に宿った力の権化たる、右腕のオーラを見つめて答えた。

「それは違うよエスメライト君。私が自分自身を眼の力で守り、戦っているのではない。眼が、私を守るために力を使っているのだ。この身体を取り巻く結界も、人形を産み出す空間の穴も、すべては眼の防衛本能によるものさ。私はそれを利用してるだけのこと」

「防衛本能? そのわりには、随分と派手なことをしてくれるな」

 やはり眼だ。つまりこの男は、牙を持つアルフォンソではない。

 内心、冗談じゃないと思っていた。こんな力をもった輩が他にも居るというのだから。久々に感じる死の気配。まるで十年前に戻ったような、そんな感覚だ。

「お仲間も、派手に力を使うのが好きみてぇだしな」

 これは誘導だった。マルスという男を殺したのが、本当にアルフォンソだったのか。そもそも牙を持った男というのが、この眼を持つ男の能力を見誤ったものであるという可能性もゼロではないのである。男はサッシュの言葉の裏に隠された意図に気付いているようでありながら、首を振って何かに呆れたように息をついた。

「アルフォンソか。あの男には品性というものが無いのだ。大目にみてやってくれ」

 その口から平然と仲間の名前が出たことに、サッシュは驚きを隠せなかった。それと同時に、自分が懸念していたことが現実になったことを悟る。

「やっぱり、あんたは囮か」

  投げ掛けながら、彼の頭には別のことがあった。なにも終わっていないと言うのなら、十年前と同様、アシュカの身に危険が迫っているかもしれない。

「何故、そう思う。仲間がいるとわかってなお、襲撃が単独だからか。そのうえ大した意味も持たずに、無人の礼拝堂などに来ているからか?」

 聞き返された言葉は、ほぼサッシュの発想の道筋と合っていた。男は声を殺して笑う。

「くくっ。本当に鈍くなっているようだな、エスメライト君。意味すら持たぬ陽動など仕掛けるはずが無い」

「なら、この場所に何があると言うんだ!」

 サッシュが問い詰めるように声を荒げると、男は歯をむき出して言った。

「君だよ」

 その言葉に込められた巨大な何かを、サッシュは無意識に感じ取って寒気をおぼえる。

「きみ自身が私の目的だ。秩序の再建のためには、君の協力が必要だからな」

 通路で対峙したとき、男の言葉に優しさ込められていた理由がわかった気がした。

 男の『協力が必要だ』という言葉が一体何を示すのか、その真意まではわからない。だがそんなことは、いまのサッシュにはむしろどうでもよい事だった。自分に降り懸かる火の粉ならば、問題は無い。

 問題は、こうしているあいだにもアルフォンソや他の者達の魔の手がアシュカに伸びるかも知れないということだ。たとえこの男がアシュカや法王庁に恨みはないと宣ったところで、その言葉が真実である保証はないのだ。

「眼さんよ。こんなところまで、わざわざ俺目当てで来てもらって悪いが、俺はあんたに付き合ってやれるほど暇じゃあない」

 アシュカの不安げな顔が、サッシュの脳裏をよぎる。そして自分が口にした大丈夫さ、という言葉が改めて己の胸に突き刺さる。

 男はため息をつき、残念そうに眉を落とした。

「やはり、君は短絡的で浅い思考しか持っていないようだ。もはや君に選択の余地など、残されてはいないのだよ、エスメライト君」

「あんたが何を企んでいるとしても、好きにはさせねぇ!」

 睨みつけるサッシュの表情が先程とは明らかに変化している事に、男は気がついた。

 自信は感じられないが、身を賭して戦う者の顔をしている。

「ふっ。その無謀さを称して、いいことを教えよう。まもなく私の同志が合流する」

 同志、ということは複数だ。仲間がアルフォンソだけなら、わざわざ同志などという言い回しをする必要などない。それが神々の標本を所有する異能者かはわからないが、これ以上、敵勢力が集結すれば事態は火に油だ。

 待て、とサッシュは冷静さを維持しながら考える。 なぜここに合流する必要があるのか。自分がここに居るからだろうか。いや、もし自分が目的ならばアシュカ邸に乗り込んでくれば済んだ話しだ。 考えられるのは、自分をおびき出すために行動を起こした。だが、それだけなら派手に法王庁舎に乗り込まずとも、他にやりようはあったはずだ。

 やはり、この場所に来たことにも意味があるに違いない。

「ひとりで我々と戦うつもりか。外の若者たちは、せいぜいあの人形で手一杯だ。頼みのサイアス・クーガーは呑気に外出、ギュスタレイドも愛妻と高貴な客人の相手に夢中で、この状況に気付いてはいない。果たして、パーティーに間に合うかな?」

 男は淡々と語るが、その台詞はこちらの動きを全て把握していることを意味していた。 やはり、おびき出すだけが目的ではない。最終的な目的がやはり法王庁舎にあるのだと確認したサッシュは腰に結わえてある革袋の中から、携帯用の発火剤と油を取り出しながら言った。

「あんた、ちょっとばかり急ぎすぎたな。パーティーの招待状を出し忘れてるぜ」

 言い終わるより早く、サッシュの手の中では火が起こり、彼はそれを礼拝堂の天井から吊るされた、様々な刺繍が施された飾り幕に投げ付ける。

 ボッとくぐもった音を立て、薄い布地は勢いよく燃え上がった。サッシュは見上げた視線を男に戻しながら言う。

「サイアスやギュスターを招きたいなら、これぐらい派手な招待状を出さなきゃな」

 炎は布地を駆け昇り、木製の天井や梁へと燃え広がった。外側から見れば間違いなくこの建物は炎上している事だろう。

 濃い闇に包まれていた礼拝堂を炎が照らしだし、そこに立った紫の眼には、意外にも満足げな表情が浮かんでいる。

「護るべき宮殿に自ら火を放つか。顔に似合わず、思い切ったことをするな」

 だがサッシュは、まるで自分の行為が当然の選択であったかのように揺るがない。

「俺が護るのはこの国の人間だ。それを入れる箱に何の意味がある」

 当たり前だ。王宮警護隊は、ものを護るための組織ではないのだから。

 サッシュは鞭を握り、腰を落として身構える。このとき彼にはある直感があった。

「ならば、その護る力を見せてみろ!」

 男の腕に絡み付いていたヘビが、再び頭をもたげてサッシュに迫る。サッシュは大きく一歩踏み込んで、ヘビを鞭ですくい上げるように払った。それと同時に上着の内側に隠されていたダーツを、一直線に男の胸に投げつける。

「無駄だというのが、わからないのか」

 鳥の羽のついたそのダーツを、紫の眼はしっかりと捉えていた。高速で飛来するそれも、男の目にはゆっくりと見える。自分の身体に触れる瞬間、男の眼は一際 強く輝き、それに呼応するように男の身体を光の膜が包み込んだかと思うと、ダーツはかたい壁に阻まれたように金属音を立てて弾かれた。

 次の瞬間、男は目の前に迫ったサッシュの姿を見る。彼は拳を振り上げ、打撃を加えようと飛びかかったのだ。しかしこれも男は難なくかわし、サッシュの拳は空を切って身体ごと男の側面へと流された。男の目が、ゆっくりとサッシュの姿を追う。

 払われた紫のヘビが、体勢を崩したサッシュを背中側から貫こうと宙を走ったとき、男は自分を見据えるサッシュと眼が合った。一瞬、男は言いしれぬ違和感を覚える。

 何かおかしい。サッシュは自分の視線を引き付けるために、わざと拳を打ち込む振りをしたのではないか。その閃きが、男を正面に向き直らせた。そのとき男の視界に飛び込んで来たのは、眼前まで迫ったブーメランの形をした蒼白い幻影。

 それは、サッシュがさきほど投げつけたブーメランをリヴァイヴさせて、同じ軌道を描いて飛ばしたのである。

「これは!」

 男は背中を目一杯に反らしてブーメランの幻影を避けたが、その飛爪はわずかに頬を掠めて背後へと飛び去った。

「ちっ。 外したか」

 舌打ちして、サッシュは着地と同時に足首を返して男の背中側に立ち、背後からもう一度 拳を突き出すが、男は背を反らしたまま床を蹴って飛び上がり、空中で一回転して離れた場所へと着地した。

 再び間合いの外へと逃れた男は、静かに立ち上がってサッシュを見る。

 皮一枚を切られた頬からは、一筋の鮮血が流れ落ちていた。

「やはり、すばらしいな。その『能力』は」

 男の目には、目当てのものを見つけたような、満足げな笑みが溢れていた。

「それに私の『眼』能力を見極めたのは、さすがというべきだな」

 サッシュが攻撃に踏み切った要因である直感とは、さきほど男が口にした『眼』の防衛本能であった。『眼』がその意志によって男を守るというのなら、眼の能力範囲はつまり『視界』であり、眼の視界に入った物体や場所には防御能力を発揮するが、それ以外の所には必然的に隙が生まれるのではないかと考えた。男が『通常の武器は無力だ』などと言ってみせたのも、絶対に隙がないと思いこませるためなのだ。

 その読みは当たっていたが、サッシュの攻撃は有効打とはならなかった。

 千載一遇のチャンスをものにできなかったサッシュは、苦く眉を寄せて言う。

「誉められたものじゃないさ。現に、あんたをぶちのめすことも出来てない」

 男はヘビを右腕に帰還させて、頬を流れる血をそれで拭った。

「確かに君が今更どう足掻いたところで、何も変わりはしないな」

 サッシュは間合いを調節するように、じりじりと両足を着けたまま後退する。男もサッシュの奇襲に慎重になったのか、間合いを確かめるように静かに右へと歩を進めた。

「昼間の時点で、すでに勝敗は決しているのだよ。まず我々が斬り込み、君達は退いた。そしていまも、君はこの事態に対応したつもりになっているだろうが、実際は君の方が私に誘い出されているのだ」

「わからないな。どうして、そんな回りくどいことをする」

 相手との距離を慎重に測りながら、サッシュは故意に会話を引き延ばす。火を放ったからには、時間が制限されているのも事実だが、同じ手はもう通じないだろう。闇雲に打ち込んだところで、先ほどの二の舞になることは目に見えている。

 ここは機を見極めることこそ重要だ。

「君に逃げられては困るからさ。我々がこの国に来た目的は、さきほども少し話したが、ひとつは君との『接触』だ。そのために、邪魔なサイアスやドミニアスから君ひとりを引き離す必要があった」

 男はサッシュに調子を合わせて語った。本来なら言わなくともよいことだが、確かな敗北を植え付けることで、サッシュの戦意を削ごうというのだ。

「なるほど、俺はあっさりと引っかかったわけだ」

 自分では可能な限り事態に対応できていたつもりだったが、逆手に取られたと知る。

「そしてもうひとつは、法王庁が宝物庫に封印したものにある」

「やっぱり、お宝は目当てのひとつだったか」

 皮肉っぽく言って見せたが、悔しさが幾倍にもなって込み上げてきた。

 サッシュは悟った。男の言うとおり、すべての主導権は相手にあるのだと。

 マルスがアルフォンソの手にかかったと知らされ、サッシュは庁舎の警備を強化した。にも関わらず男は襲撃をかけ、そのことでサッシュはひとり現場へ急行し、今こうして足留めを余儀なくされている。この間に男の仲間は宝物庫の封印を破り、目的のものを難無く手に入れるだろう。

 もしマルスが殺さたと知らず、アルフォンソの訪都をこれほど意識していなかったとしたらどうだ。警備が普段通りであったなら、庁舎は奇襲的に攻撃を受け、同時に現場の未熟な指揮系統は混乱して、サッシュへの報告も遅れたはずだ。その場合使いが邸に来るのは、サイアスが戻ってからだった可能性もある。当然、アシュカは邸にいることになるのだから、身を案じて別の策を考えたかも知れない。

 そうなっていれば、サッシュが現場に直行することは出来ないのだから、この男との一対一という図式がこれほど都合よく創り出せたりはしなかっただろう。

 なんの意味があって自分との接触にこだわったかはわからないが、事前にある程度の対策を取り、事態に即座に反応させられた事が、かえって相手の思惑通りに躍らされる結果となったのだ。

 そう、こちらが対処してきたと思っていたことが、すべてさせられていたことだった。

「あんたが、どうして俺が夜警に出る前に庁舎を襲ったのか、理解できたよ。あんたはサイアスが怖いんだろう。神々の標本の力を持っていても、出来るだけあいつには来て貰いたくないわけだ」

 サッシュが現場に着ていれば、何よりもまず彼に使いを出したはずだ。

「計画通りにものを運ばせるために、邪魔に入られたくはなかったのでね。そろそろ、私の同志が宝物庫の封印を解き終わるだろう。我々は『鍵』を手に入れて退散だ」

「鍵だと?」

 宝物庫に収められているものは、一通り記憶しているが、鍵などあっただろうか。

 わからず聞き返したサッシュに、男は意外そうな顔をしてみせた。

「覚えていないのか? あの場所にある、隠された扉を開く鍵だ」

 あの場所。 サッシュの脳裏に、不快な予感を伴ってひとつの記憶が呼び起こされる。

「君は覚えているはずだ。十年前の『眠れる城』を」

 背を押すような男の言葉。予感が実感となってサッシュの心に広がった。

「思い出したようだな、エスメライト君」

 男の言葉に、サッシュは歯を食いしばった。忘れられるわけがない。

 眠れる城。それは十年前の忌まわしい過去の元凶であり、すべての始まりと終焉の地。

 アカデミーが神々の標本を研究するために建設した研究所のひとつであり、もっとも酷い人体実験を行った場所でもある。そして魔導師集団トゥエルヴとの決着の場所。

「あの場所には、『絶対なる秩序』が未だ種のまま眠っているのだよ」

 炎が一際 大きなうねりで男の薄笑いを照らし出しす。天井の飾り硝子がその熱で歪み、音を立てて砕け散った。硝子の星が降るその下で、サッシュは自分の中に残された能力の意味を知る。そしていま、顔知らぬ者の犯した過去の過ちが、今を生きる者たちの足跡に追いついたのだと悟った。



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