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リヴァイヴフリード  作者: 墨
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二章 夢の続き 後編

 訓練にいそしむ部下達の前で、王宮警護隊隊長サッシュ・エスメライトは、その様子を見守りながらも壁を背にしてぐったりとしていた。

 さきほど、ふらりと姿を現したサイアスに東方伝来の霊薬なるものを受け取った。見た目はおぞましいが、一口食べれば疲労回復と体調を整えるのに絶大な薬効を示すと言われて、信じたのがバカだった。

 そんな都合のいい薬がそうそう手にはいるはずもなければ、あのサイアスがそれを自分にくれるなど端からあり得ない話しなのだ。

 口にした瞬間、世界が歪んで見えた。 意識は混濁し、いまでも命があるのが不思議なくらいだ。大笑いするサイアスに掴みかかって白状させてみれば、それはあのギュスタレイド・フォン・ドミニアスの麗しき人である、ドミニアス夫人チェスカニーテの手による愛妻弁当だと言うではないか。

 そうだと知っていれば絶対に口にはしなかった。いや、匂いを嗅ぐことも、視界に入れることすら拒絶したはずだ。以前ギュスタレイドがクッキーを口にして寝込んだときに、街中の医者や薬草師をまわってあらゆる薬や治療法を試したが、彼を快復させることはできず、結局はチェスカニーテとギュスタレイド自身が法術で治療したという話しを後になって聞いていたから。

 しかし、不覚にも自分はそれを口にしてしまった。すぐに吐き出したので大事には至らなかったが、かなりきわどい橋を渡ったことだけは確かだ。その結果いまこうして、隊長としてその場にいる、ということ以外の職務を果たすことのできない状況にある。今日はこれといって特別な任務もなく、訓練の監督役を言いつけられているだけだから良いようなものの、なにかあればただでは済まなかったはずだ。

 まったく、後先を考えずに他人を巻き込むのはいい加減やめてもらいたい。

「あれでもし、俺がぶっ飛んだらどうするつもりだったんだよ」

 ため息まじりに呟くが、おそらくサイアスは腹を抱えて笑い転げたに違いない。

 サイアスに口直しだと渡された飴玉が、呟いたサッシュの口の中で静かに溶けていく。

 あの悪戯のあとでマルスが死んだことを聞かされた。今夜から夜警に参加することやアシュカがギュスタレイドの邸にかくまわれることなどもすべてだ。

 そんな大事な時期に、戦力と見られて相応しい自分に毒を盛るとは、サイアスが考えていることは理解できない。

 誰かが近づいてくる気配を感じた。顔を上げてみると、ジュオンが立っている。

「隊長、体の調子がよろしくないのでしたら、屋内で休まれたらいかかですか?」

 息を弾ませてジュオンがサッシュに言った。今まで走り込みをしていた彼の肌には玉の汗が浮かんでおり、その引き締まった筋肉を見て、サッシュは昨日、サイアスに言った言葉を思い出す。

『あいつら、いくら教えても必死さが足りないんだよ。ちっとも上達しない』

 そんな酷評した部下に気遣われている自分が情けなくなって、サッシュは見えないように俯いて苦笑いした。

「ジュオン、俺の心配をするような暇があるのなら、もっと必死に訓練して強くなれ。今のままじゃ、おまえを助けてくれたサイアスに笑われるぞ」

 サッシュの部下に対する言葉は、おそらく自身にも向けられていたはずだ。

「そう言えば、サイアス様は先程までおられましたよね?」

 ジュオンが額の汗を拭いながら、辺りを見回して言った。サッシュは、いいから早く訓練にもどれ、とうるさそうにジュオンを追い払うと、肩越しに宮殿の方を見る。

 訓練の視察という名目でアシュカは宮殿のバルコニーからこの場所を見下ろしているはずだ。そしてサイアスも、アシュカに事態を告げるためにそこへと向かった。

 サッシュは自分の体調のことなど忘れ、真剣な面持ちでバルコニーを見上げる。

 彼女はそれを聞いてどういう表情をするだろう。そして、はじめに何を言うだろう。

 できるなら、アルフォンソの牙がアシュカに向くことだけは無いようにと祈りたい。彼女は、いままで沢山の痛みに耐えてきた。たとえそれが歴史的な史実であるとしても、ひとりの女性が背負い込むにはあまりに苛酷な運命と因果を、法王家に生まれついたというただそれだけの理由で被されてきたのだ。

 これ以上は残酷すぎる。 それこそ命を賭してでも彼女を支えていく覚悟はあるが、生きていくうえで彼女が今以上に過去に縛られるのは正直見るにたえない。

「頼むぜ」

 誰に頼むのか。サッシュの口から吐き出された言葉は、ゆらり天へと昇っていく。

 そして心の片隅ではもうひとつ、べつの不安が顔を覗かせていた。アシュカを急病と偽ってギュスタレイドの邸へ隠すのだと言っていたが、まさかサイアスは、あの弁当をアシュカに食べさせるつもりではなかろうか、という不安が。

 下ではサッシュがそんな思いをしているとはつゆ知らず、バルコニーに置かれた椅子に腰掛けたまま、アシュカは午後の風を浴びて景色を眺めていた。視察は名目、はじめから彼女は訓練風景などに興味はない。

 先ほどサイアスがサッシュに何かを手渡して、それを口にした彼が大声で叫びながらもんどり打っていたときは、さすがに何事かと手すりから身を乗りだしたが、その後はこれと言って彼女の気を引くことは、何も起こらなかった。

 退屈だな、とアシュカが空に向かって息を吐き、魔法書庫でサッシュの言った言葉を胸の内に呼び起こしてみる。

『ただおまえを、自分の気持ちを信じていたから』

 サッシュにしてみればアシュカがほかの男に靡くなど、あり得ないと思っていたのだろう。そしてサッシュ自身の気持ちがほかに移ることも。 あのとき流した涙のせいか、まだ少し重たく感じる眼をこすってアシュカは明るく微笑んだ。

 信じてもらっている。空があり、陽が沈みまた昇る、それほど当たり前であるかのように、自分のこの想いはあの男の一部になっている。 それを改めて感じることができて、たまらなく嬉しかった。まだドレスを公衆の面前で着る気にはなれないが、たとえ自分が口にしたような事態が起こっても、サッシュは立場や身分を越えて自分を救い出してくれるに違いない。十年前に、そうやって宮殿から連れ出してくれたように。

 アシュカが暖かな想いを巡らせたとき、背後から気分を害する声が聞こえた。

「ったくよ。 なんだって宮殿ってなぁ、こうも判りづらい形してやがんだ」

 振り返ると、サイアスがバルコニーに踏み込みながら、背後に吐き捨てていた。

「攻め込まれたときに、敵の足を鈍らせる必要があるからな」

 できればもうちょっとだけ自分の世界に浸らせておいてほしかった、とアシュカは口を尖らせる。 だが、そんな彼女の気を知りもせず、サイアスはアシュカの向かい側の椅子に腰を落とし、目の前に置かれたテーブルにどかっと足を乗せてふんぞり返った。

「にしてもよ、なにもそこからここへ来るのに、こんな面倒をかけねぇでもいいだろう」

 そこ、というのはおそらく真下に広がる庭のことだろう。たしかにバルコニーのあるこの棟への入り口は、少し離れた位置にあるし、廊下も馴れない者には左右が同じように見えてしまって判りづらいはずだ。

 かつてこの宮殿に住み、宮殿とわずかな社交場だけが世界のすべてだったアシュカにしてみれば、まさしく自分の庭のようなものなのだが。

「ならそんな面倒までして何しに来た?」

 せっかくの気分を壊されて、アシュカはまだ不機嫌だった。

「哀れなメイドに頼まれて、じゃじゃ馬を連れ戻しに……」

 頭の後ろで手を組んだサイアスがそう言うと、アシュカの表情がみるまに変わった。まるで悪戯をみつかった子どものように、動揺の色がありありと。

「……てぇのは半分だ。ほんとの用事はもっとまじめさ」

 そう言ってやると、アシュカは胸に手を当て、ほっと息を付いた。母親のように平然と自分を叱りつけるマリーアンにこの姫君はいまだに頭が上がらないのである。

 サイアスはテーブルに乗せた足をおろして、今度は頬杖を付いてアシュカを見た。

「おまえ、今すぐぶっ倒れろ」

「は?」

 意味不明なサイアスの発言にアシュカは呆気にとらわれた。面倒くさがりなこの男は、時々こうして本題を省いて訳の分からないところから始めようとする。

「あのなぁ。いくらなんでも、理由も判らずにそんなバカげた真似ができるはずがないだろう?」

 頭痛に悩まされように、アシュカは自分の額に手を当てて俯いた。

 サイアスは、あ~あ、とつまらなさそうに言って、しぶしぶと事情を説明し始める。マルスの死から、ギュスタレイドと話し合った内容まで順を追って説明していくことが、サイアスにはたまらなく苦痛だった。これで一時間もしない間に、おなじ話しを三人にしたことになる。しかし話しを聞かされているアシュカに言わせるなら、そんな重要な話しを省こうというサイアスのほうが何を考えているのかわからない。

すべてを話し終えたとき、アシュカの表情はことの重大さに引き締まっていた。

「やはり、悠長なことを言ってはいられない状況だったと言うことだな」

 アシュカが自分自身に言い聞かせるように呟いた。見ればサイアスはどうということのない顔で耳の穴をほじっている。相変わらず、表情からは何を考えているのか読みとることの難しい男だ。

「だがまあ、おまえさんがここで慌ててもしょうがねぇし、騒いだところで来ちまったもんはいまさら遅せぇしな」

 フッと指の先に付いた垢を吹き飛ばしながら、サイアスが軽々と言った。事態がどれほど深刻であろうと彼は『その事実』に惑うことはない男だ。 事実をありのままに理解して、どうにもならない結果の先を常に考える。

 いまもサイアスには、ただ当たり前のことが目の前にあるだけという感覚なのだ。

「わたしのことはわかったが、マリーアンはどうなる。今の話しだとあの邸は決して安全じゃあないってことになるんだが」

 事情が呑み込めたところで、アシュカは肉親のように思っている女性のことを口にした。話しの流れを聞くかぎりでは、マリーアンは邸に取り残され、宮殿の警護や見回りを済ませたサッシュとサイアスが交代で邸に戻る、ということになるのだが、それでもサイアスはいいとして宮仕えの身であるサッシュは交代中に急に呼び出されることもあるだろうし、病気で床にふせていることになっているアシュカと違い、マリーアンまで邸に籠もりっきりというわけにもいかない。結局は、誰かが常に傍にいてやれるというわけではないのだ。

 サイアスにもアシュカの言い分は十分にわかっていた。ただ今は首を振る。

「全部がぜんぶってわけにはいかねぇのさ。まあ、あいつのことは心配するな」

 するなと言うほうが無理なのもわかっていたが、アシュカが気に病んだところでどうすることもできないのが事実だ。あとは一刻も早くこの件を解決する以外に方法はない。

「とりあえず、今からはどうしたらいい?」

 アシュカが訊くと、サイアスは椅子から立ち上がりながら答える。

「ひとまず邸に戻って荷造りだな。いつまでかはわからんが、ギュスターのところに行くのは早いほうがいい」

 つられて立ち上がりながらも、アシュカはすこし気が重かった。マリーアンに黙って抜け出しておいて、帰ったらお忍びで余所の邸に行くから荷造りだとは、なんとタイミングの悪いことだろう。

「おら、ぼさっとしてねぇで、さっさと行くぜ?」

 歩き出そうとしないアシュカを促すように言いながら、サイアスはその表情から彼女の考えていそうなことを読み取って、溜息を吐いた。

「あの女には、俺から言ってやるからよ」

「なに? マリーアンのことなんて、わたし全然」

 アシュカはそう言って、大股で歩き始める。 動揺が隠しきれないその背中を追って、サイアスは笑いを堪えるのに必死だった。

―――――――― こいつぁ、帰ってからが楽しみだな。

 そんな不謹慎なことをついつい考えてしまう。気の毒だが、人の不幸は何とやらだ。



 サイアスはアシュカを連れて邸へと戻ってきた。

 ノブを握った手が強ばっていることを感じながら、アシュカは玄関の扉を引いた。

 そっと開いた隙間から、中の様子を伺う。静まり返ったホールがあるだけだ。

「よし。鬼の居ぬまに……」

 そう呟いてつま先で忍び足を踏みながら二、三歩進んだとき、アシュカの右側から聞き慣れた女性の声が波を打った。

「あら、この邸に鬼などおりませんよ?」

 びくっとアシュカの肩が跳ね、全身に緊張が走った。 こじ開けるようにしてようやく彼女は首を右へと回す。

 そこには腕組みをして壁際に立つ笑顔のマリーアン。にこやかなその笑顔が今は怖さに拍車をかけていた。アシュカは何とか自分も笑顔をつくって言葉を吐き出す。

「マ、マリーアン。あなたひょっとして……」

 ずっと待ち伏せしていたのか、と訊きたかったのだが、マリーアンは言い終わらないうちにアシュカの方へと進み出ながら答える。

「まさか。 ちょうど洗濯物を片づけているところへ、馬車が来るのが見えましたもので」

 彼女の優しい笑顔と暖かな口調が怖い。どうしようもなく怖い。

「あ、ああそうなの。じゃ、わたしちょっと用事があるから」

 その場を軽く流そうと、アシュカは片手を上げて階段へと去ろうとする。

「アシュカ様、仰られることはそれだけですか?」

 明るかったマリーアンの口調が、曇るように低くなった。

「な、なな何かあるかしら。えぇっとぉ」

 わざとらしく人差し指を口元に当て、考える仕草をしながらアシュカが視線を泳がすと、マリーアンの表情はそれまでとは一変して、悲しげなものとなった。

「わたくしが、どれほど心配したと思ってらっしゃるんですか!」

 唇がかすかに震えているように見えた。言葉の節にも、掠れるような音が混じる。

「そんな、べつに心配されるような事は何も。そりゃあ黙って出ていったのは悪かったと思っているけど」

 なんだか泣き出しそうな雰囲気を放つマリーアンに、アシュカの言い訳は苦しかった。

「アシュカ様!」

 マリーアンが叱咤するように一声を放つと、今度はアシュカの方がしゅんと肩を落として俯いてしまう。そして上目遣いにマリーアンを見ながら言った。

「ごめんなさい」

 確かに自分の立場を無視したあまりに無責任な行動だった。そのせいでサッシュやサイアスにまで少なからず迷惑をかけたことも事実なのである。

 マリーアンは唇をきつく結んで俯いているアシュカに、今度はふっと息を吐いて、ひときわ優しい瞳を向けて言った。

「わかればいいんです」

 やわらかな言葉がアシュカを少し安心させる。だが、それに水を差すような声が。

「あ? なんだもう終わりか」

 玄関口でこのやり取りを見ていたサイアスだった。

「もうすこしビシッと言ってやれよなぁ。世の中をなめてる不良娘にゃ、良い薬だぜ。それに俺が連れ戻さなかったら、こいつあのままサッシュのやつと、どこで何してたかわかったもんじゃねぇ」

 いやらしく言って、サイアスはアシュカの髪をくしゃくしゃに撫で回した。

「ちょっとサイアス! 話しを混ぜっ返さないでよ、もうっ」

 逆立った髪を撫でつけながらアシュカが声をあげる。それを見ていたマリーアンも、かばうようにアシュカをサイアスの手から引き離した。

「いいんです。 それにサイアス様のおっしゃりようは、デキカシーが無さすぎます」

 そう言ってぷいとそっぽを向くマリーアンに、サイアスはチッと舌打ちして言う。

「あいにくと、でりかしぃなんて喰えねぇ代物は、持ちあるかねぇことにしてるんでな」

 サイアスが笑いまじりに言うと、マリーアンはおやおやと苦笑して彼を見た。

「そういうふうになんでも素直に受け止めないのは、お悪い癖ですよ?」

 彼女のそれは、聞き分けのない子を諭す母親の表情にも似て。

 うるさそうにサイアスは、耳の後ろを小指で掻きながら言った。

「小言のおおい女だぜ。まぁ三十路てまえで男もいなきゃ、それもしょうがねぇか」

 あえてマリーアンをおふくろ呼ばわりしなかっただけ、彼にしてみればデリカシーのある言い方だったといえるだろう。しかし、無数のタブーが散りばめられたこの台詞は、見事なまでにマリーアンの逆鱗に触れた。他ならぬサイアスに言われたのだ。 彼の性格を十分に理解しているつもりでも、冗談と聞き流せないこともある。

 マリーアンは両手を腰に当て、目を伏せて引きつった口元を何とか笑わせて言う。

「サイアス様。いま何とおっしゃいました?」

 やば、とアシュカが声にならずに言った。何とかフォローしようとするがもう遅い。

「確かに、わたくしは二十代の後半ですとも。ええそれは認めましょう。ですがわたくしはこの仕事に誇りを持っています。掃除、炊事、洗濯に追われながら、家計をやりくりし、アシュカ様の先のご予定を管理するという毎日に充実しております。それがわたくしが選んだ生き方ですし、自分で言うのはいささか気が引けますが、人様に恥じるような働きをしてきたつもりもございません。それを世間の卑しい風習に準えて、女性を年齢や、まして殿方との交際のあるなしで判断なさるなど、なんと低俗でいやらしい価値基準でしょう! ああ、嘆かわしいですわ!!」

 一気にまくし立て、マリーアンは激しく首を振った後、アシュカの手を強引に引いた。

「アシュカ様、このような方は放っておいて、ドレスの仮縫いに取りかかりましょう!」

 つんと尖ったまま、マリーアンは痛いほどにアシュカの手を握りしめて大股で歩き始める。半ば引きずられるようになりながらアシュカはハッと我に返った。

「マリーアン、ちょっと、わたしは今それどころじゃ……」

 そうだ。来月の式典などに構っていられる状態ではない。今すぐ荷造りしてこの邸を出なければならない事情というものがすでにあるのだ。

 だが、マリーアンはそんなアシュカの言葉など耳にも入っていない様子で、口を少し尖らせて、口の中でぶつぶつと不機嫌そうに言っている。

「なによぉ。なによ、なによなによ…!」

 誰に対する憤りなのかは言われずともわかるが、彼女の心をここまでかき乱すとは、サイアスの無神経さにはただ呆れるばかりだ。もっとも、心を乱すための最後の材料はマリーアン自身が懐く想いに他ならないのだが。

「ねぇ! わたしはドレスどころじゃないんだってば」

 アシュカは自分の手首を掴むマリーアンの袖を、空いたほうの手で引っ張った。彼女が大きな声で言ったので、我に返ったマリーアンはアシュカの方に向き直る。

「まだそんなことをおっしゃって。今日はわざわざ職人の方にも来ていただいているのですよ? さあ、はやく奥の間へ参りましょう」

 そう言ってマリーアンは再びアシュカの腕を引いた。アシュカはその手を振りほどくようにして言葉を返す。

「そんなの知らないわよ! とにかく、その職人のひとには帰ってもらって。本当に、いまはそれどころじゃないんだから!」

 駄々っ子のような物言いになったが、どう説明して良いのかわからないアシュカにはこれでも精一杯なのであった。彼女がすべてを言い終わると同時に、廊下の奥から軽い調子で声が投げかけられる。

「久しぶりに会いに来たのに帰れなんて、ひどいなアシュカ姉ぇ」

 この声には聞き覚えがあった。マリーアンの背の向こうに立つその人物を、アシュカは身を傾けて覗き見た。中背で年のころ十七、八といった青年がそこに立っている。

「タシオ! それじゃあドレス職人っていうのは……」

 アシュカが青年の名前を呼んだ。十年前の旅で、サッシュが助けた人間の一人である。

 田舎で姉のマリアと二人暮らしだったタシオ・イルモアは、自分たちを助けてくれたサッシュとアシュカを兄、姉とよんで慕い、事実その関係は十年前から変わることなく続いている。

 タシオは実姉が結婚して村を出たあと、少年の頃よりの夢であった飾服職人を目指して王都へのぼり、すぐに街の工房に弟子入りした。彼のセンスが生みだす独自の飾服は、いまや王都の若き令嬢たちの間ではちょっとした話題となっている。

「ようやくサッシュぃから、ドレスの注文があったんだから、きっちりやらせてよ」

 タシオは額に巻かれたバンダナにかかった前髪を、かき上げながら言った。

 ちなみに姉マリアの婚礼衣装はもちろん、ギュスタレイド夫妻のそれも彼の作だ。

 つぎはサッシュとアシュカの衣装を、と思っていたが、さすがにそれは叶わなかった。

「今回のドレスって、タシオのところでやるんだったのか」

 アシュカが少し驚いたように言う。いつもは議会が勝手に決めてしまっているので、どの工房でつくられたものかなんて大して考えたことがなかった。

「そう、たしか先月だったかな。サッシュ兄ぃが工房に来てさ。アシュカ姉ぇが式典で着るドレスをって頼まれたんだ」

 それを聞いたアシュカの胸に、疑問の薄雲が立ちこめた。どうしてサッシュはそんなことを、というその薄雲に切れ間を求めて、彼女はタシオの顔をじっと見つめる。

 アシュカの気持ちを察してか、タシオは少し視線をずらしながら言った。

「サッシュ兄ぃが言ってたよ。『さすがに今回ばかりはあいつも、嫌でもドレスを着なきゃいけないだろうから、せめて一番信用できるやつにつくらせたい』ってさ」

 とくんっ、と小さく胸が躍った。アシュカはやわらかな気持ちと熱に包まれる。

「サッシュが、そんなことを」

 俯いて呟くように言うアシュカに、意外そうな顔でタシオが続けた。

「あれ、アシュカ姉ぇ知らなかった? サッシュ兄ぃはいつもドレスが必要になると、議会に掛け合って自分で職人を探してたんだよ。ようやく満足な予算がついたんで、今回やっと僕の出番がきたってわけ」

 事実を知って、アシュカはどういう表情をして良いか迷った。サッシュは一度だってそんなことを口にはしなかったし、自分が駄々をこねて結局ドレスを着ずに終わることばかりが続いたというのに、それでも彼が真っ先に考えるのは、いつも彼女のこと。

「そう、だったんだ」

 自分たちが魔法書庫で交わした会話を思い出す。彼は、きっと言葉にしなかったことを悔いたのだろう。そして自分は、そんな彼の優しさに気付かなくなってしまっていた。不安であったことをサッシュを責める理由にしていたなら、それは同時に自分自身が彼を信じていなかったということにもなるのだ。

「アシュカ様、おわかりになったでしょう? サッシュ様のご厚意を無駄にしないためにも、ドレスの仮縫いに参りましょう!」

 なんとしても話しをそちらに転ばしたいマリーアンが、ぐいっとアシュカの腕を引く。だが、それは再びあの男によって遮られた。

「悪いが、それでもドレスなんぞに手間はとれねぇ」

 気が付けば、サイアスが三人の近くまで寄っていた。大柄な彼を見上げたタシオが、額に手を当てながら声をあげる。

「あっちゃぁ。この人が来てるって事は、なに? やっぱり血なまぐさいわけあり?」

 どうしてサイアスの顔を見る者が、そんな反応をするのかはこの際気にしないとして、サイアスはタシオの前に立って言った。

「どうだろうと同じだ。 今回は運がなかったと思って、あきらめな」

 低く唸るような彼の言葉に、タシオは真偽を確かめるようにアシュカに視線を送る。

「すまないが、そういうことなんだ」

 アシュカも詳しくは語ろうとしないのを見て、タシオは頭を掻いて首を振る。

「聞いちゃいけないわけがあるんじゃ、しょうがないか。でも、親方になんて言おう……」

 このままでは、わざわざ仕入れた最高級の布地がすべて無駄になってしまう。そんな不安を口にしたタシオの頭を、サイアスが上からぐっと押さえつけた。

「『サイアス・クーガーがいらんと言っている』とでもいっとけ」

「は、はい!」

 タシオはただ反射的に頷く。おそらくその一言で十分だと言うことも同時に理解した。

「でも、サイアスさんには責任とってもらいますよ」

「あぁ?」

 無邪気な顔で言ったタシオに、思いっきり怪訝そうな表情になるサイアス。しかし、そんなことは気にも留めず、タシオは人差し指を立てていった。

「だってそうでしょ? せっかくサッシュ兄ぃに借りを返すチャンスだったのに、それを潰されたわけだから」

 彼の言う借りとは、おそらく十年前の事だろう。タシオの村を治める貴族に結婚を無理強いされそうになっていた姉のマリアを、サッシュが助け出してくれたのだ。そして姉はめでたく思い合っていた男と結婚することができ、同時に自分も王都へ上る踏ん切りがついた。そのとき約束したのである。いつか最高の衣装を贈ると。

 サイアスはそうした経緯を知らないでは無かったが、言ってみれば自分には何の関係もないことだ。しかし、それを口にしたところで始まらないだろう。

「しょうがねぇな。それで、どうしろってんだ」

 面倒くさそうだが、サイアスが引き受ける姿勢を見せると、タシオは笑顔で言った。

「いつか、サイアスさんが結婚とかの祝い事で、礼服やドレスが必要になったときは、ぜんぶこのタシオ・イルモアに任せるってことで!」

 勝手な言い分だった。だいいちギュスタレイドの結婚式の時ですら、いつもどおりの薄汚れたコートとすり切れたズボンで参加した男に、この約束も無意味に思える。

 すこし考えるようなサイアスをマリーアンは見つめた。 結婚という言葉に、彼女は無意識にその男のほうを見てしまったのだ。何かを願うように胸の前で手を組む彼女の想いを余所に、サイアスはただの一瞥もマリーアンに向けることなく、呆れた表情でタシオに頷いて見せる。

「まあ、好きにしな……」

 それを聞いたタシオは喜びに表情を明るくさせたが、対照的にマリーアンは、人知れず組んでいた手を、力なく解いた。アシュカが注意していれば、彼女の溜息にも気付いたかも知れない。

「それじゃ、一応はサッシュ兄ぃにも言いに行かなきゃならないんで、今日はこれで」

 片手を上げてタシオが玄関へと歩き出す。マリーアンがそれに頭を下げた。

「ごめんなさいね、タシオさん。わざわざ来ていただいたのに」

 べつにマリーアンに謝られるようなことは何もないが、タシオは彼女の気持ちをくむように首を振って答える。

「なぁに、気にしにないでくださいよ。またお邪魔しますから」

 明るい声で告げて、タシオは玄関から開け放たれた午後の光の中へと駆けだした。

 残された三人はひとつ呼吸を置いて互いを見る。始めに口を開いたのはサイアスだ。

「おいアシュカ。おまえはさっさと荷造りを始めな」

「だ、だけど」

 そう言った彼女の視線は、おずおずとマリーアンに向けられていた。彼女には一応は事情を話しておくべきじゃないのか、と言いたげな表情だ。それに応えるかのように、マリーアンも腰に手を当てて、すこし怒ったような表情を見せる。

「そうですよ。いきなり居なくなったと思えばドレスは中止、おまけに荷造りをするだなんて、いったい何をなさるおつもりなんです!?」

 アシュカの世話係である彼女にすれば当然の疑問だ。だが、それを聞いたサイアスは口を歪めて溜息をつく。

「じゃあ訊くが、おまえさんはどこまで知ってる」

 その言葉の意味するところは、はたで聞いているアシュカにはわからなかったが、サイアスがじっとマリーアンの瞳を見返し、その視線を避けるように彼女が目を落としたことが答えだ。

「その、シェルサイドとか、神々のどうとかが、どうのということくらいは……」

 白状したマリーアンは思いっきり気まずそうだった。そう。サイアスにはとうに見当が付いていた。昨日の夕食のとき、オリヴィアの話しをするよりも以前から、扉の向こうで彼女が中に入る機会をうかがって、話しを聞いていただろうということは。

「なら、その話から考えられる範囲だけで納得しな」

 サイアスに言われてマリーアンは肩を落とした。 軽口でない彼の口調に、盗み聞きを責められている気がしてならなかったのである。

 マリーアンがいま口走ったことから推測するに、彼女は話の内容を一割も理解していないことは確かだ。だからといって、懇切丁寧に説明するつもりはサイアスにはない。

 いちいち理由を口にする男ではないが、アシュカにはサイアスの気持ちが分かる気がした。マリーアンが知っていれば彼女の身が危険になる。だからといって、アシュカを心配する彼女にすべてを隠して置くわけにもいかない。となれば、いささか気の毒ではあるにせよ、彼女にはこぼれ聞いた範囲だけで納得してもらわざるを得ないのだ。

「とりあえず、アシュカは原因不明の病で外出できねぇ状態になったことにしてある。けどまあ心配するな、実際はギュスターのところに行くだけだからよ」

 いつもの軽い調子でサイアスが言った。少しでもマリーアンの不安を取り除いてやりたいという気持ちがあってのことだろうか。

「あとのことは、まあそのときが来たらだな」

 そう言って、サイアスは言葉を仕舞った。そのときとは、いったいいつなのだろう。

 マリーアンにも、アシュカにも、それはわからなかった。

「それじゃあ、わたしは部屋に戻ってるから」

 アシュカがそう言って階段へ向かおうとすると、マリーアンが気を取り直してできるだけいつもどおりの口調で声をかけた。

「あ、お待ちください。洗濯物したものがございますので、なにか足りないものなどがございましたら、一度お声をかけてくださいね。それから何かお手伝いした方がよろしければ、すぐに参りますので」

 早口ではあったが、マリーアンの気持ちは十分にアシュカに伝わる。

「ありがとう。なにかあれば、すぐに呼ぶ」

 笑顔で頷くアシュカの背を見送り、マリーアンはサイアスの方を見た。

 ふと、先ほどタシオが口にした言葉が胸の奥で甦る。そして、そのときのサイアスの表情。あのとき彼は、どこか遠くを見ていた。いや、思い出していたのかも知れない。それが何であるかはわかっている。マリーアンの胸をちくりと痛める棘の正体は。

 彼女はわき上がる想いを深呼吸して振り払い、サイアスの背中側に廻ると、彼の身体を覆うコートの襟に手をかけた。

「ほらほら、ついでですからサイアス様のお召し物も、洗濯して差し上げます」

 すこし叱るような物言いになったのは、自分の気持ちを悟られまいとしてだろう。

「お、おい。こいつには俺の生活用品が」

 後襟からコートをおろされそうになり、サイアスは自分の横襟を掴んでそれを止めた。しかしマリーアンは丁寧に彼の手を解き、袖から腕を抜いてコートを取り上げる。

「ポケットの中の物は、すぐにお返しいたしますから。少し我慢なさってください」

「……しょうがねぇな」

 マリーアンは自分の身の丈ほどあるコートを、背伸びをしながら丁寧にたたんでいく。

「いくら愛用なさっているものでも、たまには手入れをしなくては、だめになってしまいますよ。ほら、ここにほつれが。それにこっちは破れてます」

 そう言って、マリーアンはコートの傷を指でさした。たしかにかなり痛んでいる。

「なんだってそうです。近くにあると忘れがちですけれど、たまには気をかけてあげなくては、知らないうちに傷ついてしまうものなんですよ」

 彼女が言葉を綴るにつれて、サイアスの心に一瞬オリヴィアの顔が浮かんで消えた。サイアスは黙ってマリーアンを見る。それに気付いた彼女は、少し寂しそうに微笑んだ。きっと彼女はサイアスの心に浮かんだ顔が別の誰かであってほしかったのだろう。

 畳み終えたコートを胸の前で抱えるようにすると、彼女は何か違和感を覚えた。

「あら? なにか……」

 何かが包まれているような、いやポケットに大きなものが入っているのか。

 マリーアンがコートの裾をめくって内ポケットに手を入れた。その手が掴んで取り出したものは、ベルポリが包まれていたクロス。いまは別のものが包まれている。

 包みを解くと、四角くて硬い感触のものが現れた。何かを入れる箱のようだ。

 マリーアンは、見覚えのない物体を見つめて首を傾げていたが、中身を確認してみようと、何気なくふたに手をかけた。

「手を離せ!」

 サイアスがその危険行為を制止しようと声をあげたが、すでに遅かった。バシュッという低い破裂音と共に、紫色のガスが吹き上がる。

「きゃっ」

 目の前で起きた状況を理解できずにマリーアンは悲鳴を上げ、反射的に箱から手を放してしまった。サイアスは宙を舞う弁当箱を何とかキャッチして、ほっと息をつく。

「な、なななんですの? その『妖しげな臓物』は!!」

 怯えた眼で退くマリーアンの手からふたを取り、サイアスはきっちりと弁当箱を封印しながら答える。

「こいつぁチェシーが作った弁当なんだとさ。昼にギュスターのヤツと交換したんだ」

「た、食べ物なんですか!?」

 マリーアンの動揺は頂点に達した。サイアスは苦笑いしながら彼女に言う。

「チェシーのヤツが触る前までは、な……」

 床に落ちているクロスを拾い上げ、サイアスは弁当箱を元のように包み直した。

「でも、サイアス様。わたくしの昼食をそんなものと交換なさるなんて、ひょっとして、わたくしの料理はお口に合いませんでした?」

 心配するように、マリーアンが訊いてきた。その言葉にはかなりの動揺が見られる。だがこれを目の当たりにすれば、そんなもの扱いしたくなるのも無理はない。

「いや。お前さんのベルポリは旨かったよ」

 サイアスは軽く首を振っていう。しかしマリーアンの胸に起こった靄は消え去ることはない。だったらどうして、交換なんてなさったのですか、という言葉は言えないまま。

 胸の前で手を握るマリーアンに、サイアスは包みを差し出して言う。

「悪ぃが、こいつをどうにか処分してくれねぇか。弁当箱だけは、アシュカに届けさせなきゃならねぇんでな」

 押しつけられるように受け取ったマリーアンの脳裏に、言葉にならぬ不安がよぎる。

 その気持ちを余所に、サイアスは顔に手を当てながら噛み殺すように笑った。

「くくっ。たまにとは言え、ギュスターのヤツも苦労するよなぁ。こんなもんを女房に渡されちまうんだからよ」

 不安がマリーアンの中で言葉になったとき、二階の通路からアシュカの声が降り注ぐ。

「マリーアン。悪いけど、ズボンの替えがもう少し必要なんだ」

 吹き抜けの二階から身を乗りだすアシュカに、マリーアンは泣きそうな表情を向ける。

「アシュカ様! ギュスタレイド様のところへは、わたくしも共に参ります!!」

 突然、何を言い出すかと思えば。アシュカは困惑した顔で言った。

「な、なに? いきなり何なのマリーアン」

 マリーアンは二階にいるアシュカに、手にした包みを掲げるように見せて言う。

「奥様のチェスカニーテ様の料理をごらんになられましたか!? これからしばらく、このようなものをアシュカ様が毎日我慢して召し上がらねばならぬかと考えると、わたくしは。わたくしは……!」

 感極まってマリーアンは、爆弾の包みを胸に抱いて涙ぐんだ。彼女の肩に背後からサイアスが手を置く。肩越しに振り返ると、すこし微笑むような彼の顔があった。

「お前さんの気持ちは分かるがな」

「サイアス様……」

 彼の優しさに感謝するように、マリーアンの口元が綻んだ。

「バカなこと言ってんじゃねぇよ。おまえさんがくっついてっちまったら、何のためにアシュカを仮病にすんのか、わからねぇじゃねえか」

「え?」

 呆気に捕らわれるマリーアン。がっかりとなんで、が同時にやってきた気分だ。

「それに考えてもみろよ。ギュスターのところで、毎晩チェシーの作った飯がでるわきけねえだろう? そんなことしてたら、命が幾つあっても足りやしねぇ」

 きょとんとするマリーアンに、サイアスはまだわからねぇか、とため息まじりに。

「ギュスターの野郎が作ってんだよ。普段はな」

「あの方、お料理を?」

 意外そうに聞き返すマリーアンに、サイアスはにやりと笑って答えた。

「知らなかったか? 結構うまいんだぜ」

 他人様の家の事情とは、ときに周囲の伺い知ることの出来ない正体を持っているものだが、おそらくこれもその一例だろう。ギュスタレイドを知る者の中でもよほど深く付き合いがある者でなければ、彼が料理上手であることなど想像もしまい。

 それを聞いていたアシュカが、外廊下の手すりに頬杖を付くようにして言う。

「へえ。それじゃあ、久しぶりに普段とは違う物が食べられそうだな」

 なんだかんだと言っても、やはり質素な生活を続けている彼女としては、経済的には間違いなく裕福であろうギュスタレイドの食卓に同席するのは楽しみであった。

 しかし、その下心を見抜くように、マリーアンが眉をつり上げて声をあげる。

「嬉しそうですわねアシュカ様。わたくしの料理は飽きたと、そう仰りたいのですか?」

 サイアスが上手いと評したことで、料理自慢の彼女にすれば愉快な気分ではないのだ。

 口元の引きつるマリーアンを見て、アシュカは慌てて両手と首を振った。

「そんなことないわよ。でも、なんだか楽しみじゃない。ギュスターの料理だなんて」

 言い訳めいた口調になるアシュカを見て、マリーアンも仕方なく納得したようだ。

「もう。 あまり余所で贅沢になれてしまうと、戻られてから辛く感じますよ」

 腰に手を当て、困ったような表情で言ったマリーアンの言葉は、お菓子を食べ過ぎると夕御飯が食べられなくなる、と注意する母親のようだった。

「では、すぐにズボンをお持ちいたしますので」

 そう言って、マリーアンはサイアスのコートを抱えて洗濯場へ足を向ける。その背中にサイアスが呼びかけた。

「その弁当の処分も頼んだぜ。間違っても味見しようなんて考えるんじゃねぇぞ」

 マリーアンが立ち止まり、少し振り返って口を尖らせる。

「裏庭に埋めるのも怖いので、中身は明日どこかで焼いてもらってきます」

 それだけ言うと、マリーアンは奥へと消えていった。冗談かとも思えたが、おそらく彼女は本気であの弁当を恐れているのだろう。確かに池の水を変色させるほどの毒素を含んでいるのだ。庭に埋めたりしたら、植わっている樹木が無事とは限らない。

 残されたアシュカとサイアスは互いの顔を見合わせ、肩をすくめて苦笑いを浮かべた。



 昼を四時間ほど廻った頃、サッシュとタシオの姿が法王庁舎の庭にあった。

 夜の警備に備えて、すこし早めに帰宅することにした彼が、帰り支度と終えて病院の前を通って門を出ようとしたとき、タシオと出くわしたのだ。

「まあ、今回は諦めてくれ」

 アシュカ邸であったことを聞かされたサッシュは、タシオに言った。両者にとって残念でならないことだが、それをとやかく言っても始まらない。

「でもさ親方になんて言おう。もう『イジェニア』から最上級の飾り布や色玉を仕入れちゃったんだよ」

 報酬は納品後に受け取る手はずになっている。議会に文句を言ったところで、どこからもその費用は出てきそうもない。

「いくらぐらい、かかったんだ?」

 ドレス用の材料などの相場がわからないサッシュは、タシオに訊いてみた。自分の手持ちから払えるなら、材料費ぐらい肩代わりしてもいいと思っている。

 タシオは黙って指を三本の立てて見せた。

「なんだ、三百万か。それくらいなら、俺にも払え無くはないぜ」

 そういって胸をなで下ろしたサッシュだったが、タシオは苦い顔で言い直す。

「同じ三百万でも『リオ』じゃないよ。ハイルヴァーンの『メムス』だからね?」

 げっ、とサッシュが唸った。

「さ、三百万メムスなんていったら、ものすげぇ金額だぜ? どこをどう突っついたら、ドレスの材料ごときでそんなに取られるんだよ!!」

 ハイルヴァーンの通貨であるメムスは、リンサイアのリオと貨幣価値にして二十倍の差がある。平均的労働者の月収が十四万リオであることからすれば、途方もない金額だ。

「親方も『名誉なことだから、採算なんか考えるんじゃねぇ』って乗り気だったんで、グエン高原の『クラージュエル』とか、ティアラ用に取り寄せたんだよ。だから……」

 クラージュエルと言えば、紫の月と呼ばれる最高級の宝石ではないか。

「改めてみると、上流階級のたしなみってヤツは、ものすげぇ無駄遣いだよな」

 スラム出身のサッシュは、久々にその現実に直面して肩を落とした。いずれにしても、サッシュにはとても払えるような金額ではなかった。

「サイアスに払わせるのがベストだな。もとはと言えば、あいつが戻ってきたことが始まりなんだし」

 腕組みをして、サッシュはひとりで頷いた。どこをどうすれば、そういう考えに至るのかは謎だったが、タシオもそれに乗っかることにする。

「だよね? サッシュ兄ぃからもいってくれよ」

 よしきた、と即答できない自分が情けない。言ったところで、いまのサイアスにそれだけの大金があるはずがないし、ヤフィア領の財庫から引き出させるのも違う。

「まあ、何とかなるか……ははは」

 曖昧に返事をして、サッシュは笑って誤魔化した。それを見抜いて、タシオが言う。

「ものすっごく不安なんだけど」

「な、何言ってんだよ。でも、いまはそんな場合じゃねぇってのもあるけどさ」

 そうだ。実際、ドレスの代金などに構っている場合ではないのである。

「俺、ちょっと急がなきゃならないんで、この話はまた今度な」

 そういって立ち上がったサッシュを捕まえるように、タシオが手を伸ばした。

「待ってよ! こっちは生活がかかってるんだから!!」

 背中を引っ張られて、サッシュは仰け反って立ち止まった。なぜサイアスをその勢いで説得しなかったんだ、と言いたい。

「なら、他の貴族に売り込むってのはどうだ? おまえ結構 人気あるんしよ」

 安直な意見だが、できるならそうしてしまいたいのも事実だ。

「だけど、三百万メムスの上がりなんて、自信ないよ」

 一着のドレスで回収できる金額ではないし、単価が上がれば買い手もつかないだろう。取り寄せた材料をうまく使って、何着のドレスを仕立てられるかが勝負なのだ。

 肩を落としたタシオの眼に、サッシュのベルトに結びつけられた革袋が止まった。

「それ、もしかして僕が造った……」

 十年前に助けられたとき、お礼にと渡した自作の革袋である。汚れや表面の傷が眼に付くが、それでもその役割だけは果たしているようだ。

 サッシュが、ぽんっと革袋を叩いて言う。

「おう、いまだにこいつは頼りになる。おまえの造ってくれたもののなかでも、気合が入ってるからだろうな」

 そして自信を無くしかけたタシオの両肩を、がしっと掴んだ。

「要するにそいつが本物なら、評価は自然と付いてくるんだろ」

 やることが最も大事。その気持ちがなによりも必要。

 サイアスが聞いたら、青臭いとバカにされるかも知れないが、今はそれが一番であるように思えた。タシオにもサッシュが言おうとしている事がわかった。

「サッシュ兄ぃにうまく誤魔化された、とは言わないよ。やるだけやってみる」

 鼻の下をこすって、タシオが言った。サッシュもその顔を見て頷く。

「そうさ。まあ、あとはこっちの事情が解決してから、また話そう」

 タシオが手を離した。サッシュは手を振りながら、門を出てゆく。これから馬車に乗って帰るのだろう。なぜだかその背中が、十年前に別れたときに重なって見えた。

「またな。サッシュ兄ぃ」

 手を振りながら呟いてみるが、言葉に出来ない違和感があった。



 日が傾き始めたころ、アシュカの荷造りはようやく終わりをみた。

 あれから、小物があれこれと不足したり、マリーアンが使い古しを持っていくことを許さなかったりと、面倒な事態が連続し、慌ただしい時間が流れた。

 ひとりすることもなく、食堂で紅茶を啜っていたサイアスからすれば、たかだか外泊するのに、どうしてそんなに物が必要なのか理解できなかった。だが、それはあくまで年中おなじような服装で過ごしている人間だから、思うことなのだろう。

 一段落して、アシュカとマリーアンもやや疲労した表情でテーブルについている。部屋の入り口には、どうみても多すぎる鞄の山が出来ていた。

「あとは、サッシュが帰ってくるのを待つだけだな」

 やれやれと息をついて、アシュカが紅茶に口を付ける。彼女はローブを上から下まで被り、一見すると間違いなく男に見えた。

 アシュカが帰りを待っている彼は、この場合は護衛役だ。ギュスタレイドの邸につくまでにアシュカが襲われないとも限らないし、馬車を手配して御者に口止めをするより、サッシュが馬でアシュカを連れていった方が確実だ。その間に邸をマリーアンひとりにするのも心配なので、サイアスが残ることになっている。

 サイアスは鞄の山と気楽そうに茶を飲むアシュカとを見比べ、荷物持ちをさせられるサッシュの姿を想像した。二人の力関係を的確に表しているように思える。

「俺じゃなくてよかったぜ」

 正直な言葉が胸の奥から出た。しかしサイアスの隣には、できるなら彼が行ってくれればと思ってしまっている女性が座っている。マリーアンだ。

 彼女は主人と席を共にするのを断ったのだが、アシュカに強引に座らされたのだ。

 サッシュがアシュカを送り届けて戻るまでの間、それこそ一刻ほどであるにしても、彼女はサイアスと二人きりになるのである。彼と二人では間が持たないというか色々とそれこそあり得ないようなことでも、無意識に想像してしまって落ち着けない。

 マリーアンは横目でサイアスを見た。それに気付いた彼が自分を見つめ返す。

「どうしたよ。さっきから」

「い、いえ! なんでもありませんっ!!」

 動揺して目を逸らし、マリーアンはカップで自分の顔を隠すように紅茶を飲んだ。

 まるで幼い子どものように胸が鳴り、頬がほてるのを感じた。

 サイアスと、ふたりきり。

 そんな大したことでもない言葉が、頭の中をぐるぐると回り続ける。なんだか自分がとてもはしたない人間のように思えて、マリーアンは余計に気恥ずかしくなるのだった。

 玄関の方で音がした。マリーアンは思わずびくっと肩を震わす。

「あ、戻ってきたかな」

 アシュカが立ち上がって食堂を出ていく。マリーアンもカップを置いて続いた。

 ついに、という先の続かない言葉が胸の中に起こったが、できるだけ忘れようとする。

 残されたサイアスは、出ていくときにマリーアンがちらりと自分を振り返ったことを思い、どうして良いものかと頭を掻いた。悪気はないが、面倒なことになったと思った。

 すぐさま、扉の向こうでアシュカとサッシュのやり取りが響く。

「サッシュ・エスメライト、ただ今戻りました!」

「それはいいから、はやく荷物を運ぶわよ!」

 やはり昨夜も見た儀式を飽きずに続けているようだ。すぐにタメ口を利くようになるなら意味もないだろうに。

「うげっ! おまえなんだよこの量。いったい何ヶ月でかけるつもりだ!?」

――――――― そうだよな。着の身着のままで育った俺たちからすれば、それが正常な感覚だよな。サッシュ。

「わからないわよ。いいから急ぎましょ!」

「ほら、サッシュ様。これをお持ちください」

 わがままな姫君と、マイペースな使用人に苛められる哀れな騎士の姿が目に浮かぶ。

「うわっ。いくらなんでも、いっぺんには無理ですよ。ねぇって!」

「いいから早く持つ!」

「お若いんですから、これくらいは軽い軽い」

「サイアスは。あいつなら片手で充分だろう!? うわぁぁああ!」

 何かがまとめて落下する音が聞こえた。サイアスは目を閉じて首を振り、呟く。

「ホントに、俺じゃなくてよかったぜ」

 扉の向こうでのやり取りに、加わらなかったことは正解のようだ。

「もう何やってんのよサッシュ! ほら、早く立つ!!」

「サイアス、いるんだろう? 隠れてないで手伝ってくれよ!」

 無視。

「だめですよ。サイアス様はいま、紅茶をお召し上がりになってるんですから」

 つまり一番、楽してるって事じゃないのか?

「サ~イ~~ア~ス~~~!!」

 悲惨な声が遠ざかっていく。つくづく不運な男だ。

「じゃあ、行って来るわね」

 マリーアンに別れを告げるアシュカの声が聞こえる。

「できるだけお早いお帰りを、お祈りいたしております」

 バカ丁寧に礼をとるマリーアンの姿が目に浮かぶ。そして再びアシュカの声。

「サイアス! あとよろしく頼むわね!」

――――――― はいよ。聞くだけきいておくぜ。

 扉が閉まる音。やがて馬の嘶きが聞こえ、蹄が石畳を鳴かせながら遠ざかっていく。

 邸の中に静寂が訪れた。心なしか、部屋全体の温度が下がったように感じる。

 しばらくして、そっと食堂のドアを開いてマリーアンが戻ってきた。がらんと空いてしまった空席を見つめ、サイアスの正面に位置する場所に席を移す。

 自分の飲みかけのカップを手元に寄せながら、サイアスの空のカップを見た。

「サイアス様、お代わりはいかがです?」

「ん? ああ貰おうか」

 カップを差し出すとマリーアンは丁寧に受け取り、なめらかな手つきでティーポットから紅茶を注いだ。受け皿ごと、それをサイアスの手元へと渡す。

 サイアスは頬杖をついたまま、じっくりと湯気の立つ紅茶の液面にうつる自分の顔を見る。肺まで潤されるような香りの中に霞む紅い眼の男は、言葉を探していた。

 べつに話したいこともないが、黙っているのも息苦しい。こんな状況になって初めて、サイアスはアシュカやサッシュなどを交えたとき以外は、マリーアンとまともに会話を交わしたことがないと気付くいた。昨夜のあの会話は、自分が思っているよりもずっと特別な事態だったのではないだろうか。

 マリーアンは自分がカップを上げ下げしたり、息で冷ましたりする些細な音が、実際の何倍もの大きさに聞こえるほどに、この静寂に緊張していた。

 なにか話題を提供しなければ、という誰に課せられたのでもない責任のようなものを感じるが、こんな時にかぎって焦りと戸惑いに考えがまとまらない。

「あの……」

「なあ」

 何気ないところから始めてみようかと、マリーアンが一声を発したとき、サイアスが同時に言葉をきりだしたので、二人とも黙ってしまう。

「なんですか、サイアス様」

「いや、なんでもねぇ。おまえさんは?」

 サイアスが口を噤んだので、マリーアンはとりあえず続けてみる事にした。

「来月は冥讃祭ですけれど、サイアス様はどうなさるのですか?」

 出来るだけ自然に、そして当たり障りのない話題を選んだつもりだった。

「どうって、なにがだ?」

 そう言われてしまうと、すこし返答に困るが、気を取り直して弾みをつける。

「お祭りまで、王都にはいらっしゃるんですか? それとも、またどこかへ……」

 あまり考えたくない事態に、自然とそれ以上の言葉が続かない。

 サイアスは紅茶のカップを持ち上げながら答えた。

「べつに祭りに興味があるワケじゃねぇんだが、来月ぐらいまでは居るかもしれねぇな。急なことが起こらなけりゃの話しだが」

 事態が解決、または展開しない限り、動けなくなってしまうのは事実だ。

「それまで厄介になるが、すまねぇな」

「いえ、お好きなだけ居てくださって構いませんよ。でも、お祭りに興味がおありでないのでしたら、サイアス様は迷わなくていいですね」

 笑顔を浮かべて、マリーアンが言った。サイアスは紅茶を音を立てて啜りながら言う。

「ああ、『思い出交換』の話か。もともと俺は、言いてぇことは生きてる間に言っとくたちなんでな」

 一瞬、マルスのことが脳裏をよぎったが、誰かにそれを言われたら、サイアスは笑いながらこう言うだろう。それこそあとの祭りだ、と。

「おまえさんは交換してぇ相手がいるのか?」

「え? ええ、父と母ですね。今の自分がどうしているか、それが伝わればと思います」

 半分は本当、もう半分は嘘だった。いつになくサイアスは興味深そうに身を乗り出す。

「へぇ。それで、どんな思い出を交換に出すんだ?」

「それはですねぇ、まあいいじゃないですか。お洗濯したり、お料理を作ったりっていう、あんまりサイアス様には面白くない事ばかりですよ」

 マリーアンは目を逸らし、頬を人差し指で掻きながら答えた。明らかに動揺している。本当は、いまは亡き両親に確かめたいことがあるのだ。

「ふぅん。なるほどねぇ」

 意味ありげに言って、サイアスが紅茶に目を落とす。彼に胸の奥まで見透かされている気がして、マリーアンはいささか緊張した。

「わ、わたくしのことなんかより、サイアス様のお話をしてくださいませんか?」

 場の空気を即座に切り替え、マリーアンが言う。いきなり話題を振られたサイアスは、少々面食らったように紅茶から口を放した。

「べつに話すようなことはねぇさ」

「いいえ、お聞きしたいです。この十年のことを」

 両手で頬杖をついて、マリーアンがじっとサイアスを見る。

「おいおい、それこそ他人にはつまらねぇ話しだぜ?」

 軽く流そうとしたが、自分を見つめるマリーアンの瞳はそれを許してはくれない。

「アサルトを探してたとか、そういう話しが聞きてぇのか?」

 サッシュやアシュカと同じように、お節介な会話がしたいなら嫌気がさす。しかし、マリーアンは微笑んで首を振った。

「それはもう、昨夜 聞かせていただきましたもの。それ以外のことを話してください」

 彼女にしてみれば、オリヴィアの事をこれ以上サイアスの口から聞くのは怖かった。だが、自分の知らない十年間で、彼が何を見ていたのかが知りたいのだ。

 その気持ちを理解してか、めずらしく面倒くさがりの銀髪が自分のことを語り出す。

「しょうがねぇな。おまえさんの物好きにゃ呆れるぜ」

 サイアスは思い出すように、頬杖をついてテーブルの上に置いた手の指を見つめた。マリーアンは、ただ黙ってその姿を見つめている。

 ゆっくりとサイアスの心が過ぎし日々へと羽ばたいていった。

「五年前に、ヤフィア領での仕事が一段落したんで、アームガルドに行った。あそこは俺の知ってる限りじゃ、どの国よりも海が綺麗でな。夕陽が海に呑み込まれる寸前に、黄金の輝きを放つんだ。内陸部の街に行っても、どこか潮の香りが漂っているようで」

「なんだか、ふしぎな感じ……」

 マリーアンが心の中に思い描いた風景を、感じるままに言葉にした。サイアスが頷いて返し、アームガルドを歩いていた頃を思い出す。

「アリウス海に面した岬の頂きに、古い灯台が建っててな。そこで一晩雨宿りをさせてもらったことがあるんだが、そこの灯台守が言ってたよ。『アームガルドに降る雨には、海が混じってる』ってな。だから、どこへ行っても潮の香りがするんだそうだ」

「素敵ですね」

 二人の遠い記憶の中にある潮の香りが頭の中に甦る。それぞれ別の海、別の浜辺で聞いたはずの潮騒が、いまは深く結びついて同じ風景を見せていた。

「海岸沿いにアームガルドを一回りしたあと、ポートラスキスから船に乗った。南アドナス大陸行きの貨物船だ。ポートラスキスはシェルサイド最大の港でな。世界中の貿易船やら旅行船が集まってくるんだが、ちょうどジパンって国の船が来ててな」

「ジパン?」

 聞き慣れない国名に、マリーアンが聞き返した。

「東方の海に浮かぶ島国さ。他国との接触を極力さけてる国だから珍しかったもんで、ちょっと覗かせてもらったんだが。知ってたか? やっこさんらの国じゃ、扉が紙で出来てるんだぜ。おまけに妙な布を重ね合わせただけみてぇな服装でよ」

 そう言われたマリーアンは、頭の中でかなり大雑把な想像を巡らせた。薄っぺらで、向こう側が透けて見えるような扉と、ベッドのシーツを被っているような質素な服装。

「な、なんだか妙な文化ですね」

 巨大な誤解が生じていることに気付かずに、サイアスは話しを続ける。

「だろう? 不用心じゃねぇのかって訊いたんだが、ジパンでは人間関係において心を重んじるから、物の形は大した意味がねぇんだとさ。まあ確かに、どんなに厳重にしてたって、恨みをかってるヤツは安心して寝られやしねぇし、逆に恨んでるヤツはどんな手を使ってでも殺るときゃやるしな」

 マリーアンの頭の中では、心を重んじると言っても、さすがに紙では生活の便という意味で、どうしようもないのではないかという結論に達した。

「ジパンの方々は、さぞや我慢強いのでしょうね」

 少し会話にズレを感じたサイアスは、とりあえずこれ以上は触れないことにした。

「まあ、アームガルドから船で南アドナス大陸に渡って、西端のハイルヴァーン王国に立ち寄ったんだが、どうにも不穏な空気が流れてやがってな。新聞屋だの無政府主義者だのが、思想犯罪者として特殊治安維持隊とかいうヤツらと毎日しっぽのつかみ合いよ。三日も経たねぇうちに嫌気がさしたんで、すぐに北に広がるグエン高原に飛んだんだが、そこにある小さな農村でも、若い連中が妙な熱に浮かされちまっててな」

 今でもはっきりと思い出す。夜にクラージュエルの採石場に集まって、たいまつを掲げて声高に意思表明する若者達。

 そして寝床の納屋をを借りていた家の老人が、サイアスにいった言葉。

「圧制に対して立ち上がろうってガキどもが村を飛び出して、残された家族は涙もんよ。孫が思想犯罪で処刑されたってジイさんに会ったが『一生懸命に日々を生き、その中で培ったものだけが人々を動かせる。特効薬のような驚天動地を求めても、そんなものは長くは続かない。いつかは夢から覚めるだけ』そう言って、寂しそうに笑ってたよ」

 サイアスは言葉を切って、紅茶を一口飲んだ。その一瞬は彼の言葉をマリーアンの心に染み込ませるには十分な時間だった。カップを置き、サイアスが顔を上げる。

「確かに農業一筋、云十年の生き様をもったジイさんに言われちゃその通りだと言うしかねぇぜ。当たり前のことにいつ気付くか、それとも一生気付かないまま、這いずり回って終わるのか。ようするに、いま目の前にあるものを現実として受け入れて、そこで踏ん張れたヤツだけが、望んだものを手に入れられる。言ってみりゃ、それだけのことなのさ」

 簡単なことかのようにサイアスは言った。ほとんどの人間には、それは叶えられずに死んでいくという事も知りながら。

「それから、サイアス様はどうなされたのです?」

 彼の口振りからすると、政府の面倒ごとに首を突っ込んだ様子はない。他人の選んだ道に、とやかく言うような男でないことくらいマリーアンにもわかっていたが、それでも出来ることなら、そこでひとつ他人のために働いたと言ってもらいたかった。

「黙って国を出たさ。俺には、ハイルヴァーンのもめ事は関係なさすぎた」

 俺には関係なさすぎた。乱暴にそう言ったサイアスが、すこし悔しそうに見えたのはマリーアンの気のせいだろうか。確かめる間もなく、サイアスが話しを続ける。

「そこからアドナス大陸を北へ進んで、ちょうどイジェニア公国についた辺りだったか。あの国、政府がハイルヴァーンの熱が飛び火するのを恐れて、外国人の立ち入りを全面封鎖してやがってな、せっかくうまい牛肉料理が喰えると思ったのに、おあずけをくらったよ。おまえさんポフィートを喰ったことあるか?」

 サイアスが訊くと、マリーアンは首を振った。彼女はリンサイア料理は得意なのだが。

「いえ。名前くらいしか」

「牛を使った料理の中じゃ、あれは格別だぜ。赤身をコルティマとフィードゥロウってイジェニア特産の果実と一緒に包み焼きにするんだが、なんていうか肉自体のうまみが深まって、獣肉の筋っぽい渋味がなくなってよ。興味があるなら、いちど試してみな。コルティマとフィードゥロウくらい、べつにリンサイアでも手にはいるだろう?」

 そうか。サイアスはそういう料理を好むのか。

「はい。今度 挑戦してみますので、そのときはぜひご試食を」

 マリーアンはこの男の新しい部分を見つけて、なんだかとても嬉しい気分だった。

「ああ、そのときは声をかけてくれ。そのあと封鎖中のイジェニアは迂回して、今度はエスヴァリオ地方からコ・ヴン港に抜けて、今度は船でシェルサイドに向かったんだが、途中で寄港したベンレムの港町でクチェ族の呪い師に会ったんだ。面白い婆さんでな」

 マリーアンの知識では、ベンレムは小さな島国で、クチェ族とは旅をしながら暮らす自由民のことだと記憶している。しかしひとつだけ聞き慣れない言葉があった。

「まじないしって、どのような方なのですか?」

 確かに、リンサイアに生まれついて、他の国を見たことのない人間からすれば、呪い師や妖術師と言った類の言葉は聞き慣れないだろう。なんせこの国ではそれらの存在を紛い物と等しくする法術の存在が、当たり前のように知られているのだから。

「外国の法術師だと思えばいいさ。ただ神々から授かったとかいうお題目はなく、ただ古からの伝承に従って術を使う連中のことだ」

 一辺倒の説明をすると、マリーアンは感心したように息をついた。

「そのような方々が、リンサイア以外にもいらしたのですね」

「だが、フォリエントの連中と比べるのはまずいぜ。法術みてぇに、見る間に傷を治したり、宙を飛んだりなんてのは滅多に拝めるもんじゃねぇ。呪い師の場合は、探し物や願掛け、あとは誰かを病気や不幸になるように、文字通り呪ったりとかが生業よ」

 さすがに法術にはない呪いの暗黒面というものは、マリーアンには理解しがたい。

「占い……などという言葉を聞いたことがありますが、そのようなものなのでしょうか?」

 天地信教一色に染まっている国の人間らしい、かたよった知識だ。占い、手品、呪い、妖術、そんなものはリンサイアには入り込む余地がない。たとえそれらを生業にしようとしても、それこそ法術の前には霞んでしまって目もくれられないだろう。

「まあ、なかには他人の運命が見える、なんていうヤツもいるくらいだから、あながち間違いじゃねぇけどよ。俺が会った婆さんも、路上で妙なことを訊いてきやがってな」

「妙なことって、どんな?」

 マリーアンが尋ねると、サイアスは傍らに立て掛けてあった剣を手に取った。

「シャドゥさ。こいつを手放す気はねぇのかと来やがった」

 サイアスが業と称した兵器だ。見た目にも、あまり縁起が良さそうな形ではない。

「婆さんが言うには、こいつは俺の運気を吸い取ってるんだと。これを持ってる限り、俺は屍の道を踏み越えて、最後は己が死へ向かう運命にあるそうだ」

 何でもないことかのようにサイアスは言った。所詮は呪い師の言ったこと。信じるか信じないかは本人の自由だが、こんなことを言われてしまったら、普通の人間なら。

「不安じゃないんですか? だいいち、ちょっと気味が悪いって言うか……」

 マリーアンのような反応は特別なことではない。運命めいた体験をしたことがない者や、そうしたことに否定的な思想を持つ者はべつとして、見ず知らずの相手にいきなり言われたことを、まったく気にかけないのも無理なのだ。

 通常の場合は。

「べつにいいんじゃねぇか? 誰だっていつかはくたばるんだし、屍の道ってやつも、この商売してりゃ特別なもんでもねぇしな」

 そういうものを、すべて乗り越えてきた人間の言葉だった。

「それによ、呪い師の婆さんに言われたくれぇで手放せるほど、こいつは軽くねぇのさ」

 また、サイアスの瞳が深くなる。その眼はこことは違う現実を見つめているような、そんな不可思議な光を灯していた。

 いったい、サイアスの業とは何なのだろう。マリーアンが、そのことについて訊こうか迷っていると、彼はいつもの調子に戻って軽い声をあげる。

「婆さん頼みもしねぇのに、俺の宿命を見定めるんだと意地になっちまいやがってよ、それから船が出るまでの三日間、べったり張り付かれちまってまいったぜ。若い女ならまだしも、干からびた婆さんじゃな」

 サイアスは笑った。つられてマリーアンも微笑むが、それだけではないことが彼女にはわかっていた。彼の瞳の深い部分は、まだ消えてはいなかったから。

「そのおばあさん、きっとお孫さんのような気がしていたんじゃないでしょうか」

 マリーアンが言うと、サイアスは露骨に嫌な顔をした。

「おいおい。あんな薄気味わりぃ婆さんの孫あつかいじゃ、まったく有り難くねぇぜ」

 そうと決まったわけでもないのに、散々な言いぐさだ。しかし、きっとこういうサイアスの態度が、異邦人として疎んじられることが多いクチェ族の老婆には、どこか親しみを覚える要因になったのではないだろうか。

「ま、あとはおまえさんも多少は知ってると思うが、シェルサイドからサザンクロスを廻って、リンサイアに戻ってきたわけだ」

 シェルサイドに着港してからのことは、大幅に省略された。そこから現在に至までの経過は、話せないのだろうとマリーアンは思った。だから、あえてそこには触れない。

「ほんとうに、長い旅をなされたのですね」

 マリーアンが思いやるように言った。

 彼女にはサイアスが一通りの話しのなかで、一言も仕事のことを言わなかったことが彼なりの気遣いのように思えた。路銀を稼ぎ出すために、賞金を拾って廻ったはずだ。悔しさや怒りを感じたことも少なくないだろう。だが、彼はそんな恨み言をすこしももらすことなく、ただ旅の中での出来事だけを語った。

 サイアスにとっては当たり前のことなのだろうが、マリーアンには優しさに思える。

 そして何より、旅のあいだサイアスは片時も休まる事はなかったのではないかと思う。オリヴィアのことがあり、行く先々での困難があり、そして今も動乱の影が降り注いでいるのだ。それでも立ち止まろうとしないこの男に、彼女は危うささえも感じるのだ。

「わたくしは、今までこの国だけで生きてきましたので、異国の話しを聞かせていただくと、どうしても夢のような想像をしてしまいます」

 くすっと笑って、マリーアンがこぼした。自分の子どもっぽさを笑ったのか。

「夢ね。あながち外れちゃいねぇぜ。どこの国にも、欠点もあれば夢もある。その国の空気って言うのか、それを感じたときに、面白れぇもんが見えてくるんだ」

 サイアスの言う夢とは幻想のようなものではないだろう。 人の想いと行動が混ざり合い、現実の上に散りばめられた、いわば人間の存在がもつ熱のようなもの。彼はそれを夢だと思うのだ。 ひとり夢想するのではなく、誰かと共有することの出来るものこそが夢だと。

 ただ、忘れてはいけないことがある。夢の果てには現実が横たわっている。

「家族だとか友人だとか、言葉にしてみりゃひと括りだが、本当は全部ばらばらだろう。それが不思議なもんで、同じ空気を吸ってんだろうな。うまく混ざり合って、塊みてぇなもんになってる。 人間の結びつきってなぁ面白いもんだぜ、実際」

 こんな言葉がサイアスの口から直接聞けるとは思っていなかった。 無頓着なようでも、彼はしっかりと物事のありようを見極めようとしている。あらためてそれが実感できたマリーアンはサイアスを少し近くに感じた。

「サイアス様は、それに飛び込もうとは思われないのですか?」

 彼女のただひとつの懸念がそれだった。 どこまで周囲が距離を縮めても、サイアスはそれと交わることがないような、いわば孤立しているように見えていたから。

 まっすぐなマリーアンの言葉に、サイアスは頭を掻いてすこし居心地悪そうにした。

「俺には似合わねぇよ。 馴染まねぇんだ、どこへ行っても、誰と会ってもな……」

 マリーアンの不安は彼女の一番望まない解答となって返ってきた。わかっていたが確かめてしまってから後悔する。おそらく例外もあるだろう。しかし、心の奥深くでは決して結びつくことはない。

「それは、その剣と関係があるのでしょうか」

 シャドゥブランドを眼で指してマリーアンが言った。 彼を縛り付けている業とはいったい何なのか。彼の心に土足で踏み込むようで躊躇いもあったが、今はどうしてもそれを知りたい、そう思う。 サイアスはマリーアンから視線を逸らすと傍らのシャドゥブランドを見た。

「そいつはどうかな。 これを手放せねぇのは事実だが、俺にとって在るべきなのかはわからねぇ」

 苦笑いしたサイアスの言葉が、重く重く床の上に落ちていく。

「呪い師の婆さんじゃねぇが、これが俺の生き様ってやつだからな。 これがサッシュのヤツなら、アシュカの嬢ちゃんが居たほうがいいんだろうが、俺にはその生き方はあわねぇんだよ」

 そうか。マリーアンには今わかった。呪い師の老婆にサイアスは自分では語ることのない過去や、彼の身に食い込んでいる因縁などを言い当てられたのだ。

 だから余計に、彼には老婆の言った不吉な言葉が当たり前のことになってしまった。

「その、話して、いただけませんか? サイアス様の望む生き方を」

 勇気を出して踏み出した。その一歩が彼女にとって大きな転機であることは間違いないだろう。そしてサイアスにとっては、この十数年間の答えを選択する切欠になるかも知れない。 しかし、サイアスは首を横に振った。

「やめときな。つまらねぇ話しだ」

 説き伏せるようにサイアスがマリーアンを見た。 口振りとは裏腹に真剣な眼差しだ。

「……かまいませんよ。知りたいんです」

 なにを知りたがっているのだろう。 いや、彼女自身が想像していることと、シャドゥブランドが関係するか否かを確かめて、安心したいのかもしれない。

 沈黙が流れた。 どちらも口を開かぬまま、ただ冷たい空気がおりてくる。その沈黙を破ったのは玄関の扉が開け放たれる音。

「サッシュ・エスメライト、ただいま帰りました!!」

 疲労した身体に、無理やり活を入れるような、サッシュの空元気な叫び声。アシュカにこき使われた姿が容易に想像できる。

 サイアスは扉の方を肩越しに見て、ふっと笑って席を立った。

「長話が過ぎたな。時間切れだ」

「あの、サイアス様」

 マリーアンが手を差し伸べ、呼び止めようとするが、サイアスはそのまま立ち去る。

「サッシュのやつに茶でも煎れてやれ。 俺は、コートが乾いたか見てくる」

 そう言って、サイアスは食堂をあとにした。残されたマリーアンは彼の飲みかけのカップに目を落とした。やはり、触れてはいけなかっただろうか。

 玄関ホールの方ではサイアスとサッシュの声が鳴り響いていた。

「おいサイアス! さっきは手伝わねぇで、何やってたんだよ」

「茶だよ、茶」

「なに気楽に言ってんだよ! あのあと俺がどれだけ……」

「ああ、わかったわかった。 そんなに羨ましけりゃ、食堂に行って茶ぁ呑んでこい」

 ひとつ靴音が遠ざかっていく。

「おい、どこ行くんだよ。ったく、タシオのこともあるってのに」

 ブツブツ言いながら、サッシュが食堂のドアを開けて現れた。

「お帰りなさいませ。すぐにお茶の用意をいたしますので」

 気を取り直して頭を下げるマリーアン。先程までの空気はサッシュに悟られたくない。

「ありがとう。 でも、もう少し遅く帰ってきた方が良かったかい?」

 意味ありげに聞くサッシュに、マリーアンはちょっと驚かされた。

「い、いやですわサッシュ様。どうしてそのようなことを?」

 わからない、という態度で彼女は紅茶をカップに注ぎ始めるが、その手つきがわずかに乱れたのがわかる。サッシュはつくづくマリーアンは純粋な女性だと思った。

「でも正直、マリーアンさんが期待してたような会話は出来なかったでしょう?」

 紅茶のカップを受け取りながらサッシュが言った。まるで見てきたかのような言い方だが、その通りなので返す言葉もない。

 このひとときの間に起きたことは、サイアスが話し、マリーアンが聞いていた、それだけだ。 新しいことを知ることもできたし、やっぱりと思ったこともある。だが本当に聞きたかったことは、まだサイアスの口の奥に仕舞われたままだ。

「あの重たい剣のことをお訊きしたら、機嫌を損ねてしまわれたようです」

 自分とサイアスのカップを片づけながら、悲しそうにマリーアンが笑った。

 重たい剣とは、シャドゥブランドのことだろう。サッシュは紅茶を一口含んだ。

 果たしてサイアスは機嫌を損ねて話さなかったのだろうか。

「そうでもないと、思うけどな」

 カップを受け皿に戻しながら、サッシュが言った。

「どういうことです?」

「あいつが話さなかったのは、そのほうがいいと思ったからだよ。理由は何となくわかる気がするけど、マリーアンさんが気にするような事じゃあない」

 少しは彼女の気が治まればと思ったのだが、それは、かえって彼女の知りたいという欲求を刺激する結果に終わった。

「話していただけませんか。 サッシュ様は、ご存じなのでしょう?」

 マリーアンが潤んだ瞳で聞いてくる。ここへきてサッシュの中に迷いが生じた。これを自分の口から話すということが、サイアスに対する裏切りのように思えたからだ。

「シャドゥブランドについて話すってことは、サイアスについて話すってことなんだ。 どうも本人が言いたがらないことを、他人が言うっていうのもなぁ」

 サッシュの知っているそれは、単純に人ひとりの生い立ちを語る事ではない。

 だが、思えば彼女も気の毒だ。おそらく自分やアシュカには想像がつかぬくらいに、サイアスのことを知りたいと願い、彼女はただその想いだけを抱きしめて過ごしてきた。

 自分だったらどうか。もし自分がマリーアンと同じ立場で、アシュカのことを見ていたとしたら『話せない、理解しろ』という言葉でおさまるだろうか。

 無理だろう。これから先、何があるかわからない。おそらく、神々の標本に関わった者達との戦いはさけられないだろうし、そうなればサイアスはもちろんのこと無関係なマリーアンの身にだって、いつ不幸が降りかかってもおかしくはないのだ。

 それを薄々はわかっているであろう彼女に、待たせるだけの仕打ちは辛すぎる。

「今から言うことは、独り言だって思ってくれるかい?」

「はい」

 まるで待ちかまえていたように即答だった。それほどまでの想いがあるのか。

「マリーアンさんは、アカデミーについてどれくらい知っている?」

 サッシュが訊いた。 返答次第で話す内容を見極めなければならない。アカデミーに関して言うなら、禁止されていた法術の研究を行っていたことはアカデミーの独断によることだとされているし、人体実験に関しても一部の研究者が勝手にやったということになっている。 法王庁が関わっていたことはもちろん、神々の標本や魔導については何ひとつ公表されていない。

 マリーアンは十年前の事件後に騒がれていたことを思い出すように、虚空を見上げた。

「ええと確か、神々の領域を侵す行為だからと、法王庁と議会の取り決めで禁止されていた法術の研究を勝手にやっていて、そのうえ貧しい家から子どもを買い集めて新薬や医療器具の実験台にしていたなんてことを……」

 思い出していくうちに、あのころ感じた怒りや辛さが甦る。 いくらアカデミーの独断ということになっていてもアカデミー創設の指揮を執っていた法王庁に火の粉が降りかからないわけがない。 当時はマリーアンも法王庁に使える者として、民衆の罵声の的になったものだ。もちろん英雄扱いされる傍らでサッシュも例外ではなかった。

 サッシュが静かに頷いて、考えをまとめるように視線を泳がせる。

 十年前に報じられたこと以外は、何も知らないと見て間違いはないようだ。それなら、シャドゥブランドと彼のことについては、大体のことを話して問題は無いだろう。

「俺も全部をあいつに聞いた訳じゃないから、状況から推測した部分もあるんだけど、それでも本当に聞きたいかい?」

 答えはわかっていたが、最後の選択だ。マリーアンは迷わずに頷いて見せた。

 彼女の、オリヴィアの他にこれほどサイアスに近づこうとする女性が居たとは。

 もう迷うことはない。マリーアンになら何を話しても大丈夫だ。

「サイアスは、アカデミーが創った人間なんだ」

 耳にした瞬間は、その言葉の意味を理解できなかった。

「創った、とはどういうことです?」

 半ば信じられないようにマリーアンが聞き返す。その問いの解答が、どこにあるかも見当がつかぬまま。

「そのままの意味だよ。 正確には、あいつの父親がアカデミーの行っていた人体実験の被験者だったんだ。人を超えた能力者を生みだそうとする実験のね」

 それからサッシュが語ったサイアスの生い立ちは、ひとの道を外れたアカデミーと、その狂気に振り回された人々との深い因縁によってつながるものであった。

 神になることを夢見た愚か者が夢のあと。 そこで生まれた現実こそが、サイアス・クーガーであった。

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