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リヴァイヴフリード  作者: 墨
3/8

二章 夢の続き 前編

字数制限オーバーのため、分割して投稿します。

 サイアス・クーガーは夢を見た。


 雨が降っていた。 刺すように冷たい冬の雨。

 焼け焦げたコートと、煙の臭いが全身を包んでいる。

 そして白くぼやける視界の先に、額から血を流す褐色の肌の女。 肩で荒く息をして、自分をじっと睨み付けている。

「貴様が違うというのなら、オレは、オレはどうすればいい」

 女が向ける先を見失った怒りを呑み込めずに声をあげた。粗暴で、それでも脆く崩れそうな声。

――――――― アサルトじゃねぇか。 相変わらず、口が悪いな。

「おまえがすることは決まってる。いままで通りだ。仇を追うんだろう」

 雨の中で、自分は笑みを浮かべながらそう言った。そう、それでいいと思った。

――――――― なに言ってやがる。 無様な格好のつけかただ。

 口のなかで血の味がした。見ると、脇腹が深く抉れているのが見える。

――――――― ああ、なんだ。あの時の夢か。 どおりで、アサルトも若けぇわけだ。

 夢、いや現実だろう。遡っているのだ。思い出に変わっていた日々を。

 彼女は震えていた。握りしめたぶ厚いナイフの刃をこちらに向けながらも、確かに震えていた。

「まて、オレは貴様を殺そうと。 いまだって、殺すつもりだった」

「そうはならなかった。 俺が仇じゃないってことはわかったんだろう? なら、それでいいじゃねぇか」

「でも、だけどっ!」

 勘違いで命を奪おうと相手に対して、どう償えばいいかわからない。そういう顔だった。 だが、本当は彼女は何も償う必要など無いのだ。

 彼女は自分を仇だと信じ、自分は真実を語ろうとしなかった。相子だ。

「なんで、そんなに簡単に言えるんだ。 おまえはいまだってオレのせいで、その傷、普通のヤツなら死んでるだろ……。 それなのに」

 苦痛を吐き出しながら、彼女の表情が崩れた。 顎を伝う滴は雨だろうか、涙だろうか。

「だから、そうはならなかったろう。 気にするな」

 シルエットが変わるほど深く抉れた脇腹は不覚の証だった。 アサルトが刺し違える覚悟だと見抜けなかったせいで、彼女が懐に忍ばせた炸薬を奪い取るのが遅れた。

 アサルトを巻き添えにしないためには、俺の身体で覆い隠すしかなかった。

「……六年だぞ。 六年もオレはおまえを憎んできた。 何度も何度も傷つけて、怒りをぶつけてきた! オレのほうこそ、おまえに憎まれて当然じゃないか!」

――――――― らしくねぇな、おい。

 そのあと自分はどうしたか。泣き崩れた彼女に、降りしきる雨のなかで迷子のように地べたに座り込んだ彼女に近づいて、そして、抱きしめた。

 突然のことに彼女は身を硬直させたが、それでも構わずに抱き寄せる。

 胸が張り裂けそうだった。自分が彼女に背負わせたものの意味を悟ったから。

「すまねぇな。 六年も、辛かっただろう」

「え?」

 彼女は驚いたように、細い声を上げた。そして自分は、確かめるように続けた。

「いいと思ったんだ。憎んでくれて、それでおまえさんが生きる目的を持てるんなら、それでいいと思ったんだ」

 腕の中で凍えきった彼女の体温が、何よりも痛かった。食いしばるように言葉を吐く。

「だが、違った。俺は、おまえさんの人生の六年分を、血と憎しみで塗りつぶしちまった。俺が勝手にそれでいいなんて決めつけて、こうして後悔までさせた!」

 苦しかった。あいつを倒せなかった自分の非力を認めたくないために、他人の人生に傷と後悔を押しつけて、それで償っているつもりになっていた。 自分は、こうして罰を受けているんだと思い込んでいた。悔やむ気持ちがあるなら、真に戦うべき相手は別にいたはずなのに。

「すまねぇ。すまねぇ」

 うわごとのようにくり返した。他に言葉など失っていた。 やがて、彼女が呟く。

「もう、あやまるな。頼むからオレなんかに、あやまらないで」

 身体から放たれる血の臭いと、彼女の髪に染み込んだ煙の匂い。

 肌を切り裂くような冷たい雨の中で、ふたりの体温だけが確かなものだった。

「でも、どうしてもっと早く言ってくれんかったんだ、おまえじゃないって知っていたら、それなら」

 搾り出すように言った彼女の言葉に、気付かされたことがある。

 もしアサルトがあいつを追っていたら、間違いなく彼女は殺されていただろう。 あの日、燃える砂漠で出会った少女が、あの狂気の男の手にかかる、そんな未来を否定したかった。

「生きてて欲しかったんだよ、おまえには」

 自分が追われている限り、彼女は無事だ。 それが高慢で醜いわがままだと、いつからか気づいていたはずなのに。

――――――― あ~あ、青春しちゃって まぁ。 でも、ああ。悪くねぇ。

 そして微睡み。

 歪む世界。


 浮かび上がったのは夕暮れだった。王都の崩れた町並みに陽が落ちていく。

 見上げれば、火の手を逃れた大鐘塔がそびえたっている。

――――――― 魔導師たちとやり合ったあとか。

 王都の鎮火作業は終わり、街には焼け出された人々と遺族と兵士が混沌と渦巻いていた。

――――――― 夕暮れ時の、この場所だけだったな。

 軽やかな靴音が、石畳をかけてくるのが聞こえた。煉瓦塀にもたれたまま、自分は音のする方へと目をやった。いきせき駆けてくるのは彼女だった。

――――――― 俺とこいつが落ち着いて会えるのは、ここだけだったな。

「サイアス、わるい! 持ち場をなかなか抜け出せなくてさ」

 息を切らしながら彼女は両手を顔の前で合わせてみせる。

 そして二人で大鐘塔のもとに腰を下ろし、沈み行く夕陽を眺めた。

「ったく。 いい加減に、官のまねごとを押しつけるのはやめにしてもらいてぇな。俺たちは軍人でも兵隊でもねぇんだからよ」

「いまは仕方ないさ。 王都奪還が叶ったはいいけど、事後処理で手一杯だからな」

 あのころとは違い、いまの彼女には仄かな女性らしさが芽生えていた。 あのあと自分に借りを返すのだと言って彼女も旅の仲間に加わったのだ。

「ギュスターのバカが不甲斐ねぇから、俺までとばっちりだぜ」

 ベイオグリフのメンバーを駆り出してまで、仮設テントや食糧配給に奔走されている日々を思って文句を垂れ流していた。 だが彼女は知っている。口でどう言っていようと彼自身が進言したのだということを。

「でもさ。いまはまだ、休暇みたいなものじゃないか。すぐにまた……」

 そこまで言って、彼女は言葉を切った。何を言いたいかはわかっていた。

――――――― そうだったな。王都を奪還して、それで終わりじゃなかった。

「ああ、トゥエルヴの逃亡先がわかったぜ」

 傍らで、自分に身を任せるようにもたれ掛かってきていた彼女に緊張が走ったのが、触れ合った肩から伝わってくる。

「……やっぱり、あの場所なのか?」

「まあ、それ以外にはありえねぇって気もしてたけどな」

 ごろりと地べたに横になる。空を流れる雲が、オレンジから灰色へと変わっていく。

「行くのか? どうしても」

「ああ。おまえには来るなって言いてぇが、無理だろう?」

 彼女も頷いて見せた。 そして横になっているサイアスの手に、自分の手を重ねる。

 その場所へ行くと言うこと。それは再び生死のせめぎ合いに身を投じることだ。

 だが、行かなければならなかった。もう自分も彼女も無関係ではいられなかったから。

「なあサイアス。 全部おわったら、アンタどうするつもりだい?」

 不安を隠すように笑顔をつくった彼女の瞳の奥に、期待のようなものを感じた。

「さあな。とりあえずは、そろそろ『ベイオ』とも、おさらばしねぇとな」

「解散するのか? ベイオグリフを」

――――――― ヤフィア。もう、それを決めていたんだった。

「いつまでも、お守りなんてしてられねぇさ。俺にもやりてぇことがある」

 重ね合わせた手を、彼女が強く握ってくるのがわかった。

「やりたいことって? アンタがやくざな商売以外に、何かできるってのかい?」

 起きあがって、服に付いたちりを払いながら彼女を見る。

「そのために、やくざな商売ってヤツを続けてきたんだ」

――――――― 部下に安住を、ガキどもに家族を。なんて言えなかったがな。

 彼女の瞳に、さざ波がたった。必死に言葉をさがすように唇が震える。

「あのさ。 アンタのやろうとしていることに、あたしは必要かい?」

 張り詰めた感情と共に、ようやく投げかけられたのは、漠然とした問いかけだった。

――――――― なんて答えたんだったか。俺は、なんて。

「必要だって言ってくれるなら、あたしは……」

 頬が紅く染まって見えたのは、沈みかけた夕陽のせいだったのだろうか。

「いいのか。おまえにはまだ、やるべきことがあるんじゃないのか?」

――――――― 違う。それが俺の答えじゃなかったはずだ。

 彼女は寂しそうに俯いて、それからゆっくりと首を振った。

「みんなの、仇は討ちたいさ。でも、それもアンタが傍にいてくれるなら……もっと」

 そのあと何と言葉を続けようとしたのだろう。でも、それで充分だった。

「ど、どうなんだよ! オレが必要か、そうじゃないのか。ふたつにひとつだろ!?」

 彼女は怒ったような口調で言った。 このころの彼女が自分をオレというときは照れ隠しのときだ。

 黙ったままの自分を、彼女はじっと見つめている。一陣の風が二人のあいだを吹き抜け、その風に肉体が取り払われたかのように、心が結びつくのを感じた。

――――――― ああ、そうだ。

 広い胸に身を任せて、彼女はそっと眼を閉じた。そして自分は、彼女を抱きしめて。

 互いの吐息が混ざり合い、唇が重なるのを感じた。

――――――― これが答えだったな。 答え、だった……。

 そして再び、歪む世界。

 サイアス・クーガーは夢を見た。

 夢から覚めてまずはじめに、彼の目にはいつも同じものがうつる。

 微睡みの中に見たあらゆる感情を余所に、夢のあとに続く現実だけがそこにある。



 サイアスが目を覚ましたのは、すでに昼近い時間だった。

 カーテンを開け、強く射し込む光に目を細める。熱いほどの昼の日差しは、サイアスの見た夢を頭の片隅に追いやるのに、いくらかは助けとなった。

「いまさら、な」

 それだけを口にして、残りは奥歯で噛み殺した。

 ベッドの脇に置かれた、木製の椅子の上に投げ出されているコートを掴み、袖を通しながらサイアスは部屋を出た。まず目に留まったのは、廊下を駆け回るマリーアンだ。

「あら、おはようございますサイアス様。よくお休みでしたね」

 サイアスの存在に気付いて、彼女は片手間に挨拶した。

「おまえさんが走り回ったりして、なにかあったのか?」

 この女性が意味もなく、廊下を走るような品のないことをするはずがない。サイアスが尋ねると、マリーアンは困ったように片手を頬に添えて言う。

「ええ。じつはアシュカ様のお姿が見あたらないのです」

――――――― やれやれ。あのお嬢ちゃん、幾つになってもしょうがねぇな。

「朝からか? それともゆうべから?」

 サイアスがいつ居なくなったのかと訊くと、マリーアンは首を横に振った。

「いえ、先ほどまでは、おみえになりました。でも、わたくしが用をすませて戻ったときには、もう……」

 それを聞いて、サイアスは胸をなで下ろした。少なくとも彼女が昨日の話しを無視して勝手な行動に出たわけではないようだ。

「それで、何か心当たりは?」

 いくらなんでも、議会から行動を制限されている立場であることすら無視して外出するはずもないだろう。理由がわかれば行き先の見当もつくものだ。

「それが、わたくしには心当たりがないんです……。昨日できなかったドレスの仮縫いをしなくちゃいけないっていうのに」

 ああ困ったわ、とでも言いたげに、マリーアンは溜息をついた。

―――――――― いや、あるじゃねぇか。理由。

 こういう事にだけは疎いマリーアンに呆れながらも、サイアスは半ば安心した。

 ドレスが嫌で逃亡したというなら、あの男を共犯に引き込んだ可能性が高い。それに行動が制限されていると言っても、お供を連れてなら話も変わるからだ。

「それじゃあ、俺も用事ついでに心当たりを捜してやるよ」

「あら、サイアス様。お出かけですか?」

 意外そうに言われてしまったが、サイアスは頷いて言う。

「ああ。一応は仕事で戻ってきてるもんでね」

 昼近くまで寝ていたのだから、働き者のマリーアンからすれば、ぐうたらに見えても仕方がないのだろう。

「そう言えばそうでしたわね」

 肩をすくめて、失言を取り繕うようにマリーアンは口元に手を当てた。そしてすぐに思いついたように、両手をぽんっと合わせて言う。

「あ、そうだ。少々お待ちくださいませ」

 パタパタと服の裾を揺らして、厨房の方へと駆けてゆく。

 あれがいつも通りの彼女の姿なのか、それとも何かしら心境の変化があったのかはわからないが、サイアスはマリーアンの背中を微笑んで見送った。

 ほどなくして、マリーアンが小さな包みを持って現れた。サイアスに手にした包みを差し出しながら言う。

「お食事なさらずに行かれるのでしたら、これをお持ちください」

「これは?」

 中身の見当はついていたが、一応訊いてみた。マリーアンは満面の笑顔で答える。

「お弁当です。お昼にサイアス様にお出しするはずだった軽食を包んでおきましたので」

 マリーアンの口から言われて、彼はあることに気付いた。 彼女は自分のために朝食も作ったはずだ。眠りこけて朝食など食べなかった自分を無理に起こそうともせず、しかも昼食の心配までして、これを用意していたと言うことになる。

「ありがとうよ」

 包みを受け取りながら、サイアスが言った。正直、言葉にできない暖かさがあった。

「お気をつけて。お帰りをお待ちしております」

 そう言って、マリーアンはサイアスに頭を下げる。 誰に対してもつかう使用人のただの挨拶だが、得も言われぬ響きがこもっていた。

「ああ。じゃあな」

 それが何であるかを確かめようとはせず、サイアスは短く告げて邸を後にする。

 サイアスが扉の向こうへ去ってしまった後、マリーアンはしばらく扉を見つめていた。

 自分しか居なくなったことを確認し、彼女はひとり呟くように言葉をもらす。

「……お帰りを、お待ちしております」

 胸の奥で、鼓動がせつない調べを奏でていた。



 緩い日差しの中を歩き、サイアスは御屋敷街を抜けて繁華街へと向かった。

 現在の王都の内情に詳しい者たちと接触するのは今夜の約束に期待をかけるとして、まずは自分の足で五年ぶりの王都を見て回ろうと思ったのだ。

 昨日サッシュは、何もかも変わったよ、ともらしていたが、少なくとも一番おおきく変わったのは十年前の真実を知り深く関わった者達の価値観のようだった。

 人々の生活は過去とは関係なく懸命に動き、流れようとしているのがわかる。その波に乗り損ね、過去に縛られ生きる者達は、すべてが変わったと感じてしまうのだろう。

 顔を上げ、高台にある元法王庁舎の方を見た。 取り壊しが進んだ大鐘塔の姿は夕暮れに見たきのうとは違い、闇のヴェールに包まれていない分だけ痛々しく思える。

 自分がオリヴィアと無言の約束を交わし、その約束が叶わぬままに別れた場所。

 三十年間、放浪の人生を歩んできたサイアスという男は、とくに思い出の場所というものに執着するタイプではなかったが、それでもあの場所が自分にとっては特別な意味をもっていたのだろうと、今更になって気付かされる思いだった。

 活気の溢れる町並みを眺め、続く煉瓦と土壁の景色に白き太陽の明るさを見る。

 自分と、自分を取り巻く数センチの空間が、その外に広がる世界と隔絶されたかのように行き交う人々は誰もサイアスを振り向くことなく、またその顔を指さしてひそめくこともない。 過去に置き忘れられた英雄はいま、自由だと感じていたが、心にはほんの一握りの虚無感がつきまとっていた。

 ひとにとって誰でもない自分と、自分にとっては覚えきれぬほどの他人。故郷という憶えの深い土地をあらためて歩くことで、どこよりも明確な自分と他人との境界線のあいだに立ったサイアスは、清々しい風と肌寒さを同時に思うのだった。

 ふと足が止まった。 彼が振り向いた十字路の角には、小さな黄色い屋根のバラック。グリーンの鮮やかな立て札に白ペンキで書き殴られた文字はリンサイア西部の方言だ。 訳すなら『茶と軽い酒』となるが、今風に言えばカフェとなるのだろう。

 サイアスの脳裏にフラッシュバックする過去の感触。路上に広げられたテーブルと人々の往来と雑踏。色とりどりの会話が咲き乱れ、その渦の中に安らぎがあった日々。

「この店、まだあったのか」

 舌の上で生まれた何気ない想いが、言葉となって滑り落ちた。

 それが合図であったかのように、無意識にサイアスの足はその場所へと向かう。

 まばらにうまった席のあいだをすり抜け、そこが記憶にあるのと同じ場所であることを確かめるように、サイアスは辺りを見渡した。

「いらっしゃい」

 傍らから声がして、サイアスはそれを見下ろした。背の曲がった老人がひとり自分を見上げながら笑顔を向けている。

「どこでも、お好きな席へどうぞ。すぐに品書きをもって参りますので」

 すぐ脇にあるテーブルにサイアスを促しながら、気のいい調子で店主と思わしき老人が言った。店の方へと引っ込んでいく老人の背中を見送り、サイアスは記憶の中にある日々と彼とが重なって見えた。

 前頭が禿げあがった白髪の初老の男で、あの当時はまだ背は曲がっておらず、いまはなんだか少し縮んだように思える。やがて、おぼつかない足取りで老人が品書きの紙を片手に現れた。テーブルの上にそれを広げながら言う。

「ウチは英雄様がお見えになられても、何も特別なことは出来ませんが、よろしかったら何か飲み物でも」

 透き間のあいた歯のあいだから抜けるような声だった。サイアスは思わず老人の顔を見る。変わらず笑みを湛えた表情と、皺の増えた目尻が目に留まった。

「久しぶりに来てくださって、光栄です」

 会釈するように、老人が軽く頭を下げる。

 そうか、覚えていたのか。十年も寄りつかなかったというのに、この老人は、いや、老人になった男は自分を覚えていてくれたのだ。

 あの頃、王都を異邦人たちの手から取り戻し、逃亡したトゥエルヴのメンバーの消息を探り出すまでの間、サイアスは王都に残った人々の為に、復興作業に駆り出された。

 一日の作業を終えて、大鐘塔でオリヴィアと待ち合わせたあと、何気なく話しながら歩いた先が、この店だった。

 初めてふたりでこの店を訪れたとき、店主の男に言われたのが、あの言葉だ。

――――――― ウチは英雄様がお見えになられても、何も特別なことは出来ませんが。

 その言葉通りに、店主は自分たちを特別扱いなどしなかった。他の客たちと同じに扱い、誰にでも優しく丁寧に振る舞っていた。

 大火によって、ほかに店らしい店など無くなってしまっていたことを抜きにしても、そんな店主の態度が気に入って、ふたりはこの店をひいきにしていたものだ。

 白銀称授与の話などが持ち上がり、騒がれることに煩わしさを感じていたサイアスにとっては、なおさら落ち着ける場所として格別だった。

 この店の持つ不思議な力なのか、それとも屋台のもつ独特のイメージと、サイアスやオリヴィアのような時の人とが結びつかなかっただけなのか、どういうわけか路上に広げられたテーブルでふたりが話していても、周囲に人だかりができるでも、指を指されるでもなく、ごく普通に時間を過ごすことができたのだ。

 それが思い出となったいまは、そんな心配などする必要もないのだが。

 サイアスは『メイフィーオ』という果実酒を注文した。昼間から呑むにしては、ややアルコールの強めな酒だったが、サイアスに言わせれば品書きの上に並べられたほかの酒など水のようなものだった。

 店主が言われた通りにボトルごとメイフィーオを差し出すと、サイアスはグラスも使わずにそれを喉に流し込んだ。手の甲で口元を拭いながら言う。

「しかし、変われば変わるもんだな。あの焼け野原だったこの場所が、いまじゃ元通りの繁華街になっちまうとは」

 それを聞いていた店主が、サイアスの見つめる街へ視線を運んで言った。

「いいえ。形が戻り、人が溢れても、元通りにはならないものですよ」

 どうやらこの老人も、サイアスが感じているのと同じ虚無感をもっているようだ。

「でも、変わらないものもあります」

 すこし明るい口調で店主が言ったので、サイアスは興味深げに問い返す。

「なんだ。この店か?」

 そう言った彼に、静かに首を振ってみせ、老人は変わらないものを指さしていった。

「あなたですよ。十年前と同じで、ちゃんと立っていらっしゃる」

――――――― はたして、そういうモンかねぇ。

 立っている、はわからない。 十年前から何も成長していないのだという意味の、変わらない、なら納得できる。

「まあ、そうかもな」

 サイアスは目を伏せながら、すこし笑うように言った。

 自分は、いまだに乗り越えられていないものを、幾つも背負ったままだから。

 しばしの沈黙の後、老人が思いだしたように口を開いた。

「そうだ。あれから一度だけ、お連れの女性がお見えになりましたよ」

 その言葉を聞いた瞬間、気付かないほど小さく、鼓動が高まる。

「へぇ。いつだ?」

 サイアスは酒のボトルに口を付けながら訊いた。店主は思い出すように言う。

「ええ、あれは確か、五年ほど前ですかねぇ」

 今度は自分でもしっかりとわかるほどに、ひとつ大きな鼓動が。

 五年前。ヤフィア領に独立自治権が認められ、その証書を受け取るために、一度だけ国境近くまで戻ってきたことがある。結局サイアスはギュスタレイドとチェスカニーテの結婚式に出席するために、王都より南に下った場所にあるドミニアス領へと直行してしまい、授与式には代理人が参加するという失礼きわまりないことをやってのけたのだが。

 次第に鮮明になる記憶を、店主はひとつずつ解きほぐすように口にしていく。

「そうそう。丁度、あなたがいま腰掛けておられるその席にお掛けになって」

――――――― この場所に、アサルトが。

「ちょうど、夕暮れ時でしたねぇ」

――――――― どこかで、俺が授与式に呼ばれてリンサイアに戻ると聞いたのか?

「いつも通りにムヴェロアの紅茶を注文されて、ずっと黙ったまま街の空を眺めておられました」

 店主が目を上げた街の空を、サイアスも視線で追った。 そこには当時、まだ取り壊しが始まっていなかったであろう大鐘塔が見えたはずだ。

「紅茶をおもちしたときも、こちらを一瞥もなさらずに」

―――――――― あの場所を、おまえは見てたってのかい。

「夕焼けで顔までは見えなかったんですが、背中と肩が、かすかに震えているようで。泣いて、いらしたんですかねぇ」

―――――――― おまえはあの時、王都に。

 サイアスの手の中で、軋んだ音と共にボトルが砕け散った。わずかに残った内容物が握りしめた拳を伝ってテーブルの上に、小さな水たまりをつくる。

「なんてこった」

 そう言ったサイアスの口元は、笑みのようにつり上がっていた。 それは自分に対する冷笑か、それとも握りしめすぎてボトルが砕けたことへの苦笑だったのか。

「驚かせてすまねぇな。どうにも昔から力加減ってものができなくてよ」

 店主に笑って見せながら、サイアスはボトルの破片を拾い集めようと手を伸ばしたが、店主の手が先に延びた。

「いえいえ。わたしが片づけますよ。それより、お怪我などは?」

 握り拳をひらいてみると、破片が食い込んだせいで出血していたが、この程度ならば怪我のうちには入らないだろう。

「いいや。べつに」

 サイアスは掌に付いた酒ごと血を舐め取りながら言った。そしてすぐに立ち上がる。

「ぶちまけて悪かったな。代金おいてくぜ」

 そう言って、掃除の手間賃を含めた紙幣を数枚、テーブルの上に置いた。

 金額を見た店主がつりを渡すために呼び止めようとしたときには、すでにサイアスの背中は人波の中にのみこまれていた。

 残された紙幣には、すこし血が滲んでいた。



 元法王庁舎の東側、宝物庫と同じ棟の中に王家の書庫がある。法術書や歴史書などの資料から、いまは亡き歴代の王達の日記まで、その内容はさまざまだ。

 普段は誰も立ち入ることが無く、天窓からひとすじの太陽光が射し込むていどのこの場所に、今日はめずらしくもふたりの来客があった。

 王宮警護隊長サッシュ・エスメライトと、その麗しき姫君である。

 朝食が済むやいなや、アシュカはサッシュに半ば強制的に自分を連れ出させたのだ。

 そして今朝は特別に任務が無いことをいいことに、本来ならば一応は宮殿の詰め所に居なければならないサッシュを、こうして話し相手として巻き添えにしたのである。

「この場所は久しぶり」

 アシュカが懐かしむように、棚や本の背表紙を指でなぞりながら言った。

「俺は、二度目かな」

 一度目は十年前に、アシュカを王都からさらった、もとい連れ出したときに一時身を隠すために忍び込んだときまで遡る。いまのサッシュには、あのとき感じたような恐怖も焦りもなく、ただ静かに時を経た書庫の独特な紙の匂いを感じていた。

 天窓の下、陽光の降り注ぐ滝壺に腰を下ろし、アシュカが空を仰いだ。

「昔はわがままが聞き入れられないと、よくここに閉じこもって皆を困らせた」

 どうしようもなかった我が身を苦笑するように彼女が言った。 それを聞いたサッシュも、出逢ったばかりの世間知らずだったそれこそ自分を神とでも勘違いしているのではないかとさえ思えるほどわがままな、アシュカの少女時代を思い起こす。

「それ、昔だけの話しか?」

 すこし嫌みを言ってやると、アシュカは頬をふくらませて言った。

「失礼な。いまは、それほどでも……」

 徐々に自信がなくなっていったのか、最後の方が弱々しい。

「ま。すくなくとも、いまはマリーアンと俺ぐらいだもんな」

 それ以外の者達とは散りぢりになってしまったとことを、あえて口にしなかった。

 ふたりは、しばし思い出話に花を咲かせた。アシュカは自分が幼い頃に落書きをしてしかられたという法術書を、棚から引っぱり出して見せてくれた。

 やがて十年前の出逢いの話しから、逃亡の旅の話しへと話題は尽きない。

 そういえば、サッシュがトゥエルヴに暗殺されかけていたアシュカ姫を助け出してここへ逃げ込んだとき、事態を理解せずに騒ぐアシュカを抑えるために口に当てた手を思いきり噛まれたのを覚えている。

 あのときは、アシュカよりもむしろサッシュの方が悲鳴を上げたかった。

 しかもあまりの出血に、傷口を押さえるハンカチなどを要求するサッシュに対してアシュカがとった行動は、自らの服の裾を裂いて渡すなどといった夢物語とはほど遠く、痛がるサッシュの手をつま先で蹴飛ばしながら、見下すことだった。

そして言い放ったのだ。

―――――――― おまえのような下民が、わたしに物を乞うなどおこがましい! その程度の傷なら、卑しいおまえは唾でも塗って治しなさい。

 そう言われた瞬間にサッシュは、こいつやっぱり殺されてもいいや、などと思わずには居られなかったのも、正直な話しだ。

 さらに付け加えるのなら、そのあと傷口は問題なく化膿した。

「あのとき、おまえがハンカチでも貸してくれてりゃ、もうすこしマシだったんだがな」

 サッシュが昔のことを持ち出して嫌らしく言うと、アシュカはむっとした顔で返す。

「ち、ちゃんとあとでハンカチを渡したじゃないか!」

 そう。傷口が化膿し始めて順調に発熱まで差し掛かった辺りで、ようやくお姫様は哀れな下民にお情けをくださったのである。

「ああくれたな。『きさまの醜い傷口を、わたしの視界にさらされるくらいなら、このアルヴァリの絹のハンカチのくらい、くれてやろう』とかぬかしてよ」

 当時の高慢な彼女の下手な物まねをしながら、サッシュが言った。よほど根に持っているのか、心に傷が残ったのか、一言一句 間違うことなく記憶している。

 ちなみにそのあとで、その代わりおまえはわたしの家来になると誓いなさい、とか言っていたのも、しっかりと覚えているサッシュであった。

「そ、そんなことまで覚えてないでよ!」

 顔を真っ赤にして、アシュカが両手を振り上げるようにしていった。その手から逃れるようにサッシュは一歩退く。

「ははは。でも、いまはすっかりだな」

 すっかり変わった。自分が中心に世界が回っているのではないこと、自分は人間で、ほかの人々も同じ心と血が通った人間だということを彼女は逃避行を経て知った。

 本音を言うと、サッシュは出逢った当時のアシュカが、どうしようもなく嫌いだった。 しかし殺されそうになっているのを見捨てるわけにもいかず、助けてしまったのだ。

 自分よりふたつ年上の暴君の、言葉遣いから立ち居振る舞いまで、すべてが気にくわなかったが、やがて彼女が世界を知り、自分の高慢を悟り、磨かれていくに連れてどうにもならない想いを懐くようになった。

 そしてそれは、アシュカも同じだったのだろう。彼女もまた、自分を歪んだ箱庭から連れ出し、腫れ物に触るように扱わず自分を叱りつけ、他人のことで喜び、自分と共に涙を流す少年によって、自分の心が変えられていくことに気付いた。 それは次第に、それまで少女の胸に沸き起こることのなかった、特別な感情をともなって。

 十年前の旅は、戦いと、苦しみと、別れの日々だった。それでも出逢いがあり、かけがえのない絆が結ばれ、そして辿り着くべき未来を確かに感じたのだ。

 どこまでも世界は広く、空は仰ぎ見るよりも高く、すべてが自由だと思えた。

 だが今は。いまは。

「そりゃあ変わるよな。十年だもんよ」

 当時はスラム街の片隅で泥と汗にまみれていた少年は、宮仕えの漢に成長した。

「十年、だものね」

 そして人の痛みを知ることの無かった少女は、心優しく美しい女性へと。ただ結び合っていたはずの言葉と心が、立場という壁によって遮られてしまった。

 アシュカは唇をぎゅっとむすんで、サッシュが話題を切り替えてくれるのを待つ。

「それにしても、勝手に邸を抜け出すなんて、あとでマリーアンに大目玉だぜ」

 床の上に乱雑に積みあげられた書物の上に腰掛けて、サッシュが言った。

 いつでもそうだ。サッシュはアシュカがこうしてほしいと思うようにしてくれる。

「こうでもしなかったら、ドレスの仮縫いにつき合わされるからな。仕方ない」

 そう言いながら、アシュカは棚にあった書物を手に取り、フッと埃を吹き払った。

「ドレスぐらい我慢してやれよ。議会の連中にうるさく言われるのは、おまえじゃなくてマリーアンなんだからさ」

 どうしてドレスをそんなにも嫌がるのか、サッシュはわからなかった。むしろその事で何かと苦しい立場にあるマリーアンの方が気の毒である。

 アシュカが身勝手なことをしても、彼女が直接害を加えられることはない。そのしわ寄せが、しっかりとマリーアンに向かうだけなのだ。

「いやなものは、いやなんだ。 なんだ、マリーアンの味方なんかして」

 口を尖らせて、アシュカがそっぽを向いた。彼女の言葉にさすがに引っかかるものを感じたサッシュは、身を乗り出すようにして言い返す。

「あのなぁ、誰もマリーアンの味方なんかしてないだろう? 俺はただ、おまえが無意味にドレスを嫌がると、彼女が困ることになるって言ってるだけなんだよ」

 できるだけ柔らかい言い方になるように気を遣ったが、眉間にしわが寄った。

「ほら、やっぱりマリーアンの味方してるじゃないか!」

 なにがそんなに気に入らないのか。アシュカの言葉にサッシュも思わず熱くなる。

「マリーアンの味方するとかしないとか、そんなことが重要なんじゃないだろう?」

 サッシュが言いたいことはわかる。だが、彼のわかっていない部分にアシュカは腹を立てているのだ。

「サッシュは何にもわかってない。自分の言ってることの意味、わかってない!」

 俯いて激しく首を振り、彼女の絹糸のような前髪が乱れる。

「マリーアンの味方するつもりがないなら、どうしてそんなに背中を押すような真似をする。どうして、平気でそんなことが言えるの」

 ついに彼女は自分の顔を両手で押さえるようにして、弱々しく背中を丸めて蹲った。

「アシュカ、おまえさっきから何言ってるんだよ」

 反射的に口にした言葉であることはわかりきっていた。だが相手が彼女だからこそサッシュは慰めるよりまず、その態度を見過ごすわけにはいかない。

「わたしが、ドレスを着てもいいの?」

 両手で覆い隠された向こうから、囁くようなアシュカの問いかけ。

 その言葉の意味するところが理解できず、サッシュは何も答えられなかった。

「ドレスを着て式典に出たら、わたし、絶対に普通の女なんだぞ?」

 わからない。いつだって、いまだって、アシュカは誰よりも女らしい。普通かどうかなんてわからないが、サッシュにとっては誰よりも。

「サッシュも知ってるだろ。毎年、式典にはいろんな人が来て、わたしを見た人は、男のなりをしてるからって、すこし引目にみるんだ」

 それは知っている。その事を気にしているなら、とんだ見当ちがいだ。 以前にも一度、おまえを外見だけで判断するようなヤツらは放っておけ、と言ったことがある。

 しかし、続くアシュカの言葉を聞いたとき、サッシュの表情は一変するのだった。

「もし普通の女として式典に出て、誰かに気に入られでもしたら、わたしは政略結婚の材料にされる。 議会だってわたしを早く国から追い出したがってるから、無理やりにでも事を運ぶに決まってる」

 まさか、の一言だった。まさか彼女の心配が、そんな場所にあろうとは。

「わたしが毎年この時期になると行く先ざきで、結婚、結婚って言われてるの知ってるだろ。 それなのにサッシュは、そのことを全然気にしてないみたいに!」

 覆われた手がパッと放たれ、彼女の涙を溜めた両目がじっとサッシュを見つめていた。

 か弱く、消え入りそうな表情で立ち上がったアシュカの目に、真実の想いがある。

 言葉を失った。彼女がドレスを嫌って男の服装を身につけるのは、動きやすいからだとか、ドレスのような形式を押しつけられるのが、いやだからだとばかり思っていた。

 いまにして思えば、アシュカのドレス姿など、サッシュにはめずらしくないことだ。彼女は場所柄と必要性を考えて、身なりを整えられる女性だから。

 しかし、それは内輪での話し。外の世界と接するときは、いつも男装だった。

 ドレスを着ない本当の理由が、外交材料として売り飛ばされるかも知れないという不安や、誕生日がくるたびに要らぬことを言われる反発心からきているなど、正直 考えてもみなかった。

 身なりを整え化粧をするだけのことでも、アシュカには重大な問題だったのだろう。

 サッシュは目の覚める思いだった。自分にはいつしか当たり前になっていたことが、彼女の心にはずっと生き続けていたのだろう。それも、すべてはサッシュ自身が言葉と態度で示すことを忘れてしまっていたことが原因なのだ。

 まるで枯れ草のように俯き佇むアシュカに歩み寄り、しっかりと抱き寄せた。

「ごめんな。無神経なこといって悪かった。おまえがそんなにも……」

 言葉が続かなかった。

 不安だっただろう。自分がマリーアンの味方をしている、とアシュカに言われて腹を立てたように、彼女にしてみればドレスのことを他ならぬサッシュに言われることこそ黙っているわけにはいかない、譲れないことだったのだ。

 そこへきて、昨夜のサイアスの話し。 これからどうなってしまうのか、先々への不安に拍車が掛かり、思わず気持ちが噴き出してしまったのだろう。

「勘弁してくれな」

 サッシュの腕に抱かれて、アシュカは胸の内が凪いでいくのを感じた。だが、口ではそれを表さない。

「いやよ。ちゃんと、安心させてくれなくちゃ」

 彼女の本音をさらけ出さしておいて、サッシュはそれを誤魔化すような安易な方法はとれない。だから、精一杯の言葉をさがすのだ。

「ああ大丈夫だ。ただおまえを、自分の気持ちを信じていたから。でもそれが、おまえを不安にさせてたんなら謝る。これからはもっと、ちゃんとするからさ」

 言っていることで、言おうとしていることが半分も伝わったかどうか。だがアシュカはそれを気持ちで受け止めてくれた。言葉の中にある想いを、理解してくれた。

「うん。ちゃんとしてよね、ハンカチ受け取ったときから家来なんだから」

 今度はアシュカが茶化すように明るい声をあげる。

 彼女の髪を撫でながら、サッシュは難しい表情を浮かべて視線を逸らした。

「そいつも、勘弁してくれ」

 ふたりが笑顔を取り戻したとき、扉をノックする音が聞こえた。

 大慌てでくっつき合った身体を離して、髪や服装の乱れを整える。

「入りますよ」

 ノックから随分と間があいて、ようやく扉が開かれた。声の主はギュスタレイドだ。

「サッシュ、こんなところで何をしている。おや、アシュカ様も」

 いま気付いたかのような口調だったが、お世辞にも彼は演技派だとは言えなかった。

「い、いやその。わたしが探し物をしていたので手伝わせていたのだ。もうよいぞエスメライト、ご苦労だったな。任務に戻るがよい」

 アシュカはその辺に放り出されていた本を、適当に掴みながら言った。

 堂々と振る舞おうとしても耳まで真っ赤だ。見ている方が恥ずかしいくらいである。

「は。それでは失礼させていただきます!」

 ぎくしゃくした敬礼をひとつして、サッシュはギュスタレイドの前に立った。

 ギュスタレイドは溜息をついて、目を伏せながら言う。

「おまえの部下が呼んでいる。それにしても、もう少し考えろ」

 それは明らかに事情を察している口調だった。

「あの、ギュスター。どうして俺がここにいるってわかったんだ?」

 サッシュは耳元でひそひそと訊いてみた。まさかの結果が出ないことを祈りながら。

 しかし、ギュスタレイドの口をついて出たのは、一番 聞きたくない言葉だった。

「あれだけ大声で騒いでいればな」

 そしてギュスタレイドは、サッシュの肩に手を置いて呆れたように言う。

「エスメライト、聞いた相手がわたしでよかったな。 節操を無くして、首からうえを無くすことがないように気をつけろ」

 これは彼流の冗談のつもりだろうか。まるで冗談にもなっていない言葉に、サッシュは逃げ去るように書庫を飛び出していった。

 それを見て、ギュスタレイドも書庫を去ろうとしたが、アシュカが呼び止める。

「ギュスター。その、サッシュは」

 どう説明すればよいのか迷っていると、ギュスタレイドはローブを翻し、胸の辺りに手を添えると、深々とお辞儀をして言う。

「ご心配なく。 議員の身と言えども、わたくしの忠誠は法王家にあります。それに、わたくしの耳は主君の望まぬ言葉は聞こえぬように出来ておりますので」

 この気遣いに、アシュカは笑顔でただ頷いて見せた。ギュスタレイドもそれだけで充分だった。

「ここの空気は不浄です。アシュカ様も、はやくお出になられたほうがよろしいかと」

 舞い上がっている埃を目で追うようにして、ギュスタレイドが言った。

 彼が去り、手にした本を置いてアシュカが書庫を出ようとしたとき、彼女の頭にふと戯れの空想がよぎる。

 いま入ってきたのがギュスタレイドではなく、サイアスだったらどうなっていただろうかと。そしてアシュカは、ぞっと青ざめるのだった。



 繁華街から裏町へと入り込んだサイアスは、腐臭と汚水にまみれた路地を歩いていた。路上には、生きているのかさえ疑わしい乞食が寝そべり、窓に鉄格子の填った煉瓦造りの建物は、売春宿の印である緑色の猿の絵が描かれている。

 かすかに漂う大麻の臭いと、そこかしこの暗がりから聞こえる乾いた笑い声。

 呻き声とも嗚咽とも取れぬ妖しげな声が風となって、腐りかけた人々の虚ろな表情のあいだを縫うように吹き抜けてゆく。

 ここは一瞬の快楽と魂を交換する場所だ。 どんな時代にも決して消えることのない堕落と欲望の渦巻く淵。法王庁が倒れたことによって、王都にはこうした淵が広がりを見せていた。人々の良心と倫理観は、平和という名の倦怠にゆっくりと毒され、刺激と興奮を求める貪欲さが芽吹きつつある。

 いかに強固な城壁も、どれだけ屈強な軍隊をも無意味にする内側からの崩壊。

 サイアスは世界中を駆けめぐり、国や人々が堕ちていくさまを幾度となく目の当たりにしてきたが、どんな困難のなかでも滅びる国はない。どの国も平和な日々のなかに、怠慢と惰眠とを貪りながら、ゆっくりと朽ち果ててゆく。

 平和を信じて疑わない人々の危機感のなさ、そして繰り返しの日々に飽食することで生まれる心の透き間に背徳が忍び込み、堕落へと誘うのである。

 どの国も滅びるさまは同じだ。同じように藻掻き、同じように腐り、堕落を内外への攻撃に変え、そして死ぬ。

 王都の中に生まれた闇を歩きながら、サイアスは堕天使の足音を聞いた気がした。

 だからこそ、手に入らぬ物がないという点ではこのような場所に勝る所はないのだ。社会の傷口から吐き出された膿は、やがてこうした暗部に流れ着く。

 アルフォンソや神々の標本に関する情報を集めるには、まっとうな商売をしている人間のつてより、掃き溜めに生きる亡者を当たるほうが確実なのだ。

 もちろん、ここで望むべき解答がすべて与えられるなどと思ってはいない。時としてまっとうな人間のつてのほうが、意外な角度から突破口を開いてくれることもある。

 どちらも大切なら、昨日の御者の口利きでは集まらないような人間には、こちらから会いに行くのが筋というものだろう。

 まずサイアスは、リンサイアの教会で養われていた頃に通い合った悪友のひとりを訪ねることにした。 十年前に賞金をかけられたサッシュを追うときなども、スラムや裏町の内情に詳しいその人物の力を借りたのだ。

 自分より五歳も年上の悪友は、神々の家では口にもされないような様々なことをサイアスに教え、当時思春期の多感な時期にあった彼を、素直ではない人間に成長させることに少なからず関与した。

 あいつは今どうしているだろう、などと考えながら歩くサイアスの腕に、不快な感触がまとわりついてきた。見ると、下着のように薄い布地を纏っただけの女が、サイアスの腕に胸を押し当てるようにして絡みついている。

 赤毛の女は妖しげな視線でサイアスを見上げ、その艶めかしい唇が囁く。

「ねぇ、あんた。特別に安くしとくからさ、明日の朝まであたしを恋人にしない?」

 露骨な言い方は、ときとして相手の機嫌を損ねるので、直接的な表現をさけたもののその言葉の意味するところは十分すぎるほどにわかった。

 もっとも、サイアスはどんな言い方をされようが、すさまじく機嫌を損ねただろうが。

「放しな」

 ほかの男ならば劣情をもよおすであろう、その女の身体を前にして、サイアスの腹には吐き気にも似た嫌悪感だけが込み上げてきていた。

 だが、ここで引き下がることは、ある意味でこの商売に賭けている彼女にとっては、敗北にも等しい屈辱なのである。必死に媚びるような眼差しを向け、言いすがった。

「そんなこと言わないでさぁ。まさかあんただって、ここに来たのは散歩のためだなんて言わないでしょう?」

 顔も合わさず、サイアスは眉間にしわを寄せた。巻き付く腕を引きはがしながら言う。

「触るな。 声をかけるなら、せめてその小便くせぇ香水を何とかしろ」

 この一言で、女は自分の頭に血が上るのを感じた。今までに言葉で蔑むことに快楽を覚えるような下衆な客の相手したことは何度もあるが、それはあくまで互いの利害の一致をみたうえでのことだ。一方的に、無感情に、さも当然のことであるかのように言い放たれたのは、初めてだったかもしれない。

「なんだい、そんなナリして聖者のつもりかい? こっちはあんたの女が、この街で客とる世話をしてやったってのにさ!」

 そう吐き捨てた女の醜悪な顔に、サイアスの強靱な腕が伸びた。喉元を鷲掴みにされ、そのまま壁を背にしてつり上げられる。

「いま、なんつった?」

 サイアスの口元には笑みがあったが、焦げ付くほどに怒りを宿した瞳を見ると、笑顔までが恐怖を掻き立てるものでしかなかった。

 まさか、ここまでキレるなど思いもしなかった。女が言ったのは、おふくろや兄妹などをだしにする、ごくありきたりな罵り言葉に過ぎなかったというのに。

 指が喉に食い込み、酸素の送られない頭は破裂しそうだ。自分の鼓動が不規則になるのを聞きながら女は必死にもがくが、その足は宙を蹴るばかりだった。

「え? 言ってみろよ、おい。 もう一度、その体液くせぇ口使って喋るだけだぜ?」

 陸にあげられた魚のように、女の口がパクパクと動く。放して、とその口は言っていたが、サイアスはさらに締め上げる拳に力を込めた。

 ギュッと、女の肺の奥から一握りの酸素が絞り出される。視界が白むのを感じた瞬間、ようやく自分を拘束していた腕が解き放たれ、空気が肺へとなだれ込んできた。

 路上に叩きつけられた女は、喉を押さえてゲホゲホと咳き込む。

「とち狂いやがって! あんたの女なんざ、こっちは見たこともねぇんだよ!!」

 女は怒りにまかせて本性をぶちまけた。先ほどまでの妖艶さなど、見る影もない。

 サイアスは身をかがめ、蹲って苦しむ女の耳元で囁いた。

「てめぇの口から出た言葉にゃ、覚悟がついてまわる。憶えとけ」

 そしてサイアスは何事もなかったように再び歩き出す。女はよろめき立ち上がると、逃げるようにしてその場を去った。

 口汚い捨てぜりふが背中に聞こえた気がした。

 らしくない、とサイアスは頭を掻いた。あれしきの罵声でここまで熱くなるとは。

 その理由は十分すぎるほどに自覚していたが、それでも軽く受け流せるはずだった。たかが商売女のくだらない負け惜しみ、それで済ませられたはずだ。

 この街の女は皆、事情があってその商売をしている。 人から後ろ指を指されるようなことだとしても、それを蔑むことができるほど上等な人間が、果たしてどれほどいるというのだ。

 しかし、サイアスは許せなかった。許せないと言う気持ちが身体を支配してしまった。アサルトを。涙するほどに自分を想い、そして今なお引きずるほど自分の心に染み込んだ女性を、あんな悪態のネタにされたことが許せなかったのだ。

 だがそれも、いまの商売女には関係のない感情。やはり、逆上しすぎたのである。

 目のまえに広がる町並みと怒りの残骸が交錯したような、ぼんやりとした意識がふいに現実へと手繰り寄せられる。

 目を向けた先には、ローブに身を包んだ人物の影が真っ直ぐにこちらへと伸びていた。

 サイアスは、自身のうちに眠る感情がわずかに首をもたげるのを感じながらも、ごく自然に、かつ慎重に間合いを詰めていった。

 危険な臭いを含んだ気配が、徐々に互いの空間を支配していく。

 ローブの人物が出現するのと同時に、サイアスの五感を激しく揺さぶる血の臭気を彼は感じ取っていたのだ。

 だが、ローブの人物はそんなサイアスの心構えなど悟る様子もなく、ゆっくりと足を進めてくる。そしてすれ違う瞬間、目深にかぶったローブの隙間から、わずかに低い男の声がサイアスに向けられた。

「にいちゃん、血が出てるぜ」

 それだけだった。ローブの男はそのまま大通りへと歩み去り、サイアスは思わず力を込めてしまっていた拳に目を落とす。

 先ほどボトルを握りつぶしてできた傷口から、紅い滴がしたたり落ちていた。

 随分と臆病になったものだ。自分からでた血の臭いを別のものだと勘違いし、正体のわからぬ相手を見ただけで、過敏すぎるほどの警戒心を懐くとは。

 サイアスが首を振りながら苦笑いを浮かべたとき、路地のあいだに突き刺すような女の悲鳴が響き渡った。弾かれるように、サイアスは声の元を辿る。

 意外にも、その場所は自分が目指していた悪友がねぐらとしていた古い建物だった。 扉に近づいたとき、中から女が血相を変えて飛び出してきた。

 おそらく叫び声の主であろう彼女は、サイアスに背を向ける形で近くの壁に手をつき、呻くようにして胃の中のものを吐き出しはじめる。

 開け放たれた扉から吹き出す血の臭いに、サイアスはある程度は現状を理解した。

 やはり、さっきのローブを着た男だ。来た道を振り返るが、間に合うはずもない。

 サイアスは慎重に、薄暗い陰影に沈む室内へと入った。鼻をつく濃い異臭。壁面から天上にまで飛び散った鮮血が、どす黒い闇を塗りつけたように奇怪な模様を描いている。

 サイアスの口元が歪んだ。その表情は笑みのようにも見え、食いしばっているようにも見える。室内の惨状を目の当たりにした彼の口から言葉が吐き出される。

「悪趣味だぜ、こいつは」

 まさか、この光景を王都で見ることになろうとは。不確定という楽観に、一分の希望も残さぬ解答をつきつけられた気分だ。

 間違いない。自分がシェルサイドの戦場で見た『アルフォンソの通り道』と同じ光景。

 部屋の向かい側に置かれたベッドの蔭から、呻き声が聞こえた。サイアスはすぐに声のした場所へと駆け、そこに会おうとしていた悪友の姿を見つける。

「マルス。俺だ、わかるか?」

 サイアスは腹部を抱え込むようにして座る男にそう呼びかけた。マルスと呼ばれた男の顔が、苦痛に歪みながらもほんの少しだけ持ち上がる。

「その声、サイアスか」

 床に溜まった血の海を見れば、マルスの目がすでに光を失っていることは想像がつく。だが彼にとっては、耳だけを頼りにサイアスを思い出すことなど容易だった。

 マルスにしてみれば、自分が気を許すことのできる数少ない友人だ。

「そうか、サイアス。おまえが来たってことは、どうやら間違いないな」

 掠れた声でそう言うと、マルスは自分の胸の内だけで何かに納得したようだった。

 サイアスは、そんな彼の腕をとりながら言う。

「喋るな。すぐにフォリエントの病院に連れていく」

 ひと目で、マルスが致命傷を負っていることはわかったが、アカデミーの医学とフォリエントの法術を使えば、助かる可能性はゼロではないはずだ。

 しかし、マルスはサイアスの腕を掴んで首を横に振る。

「部屋中に散らばってるハラワタをかき集めてちゃ、陽が暮れちまうよ」

 脂汗の噴き出す血の気のない顔で、マルスは口端をつり上げて笑った。 腹を抱え込むようにしていた腕の隙間から、空洞となった胴体が墓穴のように顔を覗かせている。

「何があった」

 静かに、呟くようにサイアスが言った。朦朧とした表情で、マルスは口を動かす。

「神々の標本。シェルサイドで暴れてたんだってな。 議会との交渉のネタに使えないかと思って調べてみたが、どうやら触れちゃならないトコまでいっちまったらしい」

 頭に霧がかかったように、考えがまとまらない。それでも必死に、マルスは残された時間を伝えることに使おうとしていた。言葉を吐き出すたびに血が顎をつたっておちる。

「法王庁に気をつけろ。やつら、もう街に来ているぜ」

 言った。言うべきことは間に合ったのだ。その直後、マルスの肺は激しく呼吸をはじめるが、肺が満たされることはない。身体は理由もわからぬままに末端から激しく震える。

「おい、目をひらけ、俺を見ろ!」

 サイアスの呼びかけは届かぬ耳でマルスは足音を聞いていた。近づいてくる足音を。

「なあ、サイアス! 何でこんなことになったんだ!?」

 マルスがサイアスに投げた言葉は、居るとわかっているのではなく、そこにいるのだと信じたがっているような言い方だった。

 どれだけ目を逸らしても、心の奥底からじりじりと這い上がってくる恐怖と後悔。

「いつだって、俺は貧乏くじだ!」

 意味もなく、想いに任せて首を振りながら、悲壮な言葉が喉を突き破る。

「これからだぜ、俺はこれからなんだ。そうだろう、サイアス!!」

 答えることはできなかった。ひとが死んでいくという痛みを目の当たりにしながらも、サイアスには痙攣して暴れ出すマルスの手足を、ただ押さえることしかできなかった。

 力を失ったマルスの首が、ゆっくりと俯く。垂れ下がった腕の中から、抑え込まれていた内臓がダラダラとこぼれて床に広がった。

 そして、男の瞳は闇に濁り、男の口は囁きを残す。

「こんなことなら、もっと……」

 それが最期だった。サイアスの友マルス・イジェは、三十五年の生涯を終えた。

 目を閉じる間際にマルスは何を悟ったのだろう。もっと、という言葉が取り返しのつかない現実の儚さを語っているように思えた。

 サイアスは友の顔をそっと撫で、半開きのままだった瞼を閉じさせる。

 物音ひとつなくなった室内で、次第に体温を失ってゆく友の亡骸をじっと見つめながらサイアスは言った。

「安心しなマルス。貧乏くじは、俺が代わりに引いてやる」

 俯く彼の肩で、布にくるまれたシャドゥブランドが重くなる。

 抜け落ちてしまったマルスの魂の残り香を吸い取って、シャドゥブランドはのし掛かるようにその重量を増した。それはあたかも使い手であるサイアスを押しつぶそうとする意志がその剣に宿っているかのようだ。

 戦いの中に生を見いだしているかぎり、サイアスは人の死から解放されることはない。それを目の当たりにするたびに、シャドゥブランドは彼の肩に深く食い込む。その死が紛れもない現実であることを教えるように、彼の背負った業を見せつける。

 立ち上がり、別れの言葉もないまま、サイアスは部屋を出た。

 人が死ぬなどありきたりなこの裏町でも、さすがにただならぬ雰囲気を感じ取ってか、外には野次馬が集まっている。彼らはサイアスを見るなり、その巨躯な男に威圧されて一歩退いた。 人だかりに、サイアスが歩く分だけ道ができる。

「てめぇら、そろって死体見物か?」

 サイアスが周囲を睨み付けながら言うと、人だかりは熱気を冷まして散りはじめた。マルスが殺されたことや、その現場が見せ物のように扱われることは許せない。

 人だかりが立ち去ったあと、先に部屋から飛び出して来て路上で嘔吐していた女の姿を見つけた。そして彼女の傍らには、サイアスに締め上げられたあの赤毛の商売女が、寄り添うようにしている。

―――――――― なるほど、そういう関係か。

 どうして、マルスの部屋から女が出てきたのか、いまになってようやく理解できた。

 サイアスは二人の前まで歩を進める。赤毛の女が彼に気付き、もう一人のおそらくは同業者であろう女をかばうように立ちはだかった。

 身構えて、サイアスを睨み付ける。

「なんだいあんた。またなんかするつもりかい!」

 そういわれても仕方がない。だが、いまはこの女とやり合う暇はなかった。

「されたくなかったら邪魔するな。俺は後ろのやつに話しがある」

 ちらりと彼女の方を振り向き、赤毛の女は目をむいて声を荒げる。

「言っとくけど、エーシュはあんたみたいな客はとらないよ!」

「そいつはいい心がけだ」

 苦笑いして赤毛を押しのけると、サイアスは彼女の背後にいる女に近づいて言った。

「マルスは、おまえさんの客か?」

 サイアスが訊くと、エーシュと呼ばれた女は小さく頷いた。背をかがめて顔を覗き込むと、二十代ではあるだろうが、まだ幼さの残る顔がブロンドの波のなかで揺れている。

「今日は、お昼からの約束で。来てみたら、その…」

 言葉を口にしながら、再び顔が青ざめていくのがわかった。おそらく、あの部屋の光景を思い出してしまったのだろう。サイアスは手短に済ませることにした。

「なにか見たか?」

 エーシュは首を振る。その表情にも嘘はなく、何も見ていないのは間違いなさそうだ。

「誰か、心当たりは?」

 サイアスにはある。しかし彼女が頷けば、それは彼女の身の危険も示す。その心配を余所にやはりエーシュは首を縦には振らなかった。その代わり、俯いていた顔をあげ、精一杯の勇気を振り絞るようにしてサイアスに聞き返す。

「あの、あのひとは?」

 予想はしていただろうが、それでも自分の耳で確かめたいのだろう。それがどれほどの傷を彼女に与えるかは、二人の関係からして予測は不可能だった。

 たとえどのような結果になろうと、彼女が望むならサイアスが口を噤む理由はない。

「死んだよ。でもまあ、あれだけやられてよく頑張ったな」

 よく諦めてしまわずに、自分に言葉を伝えてくれた。数分間とは言え、想像を絶する苦痛だっただろう。最期の叫びは、その代償のようなものだ。

 エーシュが顔を両手で覆うようにした。肩が震え、嗚咽のようなものが聞こえる。

「ちょっとあんた、この娘のまえで、もう少し言い方ってもんがあるんじゃないかい!」

 赤毛の女がエーシュの両肩を抱くようにして、サイアスに噛みついた。

「知るかよ、それが事実だ」

 そう言い残して、サイアスは歩き出した。心が冷たくなっていくのを感じた。

―――――――― てめぇの口から出た言葉にゃ、覚悟がついてまわる。

 エーシュには覚悟がなかったのだ。いや、例え覚悟があったとしても、事実を知って傷つくだけの想いが、そこに在ったのだろうか。

 少し歩いたとき、後ろから追いかけてくる足音があった。振り向くと、赤毛の女だ。

「なんだ。まだ文句が言い足りねぇか」

 もういい加減にうるさかった。自分の立ち居ふるまいが崩れるほどではないにせよ、マルスの死はサイアスの心にも少なからぬ影響を与えているのだ。

「あんたいったい何なんだい? 好き勝手に質問だけして、それでハイさようならって気に入らないね。その態度」

 そう見えるものなのか。だが、あれだけの目にあっておきながら、わざわざ文句を言いに追ってくる女の無謀さをみるに、その通りなのだろう。

「マルスには、昔から世話になってた。てめぇら商売女が口を挟むことじゃねぇ」

 煩わしそうにサイアスが言うと、女の平手がサイアスの頬を打った。痛みなどなかったが、正直 この女がここまでの態度をとる理由がわからない。

 女は何かの感情を押さえつけるように、顔をしかめながら声を絞り出す。

「たしかに、あたしはそうさ。だけどね、あの娘は違うんだよ。あのマルスって男が、最初で最後の客だったんだ! 事情も知らないヤツが偉そうに…」

 だからどうした、と切り捨てたかったが、それをさせない何かがあった。いつの間にか歩み寄ってきていたエーシュが、赤毛の隣りに立って言う。

「いいのよフェムア。それに、謝らなきゃいけないのはあたしだから」

 片手で赤毛の肩を引くようにしてエーシュがサイアスの前に立った。

「あのひと、あたしが弟の治療費を稼がなきゃいけないって言ったら『俺が、おまえを一生独占指名する』なんて言ってくれて、この仕事はじめてからは、あの人だけ…」

 懐かしむように、エーシュが語るのを見ながら、サイアスは彼女の切り替えの速さは、俺や赤毛に対する責任感からなのか、それとも彼女が女だからなのか計りきれなかった。

「あいつはそういう男だ。 それで、おまえさんらの思い出ばなしなんざ興味ねぇぜ?」

 言いたいことがあるなら早く言え、という意味だった。エーシュの表情が途端に曇る。

 気丈に張っていた胸が下がり、開かれた眼には涙が滲んだ。

「でもあたし、弟なんていないんですよね。それどころか親の顔だって一度も見たことないんだもん。この仕事するはめになったのも、もとはといえば付き合ってた男に、借金おしつけられたからだし。でもあのひと鈍いから、あたしのウソをまるごと信じ込んで、おまけに『商売なんかじゃなくて、おまえと居たい』だなんて言いだして……、ばかみたい」

 無理して笑うように言いながらも、ぽろぽろと涙の粒がこぼれ落ちる。

―――――――― なるほどね。 お互いさってわけか。

 今さら、残された者がなにを吐き、どう思ったところで、死んだ者には伝わらない。それが生きていることと、死んでいることの唯一の壁だ。

 わかっていても、心は叫ぶ。割れるほどに、引き裂かれるほどに。

「ホントのこと、話すつもりだったんです。 今日じゃないけど、でも、絶対に」

 喉が詰まるように、言葉が途切れた。赤毛のフェムアが慰めるように、俯くエーシュの髪を撫でる。エーシュは大きく深呼吸し、言葉を振り絞る。

「そしたら、言うつもりだった。こんな関係じゃなくて、ずっと傍にいたいって」

 そう言って両手でしきりに涙を拭いながらエーシュは、ごめんなさい、とくり返した。それが誰に向けられた言葉であるのかは、サイアスはあえて考えない。

 ただ、マルスのことを鈍いと言ったエーシュの言葉に違和感を覚えただけだ。 彼の知る限りでは、マルスは鼻の利く男だった。だから、彼女がウソをついていることも、それを気に病んでいることも知っていて、それでも彼女に自分を選んでもらおうとしたのではないか。客として接するマルス自身が彼女を選ぶのではなく、全部をひっくるめて彼女に選ばれることを望んだのではないだろうかと勝手に思うのだ。

―――――――― こんなことなら、もっと。

 もっとの後に続くのは、早く彼女に知っていると告げていれば、彼女が気に病まずに済んだのではないかという、マルスらしい想いだったのではないかと、勝手に思う。

「できればそいつは、生きてるうちに言ってやりたかったよな」

 サイアスが呟くように言った。マルスにもエーシュにも。どうにもならないことだが、言葉にせずにはいられなかったのだ。

「あとは、せめて生きてるヤツが出来ることを、やるだけさ」

 そう言ってポケットに手を突っ込むと、札束を鷲掴みにしてエーシュに差し出す。

「なんのつもりだい?」

 涙にむせぶエーシュの代わりに、フェムアがサイアスの意図を質す。 生きているヤツが出来ること、という彼の言葉に哀れみや同情を感じたのだろう。

「勘違いするな、マルスの葬式代だ。辛気くせぇのは嫌いなヤツだったからな。せいぜい楽しく送ってやれ。残った分は手間賃だ、好きにしな」

 そう言って、サイアスはエーシュの手をとると、強引に札束を握らせた。突如として手のなかに落ちてきた額の多さに、傍らで見ていたフェムアでさえ声をあげる。

「ちょっと、いくらなんでも、こんなには受け取れないよ」

 らしくない言葉だ、と彼女自身もわかっていたが、この金は彼女がいつも仕事で稼いでいるのとは、違う物のように思えてならなかった。そしてエーシュも。

「気持ちは嬉しいけど、せめてお葬式は、あたしにあげさせてください」

 サイアスは彼女たちに背を向け、歩き出しながら言う。

「マルスのやつは『おまえを一生 独占指名する』ってぬかしたんだろう? 一生にゃあちいと額が足りねぇが、いまはそれで勘弁してくれ。 とはいえ、こいつは口止め料も込みだ。憲兵には届けるな、巻き添えを食うぞ」

 残されてしまった人間への同情でも哀れみでもなく、ましてや死者へのそれでもない。サイアスとマルスという不器用な男同士の友情だった。

 肩越しに振り返り、サイアスは笑いながら言う。

「それからフェムアとか言ったか? おまえさんは、もっとマシな服を買え」

 あれほどの仕打ちをしておきながら、いまはそんなことを軽く言ってのけるこの男。どういうつもりか知らないが、フェムアは彼を不思議な男だと思った。

 それから二人は、まずマルスの遺体を拾い集めることから始めることにした。

 一方、大通りへと戻ったサイアスは、流れる人波にローブの男の気配を捜しながら、握りしめた拳をコートのポケットに突っ込んだまま歩く。

 あの二人に渡した金のうち、どれほどが実際にマルスの葬儀代として使われるだろう。拘るわけではないが、死んだ者にしてやれることなど何もない。悲劇に直面して、気が動転しているときには、同情や後悔のはけ口を善行に向けたくなるものだが、冷静さを取り戻すにつれて心は現実を見るものだ。

 フェムアが口にした、こんなには受け取れないよ、という言葉。彼女自身はそこまで面倒をかけられない、と言いたかったのだろうが、あえて言うならその言葉には、葬式にこんなに金をかけるのか、という気持ちがあったはずだ。

 悪いことではない。この先を生きていくのは残された者達だ。死んでしまった者は、たとえ天国や地獄が待っているとしても、ひとつの結末を向かえてしまったのだから。

 むしろサイアスの本音をいうなら、一銭たりともマルスの葬式に金を使うべきではないのだ。ふたりの前では言わなかったが、いまマルスの言葉を聞くことが出来たなら、おそらくそんな無駄なことに金を使わずに、新しい人生を生きるために使え、と言うに違いない。

 買いかぶりかも知れないが、マルスは間違いなくそういう男だった。

 いつだったか、マルスがまだ裏町に顔を出すだけの不良青年だった頃の話しだ。

 イカサマ博打の借金がもとで、胴元のチンピラ集団に娘をとられそうになっている男を助けたことがある。マルスはサイアスと二人で賭博場を襲撃し、ありったけの金品を強奪して男に持たせた。それこそ、国外に逃亡するには十分な金額だっただろう。

 その金を渡そうとしたとき、男は妻と娘を見て自分の犯した過ちを悔いながら言った。

『やつらの汚れた金を受け取ってまで、生き延びようとは思いません。妻と娘が逃げるだけの金はありますので、わたしはここに残って犯した罪の償いをします』と。

 男にしてみれば、自分が逃げてしまった後に、マルスとサイアスが報復を受けるのを気に病んでのことだっただろう。そしてなによりも、彼なりの誇りがそうさせたのだ。

 だが、マルスは胸を張った男の顔面を殴りつけたのである。そして言った。

『金に綺麗も汚ねぇもないんだよ、てめぇのような汚ねぇ人間がいるだけだ』

 マルスはよろよろと立ち上がる男の髪を掴んで、強引に引き揚げた。男の妻と娘が、彼をかばうようにしてマルスにすがりついている様子を、サイアスは黙ってみていた。

『てめぇの欲で博打うって、家族まき込んで身を崩したバカが、いまさら綺麗事ぬかしてんじゃねぇよ。てめぇの膿んだ脳ミソ使って考えろ。てめぇにできる償いは、ドロをかぶってでも這いつくばってでも、今度こそ家族を幸せにしてやることだけじゃねぇのか』

 眼を開かれたのだろうか、それともただキレたマルスが恐ろしかったのか。男は無言のまま何度も頭を下げ、そして金の詰まった鞄を手にしてこの街を去った。

 激したマルスが落ち着きを取り戻した頃、サイアスは彼の肩に腕を回して言った。

―――――――― あんたの台詞はクサすぎる。

 そう言って、二人で大笑いしながら月の下を歩いたのを、よく覚えている。

 サイアスの襲撃を受けたチンピラどもが、彼らに報復することなどなかった。彼らと戦って命があっただけで満足したのだろう。しばらくして、マルスは裏町で情報の流れを飯に変える商売をはじめ、自分は賞金稼ぎ稼業へと流れていった。

 彼の思い出を回想し、あらためてマルスが死んだということを思い知らされた。

 いつだって、失ってから気付く。それがどれだけ自分のなかで大きな場所を占めていたのか。愛さえあればとか、物より思い出などという綺麗事は虚しく、意味を持たない。人は必ず感情の先に存在を求めるからだ。

 感情にも、思い出にも、向かうべき先があるからこそ満たされる。

 サイアスの中で、砂のようになった思い出が浮かんでは消えてゆく。悲しみはない。あれは悲しまれることを嫌う男だったから。悔しさもない。あいつの気持ちを理解するには、サイアスという男は一人で歩くことに馴れすぎていたから。

 ただ決意がある。いや、覚悟という表現の方がずっと真に近いだろう。

 大きな声で言うつもりなどない。自分の胸の内で失わぬようにすればそれでいいのだ。

「……いつのまに、俺ってやつぁ」

 そう呟いて、マルスのような考え方をするようになってしまった自分に苦笑いした。だが今だからこそ、いつよりも誰よりも、マルスの気持ちがわかる気がする。

 落ち着いた足取りで、サイアスは法王庁舎へと続く街路を歩き始めた。



 午前中の会議が終わり、ギュスタレイドは昼食をとるために宮殿の中庭へと出た。

 晴れ渡る空とは対照的に、彼の心は憂鬱だった。理由は、いまから口にする昼食だ。

 かつて自分が王宮警護隊の隊長をしていたときに親しんだ、中庭にある噴水は、今はただの藻のはった溜池になってしまっている。

 宮殿の二階に当たる窓を見上げると、そこには語らいながら軽食を口にする議会員達の姿が目に入った。彼らの食事は、もちろんギュスタレイドの分も含めて、二階の食堂に立食形式で用意されているのだ。

 だがギュスタレイドには、他の者と同様にそこで食事をとれない理由がある。

 噴水の縁に腰掛けて、ギュスタレイドは両手に抱えた包みに目を落とした。

 これから不器用に結ばれた布を解き、そのなかにある箱を開かなければならないかと考えるだけで、彼の気分はますます沈み込むのだ。

 ギュスタレイドが深い溜息を吐き出したとき、前に立った誰かの影がギュスタレイドに日陰をつくった。

「おいおい、なに辛気くせぇツラしてんだよ」

 そう言われて顔を上げると、サイアスが自分を見下ろしている。しかし、サイアスが期待したのとは裏腹に、ギュスタレイドは突っかかる様子もなく俯いた。

「なんだ、おまえか。今日はどうした?」

 魂でも抜かれたように、ぐったりと項垂れてギュスタレイドが訊いた。

「いや、おまえがどうしたよ。不気味なくれぇ顔色わりぃぜ?」

 個人的な感情は別にして、サイアスはギュスタレイドを気遣った。思わずそう言ってしまうほどに、ギュスタレイドの表情は暗かったのだ。

 不可思議な笑みを浮かべて、ギュスタレイドは虚ろな眼で答える。

「なに、いまから昼食を食べようとしているだけさ。なんなら、おまえもどうだ?」

 そう言って、手にした包みをくいっと持ち上げて見せるギュスタレイドには、なにか人知を越えた危険な雰囲気が充満していた。

「おまえら議員は、うえでメシ喰うんじゃなかったか?」

 サイアスは、あえて包みについては触れずに、さっきギュスタレイドも見上げていた二階の窓へと眼を送った。ふっと消え入るように息を吐き、ギュスタレイドが俯く。

 それができたらどんなにいいか、と心の中で呟いた。口に出してはこう答える。

「ああ、そうさ。 だが、今朝は妻に弁当を渡されてしまってね」

 言いながら、ギュスタレイドは結び目を解きにかかった。中からは黒塗りで立方体の弁当箱と思わしき物体が姿を現す。それを見ながらサイアスは呟いた。

「チェシーが作った弁当、か」

――――――― こえぇな。

 サイアスは、昨日 久しぶりの再会を果たしたギュスタレイドの妻の顔を思い出す。

 その表情を見て、ギュスタレイドは彼がすべてを理解してくれたのだと悟った。

 そうだとも。どう視点を変えてみても、彼女は料理ができる女じゃない。それどころか、サイアスが王都にいた当時から結婚直前にいたるまで、彼女は普段口にする料理は『料理の樹』なる妖しげな植物になる実なのだと信じていた。魚に至っては、ソテーやテリーヌになった状態で海を泳いでいると信じていたほどだ。

 そんな人間が作る『手料理』。それはまさに神のみぞ知る神秘の領域だろう。

 ギュスタレイドの表情が絶望的なのも、どこか納得できてしまうサイアスだった。

「だがよギュスター、そんなに喰いたくねぇなら、受け取らなきゃよかっただろう」

 しかしそこがギュスタレイドという男の、不器用なまじめさなのだろう。

「あいつが早起きをして、わたしのために精一杯作ったんだぞ。出かけるときも、指が包帯だらけになった手を振りながら、笑顔で」

 思い出すように、彼は自分の両手を見つめた。

「そこまでして妻が作ったものを、むげに断るなど、わたしには……」

「なら黙って喰えよ」

 サイアスがさらっと言うと、ギュスタレイドは凍り付くように止まった。いま彼の心のなかでは、すさまじい葛藤が渦巻いているであろう。

 そして導き出された答えは。

「ならばサイアス、貴様ためしに口にしてみるか?」

「いや、ひとさまの愛妻弁当なんぞに興味はねぇ」

 そう言ってサイアスは軽く受け流したが、ギュスタレイドの目はマジだった。

 なにもそこまで、と思うサイアスに彼は続ける。

「わたしは以前、彼女の作った『クッキー』なるものを口にして、天界への階段をのぼりかけたことがあるぞ……」

 これは彼の下手な冗談なのか、それとも真実なのかサイアスには判断がつかなかった。

 あり得ねぇ、と言い切ってしまえない未知の領域が、そこに広がっている。ギュスタレイドは額に手を当てて、悩み込むように背を丸めて言った。

「情けないと笑わばわらえ。だがもう二度と、これを口にする勇気はない」

 チェスカニーテは、自分が弁当を食べなかったと知れば悲しむだろう。しかし、自分は午後も議事を控えている身。ここで身体を壊して退席するわけにはいかない。

 がらにもなく、そんな些細なことで悩むギュスタレイドを見て、サイアスはどういうわけか、心が和むのを感じた。堅物で無機質な考え方しかできなかったギュスタレイドが、あの手のかかるチェスカニーテと結ばれて、いままでにない悩みや、喜びを知ったのだろう。そしてそれが、また一回りギュスタレイドの器を大きくしたように見えた。

 誰かと人生を共に歩くと言うことが、どういうことなのか、そのひとつがこれだ。

 そんなことを考えていると、サイアスは自分も館を出るときに、マリーアンに包みを渡されたことを思い出す。

「ああ、そういや俺も、アシュカんとこのメイドに持たされたんだった」

 そう言ってサイアスが懐から取り出した包みには、『ベルポリ』という軽食が入っていた。薄く焼いたパンに、ハムや鶏肉などの具材を挟んだシンプルな料理だ。

 それをじっと見つめながら、ギュスタレイドは言う。

「マリーアンが作ったのか。彼女の作る料理は絶品だからな」

 その言葉は、どこかうらやむようにも聞こえたが、サイアスはなにも言わずに、一口頬張って見せる。しかもわざとギュスタレイドに見せつけるように。

 ぐっ、とギュスタレイドが息を殺すのが聞こえた。

「サイアス、恥を忍んで言おう……。交換してくれないか。この弁当で足りなければ他の昼食代を持ってもいい!」

 一瞬 冗談かと思ったが、どうやらまんざらでもないらしい。まさかギュスタレイドともあろうものが、そんなことを言い出すとは。

 しかしサイアスは、ギュスタレイドの考えを見透かすように言った。

「そうやってチェシーの弁当おしつけて、当の本人には知らぬ存ぜぬで通すつもりだろうが、そんなせこい真似するもんじゃねぇぜ」

 ギュスタレイドがここまで恐れる弁当、その中身に好奇心が湧かなかったわけではないが、あえて危険だとわかっているものを選ぶ必要もない。

 しかも、そのことで困窮する相手がギュスタレイドならなおさらだ。

 ギュスタレイドは乱れた前髪をさらりとかき上げながら、鼻で笑って言う。

「ふっ。学のない貴様に良い言葉を教えてやろう。『友への恩は三日で消えるが、敵への恩は生涯の利得』といってな……」

 もう何を言っても言い訳にしか聞こえないが、それでも本人はさっぱりしたものだ。それを聞いたサイアスは、ギュスタレイドに見向きもせずベルポリをかじりながら言う。

「『敵はつぶせるときにつぶせ』って言葉もあるがな」

 きれいに返されて、ギュスタレイドは返す言葉がなかった。しかたがない、昼食は諦めてチェスカニーテには花束でも買って帰ろうか、などと考え始めたとき、サイアスが弁当箱を顎で指して言う。

「とりあえず開けてみろよ。その『クッキー』のときよりも、上達してるかも知れねぇじゃねえか」

 本気でそう思っているわけではない。ただ、ギュスタレイドに対する意地悪を楽しむ気持ちよりも好奇心の方が勝っただけの話しだ。

「ほんとうに、いいんだな?」

 押し殺したような声で、ギュスタレイドが念を押した。黙って頷くサイアス。

 弁当箱のふたに手が掛かり、ゆっくりと持ちあげられていく。ふたと箱とのあいだに隙間がひらくほど持ち上がったとき、そのわずかな空間から、内部に溜まっていたと思わしき紫色のガスが溢れ出した。

「うおっ」

 思わずサイアスの喉の奥から呻き声が漏れる。箱から溢れ出したガスは、通常の大気よりも重いらしく、這うようにして地面へと落ちて広がっていく。

 もう中身を見なくとも、それが食物でないことは十分に思い知ったが、ここまで開いたふたを、もとに戻させるつもりはなかった。ギュスタレイドの手が上へ上へと引き揚げられ、やがて箱の内部が白日のもとに現れる。

 箱に詰まっていたのは、昆虫を思わせる質感と脳味噌のような形状をもち、ぬらぬらとした妖しげな粘液に包まれた物体だった。紫色のガスはこの物体から発生しているらしく、時折 それの表面が泡立ち、破れてガスが立ちのぼっている。

「……やべぇな」

 ぼそりとサイアスが言った。ほかに表現する言葉が見つからない。

「妻の料理の腕は、まったく変化がないと見るべきだな」

 腹をくくったギュスタレイドは、自分でも驚くほどに冷静だった。

「見た目より味。彼女にそんな言葉をかけてやれればいいのだが、残念だ」

 本当に残念そうにギュスタレイドは息を付いた。サイアスは物体とギュスタレイドを交互に見ながら、想像を巡らせる。

 彼はクッキーを食べて階段をのぼりかけたと言っていたが、そのときから料理の腕に『まったく変化がない』のなら、つまりクッキーもクッキーにあらず、ということだ。その自称クッキーをギュスタレイドは『食べた』ということになる。

 いくら愛する妻がつくったからといって、こんなモンスターの臓物のようなものを、口に運ぶことのできる猛者が、いったいこの世にどれほどいるだろうか。

―――――――― すげぇよ、おまえ。

 おかしな話しだが、サイアスは腹の底からギュスタレイドを見直した。ある意味ではこいつは何ものをも恐れない本物の男だ。

 心の中で感心していると、ギュスタレイドが箱をサイアスに差し出して言う。

「ためしてみるか?」

 これはサイアスに対する挑戦なのだろうか。いや、ギュスタレイドは冗談のつもりだっただろうが、サイアスはそれを挑戦と受け取った。

 男なら、ここはいくべきだ。それが、どれほど無謀な賭けであろうと。

 指で物体の端っこを小指の先ほど千切って、サイアスは口へと運ぶ。舌の上に乗った瞬間に広がる言いしれぬ未知の悪臭と、激しい痛み。頭の中でどんなに努力しようとも、身体がそれを咀嚼し飲み込むという行為を拒絶した。

「うっげ!」

 吐き出された物体は噴水の池に落ち、その水を紫色に濁らせる。

「わかっただろう、飲み込むと本当に階段を見ることになる…」

 ギュスタレイドは経験でものを言った。あのときは、それを嚥下するところまでは、なんとか努力したのだが、その直後に意識が霧散していったのだ。

 それを聞きながら、サイアスはしきりに唾を吐き出し、不快な刺激を中和しようと、手にしたベルポリの残りを口に押し込む。

 チェスカニーテの料理がサイアスの舌に与えた強烈な刺激は、ほかの味を感じられなくなるほどに、彼の味覚器を破壊していた。慌てて口に詰め込んだせいで、乾いたパンが引っかかり、サイアスはどんどんっと思い切り自分の胸を叩く。

ベルポリをふたつ口にしてようやく、破滅的な味がマリーアンの手料理の力によって緩和され、サイアスは落ち着きを取り戻すことができた。

 それでも鼻腔にこびりついた臭気を追い出すために、彼はポケットの中を乱暴に探り昨日ジュオンに渡したのと同じ飴玉をひとつ取り出すと、すかさず口に放り込んでガリガリと噛み砕く。ハッカの刺激が、澱んだ鼻腔と気管を洗い流すように下っていった。

「ダメージでけぇよ。身体だけじゃなく、精神も根こそぎやられる」

 ようやく吐き出された一声がこれだった。表面的には、なんとか回復したかのように見えるサイアスだが、彼の心臓は異様に脈打ち、ぜぇぜぇと荒く息をしている。

「おいギュスター、新しい兵器として議会に提出してみちゃあどうだ」

「サイアス、わたしはそんなことができるほど、鬼畜ではない」

 これを使用される相手の身になれば、これほど非人道的な兵器が他にあるだろうか。そんなことを考えながら、ギュスタレイドは丁重に弁当を封印した。

 乱れた服と髪を正し、額に浮かんだ脂汗を拭いながらサイアスは言う。

「ギュスター、今のうちから言うべき時は、びしっと言っとかねぇと命落とすぜ?」

 これは何の嫌みでもなく、知人としての忠告だった。たしかにサイアスはギュスタレイドのことを気にくわない野郎だと思っているが、死んでほしいとまで思ったことは、今までだってほとんどない。

 ギュスタレイドもその忠告は素直に受け止め、それでもなおこう答えた。

「それはわかっているのだが、おまえも知ってのとおりチェスカニーテはああいう娘だ。しかも夫婦であるとなれば、その、なにかと難しくてな…」

 サイアスには理解できない、男と女の事情というものがあるのだろう。それにきついことを言って、彼女を傷つけてしまうことを、ギュスタレイドは気していた。

「なに甘めぇことぬかしてんだ。優しいだけじゃ、しつけにはならねぇぜ」

 まるで小動物でも扱っているような言い方だ。

「それにな、相手を思うなら、はっきり言うべきこともあるだろう、人として」

 これを聞いて、おまえが人を語るか、と思わずギュスタレイドは笑ってしまった。

「妻も子もないおまえが、大きいことを言ったな。聞こうじゃないか」

 子ども嫌いで、特定の異姓以外には、まったく興味を示すことがないサイアスという男に、どれほどの策があるのか、ギュスタレイドには純粋に関心があった。

 サイアスは、そうだなぁ、と考えるように視線を泳がしてから、唸るような声で言う。

「『てめぇ、誰のおかげでメシ喰えてると思ってやがるんだ。いい加減に俺の足引っ張るのやめろや、このアマ!!』って、いっぺん言ってみろ」

 さあ言ってみろ、と促すようなサイアスをじっと見つめてギュスタレイドは言った。

「いや、夫婦とか以前に、それを口にしたら終わりだろう、人として……」

 少しでも期待した自分がバカだった。やはりこの男には人間関係を形成するうえで、もっとも重要である要素が欠落している。ギュスタレイドは改めて思い知らされた。

「けっ、臆病もんが。言えば一発で解決するってのによ」

 つまらなさそうに言うサイアスに、まじめな表情になってギュスタレイドが訊く。

「それよりサイアス、なにがあった。まさか、わたしをからかいに来たのでもあるまい」

 ようやく、切り出せる雰囲気になった、とギュスタレイドは思っていた。サイアスがここに現れたときに、いつもと違うことには気付いていた。自分も気が滅入っていたが、サイアスは何か重いものを拾ってきたような、そんな雰囲気を放っていたのだ。

「おまえが、わたしとバカをやりたがるときは、必ずなにか裏があるならな」

 今までもそうだった。そうやって自分の気持ちを整えて、そして言うべき時を探すのが、不器用なサイアスという男のやり方だ。

 サイアスの表情も先程までのおちゃらけた雰囲気がなくなり、眼差しが真剣な男の光を宿す。その目でギュスタレイドを見ると自分を見返す彼の目は、そろそろいいだろう、と言っているようだった。

 ギュスタレイドの眼に応えるように、サイアスは空を見上げて言う。

「マルスが死んだ」

 それが意味するところを、ギュスタレイドは理解しようとした。そして問い返す。

「マルスというと、裏町の情報屋だな。おまえの、恩人だった男か?」

 直接の面識はなかったが、以前に何度か名前を聞いたことがある。数回の逮捕歴があり、要注意人物として人相書きが王宮警護隊にまで廻ってきた。

 そしてなにより、サイアスの口から何度か彼について語られたことを覚えている。

「恩人ってほどじゃねぇが、まあ、たしかに世話にはなったな」

 そう言って口元を綻ばせるが、その笑みは悲しみの色を漂わせていた。

「今回の一件で、なにか掴んでねぇかと思って会いに行ったんだが、先を越されてな」

 大体の事情は察しがつく。それと同時に、ギュスタレイドは確信めいたものを感じた。

「神々の標本に関わりがある者の仕業か?」

 あえて遠回しな表現を用いたのは、ギュスタレイドの中にも恐れがあったからだろう。訊かれたサイアスは首を振って答えた。

「いや、そのものって言った方が正しいな」

 サイアスは、シェルサイドで知ったアルフォンソの存在や、マルスが死の淵で残した言葉をすべてギュスタレイドに伝えた。もはや確信も確証も存在する。ギュスタレイドは押し黙ってそれを聞いていたが、残らず聞いたあとで深呼吸をして言った。

「確かに、神々の標本を使いこなしているとすれば一騎当千。戦況を覆すことなど造作もないことだろう。だがわからぬのは、それだけの力を持っていながら、どうして今更リンサイアに拘るかということだ。法王庁もアカデミーも潰れた今となっては、この国には何の利用価値もないはず」

 そうだ。過去の復讐も果たされ、国力も低下した今となっては、リンサイアに舞い戻るより、神の力を使ってシェルサイドや他の国々で権力を握ることの方が、よほど利用価値があるように思える。

 アルフォンソという男がどのような経緯で、神々の標本を手に入れたのかはわからないが、直接王都に乗り込んできたとなれば、それだけの理由がどこかにあるはずなのだ。

 ギュスタレイドが答えを探してサイアスを見るが、彼にもそれはわからなかった。

「いずれにしても、やつの狙いが法王庁にあるってのは間違いなさそうだ。狙われるとすれば、アカデミーの研究資料くらいなもんだが…」

 二十五年前、神々の標本から採取された物質によって、フォースを攻撃的に利用できる能力を引き出す魔導が発見された。神々の標本を用いて、魔導師を量産することが目的だとすれば合点はいくが、今となってはそれは不可能なのだ。

「研究資料はすべて我々が処分した。もうどこを探しても、紙切れひとつ出ては来ない」

「…だよな」

 トゥエルヴとの決着が付いた後、ギュスタレイドはサッシュやアシュカと共に、魔導に関係するすべての施設と資料を極秘裏に処分した。もうあれは、誰の目に触れることもないはずだ。それこそ、魔導師をつくりたいなら自分たちで研究をやり直すしかないのだが、それができるだけの力を もっているなら、なおさら自分たちの挙動を悟られる危険を犯してまで王都に出向いたりはしないだろう。

 考えられるとすれば、まだ研究資料が王都にあると思いこんでいるか、それとも自分たちさえ知らない何かが、法王庁に隠されているかのどちらかだ。

 サイアスはそうした諸々の要素を考慮しつつ、とるべき道を考えることにした。

「まあ、これで状況ははっきりした。あとはどう迎え撃つかってことだ」

 ここで厳戒態勢をとって敵の動きを封じても、それが長引けば不利になるのはこちらとわかりきっている。第一、神々の標本についての説明が議会には通らないだろう。

 法王庁が議会にも国民にも隠し続け、そしてこれからも隠しとおさなければならない真実が、どのほつれ目からこぼれ出さないとも限らないのだ。

「今夜からは、俺も夜警に出る。さすがに、サッシュや情けねぇ王宮警護隊のガキどもに任せられる状況じゃなくなったんでな。話しはおまえがつけてくれ」

 サイアスがギュスタレイドに言うと、彼は頷いてみせる。とにかく今は、それくらいしか思いつかなかった。現段階ではギュスタレイドの考えも同じだ。

「わかった。だが、アシュカ様の邸の警護はどうする。トゥエルヴに関係のある人間が襲われる可能性は十分にあるぞ」

 ギュスタレイドの言葉に、サイアスはなにか忘れているという引っかかりを感じる。

 落ち着いてすこし考えると、すぐにそれが何だったか思い出せた。

「そう言えば、アシュカ見なかったか? あのメイドが探してたんだが…」

 マリーアンに心当たりを捜す、と言って出てきたのだった。それを言われたギュスタレイドは溜息まじりに、親指で背後を指して答える。

「安心しろ、今はエスメライトと一緒だ。 急な『王宮警護隊の訓練視察』でお見えになった」

 なるほど、勝手に出てきたと知れるとまずいので、視察と言って誤魔化したわけだ。

 だがマルスが白昼堂々と殺されたことを見れば、彼女の行動はかえって運が良かった。

「それで、どうするんだ。わたしが何とか議会に話を付けて、騎士団の派遣を要請することもできるが……」

 かといって、特別な警護を派遣して敵に気とられるのもうまくはない。 仮に議会を説得して騎士団を派遣できたとしても、その理由が『何者かが法王庁舎ならびに関係者への襲撃を企てているようだから』などという曖昧な言葉だけでは小規模なものになることは否めないだろう。だからといって、神々の標本のことを言うわけにもいかないのだ。

「自分の身は自分で、と言いてぇが、そうもいかねぇよな」

 第一、それではサッシュが黙っていないだろう。まったく面倒なものだ。オリヴィアと別れた自分の身軽さに、サイアスは今だけはその方がよいと思わざるを得なかった。

 それに、アシュカの邸にはマリーアンもいる。最悪の場合でも、無関係で事情もろくに知らない人間を巻き込むのは、やはり避けねばならないことだ。

「それじゃあ、邸のほうはサッシュと俺が交代で……」

 言いかけたところで、サイアスは何かを思い出したて、あっ、と呟いた。

「どうした?」

「そういやぁ今夜、ちょいと用があるんだ」

 昨日、御者の少年に頼んだ人集め。いまさら断るわけにもいかないし、その場で新しい情報が手に入れば、敵の出方を待たずに先手を仕掛けることができるかも知れない。

 長い銀髪をかきむしりながら、サイアスはどうしたものかと考えを巡らせる。

「なあギュスターよ、しばらくあのお嬢ちゃん、おまえのところに預けられねぇか?」

 何を言い出すかと思えば。いまのギュスタレイドがそれができる立場ではないことくらい、いくらサイアスといえどわかっているはずなのだが。

「いいかサイアス、わたしは法王庁の人間ではなくなった。 議会に属する身でありながら法王家の第二法姫と個人的な接触をもつのは、お互いに悪い結果しかもたらさない。このような状況だからこそ、もっと慎重に考えを練るべきだろう」

 慎重。 サイアスが嫌いな言葉だとは知っているが、ギュスタレイドは説き聞かせるように言った。しかし、サイアスは彼の言葉など無視するかのように訊く。

「御託はいい。やるだろう?」

 当然のことを確認するようにサイアスが言う。議会に知られればただでは済まない。

 まったく考える様子もなく、肩で深く息を吐き出しながらギュスタレイドは言った。

「やるさ。 貴様の言いなりになるのはしゃくだが、これはわたし自身の問題でもある」

 どれだけ言葉を並べても無駄だ。サイアスの言うとおりにするのが最良の策であるし、なによりもギュスタレイド自身が、忠誠を誓った姫君を護りたいという想いを押し殺せそうにないのだから。

「サイアス、ひとつ断っておくがマリーアンは無理だぞ。 あの邸を無人にするわけにはいかないからな」

 来客があったとき、家の者が応対しないのでは都合が悪い。仮にサッシュやサイアスが邸にいたとしても怪しまれることは確実だ。

「しょうがねぇな。あの女には俺が事情を説明するさ」

 面倒くさそうではあるが、サイアスがそう答えたのでギュスタレイドは胸をなで下ろした。サイアスのことだから余計なことはもちろん、必要なことも適当にしか話さないだろう。しかしマリーアンに対しては、サイアスが説明したという事実が重要なのであって、他の人間が隠しながら説明するよりはよっぽど理解を示すはずだ。

 そしてサイアス自身も、今回ばかりはそれが自分の役目であると考えていた。

「そうと決まれば、さっそくアシュカ様には『急病』になって頂かなくてはな」

 議会の押しつけたさまざまな予定があるからと言って、どこで誰が狙っているかもわからない状態で彼女に出歩かれては困るし、ギュスタレイドの邸に匿うのであれば、なおさら自宅療養中であるかのように見せかけておく必要がある。

 考えるように顎に軽く手を当てるギュスタレイドに、サイアスは彼の手のなかにある例の弁当箱を指さして言った。

「それ喰わせろよ。ひと月はベッドから起きあがれねぇぜ」

「貴様。あまり残酷なことは口にするものではないぞ」

 ギュスタレイドが弁当箱を隠すように、サイアスがいるのとは反対側に置いた。

「じゃあ、生理が重いとか言っときゃいいんじゃねぇか?」

 恥ずかしげもなく言い放つサイアスに、ギュスタレイドは声を殺して言う。

「サイアス、わたしにも笑えぬ冗談というものがある」

「おまえにも冗談がわかったのか。初めて知った……」

 昔から、アシュカを女神の如くに敬ってきたギュスタレイドにすれば、当然の反応だったがサイアスは彼の言葉を冗談半分に受け流した。

 いつもいつも、サイアスという男のこういう態度がギュスタレイドの悩みの種だ。

 苛立ちを抑えながら、ギュスタレイドは何とか話しを本題へと戻す。

「とりあえず、原因不明の発熱ということにしておこう。 大事をとって、アシュカ様はしばらく自宅療養。この先の予定はすべて白紙だ…」

 サイアスもそれに異存はなかった。ギュスタレイドはサイアスを見て言う。

「それと、貴様が夜警に参加することはきちんと話しを通しておく。なにかあれば、すぐにわたしかエスメライトに言え。いいな?」

 訊かれたサイアスは、ああ、と返して立ち上がった。

「そんじゃ、俺はアシュカのところにでも行って来るか。邸に連れ帰って、荷造りでもさせなきゃならねぇからな。あとのことは頼んだ」

 そう言いながら、サイアスはギュスタレイドの脇に置かれた弁当箱を取り上げる。

「お、おい」

 なにをするつもりか、と思わず手を出すギュスタレイドに、サイアスは自分の持っていた包みをぐっと握らせた。それはベルポリの最期のひとつが包まれている。

「議員様が空腹のままじゃ、議事に支障がでちまうからな」

 そう言って弁当箱を片手にぶら下げ、サイアスは歩き出しながら背中で手を振った。

「これで貸し借りなしだぜ」

 ぶっきらぼうに言うサイアスの背中に、ギュスタレイドは小さく微笑んだ。

 あれはあれで、悪いところばかりでないというのが不思議だ。

 サイアスは去り、ギュスタレイドの手にはベルポリだけが残された。彼がマリーアンのつくった『本物の食べ物』を食べ終わる頃、引き裂くような男の悲鳴が高い空に響き渡る。 あの声は、おそらくエスメライトだ。

 興味本位であれを口に入れる愚か者が、もうひとり居たと言うことか。

 ギュスタレイドは目を閉じ、やれやれ、と苦笑いを浮かべて首を振った。そしてアシュカではなくエスメライトが寝込んでしまわないかと少し心配になった。



後編に続く

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